■ 気がつけば、また溜息を漏らしていた。 283プロダクションの事務所には彼しかいない。パソコンにむかってしばらく経つが、仕事は遅々として進んでいない。締切は今日。早くしなければ、と思うものの、キーボードに置いた指はまったく動いてくれない。昨日、目撃した光景が頭から離れないせいだ。 あれは夢だったのではないか。そんな疑念も抱けないほど、それは鮮烈に脳裏に灼きついている。 「おはようございます、プロデューサーさん♡」 意識に飛び込んでくる呼びかけ。彼は弾かれたように視線をあげる。 すぐそばに桑山千雪が立っていた。落ち着いた茶色の髪も、繊細に整った顔立ちも、豊満でありながら見事に均整のとれた体つきも……すべて彼の知る千雪と変わりがない。しかし、彼にはもう、彼女を昨日までと同じ目では見られない。 「何回も挨拶したのに気づかないなんて、そんなに集中して仕事をしていたんですか――って、そんなわけないか」 くす、と漏れる笑いは、艷やかさに棘を孕ませている。 「あっちでお話しましょう」と千雪はソファーを目線で示す。しかし、彼は動けない。ただ、「あ……」「う……」と意味をなさない音が喉の奥にくびれる。 「何してるんですか?」 急かされてようやく、彼は椅子から立ち上がった。 まず彼がソファーに座り、その隣に千雪が腰をおろす。彼女から漂う芳香――これまで嗅いだことのない香りが彼の胸をぎりぎりと締めつけた。やはり千雪は、という考えが彼の表情をさらに暗くに沈める。 「びっくりしましたよね、昨日のこと」 そう言う千雪の顔は、彼とは正反対にこの上なく明るい。 昨日、彼はドラマの収録をおえた千雪を伴い、テレビ局の廊下を歩いていた。夕食はどこがいいか、会話を交わしていると、突然、声をかけられた。声の主は◯◯――若手お笑い芸人だ。芸に秀でているわけではないが、そこらのモデルをしのぐ秀麗な容姿で凄まじい女性人気を誇る男。所属している事務所の大きさと人気ぶりにあぐらをかいた横柄さは凄まじく、表沙汰にはなっていないが、気に入らないスタッフへの暴行も珍しくはない――というのは業界では有名な話だ。 「俺、千雪ちゃんのファンなんだよね~♡」 そう言った男は「よかったら、これから食事行かない?」と軽い調子で千雪を誘った。 それを聞いた時、彼は内心で◯◯を嘲っていた。千雪がこんな誘いに乗るわけがない。軽薄で乱暴で顔だけしか取り柄のない男など、彼女にとっては軽蔑の対象でしかない。千雪が好むのは、もっと真面目な男だ。そう、例えば自分のような――。そんな考えは、しかし、千雪の発した「行きます~~~っ♡」という声によって、粉微塵に打ち砕かれた。 「実は私も◯◯くんのこと大好きなんですっ♡ やばっ♡ やばっ♡ 憧れの◯◯くんとお食事とか、嬉しすぎ~♡ 行くっ♡ 行くっ♡ 絶対行きたいよ~♡」 息を弾ませるどころか、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねることまでして、はしゃぎ狂う千雪。あれほどまでに嬉しそうな彼女の顔は見たことがない。一体、何が起きているのか。理解できず固まってしまった彼を置いて、千雪は男に腰を抱かれて廊下を歩み去った。 あの後、どうやって家に戻ったのか、彼は覚えていない。きっと今頃千雪はあの男と――それを考えると、昨夜は一睡もできなかった。にもかかわらず眠気を一切覚えないのは、それを感じるだけの余裕を失っているからだ。 「きっとすごくショックだったと思います」 だって、と千雪は言った。 「プロデューサーさん、私のこと、好きでしたもんね♡」 嘲りの笑いを混じらせた言葉に、血が凍った。 「どうして今さら動揺してるんですか? もしかして隠せてると思ってました? 残念。バレバレでしたよ。そういうの、女の子はとっても敏感なんです。どんなに取り繕ってても、『このひとは私のこと好きなんだなー』とか『このひとは私のことオカズにしてるなー』って、すぐにわかっちゃうんです。プロデューサーさん、私のこと、かなりたくさんオカズにしてましたよね(笑) 特におっぱい。もみもみする妄想でシコシコしてたのかな~。それともパイズリかな~」 責めてるわけじゃありませんよ、と千雪は言う。 「アイドルはオカズになるのがお仕事ですから。でも、せめて分はわきまえて欲しいなあ、って。妄想するのは自由ですけど、恋愛感情抱かれるのは――本気で可能性感じられちゃうのは迷惑なんですよね(笑)」 凍りついた血が、今度は沸騰する。彼は真っ赤に染まった顔面をうつむけた。掌を握りしめ、歯を食いしばる。そんな惨めな姿を晒しても、身を灼く恥ずかしさはいささかも弱まってはくれない。 「どうして千雪はあんな男に――そう思ってますよね? 俺のほうがずっと誠実なのに、ずっと優しいのに――そう思ってますよね? 答えは簡単。◯◯くんが超超超~イケメンだからです♡」 イケメン。千雪の口から、彼の思う千雪にはふさわしくない言葉が平然と飛び出す。 「性格がどうでもいいとは言いませんけど、顔がよければあれくらいは全然許容範囲です。むしろ、男らしくてきゅんとしちゃう♡ 面食い、なんて軽蔑しないでくださいね。外見のいい異性に惹かれるのは当たり前でしょう? もしかして、自分の担当してるアイドルだけは違う。