■ 消えない緊張が真央の顔を翳らせ、肺を押し潰している。 彼女の心とは裏腹に、店内に流れる音楽は軽妙で洒脱なものだ。 いわゆる「ギャル」と呼ばれるタイプの女性向けの服飾を専門に取り扱っている店。店員も客も、若い女ばかりだ。当然、熟女と青年の組み合わせはひどく浮いている。彼女らには、自分たちがどんなふうに見えているのか。それを考えると、真央の呼吸はますます苦しくなった。針のむしろ、とはこんな状況のことを言うのだろう。 しかし、真央のかたわら、服を選んでいる裕貴に他人の視線を気にしている様子はない。むしろ、楽しんでいるようにすら見える。普段は忌々しいだけのその無神経さが、今は少しだけ羨ましかった。 今日、一週間ぶりに部屋に戻った真央に、裕貴は「服装を変える」とあらためて宣告した。一時的に服を変えるのではなく、恒常的に真央の服装の傾向を変化させる、という意味なのは説明されずとも理解できた。 まず最初に連れて行かれたのがランジェリーショップだった。 ショーツはともかく、ブラジャーを購入する時は、昔からいつも苦労していた。Hカップのそれは、そもそも置いていないことが多い。置いてあったとしても、デザインが気に入ることはまれだ。若い頃は、それでも、できるだけ可愛いものを、と腐心していた。しかし、結婚後、特に子供が生まれてからは、下着としての機能が果たせればそれで構わない、と諦めていた。その結果、真央が所有するブラジャーは、どれもこれも、ごく地味なものばかりだ。実用一点張りで、味気ない色合いと形状――率直に表現すれば「おばさん臭い」ということになるだろう。 しかし、その店は普通のランジェリーショップではなく、平均よりも大きめのサイズ――グラマーサイズの下着を取り扱っている店だった。そういった店に足を踏み入れたのは初めてだったが、品揃えを見て驚いた。 置いてあるブラジャーは最初のサイズがFカップ、最も大きなものはLカップ。サイズだけではなく、種類も豊富に取り揃えられていた。ただし、その選択の余地を存分に謳歌したのは、当の真央ではなく、裕貴だった。 彼は、自分が気に入れば、試着もさせず、あれもこれもと手当たり次第に購入を決めていった。その豪放な買いっぷりに、最初は彼の存在をあからさまに迷惑がっていた店員たちも、最後には、満面の笑みと丁寧な挨拶で送り出してくれた。そこで得られた艷やかな収穫の数々は、今、裕貴が手に提げた袋に詰め込まれている。 裕貴が選んだブラジャーの数々――普通にお洒落なものもないではない。しかし、そのほとんどは、肩紐のないもの、カップが極小のもの、シリコンブラ……そのたぐいだった。それを考えれば、彼が真央にどのような服装の変化を強いるつもりなのか、想像はつく。あわせて購入したショーツも、過激な衣装に似つかわしいものばかりだった。 はあ、と胸元に溜息が落ちる。 ランジェリーショップの次に連れてこられたのがこの店だ。 真央に、裕貴が「どれにしよっか?」と尋ねる。どれ、と言われても、真央には選ぶことができない。棚に並ぶ服はいずれも露出度が高く華美なもの――若く溌剌とした少女たちならばともかく、三十八歳の熟女には到底似つかわしくない。 そもそも、若い頃から好んで身につけていたのは、落ち着いた雰囲気の服だった。この店にあるようなものとは、まったくの正反対だ。それを身に着けた自分を想像することすら難しかった。 「そんなことを言われても……わからないわ……。決められない……」 「悩まなくても、真央くらい美人だったら何着ても似合うと思うけどね」 何のてらいもなく口にされた褒め言葉に、真央の顔が一瞬にして真っ赤に染まる。彼女は顔をそむけ、「ば、馬鹿なことを言わないでっ」と吐き捨てた。 それなら俺が選んじゃっていいよな、と裕貴は、下着の時同様、好き勝手に服を選び始める。金ラメのビキニ、ヒョウ柄のボディコン、ゼブラ柄のチューブトップ、超ローライズのホットパンツ、マイクロミニ丈のスカート……予想通りとはいえ、露出過多な服ばかりだ。 「わ、私にも選ばせて……っ」 矢も盾もたまらず、真央は声をあげた。仕方なく、できるだけ穏当な――露出度の少ない服をどうにか選んでいく。そうした服もそれなりの数が置いてあったが、やはり、若者向けという印象は拭えない。