■ 「ぅ゛……」 思わず、濁った呻きが漏れ出ていた。化粧を落としたばかりの素顔がこわばる。 今、寝室のベッドに無造作に放られているのは、裕貴が命じて夫に家から持ってこさせたという衣服だ。涼しげなオフホワイトのワンピース、濃紺のロングスカート、ベージュのブラジャーとショーツ。良妻賢母にはふさわしいだろうが、過激な服装に慣れた真央にとってはそれはあまりにも地味なものとして目に映る。 しかし、これから、真央はその地味な服に着替えなければいけない。 「ほら、早くしろよ」 背後に立つ裕貴が耳元で囁く。優しい口調で発せられる命令二、真央の全身の毛が逆だった。心臓の鼓動が早まり、全身の毛穴から嫌な汗が滲み出す。着替える。毎日している簡単なことが、今はとてつもなく難しく感じられる。 真央を元に戻す、と裕貴は言った。裕貴と知り合う前の姿にして、家族のところに送り返す、と。それが、これまでさんざん真央を変え尽くした男が真央に下した最後の命令だった。最後――そう、これが最後なのだ。これが終われば、真央はかつてと同様の生活に戻ることができる。いや、「戻ることができる」のではない。「戻らなければいけない」のだ。 「ほら。何してんの?」 自分の気持ちを決めかねたまま、真央は地雷原を歩むようにおそるおそるの一歩を刻んだ。今の彼女は一糸まとわぬ裸体――夫と交わった後の姿のままだ。その夫は早々に追い返されてもういない。ここにいるのは裕貴と真央のふたりだけだ。 乱れる呼吸をどうにか落ち着けようと努めながら、真央は、まず、ショーツを手に取る。顔の高さに掲げて眺めるそれは、見下ろした時よりもさらに地味に――ひどく野暮ったい代物に見えた。この数ヶ月真央が身につけてきたものとはあまりにも違いすぎている。 (こんなものを着なくちゃいけないの……?) 真央は自問するが、答えはすでに理解している。その通り。真央はこれから先こんなものを身に着けて生活しなければいけないのだ。 「やっぱりやめとく?」 へらへらと笑いながら裕貴が言う。 「俺はそれでも構わないけど。真央が俺ともっと遊びたいっていうなら、それはそれで面白そうだし。そしたら、今度はカラダの改造するかな~。乳もケツもギガトン級に増量してやんよ。どうよ、楽しそうだろ?」 「ぜ、全然楽しそうじゃないっつーの!」 服飾や化粧や染髪で解放感を得ていたのは認める。だが、そんな感覚を楽しめていたのは、それがあくまでも可逆的なもの――元に戻そうとすれば戻せるものだったからだ。肉体にメスを入れるほどの改造など楽しめるわけがない。裕貴の提案を邪険に跳ね除けて、真央はショーツに脚を通していった。肉にみちみちと食い込む布地が、この期間で真央の体がどれほど淫らに熟れたのかを端的に示してしまう。次に手にしたブラジャーは、乳肉のサイズアップに耐えきれず、今にもブラホックが壊れてしまいそうだった。 下着をつけた後はブラウス、そしてスカート――久しぶりに身につけるかつての衣服は、きちんと乾いているはずのに、どれもじっとりと湿り気を帯びているかのような不快感があった。 「……っ」 見下ろした真央は奥歯を噛みしめる。ここまで露出の少ない服を着たのはいつ以来だろう。まるで拘束具で戒められているかのような窮屈さがあった。一気に大量の年を年齢を重ねてしまったかのような錯覚が真央を襲う。今すぐに脱いでしまいたい。そんな欲求がこみあげるが、もちろんそんなことができるわけもない。 「それじゃ、次はメイクね。やり方覚えてる? 忘れてない?」 「忘れてなんかないし!」 「そっか。ならよかった」 はいこれ、と部屋に置き去りにしていたメイクボックスを渡される。ベッドに腰を下ろした真央は、それを使い、己の顔面に化粧を施していった。これまで長らくしていたような絢爛たるギャル風のものではない。肌本来の美しさを活かした自然な仕上がりを目指した――いわゆるナチュラルメイクだ。そのメイクは、活かすべき素材が極めて優れているからこそ、またたくまに終わってしまう。そうだった。かつては化粧なんて、こんなふうにさっと済ませてしまい、それで何も不自由を感じていなかった。たっぷりと時間を掛けてあれこれ塗り重ねている今とは大違いだ。 (これが――) これが本当に自分の顔なのか。信じられない思いで、真央は手鏡を見つめていた。そこに映るのは久しぶりに再会する自分の顔――優しげに彩られたアイライン、ふくよかで潤いのあるリップ、ほんのりと赤く色づくチーク、透明感のあるベースメイク。最低限しか施されていないそれらはどれも、徹底的に己を飾り立ててきた真央の目には、あまりにも物足りなく映る。そんなことがないとわかっているのに、大切な何かが欠けているようにしか思えない。薄味どころか、無味乾燥に近い印象を受ける。ふたたびメイク道具を手にして、今度は地肌も目元も唇も満足いくまで徹底的に厚塗りしたい、と思ってしまう。 「そんじゃ、最後に美容院行って髪を元に戻そっか。――ああ、靴も旦那に持ってきてもらってるから安心していいよ」 「か、髪も……?」 「当たり前じゃん。言ったでしょ。元の真央にして家族のところに返品する、って」 ほら、と裕貴に促され、真央は立ち上がった。裕貴の後に続き、サンダルをはいて部屋を出る。待ち受けていたタクシーに乗り込む。