■ 時刻は深夜。カラオケ店の個室内に、真央の歌声が響き渡っている。 歌っているのはハイテンポな楽曲。若者のあいだで人気がある女性アイドルグループの最新曲だ。真央は時折無様に舌をもつれさせながら声の限りに歌詞をがなりたてる。今晩の彼女はショッキングピンクのタンクトップにエナメル生地の超ミニスカートといういでだち――肌には汗が滲み、どんな香水よりもかぐわしい香りをたちのぼらせていた。 歌声にあわせ、男たちが拍手や合いの手で騒ぐ。彼らの顔に浮かんでいるのは知性の感じられないゆるんだ笑みだ。嫌悪はない。なぜなら、同じ表情が自分の顔にも浮かんでいるからだ。 何も事情を知らない第三者が見たら、きっと自分たちを年齢の離れた友人だと思うに違いない。それが見当違いなのか、それとも実際そうなのか――答えを出すことを避けるため、真央は意識を歌唱に集中させる。 (最初の頃は、歌が下手で恥ずかしいって思ってたのに――) この生活が始まってから、今日で20日目。これまでに何度こうしてカラオケボックスに連れてこられただろう。わからない。わからないほどの回数であることは確かだ。 歌を聞くのは好きだが、歌うのは得手ではない。はっきり言って下手の部類に入るだろう。夫いわく「愛嬌のある歌声」だ。今も真央の歌は音程を絶妙に外している。 最初の頃は、自分の歌唱力のなさが恥ずかしくてまともに声を出すこともできなかった。恥ずかしがれば恥ずかしがるほど、歌声は惨めに歪み、ますます真央を恥じ入らせたものだ。これならば無理矢理に性行為を強いられたほうがまだましだとすら思った。 しかし、もう羞恥を感じることはない。聞いている彼らが、歌が下手だからといって他人を馬鹿にするような人間ではないと理解したからだ。本来、歌とはその技術や正確性を評価するためのものではなく、頭を空っぽにして歌い手と聞き手が一緒になって楽しむためのもの――俗っぽく表現するならば「ノる」ためのもの。はるか年下の彼らがそれを教えてくれた。 今の状況を幸せと言うのは躊躇いがあるが、おとなしい主婦のままでいたら、きっと歌うことが楽しいと思うことはなかったのは間違いない。 「はい。次~♡」 歌い終わった真央は、次の男にマイクを渡す。汗で額にへばりついた金髪を掌で掻き上げると、若い女では持ち得ない、艶めかしさが周囲に匂った。ドリンクで喉を湿らせた真央は、マラカスを両手に持ち、歌に合わせて鳴らし始める。しゃかしゃかという脳天気な音は、今の彼女の表情に何よりも合っている。 「……へいっ♡ ……へいっ♡ ……へいっ♡ ふーふーっ♡ へーーーーいっ♡」 マラカスが激しく動く。それにあわせて、惜しげもなくさらけだされた乳肉がふるふると魅惑的に揺れた。 真央の顔に浮かんでいるのは相変わらずの笑み――しかし、その目をのぞきこめば、瞳の奥深くにひどく醒めたものが見えるだろう。 (確かに楽しい……楽しいんだけど……) このところは何をしていても、心の底から楽しいと思えない。男たちと過ごす時間はいつも楽しくて――「楽しい」という感情に飽きてしまったのだ。すっかり味のしなくなったガムを惰性で噛み続けるような日々は真央の脳をじわじわと腐食させている。 歌が終わるのを待って、真央はハンドバッグを手にしてソファーから立ち上がった。 「どこ行くん、まおっち?」 「んー。煙草吸ってくる」 真央の答えを聞き、「じゃあ俺も」と黒井が立ち上がった。集団のリーダーであり、このなかではもっとも真央と仲のいい人間だ。ふたりは個室を出て、喫煙室へと移動する。時刻は深夜近く。個室は満室らしかったが、喫煙室にはふたりの他には誰もいなかった。 煙草を咥える。ライターで着火するが、何度試みても火が吐かない。オイルが切れていたのをようやく思い出す。真央は煙草を咥えたまま舌打ちをする。最近は何をやっても集中しきれず、物忘れも激しくなってきている。このままでは本当にアホになってしまう――と危機を抱くことすら、今の真央にはできない。漫然とまずいなと思うだけで、その思いは何の行動にも結びつきはしない。 