そんなふうに考えてました? も~。プロデューサーさん、頭のなかにお花が咲き誇っちゃってますよ?」 見てくれのいい相手に好意を抱く。それは人間として当然だろう。だが、しかし、それでも――283プロダクションのアイドルは見かけの良し悪しで他人を判断するような人間ではない。特に彼が好意を寄せる千雪は絶対にそんな俗な人間ではありえない。彼女は特別なのだ、と彼は信じていた。信じていたからこそ、そこに可能性を見出すことができた。 しかし、残酷な現実が、楽観にまみれていた彼の脳を破壊してしまった。いや、『残酷』などではない。それが『普通』なのだ。ごくごく当たり前の、何の変哲もない『普通』が、彼を叩きのめしている。 「仕事もらうのに有利かなって思って、プロデューサーさんの前では清楚なお姉さんを演じてたんですけど――でも、昨日、◯◯くんに声をかけられたらもう我慢できなくって」 ごめんなさーい、と一切の気持ちのこもっていない口調で千雪は言った。 「あの後はふたりで食事に行って、お酒を飲んで、それからラブホテル♡ ◯◯くんが写真撮って送ってくれてたんですけど、見ますか?」 彼の返事も聞かず、千雪はテーブルに置いていた鞄からスマートフォンを取り出した。 「見てください♡」 千雪の指が動くたび、表示される画像が彼の脳を灼く。湯上がりの肌にバスローブを羽織った千雪。◯◯とキスをしている千雪。巨大なペニスをしゃぶりながらピースサインをしている千雪。背中が写っている画像は、バックスタイルで繋がっている時に撮影したものだろう。火照った肌にへばりつくみだれ髪。肩甲骨が作る艶めかしい陰影。ぶるん、と波打つ瞬間を捉えられた尻肉が、突き込みの激しさを訴えている。 「おーい、聞こえてますかー」 何の反応もできない彼に、千雪が呼びかける。それでも彼は動けない。 「さすがに刺激が強かったかな? プロデューサーさん、童貞ですもんね」 童貞。忌まわしいその単語に、彼の体がびくりと跳ねた。 「素人童貞でもなくて、ガチの童貞。生き方は個人の自由だと思いますけど、成人しても童貞はちょっと……。学生時代に卒業するでしょ、普通。何か人格に問題があるんだろうなー、って察せちゃいます。――あはっ♡ こんなこと、目の前で言ったら傷ついちゃいますよね♡ 今度からは陰でこそこそ言いますね♡」 いけないいけない、と千雪はふたたび画面の操作を始める。ふたりの性行為を映した画像が次々と現れては消えていった。 「◯◯くん、本当に凄かったんですよ。これぞ『オス♡』っていう感じの、つよーいセックス♡ 私、ますます好きになっちゃいました。◯◯くんも『すごく気持ちいいよ』っておでこにちゅーして頭なでなでしてくれて……♡ はぅぅ……♡ あのなでなで、嬉しかったなあ♡ あれだけでお仕事たくさん頑張れちゃう♡」 千雪は、実際に頭を撫でられているかのように身を悶えさせた。 「エッチはナマでしたけど、アフターピルは飲んだので安心してくださいね♡」 悲しくてたまらない。悔しくてたまらない。それなのに、どうしてだろう、彼の股間は痛みを感じるほどいきり勃っていた。扇情敵な画像を見せつけられたからではない。もっと心の奥深く――暗い場所に粘っこく渦巻く情念が彼に望まぬはずの勃起をさせている。 「ぷっ」 ズボンの隆起を目ざとく見つけた千雪が吹き出す。 「知ってますか? プロデューサーさんみたいなひとのこと、寝取られマゾって言うらしいですよ。好きな女の子を他の男にとられて興奮しちゃう変態さん。――ああ、でも、私は別にプロデューサーさんと恋人じゃありませんから、『寝取られ』マゾじゃなくて、単なる負け犬かな~」 負け犬。そう揶揄されても、彼は何の反論もできない。 「来週のオフにまた◯◯くんとデートする予定になってるんです。プロデューサーさんがして欲しければ、何をしたか、こうして報告してあげます、どうしますか? ――って聞きたいところですけど、負け犬勃起しちゃってるところを見ると、返事は聞くまでもありませんね」 千雪はスマートフォンを鞄にしまい、立ち上がった。ソファーに座ったままの彼を置き去りにして、事務所の出口へとむかう。その途中、彼女は「あ」と声を発して振り返った。 まだ何かあるのか。千雪の視線を受け、彼の体がびくりと震える。 「大切なことを言い忘れてました。今日はそれを言うために事務所に来たのに、プロデューサーさんをからかうのが面白くて、うっかり」 いいですか、と千雪は笑顔のすぐそばに人差し指をたてた。 「もし、これから露骨に私の仕事が減るようなことがあったら、その時はプロデューサーさんにエッチなことされたって警察に訴えて人生終わらせますから。もちろん、そんな卑劣なことは絶対にしないと信じてます。だって――誠実で優しいのが取り柄ですもんね(笑)」 それじゃお疲れ様でーす、と軽々しい挨拶を置いて、千雪は事務所を出ていく。 彼女が去っても、残り香が消え、足音が聞こえなくなっても、彼の肉棒は勃起したまま、萎えてはくれない。早く机に戻らなければ。仕事の続きをしなければ。そう思うのに立ち上がることはできなかった。 その代わりに彼が始めたこと――それは負け犬にふさわしい、惨めな自慰行為だった。 → https://ringokidjp.booth.pm/items/6055084