車の揺れが不安感を増幅した。次々と後方に流れ去っていく景色に目眩を覚える。確かな現実感を掴むことができないままで、タクシーは目的地である美容室へと到着した。真央が黒髪から金髪への変貌を遂げた店だ。染め直しの際には自分が選んだ別な店を利用していたため、来店は二度目になる。 「うわ。久しぶりじゃん。元気してた?」 担当の美容師は、初めて来店した時に担当した男だった。おそらくは裕貴がそうなるように仕向けたのだろう。何もかもがあの時の悪趣味な変奏曲というわけだ。酒で意識を失っている自分と性行為をした男――初めてこの店に来た時はたまらない気まずさを覚えた記憶があるが、今、心は波打たない。その差異は、真央がどれだけ、そしてどのように変貌してしまったかを端的に表している。 真央を黒髪に染め戻してくれ、と裕貴は男に言った。 「えー。金髪めっちゃ似合ってるのに」 もったいない、と苦笑いしつつも、もちろん、男は注文に逆らいはしない。真央をバーバーチェアに座らせ、カットクロスをかけた彼は、さすがに手慣れた様子で染髪の準備を始めた。 「俺は適当に時間潰してるから。またね~」 染め終わったら近くの喫茶店で会おう、と言って、裕貴は店を出ていった。その後ろ姿を鏡越しに見送りながら、次に会う時には自分がどのような姿になっているかを想像する。カットクロスの下できゅっと拳が固められた。どんな感情をそこに握り込んだのかは、真央自身にもわからない。 「それじゃ、始めるよ。ていうか、本当にいいんだよね?」 男に問われ、真央は呼吸を整え、頷きを返した。 櫛で整えられていく金髪。美しさが際立って見えるのは、今からそれが失われてしまうからに違いない。 髪の毛を整えた男は、そして、黒のカラーリング剤を手に取った。最初のひと塗りがされるその瞬間、真央の喉がきゅっと締まる。そんな真央をよそに、カラーリング剤は容赦なく真央の髪を侵していった。薬剤を髪全体に行き渡らせた後は、定着のため、放置の時間がとられる。 男に手渡された雑誌を読むこともなく、鏡の中の自分と向かい合う真央。漏れる溜息は切なくかすれている。初めの頃は忌まわしくてならなかった金髪――いつの間にかそれに愛着を覚えていたのだろう。金髪になるなんて考えられない、と思っていた自分が、今では黒髪戻ることに戸惑いを覚えている。 十分な時間を置いてカラーリング剤を染み込ませた後は、シャンプーで髪を洗い、ポストトリートメントで整える。そうして仕上がったのは黒髪――男の腕がいいのだろう、ごく自然な色艶は完全に天然のそれだ。かつてのような黒髪に戻っただけ。だというのに、その色合いが、今の真央には信じられないほど質素に見えてしまう。本当に自分はこんな髪の色をしていたのか、と落胆を覚えるほどだ。 「髪の毛、結構傷んじゃってるからいたわってあげてね」 お疲れ様、と言いながら、男がカットクロスを剥がす。あらわになったのは完全にかつてそのままの――けれども違和感しかない自分の姿だ。何なのだ、これは。衝撃のあまり、真央は立ち上がることはおろか呼吸すら忘れてしまう。 地味な服、地味な化粧、地味な髪色――それらが作り上げる自分は質素どころか貧相としか感じられない。自分が女ではない、別の生き物になってしまった気がした。自分は本当にこんな姿で生活していたのか。恥ずかしさも覚えず、それが当たり前だと思っていたのか。とても信じられなかった。 「大丈夫? 顔色悪いけど。少し休んでく?」 「大丈夫……平気……」 男に生返事をかえした真央は、ぬるま湯から立ち上る湯気のように頼りない動きで椅子を立つ。支払いを済ませ、外に出ると、強烈な日差しが彼女に襲いかかった。しかし、今の真央には熱気も湿気も遠い場所の出来事にしか感じられない。 おぼつかない足取りで、真央は歩き出す。目的地は、もちろん、裕貴が待つという喫茶店だ。まとわりつく衣服が肌にうるさい。長さは変わっていないはずの髪が、やたらと重く感じられる。おかげで足運びまでもが重く沈んでいくようだった。 歩き始めた真央を、すぐに新しい違和感が苛む。今は休日で人通りが多い――にもかかわらず、誰ひとりも真央を見ていない。金髪にし、ギャルメイクを施し、露出度の高い服装をしていた時ならば、男たちはたとえ本人にその意思がなくとも、真央の体に視線を釘付けにされてしまっていたものだ。それが今、彼らの視線は完全に真央を素通りしてしまう。ブラウスを張り詰めさせる胸を見る者もいないではないが、それもほんの数秒だ。これまでの好色な視線とは比べ物ならない。 本当ならば喜ぶべきことなのだろうが、真央は喜ぶことができない。それどころか、圧倒的な物足りなさに、自然と歯が噛み締められた。性的魅力を失う――それがこれほど強烈な虚しさを感じさせるものだとは想像もつかなかった。ただ歩いているだけなのに、胸が締めつけられ、今にも立ち止まってしまいそうになる。 その苦しさとともに、あらためて自分が容姿を変えたのだという事実を認識させられる。元通りになっただけ、とはとても思えない。これからこの姿で生きていくのだ、と考えると、平衡感覚までもが失われそうになった。 はあっ♡ はあっ♡ はあっ♡ …… 焦げた息を吐きながら歩く美熟女――しかし、格好の地味さゆえにその艶かしさにはほとんど誰も気がつかない。