「まおっち、ほら」 黒井が火のついた煙草を近づけてきた。「さんきゅ♡」と礼を言って、シガーキスで火を移す。深々と煙を吸い込む。ニコチンとタールが体に染み渡っていく感覚が、身を蝕む倦怠を忘れさせてくれた。しかしそれも一瞬、すぐに馴染みのだるさが襲ってくる。初めはあれほど鮮烈だった喫煙ですら、すでに日常の一部――退屈なものへと変わっている。 「煙草吸うのも完全に慣れたみたいじゃん」 「えー。別に。そんなことねーけどぉ」 「もうやめられないんじゃね? 禁煙とか無理でしょ」 「それは……で、できっし。余裕だしぃ」 現在の心象を端的にあらわす弛緩した喋り方で真央は答える。禁煙に伴う苦痛のことはつとめて考えない。裕貴への服従期間がおわって、やめなければいけない状況になったら、すぐにやめられるだろうと楽観的に考えている。当然のように楽観的だという自覚はない。 「すーっ………………ふーっ………………」 うつむきがちに、真央は煙を吐く。翳りが熟女の美貌を彩った。 「まおっち、どしたん? 今日何となくテンション低くね?」 黒井が身を屈め、その顔をのぞきこんでくる。 気づかれるとは思っていなかった。いや、それなりの時間をともに過ごしたのだ。気づいて当然かもしれない。 「そっかな。別に普通じゃん?」 平静を装って誤魔化す。再度吸い込んだ煙草は、いつにもまして味気なく感じられた。 「何か心配事あんなら言えよ。俺ら、力になっからさ」 そんな言葉に頼もしさを覚えてしまうのは、それだけ彼らと親しくなってしまったということなのだろう。一緒に遊び、一緒に食べ、一緒に寝て、時には体を貪られ、これまで知らなかったことを色々と教えてもらううち、自分の半分ほども年齢を重ねていない男たちに対して、真央は友情によく似た感情を抱きつつある。 ふたりはほとんど同時に煙草を吸い終わった。吸い殻を捨て、喫煙所の外に出る。 次は何の曲を歌おうか、と考えながら歩き始めたところで黒井に呼び止められた。 「まおっちまおっち」 「何?」 黒井の薄ら笑いに答えを予期しつつ、真央は尋ねた。 「戻る前にトイレで一発ハメてこ♡ いいっしょ。サクッと済ませっからさ」 「んー……別にいいけどぉ……」 真央は黒井とともに男子トイレへと向かった。誰もいないのを確認して、3つある個室のひとつに入る。スカートをたくしあげ、Tバックをずり下ろした真央は、タンクに手をつき、便器をまたぐ形で尻を突き出した。勃起に避妊具を装着した黒井は、早速挿入を果たし、腰を前後させはじめる。 ぱんっ♡ ぱんっ♡ ぱんっ♡ 「んっ……はっ……んんっ……」 肉が肉を打つ音が極狭の空間に連続する。そのたび、真央の喉から音が漏れ出る。声を押し殺しているからこそ、その切なさが際立った。しかし、やはり、真央の目から醒めた色が消えることはない。気持ちよくないわけではない。愛液が溢れてくる程度の快感はある。しかし、裕貴に抱かれた時や逆ナンの時に感じたような身を切るほどの興奮はない。 (セックスまで楽しくないなんて……) こんな思いをする日が来ようとは思いもしなかった。興奮どころか嫌悪すらない。感情が伴わない快感はただただ虚しいだけだ。その虚しさが真央から活力を奪い去っていく。黒井の射精までに一、二度軽い絶頂を経験したものの、真央の体に残ったのは満足感とはほど遠い気だるさだけだった。 「やっぱまおっち元気ないっしょ」 コンドームをトイレに流した黒井は、ペニスを下着にしまいこみ、ベルトを締めながら言った。 「先に部屋戻っててよ。まおっちが元気になれるもん買ってくるからさ」 「何? もしかしてお酒? お酒は飲めないって――」 真央の言葉を黒井は違う違うと否定する。 「酒じゃなくてもっといい感じのもん。まあ、楽しみにしててよ」 一体何だろう、と考えながら黒井と連れ立ってトイレを出る。そこで大学生らしい男ふたりと入れ違いになった。それまで談笑していた彼らは、当然のようにトイレから出てきた真央に目を丸くしていた。 