けれど、裕貴が選んだような服ばかりを着て日常生活を送るわけにはいかない。 真央がどうにか何着かを選び出すあいだに、裕貴は、服だけではなく、靴やアクセサリーといったものの購入までも次々と決めていた。高額の会計が、カードで支払われる。 「せっかくだから、ここで着替えてみよっか」 「こ、ここで……?」 問いかける真央に、裕貴は「そ♡」と晴れやかに頷く。 「どうせ着るんだから、早いほうがいいでしょ」 裕貴が、真央の手に次々と衣装を押しつける。それから、彼は、店員に一声かけた後、戸惑う真央を試着室へと強引に押しこめてしまった。こんな服、身につけたくはないが、逆らっても仕方がない。奥歯を噛んで、真央は着替えを始める。 服を脱ぐ――それだけのことがひどい重労働に感じられた。壁の一面を占める鏡で、自分の裸体を見る。乳、腰、尻……量感を増した肉体の迫力は、真央本人が見ても圧倒されてしまう。若い女では決して持ち得ない爛熟した魅力が、真央の意思とは関係なく濃厚にたちのぼり、広くはない室内に充満している。 真央は、覚悟を決め、渡された服に手を伸ばした。 まずは下着だ。紐も同然のショーツの背面は、豊かな尻肉に完全に埋もれてしまう。前方向からは、茂る恥毛が完全に丸出しだ。せめて事前にわかっていれば処理してきたのに……と思う。 次は胸に直接貼り付けるシリコン製のブラジャーを――ヌーブラを装着する。生まれて初めて感じる独特の感触に呻きが漏れた。中央に寄せ集められた乳肉に、ブラジャーの厚みが加わり、乳房はHカップよりもだいぶ大きさを増して見える。 それから真央が震える手で掴み上げたのは、デニムスカートだった。股下が五センチあるかないかのマイクロミニ丈――果たして、こんなものを、四十歳を間近に控えた、夫も子供もいる女が着ていいのか。そんな疑問を無理矢理に飲みこんで、真央はスカートに足を通す。頼りない面積しかない布地との対比で、女の脂をたっぷりと詰め込んだ太腿が、おそらくは実際以上に太く熟れて感じられる。 そして次はチューブトップ――着丈は、上が乳輪が隠れるかどうか、下がへそが丸出しになる程度しかない。ヒョウ柄の布地は、真央の肉体の豊満さにみちみちと張り詰め、どこもかしこも今にも張り裂けそうだ。野性味の溢れる柄と、惜しげもなくさらけ出された乳房の上辺――静脈が透けるほど白い皮膚とが凄惨な対照を織りなしている。 最後に、太腿の白に映る黒のハイソックスを履いて、真央はおそるおそる鏡に視線を向ける。 「……っ!」 あらためて目にする自分の姿は、真央を絶句させた。 こんな、若者向けでしかない格好が似合うわけがない。熟した肉体に、華やかな金髪や露出度の高い服装は似つかわしくない。そのはずなのに、鏡の中の自分を見た真央は、 (嘘……私……こんなに綺麗だったの……) 反射的にそう思ってしまっていた。一体何を考えているのか、と己を叱咤しても、思った事実は消えはしない。似合っていてはいけない――そんな決めつけを悠々と凌駕するほど、鏡に映る自分の姿は魅力的だった。肉体が服や髪色の若々しさを際立て、服や髪色が肉体の熟れ具合を際立てる。その循環が醸し出す魅力は、熟女が若作りをしている、という事実の痛々しさすらもたちまち得がたい美点に変えてしまう。 「はあっ……♡」 心臓の高鳴りが耳にうるさい。目をそらさなければ、と思うのに、視線が外せない。血液とともに巡る背徳が全身を切なく灼いていた。それでもどうにか剥がした視線が、脱がれた衣服に向く。ほんの数分前まで身につけていたそれは、おそらくどれもまだ真央の体温を残している。自分にふさわしい、と思えていたそれらが、今では、ひどく垢抜けていないものに見えてしまう。 ナイトクラブでも似たような格好をさせられはしたが、あの時と今では感じ方がまったく違う。これは、一時的な扮装ではない。これからは、ずっと、こんな格好で生活するのだ。今は、まだ、この服装は特別なもの――非日常に属している。しかし、毎日着るようになれば、それは日常へと変わっていくのだ。我が身が腐れていく予感に体が震える。 外から「まだ? のぞいちゃうよ」と急かす声をかけられてようやく、真央は我に返った。 