みんな、暑さのほうに気をとられ、それぞれ涼を得られる場所へと足早に急いでいる。ただ服を変えただけ、ただ化粧を変えただけ、ただ髪色を変えただけ。だというのに、その効果はあまりにも劇的だった。 少々胸が大きいだけの真面目な主婦――そう思われているのだろう。違う、と言うべきなのかどうか、真央にはわからない。今の自分が何者なのか、何者でありたいのかも、わからない。欲しがってはならないはずの劣情を欲してしまいながら、真央は歩き続ける。 あっ♡ と彼女が小さな息を漏らしたのは、向こうから歩いてくる男に見覚えがあったからだ。それは逆ナンの対象にした男のひとり――ただし何人目かは覚えていない。確か大学生だと言っていただろうか。それとも会社員だっただろうか。セックスの詳細は記憶にないが、ホテルを出た後もしつこくつきまとって連絡先を聞き出そうとしてきたことは覚えている。結局、これ以上絡んでくるようなら警察を呼ぶ、と脅して追い払わなければいけなかった。 この男ならば、あるいは――真央は背徳の期待を胸に抱く。あれだけの執着を見せていたこの男ならば自分に気がついてくれるのではないか。いや、絶対に気づいてくれる。気づくだけではなく、声をかけてくれる。 (絶対絶対絶対ナンパされちゃう……♡) 困ってしまう、と思いつつも、真央の内側で、期待は急速に膨れ上がっていく。 縮まるふたりの距離。男がちらりと真央を見る。瞬間、彼女の心臓が大きく跳ねた。けれど、男はすぐさま視線を別なところへと放ってしまう。あっけなくすれ違うふたり。男にはきっと誰かとすれ違ったという認識すらない。自分は何を期待していたのか。羞恥に汗が滲むのを感じながら、真央は奥歯を噛んだ。 他の男達の歓心は惹けないかもしれない。しかし、これでいいのだろう。夫と息子はこの格好の真央を間違いなく温かく出迎えてくれる。それでいい。自分に言い聞かせながら、真央は裕貴の待つ喫茶店に到着した。 「いい感じになったじゃん」 真央を見た裕貴が言う。 「そうそう。こんなふうだったよね。会った頃の真央って」 窓辺の席に座った彼はコーラを飲んでいた。少し前までは昼食を食べていたのだろう。ハンバーグソースの残り香が漂っている。そういえば食事をしていないが、空腹は感じなかった。何か別のものが胃袋を満たしている。 裕貴の向かいに腰をおろすと、ウェイトレスが注文を取りにくる。対応はにこやかで丁寧だった。これが昨日までのような格好ならば、戸惑いと軽蔑の視線を浴びせられたに違いない。そんなものを恋しく思う自分はどうかしている。どうかしてしまったのは、もちろん、目の前で薄笑いを浮かべている裕貴のせいだ。 「不機嫌そうな顔してどしたん? やっぱり家に戻るのやめにする?」 「そ、そんなことするわけねーじゃん!」 「えー。間抜けな旦那と不細工なガキと過ごすより、俺と一緒のほうが絶対楽しいのに~」 ていうか、と裕貴は言った。 「格好だけじゃなくて、その喋り方も直さなきゃ。いい年こいたおばさんがそんな話し方してたらだめでしょ。恥ずかしいよ? 小さい子が見てたらどうすんの。悪影響じゃん」 「うるせえし!」という罵倒を、真央は「うっ」のみで押し留めた。その代わり、膝の上においた掌を握りしめ、視線をさらに鋭く尖らせて裕貴を睨みつける。しかし、裕貴は笑みをさらに軽薄にしただけで、少しも動じはしない。 「あなたと一緒にいても、私は楽しくなんてないわっ! うぬぼれないでくれるかしら!」 おめーと一緒にいても楽しくなんてねーし! うぬぼれんじゃねーよ! と勢いよく吐き捨てられたら楽だろう。久しぶりにした丁寧な喋り方がもたらしたのは、砂利が混入した白米を噛んでいるかのような不快感だった。どう喋るか考えてからでなければ口を開けない。ゆっくりとしか喋れない。外国語を喋っているようだ、と思った。そうなってしまうほどに粗雑な喋り方が舌に染み付いてしまったのだ。 「私」という言葉の響きは際立った不快感を真央に与え、眉間に皺を刻んでいる。その一人称は、もはや自分を指しているようには感じられない。38歳の人妻の自己認識は「私」から「まおっち」へと変化させられている。そして、地味な服も、地味な化粧も、地味な髪色も、「まおっち」にはふさわしくない。「まおっち」ならば、道を歩くだけで男たちの欲望を一身に集めなければいけない。かつてそのままの「私」に戻ることで、かえって裕貴との生活で作り上げられた「まおっち」という存在が浮かび上がり、強烈な輝きを放つ。その輝きは、「私」へと矮小化された真央の影をいっそう濃くしていた。度が過ぎるほどの自由を知ってしまったからこそ、常識や良識が形作る檻の中はさらに苦しい。 しかし、それでも――。 「私は、家族のところに帰るわ」 裕貴を見据えて、真央は言った。これまで重ねた様々な経験――それが楽しかったことは認める。悔しすぎるが、認めなければいけないだろう。しかし、それでも、真央は家族の元に戻る。戻らなければいけないのではない。戻りたい、と考えているのだ。 待っているのは刺激的な日々ではないだろう。そこにある幸せは、この半年近くでさんざん味わったもののように強烈なものではない。それは、きっと、浜辺で見つける綺麗な貝殻のようにささやかで他愛のないものだ。