黒井は店の外に出ていき、真央はひとり個室へと戻る。黒井が何を買ってくるつもりなのかはわからない。けれど、それが何であれ、この倦怠を追い払うことができるとはとても思えなかった。 ■ 個室に戻った真央は、それまでと同じように男たちと騒いで過ごした。 また煙草を吸いに行こうかと考え初めていたところで、黒井が戻ってくる。手にはそこまで大きくはないビニール袋が提げられている。 「何買ってきたの?」 真央の問いかけに、黒井は笑みを浮かべた。 「タトゥーシール♡ まおっち、肌綺麗だからめっちゃ映えると思うんだよね」 「タトゥー……」 その単語を耳にした瞬間、真央の体を強烈な電撃が貫いた。 この国においては、タトゥーは悪いイメージと不可分だろう。体に刻まれているだけで社会的な信用を失う烙印と言っても過言ではない。仮初めとはいえ、それを身にまとう――そう考えただけで、心臓の鼓動が速度を増した。 「どうする? 嫌なら無理にとは言わないけど――やるっしょ。やるよね?」 黒井は袋から取り出した数枚のシールを机に置いていく。いずれも毒々しいどころか禍々しい意匠のもの。見ているだけで目眩がしそうだ。良識ある大人の女ならば、絶対にこんなものを使いはしないだろう。しかし、だからこそ、 「は、貼る~♡」 倦怠を秘めていた瞳を今度は妖しく輝かせて、真央は答えていた。 「おっけ。まずは試しに手の甲にちっこいやつ貼ってみよ。やり方教えっから」 「うん……」 それから、真央は指示に従ってシールを肌に貼りつけていった。 最初は汗や汚れを拭う。次に台紙から剥がしたフィルムをそこに貼りつけ、濡らしたティッシュで水気を行き渡せ、30秒ほど待つ。それから丁寧にフィルムを剥がせば転写は完了だ。――本物のタトゥーとは比べるべくもない簡単さで、真央の左手にサイズこそささやかながら鮮やかな薔薇の花が咲いた。それを見て、男たちが「おー」と歓声を上げる。「いいじゃん」「格好いい」「本物みてー」 「すごい……♡」 真央は掌を顔の高さに掲げ、溜息をついた。 「次はもっとゴッツいやつ貼ってみよ♡」 黒井が手渡してきたのは、たった今貼ったものとは比べ物にならないほど巨大なものだ。フルアーム――腕全体を覆うためのものらしい。頭蓋骨に蛇が絡みついた凶暴なデザイン。本物か疑似かはまったく関係ない。こんなものを肌にあしらうということは、すなわち、『自分は反社会的な人間です』『まともではありません』と声高に主張しているに等しい。 はあっ♡ はあっ♡ と熱い息が乱れたリズムで漏れ出した。 「やっぱりやめとく?」 興奮のあまりに動けずにいる真央に、黒井が尋ねる。 「や、やめない。やる♡」 息を弾ませたまま、真央は左腕に反社会的な紋様を転写していった。身動きをするたび、ぞくぞくとした痺れが全身を這う。ただ体にシールを貼っているだけだというのに、法律を犯しているような凄まじい背徳を覚えた。 その背徳すらも興奮を燃え上がらせる薪にして、真央は作業を続ける。そして――真央の左腕は変貌を完了した。 「……はぅ♡」 真央は焦げた溜息を落とす。 そこへすかさず、黒井がまた別のシールを差し出した。大きさは今貼ったものと同じ。鎖と龍を使った図柄は、今のものに負けず劣らず禍々しい。 「ばっちり貼れてんじゃん。んじゃ、今度はこれ。右腕に貼ろ。片方だけじゃバランス悪いっしょ」 もちろん断る理由はない。真央は瞳をいっそう輝かせながら、そのシールを受け取った。それからものの五分も経たないうち、左腕に続き、右腕までもが変わり果てる。見下ろした光景――そのあまりの凶悪ぶりに一瞬意識が遠くなる。自分がそうしたというのに、これが本当に自分の肉体なのかと思ってしまう。 「やっば……♡」 真央の喉から感嘆の息遣いが溢れ出す。 (やばい♡ やばい♡ やばい♡ やばいやばいやばい♡ やばすぎ~~~っっっ♡) 真央は両腕を前方に突き出して、うっとりと目を細め、その眺めを堪能する。なんと美しいのだろう。これならばいつまでだって眺めていられる。