しかし、それでも、真央の中で変わらず疼き続けている家族への愛情が夫と子どものもとに帰りたいと欲している。彼らと一緒に過ごしたいと望んでいる。 「本当にいいの?」 裕貴の問いかけに、真央は無言で頷いた。 「そこまで言うなら仕方ないね。でも、気が変わったら、いつでも戻ってきていいからね」 裕貴の口ぶりはまるで真央が戻ってくるのを確信しているかのようだ。だからこそ絶対に戻ってはいけないと真央は自分に言い聞かせる。 「そんなこと絶対にありえないわ」 「だといいね。まあ、俺はいつでも大歓迎だってことは覚えておいて」 そこでウェイトレスが注文したコーヒーを運んでくる。それを飲み終わったら家まで送るよ、と裕貴が言った。真央は砂糖とミルクをコーヒーに溶かしていく。これを飲み干したら、とうとう家に帰れるのだ。それは何よりの甘味料であるはずなのに、どうしてだろう、口をつけたコーヒーはひどく苦く感じられた。その戸惑いも消えぬまま、真央はコーヒーを飲み干してしまう。 「それじゃ、行こっか」 裕貴に続いて、真央は店を出る。真央が飲み終わるのを待っているあいだに呼び出していたタクシーに乗り込む。向かう先はもちろん真央の自宅だ。これまでにも何度か帰省はしているが、今回は一時的なものではない。真央はもう裕貴の元に戻ってくる必要はないのだ。 自宅へと向かう車上――裕貴は話しかけてはこず、真央も何も喋らない。ふたりのあいだに横たわる空気を察してか、運転手も口を開くことはなかった。座っているはずなのに尻が落ち着かない。あちこちに視線が飛んでしまう。きっと家では、夫と子どもが真央の帰りを今か今かと待ち受けていることだろう。彼らとの再会を思うと、口角は自然に吊り上がった。浮かべられたのは欲に蕩けた獣の笑いではない。優しく慈しみに満ちた母の笑いだ。 そして、とうとう、タクシーは種崎家の前に停車する。 「本当に帰ってもいいのね?」 「もちろん。どうぞどうぞ」 最終確認を行ったのち、真央は車を降りた。見上げた自宅は、いつもよりもこじんまりとした、しかし温かみのあるものに感じられる。自分は本当の意味でここに帰ってきたのだ。真央が溜息を落としたその時、「それじゃ、またね~♡」と不吉な言葉が車の中から彼女の背中に投げられる。振り返った時にはもう車の扉は閉まっていた。車内の裕貴が浮かべているのはもう馴染みになった薄笑い――タクシーが走り出し、見えなくなっても、その笑いだけはその場に残っているようだった。 また。真央はかぶりを振ってその言葉を追い払う。そんなものはない。あるわけがない。 深呼吸をした後、真央は玄関の扉へと向かって歩き始めた。 ■ 「真央――大丈夫かい?」 夫の怪訝な声で、真央はようやく我に返った。 今がいつなのか、自分がどこにいるのか、何をしているのか、思い出すのが一瞬遅れた。今は朝。ここは台所。家族三人で朝食の宅を囲んでいる。窓の外は快晴で、雲ひとつ見当たらない。降り注ぐ日差しの優しさが、次第に夏から秋へと傾いていく季節を感じさせた。 爽やかな朝。けれど、それとは正反対に、真央の胸には濃い靄がかかっている。 「ごめんなさい。何の話だったかしら?」 それでもどうにか笑みを作って、真央は尋ねた。 「今週末は家族でどこか――日帰りの旅行に行くっていうのはどうかな。最近、過ごしやすくなってきたからね、色々なところに足を伸ばすのも悪くないと思うんだ」 「それは素敵ね。孝太はどう思う?」 母に問われ、孝太は「うん」と頷いた。 「僕も賛成。美術館に行ってみたいな」 「美術館か。他に行きたいところは?」 「ええとね、他にはね――」 楽しげに会話をする夫たちを作り笑顔で眺めながら、真央は思考に沈んでいってしまう。絵に描いたような幸せな朝食の風景――だというのに、真央がそこに見出すのは幸せではなく退屈だった。 今日は10月31日。真央が帰宅を果たしてから、およそ1ヶ月が経過している。 あの時、玄関を開けて本当の意味での帰宅を果たした真央を、雅史と孝太は予想のとおりに温かく出迎えてくれた。彼らの瞳に浮かぶ心からの喜びを見て、ああ、やはりこの選択をしてよかったと思った。 これまで長くつらい思いをさせて済まなかった――その夜、雅史は震える声でそう言って、真央に深々と頭を下げた。いいのよ、気にしないで、私たちは家族なんだもの――真央はそう答え、夫をきつく抱きしめた。そのやりとり以来、ここ半年あまりのあいだに起きたことは一度として話題にのぼったことはない。すべては悪い夢のようなもの。少なくともふたりのあいだではそういうことになっている。 母が家の外で何をしていたのか、孝太も何かを尋ねてくることはない。彼なりに何か良くないことがあったと察して、波風を立てないようにしてくれているのだろう。賢いだけではなく、優しい子だ。苦難の日々だったが、この子の将来を守れたのならその価値はあったと思った。 最初のうちは主婦としての生活に体がついてこなかった。朝起きるすらもつらく、何度も寝坊しそうになった。得意だったはずの料理もうまくこなせず、洗濯をし忘れることもあった。せめて掃除だけは、と意気込んでみても途中で別のことに気をとられて忘れてしまう始末だ。そのたび平謝りして自分を責める真央を、雅史は優しく励まし、孝太はそばに寄り添っていてくれた。その温かさは、真央の居場所がどこであるべきなのかを教えてくれた。 半月も経つと生活リズムは何とか元に戻り、家事についてもかつてそうしていたように満足にこなせるようになった。料理の味も、干した衣類のたたみ方も、掃除の手順も……何もかも以前と変わりなくできている。自分では判然としないが、笑顔だって同じはずだ。 裕貴に従っていた頃は怒涛のように過ぎ去っていた時間は、家に戻ってからこちらせせらぎのようにおだやかに流れている。特筆すべきことなど何も起こらない日常。それでも、愛さえあれば幸せでいられる。 そのはずだった。 (そのはずだったのに――) 週末の旅行について楽しげに話す雅史と孝太。それを眺める真央も彼らと同様の表情を浮かべている。しかし、彼女の目は楽しげどころか、どこまでも冷たく冷めていた。そこには愛情は微塵も見当たらず、ただ苛立ちがくすぶっている。それに気づかず言葉を交わす父と子――彼らの能天気さのせいで、くすぶりの度合いは増す一方だった。 愛があればそれでいい。そう思っていた真央は、今、強烈に刺激を欲している。波ひとつ立たない日常は退屈以外の何物でもない。その退屈さは、彼女が大切に抱いていたはずの愛を歪ませていった。変容した愛は、何かを満たすことはなく、ただ憎しみを掻き立てるだけだということを真央は初めて知った。 あらためて、真央は雅史と孝太を見る。ひと目で親子だとわかる瓜二つの顔。その造作に対してかつては愛おしさを覚えていた。けれども、今は違う。愛情という覆いを剥がして見るありのままの彼らは―― (不細工……) そう表現するしかなかった。 自分ならばもっと「上」を狙えたのに。そう思ってしまう。自分ならば、もっと顔立ちが整っていて、もっと身長が高くて、もっと経済力があって、もっと牡として優れた男と結婚することは容易だったはずだ。それなのに、なぜ、雅史と結婚してしまったのだろう。もちろん、彼から告白を受けた時のことは覚えている。結婚の申し込みをされた時の心のときめきも忘れてはいない。しかし、今の真央はあの頃の真央とはまったく違っている。 もし、もっと「上」の男を選んでいれば、今とはまったく違った――もっと楽しい人生が待っていたはずだ。産まれた子どもだって整った顔立ちだったに違いない。こんなことを考えても仕方がないとわかっていながら、考えずにはいられなかった。 「真央はどうかな? どこか行きたいところはあるかい?」 雅史に問いかけられ、真央は「そうね」と考えるふりをした。 「私はふたりが行きたいところならどこでもいいわ」 どうでもいい――と言っているのだが、その本意にふたりは気がつかない。彼らは談笑しながら食事をおえた。両掌をあわせ、空の皿に「ごちそうさま」と言う仕草は、顔同様に似通っている。微笑ましいと思えるはずのそれが、今は腹立たしくてならない。 そして、ふたりはそれぞれ学校と会社に向かう。ひとり残された真央は、誰にはばかることもなく、深い溜息を落とした。気持ちの遣り場がなく指で弄ぶ髪――元通りの黒に染めたはずのそれはもうだいぶ色が抜けている。美容院に染め直しにいかなければ。それはわかっているのだが、どうしても予約をとろうという気にはなれなかった。 朝食に使った皿を洗い、綺麗に拭いて棚にしまう。洗濯機が汚れ物を洗ってくれているあいだに屋内の掃除を済ませる。掃除用具を元に戻すと、洗い上がっていた洗濯物を庭先に干す。すでに何百回も繰り返した作業は、何かを考える必要もなく簡単にこなせてしまう。 家事を済ませた真央はリヴィングのソファーに腰をおろした。リモコンで点けたテレビは見ず、中空に視線を放る。無性に煙草が吸いたかった。ここにはないものを求めて、掌がもどかしく開閉を繰り返す。 この家に戻ってから、真央は煙草を吸っていない。最初の一週間は地獄だった。つらさに耐えかねて、何度煙草を買いに出かけそうになったかわからない。二週間目で少し楽になり、三週間目でニコチンが体から抜けた実感があった。しかし、真央の心はいまでに喫煙にとらわれれ続けている。手持ち無沙汰な時、つい煙草を欲してしまう。我慢しなければ、と思うのは家族を思えばこそだが、その思いは日に日に弱まっていくばかりだ。このままでは、いずれ、煙草を吸ってしまうだろう。それはもしかすると明日、いや、今日かもしれなかった。 もしもあの時、裕貴の元に残っていたら――と考えずにはいられない。 今からでも連絡をとってしまおうか。真央はテーブルに置いていたスマートフォンを取り上げる。元々真央が使用していた機体だ。裕貴に取り上げられていたが、家に戻った翌日に送付されてきた。画面を点けた後、数度のタップを経て、メッセンジャーアプリの裕貴のページを開く。受話器が白抜きされた赤いアイコンをタップすれば彼に繋がる。戻りたい、と伝えられる。 本当ならばもう半年――あと半年も裕貴の元にいなければならなかったのだ。それが彼の気まぐれと、真央の努力によって短縮され、今真央はここにいる。喜ぶべきはずなのだろうが、喜びはまったくこみあげてこない。 はあっ♡ はあっ♡ はあっ♡ …… 震える人差し指がアイコンに近づき――寸前で離れる。慌てて画面をオフにして、筐体を膝に伏せる。できない。どうしても、できない。