美しいだけではない。これまでには持ち得なかった俗悪な魅力が匂い立つ。 「どーよ、まおっち。元気になった?」 黒井の問いかけに、真央はこくこくこくこくと何度も頷いていた。 シールだから。なかったことにできるから。 そんなふうに甘く考えていた。確かに肌に転写された図柄は簡単に落とすことができる。しかし、心に焼きつけられた興奮は、もはやどんな手段を用いても消し去ることはできない。良妻であり賢母だった美熟女は、社会の外へと踏み出す喜びの凄まじさを知ってしまった。 それがどれほど危うことか、今の真央には理解できない。その危険性を理解するための知性は、染髪や服装の変化や口調の変化によってすっかり淀み、濁ってしまった。今の真央に残され、また彼女を支配しているのは、ノリと勢い――刹那的な快楽への志向だけだ。 「俺も貼ってみよ」「俺も」「不器用だから失敗しそう」「うるせー」「代わりに貼ってやんよ」「この英語どういう意味?」「これカッコいいじゃん」……男たちは余っているタトゥーシールをそれぞれ自分の体に貼りつけていく。ただでさえ容姿の整った彼らがタトゥーをまとうと、その魅力ぶりは何倍にも増した。 げらげらと笑い合う彼らに混じって、真央は新しくもうひとつ、新しいシールを手にとる。プリントされているのは翼のついたハートマーク。彼女はそれを自分の胸――左乳房の上面に転写していく。見事に肌に映えるそれを見て、「えへへ……♡」と笑みがこぼれた。 潤んだ目。上気した頬。半開きのまま戻らなくなった唇。彼女の浮かべている表情は、完全に性感に震える者のそれだ。そして実際に、もじもじと擦り合わされる脚の付け根、スカートの内側では、先ほどの性行為の時以上の愛液が溢れ出している。 シールを貼っただけでこの有り様なのだ。実際に彫り込んだらどれほどの歓喜が襲ってくるのか。それを想像した真央の体が痙攣する。そのたび、「あっ♡」と桃色に濡れた息遣いが漏れた。本当にタトゥーを入れる、反社会的な装飾を刻むことを考えただけで絶頂してしまったのだ。生まれる快感は、自己破壊の欲動をますます深く真央の心に焼きつけていく。 しかし、さすがにその妄想が現実になることはない。あと1ヶ月あまりで、真央は裕貴への服従から解放される。そうなれば、元の自分に戻らなければいけないのだ。よき母、よき妻である女にタトゥーがあってはいけないだろう。残念……と嘆息する真央は、その状況になれば多少の抵抗はあるだろうが、すぐに元の自分に戻れると信じて疑っていない。その楽観もまたノリと勢いによって生み出されたものだ。 「やっべ」「えっぐ」「お前のこれ、めっちゃズレてんじゃん」「うける」「うけるって、お前がやったんだろ」「ごめんて」「写真撮ろ、写真」……仮初めの刺青を入れた男たちは、それぞれの姿を撮影しはじめる。「まおっちも、ほら」と促され、真央は被写体としてその環に加わった。 見せつけられる画像に映る自分はもう、彼らと同類にしか見えない。出会った頃には、自分とまったく違う人種だと思っていた。軽蔑すらしていた。しかし、今ではそんな彼らに親しみを覚えている。不思議なものだ、という感慨すらも即座に放り捨てて、真央は向けられたカメラに向かってポーズを決めてしまう。 「い、いえーいっ。ぴーすっ♡」 そんな態度こそが何よりも彼らの一員となった証拠――ということにも真央は気がつかない。彼女は完全に部屋に満ちる軽薄な雰囲気に酩酊している。 「どうせだから外出てみよ」 男のひとりの提案に「いいねー」と賛同の声があがる。 外に出る。それはつまり、こんな姿を不特定多数の人間に晒すということだ。注がれる軽蔑そして嫌悪の視線は、染髪した時や派手な服装をした時の比ではないだろう。しかし、まったく嫌ではない。それは、そうした視線があって初めて自己破壊が完成するのだと知っているからだ。むしろ、積極的にこの姿を見せつけ、多くの人間を嫌な気分にしてしまいたいという気持ちすらある。 (ああっ。こんなことを考えるなんて……私――) 自分はすっかり悪い女になってしまった、と思う。