それは心のどこかに家族への純粋な愛情が残っているから――いや、あるいは単に踏ん切りがつかないだけかもしれない。もう一度裕貴の元にもどれば、「きっと」ではなく「間違いなく」自分はここに戻ってこられない。それはもう真央が真央でなくなるということだ。巨大な欲望を抱えながら、その成就によって自己を完全に喪失してしまうことを、真央は恐れている。 とりあえず煙草を吸えない口寂しさを紛らわせよう、と真央は立ち上がる。戸棚からとって戻ってきたのはひと袋のポテトチップス。ふたたびソファーに腰をおろした真央は袋を開け、中身をつまみはじめる。わざとらしいコンソメ味が喫煙欲を紛らわせてくれた。 家に戻ってからの食事はヘルシーなものにしているが、こうした間食を日に何度も繰り返しているせいで体重は増加する一方だ。腹回りに贅肉がつけば、そのみっともなさに痩せようという気にもなるのだろうが、腹にほとんど肉はつかず、尻や太腿がむちむちと実っていくばかりだ。 どれほど体が熟れようとも、雅史が真央を求めてくることはない。夫婦の性生活は、あの時に行われた「テスト」が最後――家に戻ってからふたりが体を重ねたことはない。おそらくはこれからもないだろう。そのことに真央は苛立つ。セックスがしたいわけではない。正直言ってそんなものには飽きてしまっている。しかし、あれほど多くの男を魅了した自分が女として見られていないという事実――それが耐え難かった。 ぱり。 チップスを噛んだ真央は、そのまま歯を噛みしめる。その心のなかで、また、もしあのまま裕貴の元に残っていれば、という考えが頭をもたげてくる。次は体を改造する、と彼は言っていた。胸も尻も凄まじい大きさにする、と。いや、「ギガトン級」と表現していただろうか。それだけではなく、顔も非の打ちようのない完璧なものにしてやる、とも言っていた。 そんなふうになった自分を想像して、 「……やば♡」 という呟きが漏れた。脂でべとついた指が乳房を掴む。現在の真央のバストサイズはJカップ。もう十分以上に大きなこれがさらに大きくなったらどうなるのか。今でさえひどい肩こりが凄まじいことになってしまうだろう。体の重心も崩れ、まともに歩くのも難しいかもしれない。いや、尻も大きくなるのだからバランスはとれるのだろうか。 肉体にメスを入れるほどの改造など楽しめるわけがない。あの時はそう思っていた。今だって、その行為に対する恐ろしさは変わっていない。しかし、いつ果てるともなく続く退屈さに苛まれる心は恐ろしさすら強烈に欲してしまう。 いつの間にか、真央はスカートをめくりあげ、指で己を慰め始めていた。頭に思い浮かべるのは、もちろん、徹底的に改造されつくした自分自身の姿だ。想像力が及ばず、細部は曖昧だが、その体が醸す過剰なまでの女らしさははっきりと感じられる。あわせて、それに男たちがどれほど魅了されるのかも。天然の体ですらあれほど男たちの欲情の対象になったのだ。それがさらに魅力的になったら―― 「んっ♡ あっ♡ はあっ♡ ヤられちゃう♡ そんなの……絶対ヤられちゃうに決まってんじゃんっ♡」 男に群がられる自分を思い描きながら、乳房を揉みしだく。ショーツにもぐりこませた指を蠢かせる。大量にしたたる愛液が、その蠢きにあわせ、ぐちょぐちょと淫猥な音をたてた。女の蜜の香りが本来ならば家族の団欒の場であるべきリヴィングに広がっていく。その芳香は、真央自身をも酔わせていった。 「あんっ♡ んっ♡ んんっ♡ おっ♡ ん゛っ♡ お゛っ♡ お゛お゛っ♡」 おっほ♡ おっほ♡ おっほ♡ と酸素を喘ぎながら漏らす声が次第に濁りを帯びていく。全身の毛穴が開き、汗が吹き出し始める。蒸れに蒸れる服の内側――不快なはずの熱が今はまったく不快ではない。それは真央の興奮をますます加速させていった。 「お゛っ♡ ほ゛っ♡ はあっ……だめっ♡ 興奮しすぎて、汚い声、出゛る゛っ♡」 自覚はできても、押し止められはしない。真央の声は次第に濁りを増し、鼻息も滑稽なほどに荒くなった。より深く指を受け入れようとして勝手に広がっていく両足――指が奏でる愛液の音が湿り気と粘度を増した。汗を糊にして額やうなじにへばりつく髪が、背筋が寒くなるほどの凄艶さを描き出す。 「やっべ♡ まじやっべ♡ ギガ乳ギガ尻のまおっち……絶対エロすぎっ♡ モテすぎっ♡ やべーってそれぇ♡ 考えただけで……ほ゛っ♡ お゛お゛っ♡ ほ゛っ♡ お゛っほぉお゛お゛お゛♡」 どうにか取り繕っていた主婦としての言葉遣いを放り捨て、淫乱奔放な「まおっち」の言葉遣いで真央は呻く。指だけではなく、腰までもが円を描くように動き、貪婪に快感を貪り始める。叶ってはいけない夢――だからこそ、それは真央を惹きつけてやまない。 ぐっ、と浮き上がる真央の腰。手指が激しく秘所を掻き回す。瞼がぎゅっと閉じられ、意識が快感にのみ集中する。全開になった毛穴から滝のように溢れる汗。唇と舌が勝手に「イ゛く゛♡」という言葉を繰り返しているのが聞こえる。 「イ゛く゛♡ イ゛く゛イ゛く゛イ゛く゛イ゛く゛イ゛く゛イ゛く゛っ♡ お゛っ♡ お゛っほお゛お゛っ♡ イ゛っ……イ゛っ……イ゛っ……ぐううううううううううううううぉ゛ぉ゛ぉ゛お゛お゛お゛お゛お゛~゛~゛~゛♡゛♡゛♡゛」 なかば白目を剥いて、真央は叫んでいた。