仕方がない。そうなるよう、この男たちや裕貴に仕向けられているのだから。自分は悪くない。そう言い訳をしながら、真央は「行こ行こっ♡」と溌剌とした声を弾けさせてしまっていた。 一同はカラオケ店を出て、夜に沈んだ歓楽街へと繰り出す。 いつもは整った容姿と迷惑なやかましさで注目を集めがちな集団だが、今夜はそうではない。行き交う人々は、皆、刺青に気がつくとあからさまに視線をそらす。特に真央はその豊満さで男たちの意識を無理矢理に強奪しながら、一同の誰よりも派手な刺青で彼らを怯えさせる。 これではまるで危険物だ。そう思うと胸が躍り、血が騒いだ。 (だめ……♡ こんなの……楽しすぎるっ♡♡♡) 愉悦を噛み締めながら、真央は男たちと街をうろついた。こんなことなら、メイクもタトゥーにあわせてキツめなものにしておけばよかったと後悔する。服も無地ではなく、アニマル柄のものを選んでいれば、さらに危うい魅力が増しただろう。そうだ。それから香水も――。 そんなふうに考えを弄ぶうち、真央の顔はタトゥーにふさわしい野蛮なものへと変わっていく。その表情は、もはや凶暴という月並みな形容にすらおさまらないほどに荒々しい。 真央は黄金をのぞきこんだような強烈な光を瞳に宿らせ、息遣いで喉を焼きながら歩く。そんな彼女に、すぐ隣を歩く黒井が「あのさ」と話しかけた。 「俺さあ、めっちゃいいこと思いついちゃったんだけど」 「いいこと?」 うん、と黒井は頷いた。 「こんな格好してるんだから、まおっち、カツアゲしてみよ♡」 ■ 呼吸は荒いまま、元には戻らない。 真央は男たちを後方に引き連れて歩いている。 タンクトップを張り詰めさせる乳房。女の脂をむちむちと詰め込んだ太腿。エナメルのスカートに浮かび上がる逆ハート型の臀部。年甲斐もなく若々しい服装で強調される熟した魅力は、行き交う人々の注目を強引に集める。けれど、貼りつけられたタトゥーシールの凶悪ぶりに、その視線はたちまちどこかへ逃げ去ってしまう。 彼らの怯えを肌に感じるたび、たまらない心地よさが真央の芯を甘く痺れさせた。 (これ、とっても気持ちいい♡ 癖になっちゃいそう♡ ううん、きっともう癖になっちゃってる♡ ああもうっ♡ 私、普通の主婦なのに、普通の母親のはずなのに……これじゃ、まるでヤクザかチンピラじゃない……っ) 切なくよじれた息を吐く真央は、今から、タトゥーでひとを怯えさせるよりもはるかに過激な行為に手を染めようとしている。髪を染めるのも、化粧の方向性を変えるのも、数多くの男と関係するのも、心理的な抵抗はともかく、違法な行為ではない。しかし、これからしようとしていること――恐喝、いわゆるカツアゲは明確な違法行為だ。 普通の主婦ならば、普通の母親ならば、たとえ強制されたとしても抗うべきだろう。にもかかわらず、真央はみずから進んでそれを行おうとしている。あまりにも多く性行為を重ね、それに倦んでしまった彼女にとって、突如として提案されたそれはあまりにも強烈な魅力を持っている。 (カツアゲだなんて……そんなこと、していいわけがないじゃない。今からでも考え直すべきよ。どうしてもそれだけは、と頼めば無理強いはされないはず……。ほら、言いなさい。言わなきゃだめ!) 常識的な思考は真央の内側に虚しく響くだけで、行動には影響しない。 それどころか、真央の目は標的を探してあちらへこちらへと移動を続けている。あの若い女がいいだろうか。いや、向こうから歩いてくる中年の男も捨てがたい。……食指が動くのは地味であったり、大人しそうな男女ばかりだ。初めての恐喝の相手としてはそうした人種が適当だろう。 こうしていると、初めて逆ナンに挑戦した時のことを思い出さずにはいられなかった。 あの時にあった恐れは、微塵も見当たらない。あるのは「やってみたい」という衝動だけだ。 「ゆっくり決めていいからな、まおっち」 黒井が背後から声をかける。それに続き、男たちが「誰でもいいよ」「俺たちがフォローしてやっから」「安心して恐喝しよ」「スマホでばっちり撮影してあげるね」と励ましてくれる。かつては嫌悪の対象でしかなかったその能天気さ、喧しさが今ではたまらなく頼もしく感じられる。つい笑みがこぼれた。 しばらく後、真央は男たちを連れて脇道へと脚を踏み入れた。 表通りに比べればはるかに人通りの少ないそこで、彼女は向こうからこちらへ歩いてくる男に目を留める。おそらくは大学生だろう。アルバイトの帰りだろうか。冴えない髪型。頼りない目つき。若いというよりは幼く感じられる顔。――彼は、とてもよく似ていた。 (本当にそっくり……) 顔だけではない。全体的な雰囲気までもが夫に――そして息子に酷似していた。 その男を通して、真央はあらためて夫と息子に向かい合う。そばにいた時はまったく気づかなかった。こうして、遠くから客観的に眺める彼らはひどく弱々しい。これまで肉体関係を持ってきた男たちとはまったく正反対だ。そのあまりの弱々しさに今更ながら頭を殴られたような衝撃を覚える。 この男は、強く迫れば、みっともなくうろたえて、大人しく金銭を差し出すだろう。真央にはそれがわかった。なぜならば、夫や息子ならば間違いなくそうすると断言できるからだ。 しかし――いくら容易そうだからといって、夫や息子とイメージを重ね合わせた男を恐喝の対象にできるわけがない。そんなこと許されるわけがない。しかし――黒井に「あいつにする?」と囁き尋ねられて、真央は即座に頷きを返していた。 (もうっ……私、何してるの……) 己の愚行を嘆きこそすれ、真央は頷きを取り消すことができない。 「じゃあ、さっき教えた通りにすればいいから」 その言葉に背中を押されて歩き続ける真央――その顔にはいびつな笑みが浮かんでいる。凶暴な光を宿した瞳。膨らんだ小鼻。半開きの唇からは、ふーっ♡ ふーっ♡ と狂乱に揺れる息遣いが漏れていた。 距離が近づき、男が真央の存在を認知する。豊満体に目を奪われかけた男は、しかし他の者たちと同じく、肌を覆う刺青、そして背後に控える男たちに気づいて視線をそらす。そのみっともない慌て方も夫や息子と瓜二つだった。 「おい……」 惨めに背中を丸めてすれ違おうとした男の前に、真央は立ちふさがる。 「て、てめー……今、胸見てただろ……っ」 ドスのきいた声を出すといい、と言われていたが、実際真央から出てきた声は興奮に裏返り、輪郭を震わせていた。しかし、それでも男を怯えさせるには十分だったようだ。体がこわばり、「ひっ」と悲鳴が喉にくびれる。哀れむべきその音色が、凶暴な欲動に囚われた真央の耳には天上の音楽のように心地よく響く。 「い、いや、あの、そんな……違っ。見てない。見てないです……」 「嘘つくんじゃねーよ。めっちゃやらしー目で見てたじゃん。ふざけんなよ」 「嘘じゃなくて……僕は本当に……」 「本当は見てたんだろ。ああ?」 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――と心で謝罪を繰り返しながら、真央は男に絡んでいく。こういう行為を「因縁をつける」と言うのだろう。 (すごい♡ 因縁つけるの……楽しすぎる……♡) あまりの楽しさに唇の端がひくひくと痙攣していた。最初は淀みがちだった言葉が、次々と溢れ出してくる。興奮のあまり、股間からは愛液が溢れ始める。 「つまんない意地張ってないで認めて謝れよ」 調子づく真央とは逆に男はどんどんと萎縮していく。丸かった背中はさらに丸まり、今にも泣き出しそうな顔つきになる。助けを求めてあちこちへ視線を飛ばすが、通行人たちは素知らぬ顔で通り過ぎていくだけだ。 「勘弁してください……」 「勘弁してほしかったら謝れって。ほら、早くしろっつーの」 真央が一歩近づくと、男は二歩後ろに下がった。完全に威圧されている。彼はつかの間言葉を探していたが、やがて「すみませんでした……」と頭を下げた。もちろん謝罪をされても解放する気はない。 「謝りながらまた胸見てたっしょ。まじでありえねーんだけどお前。最悪ぅ」 真央は棘の生えた声で男に迫っていく。