近所に聞こえるかもしれない、などというつまらない心配はすでに怒涛の快感に消し飛ばされてしまっている。かくかくかくかく、と前後を繰り返す腰――噴出した牝潮が動き続ける掌を濡らし、床を叩く。 「お゛っ♡ お゛っ♡ お゛……ぉ………………っ♡」 やがて、絶頂の大波が去ると、真央の体は骨を失ったようにソファーに崩れた。涎とともに口から荒い息遣いを漏らす真央――その目は見開かれているが、何にも焦点を結んではいない。彼女の心はいまだに、ありえたかもしれない自分に囚えられている。 しかし、構いはしないだろう、と真央は思う。不細工な家族と過ごす退屈な日常をしのぐためには、これくらいの妄想は許されてしかるべきだ。彼女は目を細め、体に色濃く残る快感に浸った。 ■ まずい。 すでに15時を過ぎた時計を見て、真央は思う。 そろそろ孝太が帰ってきてしまう。 片付けなければ、と見渡すリヴィングに散らばっているのはポテトチップスの袋、炭酸飲料のペットボトル、チョコレートの包装……間食はいつものことだが、ここまでの暴飲暴食をしてしまったのは初めてだ。きっと朝から自慰行為をしてしまったせいで、タガが弛んでしまったのだろう。あれから、こなすはずだった家事もせず、まともな昼食をとることもなく、垂れ流しのテレビを見ながらだらだらと過ごしてしまった。 また太ってしまう、と嘆きながら、真央はチョコレートの残りを貪った。 ゴミを片付けながら、これでいいのか、と自問せずにはいられない。これから先の人生をこんなふうに過ごしていいのか。このままでは退屈さで気が狂ってしまう。それならば――と思い切る勇気が出せない自分に腹が立つ。掌の中、ポテトチップスの袋が耳に障る音をたてて潰れた。物に感情をぶつけるなんて自分らしくない、と思い、そもそも自分らしさとはなんだろう、と考える。真央の意識は煩悶に苦しんでいるのに、体は勝手に動き、リヴィングを綺麗にしていく。それがいちばん疎ましかった。これではまるで女ではなく、人間ですらなく、主婦という生き物になってしまったかのようだ。 ゴミを捨て、よどんだ空気を入れ替えるため、窓を開け放つ。そこで、インターフォンが鳴らされた。誰だろう。インターフォンのカメラを確認すると、宅配業者が段ボールを抱えて立っていた。玄関へ行き、扉を開け、荷物の受取をする。 送り主として記されている名前は裕貴――今頃、何を送ってきたというのか。彼のところに残してきたものは数多いが、手元に戻したいものはひとつもない。リヴィングに戻った真央は、荷物をテーブルに置き、カッターで封を切った。 まず最初に真央が手に取ったのは名刺サイズのカードだった。そこには裕貴のものらしい筆跡で「よかったら一緒に騒ご♡」と大書きされていた。裏側にはとある店名、そこの住所、そして時刻らしき数字が記されている。この店にこの時間までに来い、ということだろうか。 カードを脇にのけた真央は、緩衝材の奥に詰め込まれている物品をひとつひとつ確認していく。その息遣いは、手つきと同様、心臓の乱れを反映して細かく震えていた。 ヒョウ柄のボディコンドレス、ピンヒール、アクセサリー、下着……それらはどれも裕貴のところにいた時に好んで身につけていたものだ。家に戻ってからこちら、良識に基づいた服だけを着るようになったからこそ、その過激さは真央を圧倒してくる。こんなものを着て外を歩いていたなんて、完全にどうかしている。 さらに段ボールには、メイク道具を入れたボックス、タトゥーシールの他、見覚えがないものも詰め込まれている。派手な金髪のウィッグ――ごく普通のカツラではなく、圧倒されるほどに豪奢な盛り髪がされ、銀色のティアラとともに、馬鹿げた大きさの花飾りがあしらわれている。こんな髪をするのは、自分はまともな人間ではありません、と声高に主張するようなものだろう。 そして、 「な――」 何なのよ、これ、と真央は呻く。 緩衝材の最奥にいくつも埋もれていたのは極厚の肉色の塊――極めて柔らかく作られたそれの正体に気がつき、真央は言葉を失う。これはシリコンパッドだ。小さいものはバストを、大きいものはヒップを盛るためのものだろう。「盛る」どころの話ではない。乳房と臀部に入れられているパッドをすべて重ねて装着したら、そのサイズはもはや―― (ギガトン級♡♡♡) 裕貴が口にしていたその言葉を思い浮かべると、心臓は胸腔の内側を跳ね回った。どきどきどきどきどきどき、という鼓動が荒い息遣いを聞こえなくしてしまう。 もう一度、カードを手にする。「よかったら一緒に騒ご♡」という文言の脇には、目鼻のついたカボチャが――ジャック・オ・ランタンのシルエットが淡い紫でプリントされていた。そうだ。今日は10月31日。 つまり、ハロウィンではないか。 「さ……最悪ぅ……♡」 ぎゅ、とシリコンパッドが握りしめられる。 カードに記されていた店の住所は渋谷にほど近い。渋谷では毎年この日に大勢の若者がつどって騒ぐイベント――通称「渋ハロ」が自然発生していることは知っていた。 あの男は、ハロウィンらしく仮装を――もしも裕貴の元にいたらそのように改造されていたであろう姿になって遊ばないかと言っているのだ。その提案の悪趣味さには「最悪♡」と甘く爛れた罵倒を吐き捨てるしかない。 