後方で黒井たちが、「やばいっすよ、お兄さん」「まおっち怒らせるとえぐいんで」「このあいだも気に入らない男ボコって病院送りにしたんですよ」「謝ったほうがいいって」「まじで殺されちゃうかも」と囃し立てる。 それを聞き、男は消え入りそうに身を縮こまらせた。そして、俯いたまま、「すみませんでした」と怯えを孕んだ謝罪を絞り出す。その頭頂を見下ろしている真央の体温が上昇する。溢れ出した愛液が、剥き出しの太腿、その内側をねっとりと伝っていた。 「つーか、謝るだけで済む問題じゃねーし。わかってんの、それ」 熱い息の交じる声で真央は言う。 そんな、と男があげた悲鳴は吹き出してしまいそうになるほどによじれている。 「それなら、どうすればいいんですか?」 「んー。たとえば――金、とか♡ 慰謝料♡」 男が息を呑む。どうすればいいか、と考えているのだろう。答えはとうに決まっている。決めたのは彼自身ではなく。真央だ。どきどきどきどきどきと心臓を高鳴らせながら、真央はさらに一歩男に詰め寄った。 「……早くしろや、おらっ」 視線を尖らせ、巻き舌で脅す。 男は慌てた動きで尻のポケットから財布を取り出した。給料日前だからこれしかなくて、と聞こえなくもない音をぼそぼそとうめきながら、一万円札を差し出す。 (これを受け取っちゃったら――) これを受け取ってしまったら、本当に恐喝をしたことになってしまう。今ならまだぎりぎり引き返せる。良識ある人間として絶対に引き返さなくてはいけない。それがわかっていながら、 「あっざーす♡」 夜闇を晴らすような明るい声とともに、真央は男の手から紙幣を引ったくっていた。 (私……私……っ) やってしまった。とうとう、犯罪をおかしてしまった。という後悔は、たちまちのうちに超高濃度の興奮に塗り潰されてしまう。油断をしたら鼻血を噴き出して倒れてしまいそうだ。びくっ♡ びくくっ♡ と下腹が痙攣する。かつての良妻賢母はカツアゲで――犯罪行為で絶頂してしまったのだ。 (こんなに楽しいことがこの世にあったなんて……) これに比べれば、どんな性行為だって児戯に等しい。してはならない行為をするのがどれほどの愉悦をもたらすのか。得てはならなかったはずの知識が、脳を腐らせていく。 「あ、あの、ほんと、すみませんでした」と暗い声で謝って、男が逃げ去っていく。その後姿も、やはり、夫や息子とそっくりだった。それを見送る真央に「できたじゃん」「うまいうまい」「恐喝の才能あるってまじで」「カツアゲの天才じゃね?」と男たちの賞賛が浴びせられる。 「どうよ、まおっち。カツアゲの感想は?」 黒井が尋ねてくる。それに対して、「それは……」と真央が一瞬言い淀んだのは答えるのが難しいからではない。あまりにも容易すぎるからだ。ぎゅ、と指に力がこもり、紙幣に皺が寄った。 「ちょ~~~~~~~~~~楽しかった♡♡♡」 不規則に弾む呼吸。ぎらぎらと輝く瞳。上気した頬。全身から溢れ出してくる興奮。彼女のすべてがその言葉が心からのものであると証明している。 「そんな楽しかったんなら、もう一匹やる? やっちゃう?」 その提案に対して、彼女は食い気味に「やるっっっ♡」と即答していた。 「今度は女やろ、女」「えー。女のひと? かわいそー」「男女平等でしょ」「まおっちなら余裕だって」「そっかな……」「今度はマジでチビるくらい脅そ」「殺すぞ、とか言おうよ」「じゃあ、あの、どこかでメイク直してきていい? もっとキツめのにしたほうが成功しそうだし♡」……そんなふうに騒ぐ真央は完全に男たちの一員だ。 残された時間はあと10日。それまでの時間を濃密なものにしようと決意を新たにする真央は、男たちのひとりが先ほどの獲物を追いかけ、呼び止めて、「さーせん。今のは罰ゲームだったんです」と苦笑いで謝罪をしつつ1万円を渡し、警察沙汰を回避したことには気がつかない。 刺青は偽物で、恐喝も偽物――ただし、それら偽物が真央の内側に生み出した自己破壊の愉悦を求める欲望は紛れもない本物だった。 (続)