わざわざ「よかったら」という言葉が使われている、ということは、行かなくても咎められることはない、ということなのだろう。真央がどうするかは、完全に真央の意思に委ねられている、ということだ。 (そんなの――) 行ってしまえば取り返しがつかないことになるのは明白だ。間違いなく、仮装を仮装でなくされてしまう。乳房を、尻房を、徹底的に淫らに増量されてしまう。タトゥーだって、シールではない本物を容赦なく刻まれてしまうだろう。それだけではなく、顔だって好き勝手に弄られてしまうかもしれない。迷うまでもなく、行かないほうがいいに決まっている。 そうだ。送られてきたものはすべて元に戻し、見なかったことにして、もうじき返ってくる孝太を出迎える用意をしなければ。しなければならない、それはわかっているのだけれど―― (いやいやいやいや、こんなの行くに決まってんじゃんっっっ♡♡♡) 笑ってしまうほどあっけなく、真央は良識的な判断を足蹴にしていた。何が「よかったら」だと思う。家に戻った真央が退屈を飼い慣らせるかどうか、彼には最初からわかっていたのだ。でなければ、別れ際、「またね〜♡」と言ったりはしない。腹立たしいが仕方がない。真央は彼に負けたのだ。悔しくはない。悔しがるには、真央が落ちた敗北はあまりにも美味すぎる。 時計を見た。指定された時間まで、もう余裕はない。 真央は段ボールに入っていたものを持ち、姿見の置いてある寝室に駆け込んだ。生皮を剥ぐようにもどかしく主婦としての衣服――この1ヶ月間の拘束具を脱ぎ捨てる。1ヶ月前よりはるかに肉感を増した裸体がさらけ出された。 まずは下着をつけ、乳房と尻房の隙間にシリコンパッドをある限りねじこんでいく。それからボディコンドレスを身につける。グラマラスという形容をはるかに超えるボディラインのために、限界まで伸ばされた生地がぎちぎちと悲鳴をあげていた。 「おお……すっげ……♡」 ボディコンの上から乳房を鷲掴みにして真央は呻いた。その豊満さは、両掌を目一杯に広げても、掴みきれるものではない。最低でもOカップはあるのではないだろうか。今がJカップだから、一気に5サイズの豊胸だ。大量の詰め物がしてあるとわかっていても凄まじい迫力だ。 それに、と首をめぐらせて見下ろす尻は乳房にも負けないほどのボリュームだった。ボディコンの生地がぴったりと張り付き、尻の割れ目がくっきりと浮き上がっている。腰を8の字にくねらせると、尻肉が右に左に上に下にぷるん♡ ぷるん♡ と皿に落としたプリンのように盛大に揺れた。これでは歩くことと異性を誘惑することのあいだに違いはない。 ウィッグを装着した後は、顔面にメイクを施していく。この一ヶ月の鬱憤を晴らすように、徹底的な厚塗りで、攻撃的な印象を作っていく。赤子が見たら泣き出すに違いない――それでいて男たちが魅了されずにはいられない顔貌が急速に形成されていった。 最後にタトゥーシールで腕を毒々しく飾った真央は、あらためて姿見で自分の姿を確認する。 そこに映る自分の姿は、凄まじい、の一言だった。 「あはっ♡ まおっち、やばすぎっしょ♡ えっろ♡ えろえろ〜♡」 どこまでも優雅な金色の髪。大きな目と艷やかな唇をこれでもかと強調した化粧。大玉のスイカをふたつ並べたような乳房。それに負けぬ迫力を誇る尻房。そして、それらが織りなす明るく華美な雰囲気――それは善良な主婦には似つかわしくないだろうが、刹那を生きるパリピにはこの上なくふさわしい。 もしも、仮装ではなく、本当にこんな姿になってしまうとしたら――と考えるだけで、下半身が痺れた。くひ、と笑いを漏らす表情はもう「真央」のものではない。貪婪な欲望を剥き出しにしたその顔は完全に「まおっち」のものだ。 真央は、財布とスマートフォンをバッグに放り込み、ピンヒールを履いて玄関へと向かった。ただ歩くだけでも、ぶっるるるんっ♡ と音をたてかねない勢いで乳肉と尻肉が揺れに揺れ、弾みに弾み、踊りに踊り、ボディコンの生地を苦しげに呻かせた。こんなものを男たちが見たら、と想像するだけで顔が蕩ける。 弛んだ顔のまま扉を開けたところで、ちょうど帰ってきた孝太と出くわした。 「……え? だ、誰ですか?」 呆然と立ち尽くす孝太。自宅から超乳超尻の見知らぬ金髪女が出てきたのだから無理はない。こわばったその顔が真央の心を逆撫でする。何と不細工なのだろう。本当に自分の遺伝子を継いでいるのだろうか。病院で他の子と取り違えられたと考えたほうが納得できる。こんな子を産んでしまったなんて――恥もいいところだ。 「どけっ! 邪魔なんだよ、てめー!」 鬼の面相で孝太を押しのけ、真央は家を出ていく。邪魔。そうだ。自分にとって、家族はもう愛するべきものなどではなく、邪魔なものなのだ。わかってしまえば、もう彼らを切り捨てることに躊躇いは一切なかった。旅行でもどこでも勝手に行けばいい。 軽やかな足取りで駅へと急ぐ真央。そんな彼女を、表に出ていた隣人――今朝ゴミ出しの際に挨拶を交わしたばかりの隣家の主婦が呆然と見ていた。誰に何を思われようがもはや関係はない。真央はこれからハロウィンパーティーに行く。しかし、パーティーは――真央の肉体を変え尽くす狂乱の宴は、ハロウィンがおわってもおわることはない。 「あーもうっ♡」 ちょー楽しみなんだけど、と真央は笑みの滲む唇を舐めた。 (続)