「い、今出るわ」 返事をして扉を開く。そこには脱いだ靴の代わりに、見慣れぬ靴が用意されていた。厚底のニーハイブーツ。薄笑いを浮かべている裕貴を一瞥した後、真央は靴を履く――というよりは、靴に脚肉をねじりこんでいく。ぎち……ぎち……と軋る革の音は鳥肌がたつほど艶めかしい。熟した肉に内側から押し上げられたブーツが苦しげに張り詰める。靴内に詰め込みきれなかった太腿の肉が溢れ出して盛り上がりを作っている様子は、肉感的という形容にすらおさまりはしない。 「これで終わりでいいのね……」 真央は尋ねる。はぁ♡ はぁ♡ と吐かれる焦げた息。上気した顔。全身から香る汗。膝が小刻みに震えているのは、履き馴れていない靴だから、というだけの理由ではないだろう。着替えただけとは思えないその姿に、裕貴が苦笑いを浮かべる。むんむんと押し寄せる熱気は、金髪に染めた時とは比べ物にならない。 「いいじゃん、その格好。めっちゃ似合ってる。最高♡」 よしよし、と頭を撫ぜる裕貴の手を、真央は振り払う。 「褒められたって、う、嬉しくないから……」 そうは言いながらも、その言葉を聞き、真央の胸腔では、いったんは静まっていた心臓がふたたび高鳴り始めていた。意識では嫌悪していても、肉体は嬉しさを感じているのだ。そんな反応を示してしまう自分が悔しくてならない。裕貴を睨む目は涙に潤み、なけなしの迫力すらも失ってしまう。 新しく買い込んだ衣類や装飾品は、下着も含めて部屋に送るよう頼んでおいた、と裕貴は言った。それから、彼は、真央が脱いだ服を手に取り、店員を呼びつけて、これは捨ててくれ、と押しつける。 「な、何を勝手に――」 やめて、という真央の言葉を無視して、裕貴は「帰ったら、古い服は全部捨てるからな」と宣告する。 裕貴の部屋に持ち込んだ服には、気に入っている服や、思い出のあるものも含まれている。必ず新しい服を着るようにするから、捨てるのは勘弁してくれないか。そんな真央の懇願は、「だめ」の言葉で一蹴されてしまった。 「そうでもしないと、真央、新しい服着ないだろ?」 「それは……そうかもしれないけど……」 変革を強いられ、真央はうなだれるしかない。 「それじゃ、次は化粧だな」 「お化粧……」 そうだ。やらなければいけないことはまだ残っている。髪色と服を変えただけで、まるで別人のように見えるのだ。この上、化粧まで変えてしまったら、真央の自己認識はどれほど揺らいでしまうのか。そもそも、揺らぐ程度で済むのか。それが恐ろしかった。しかし、最も恐ろしいのは、感じているのが恐ろしさだけではない、ということだ。苦さに切ない甘さを入り混じらせたその環状が何なのか、今の真央にはわからない。 「次はどこに連れて行くの?」 真央の問いかけに、裕貴は笑って上を指した。 どういうことか、と真央は怪訝な顔を浮かべる。 この店の二階が有料のパウダールーム――化粧のための部屋になっている、と裕貴は説明した。真央が着替え中にやってきた裕貴の女友達が、そこで待っているらしい。彼女が真央に化粧を施し、コツを教えてくれるそうだ。ただの化粧ではなく、この髪、この服に似つかわしいメイク――ギャル風のメイクだ。 「化粧については俺じゃ力になれないから、そいつからしっかり教わってね。そのあいだ、俺は他にやることあるから」 それじゃ、と言い置いて裕貴は店を出ていった。 行きたくはない。しかし、行かなければならない。煩悶を拳に握りこんで、真央は上に続く階段に向けて歩き始めた。 ■ まるで、座っている椅子から、体が数ミリ浮いているようだ。 現実だ、とわかっているのに、何もかもが現実感を欠いている。 今着ている服を買ったショップの二階に構えられた有料のパウダースペースに、真央はいる。黒を基調とした清潔な室内は、それぞれ半個室に区切られ、何人かの女性が化粧を施している。心地よく落ち着いた部屋の雰囲気が、真央の感じている居心地の悪さを増幅する。 彼女は、今、そこでひとりの少女に化粧を施されている。 「はー♡」「ほんとお化粧のノリ最高です♡」「うちのママと同い年だと思えない♡」「やば♡ やば♡ やば♡」――早口ではしゃぐ少女は、裕貴の女友達だという。年齢は彼より少し下の十代後半だろう。豪奢なパーマのかかった茶髪。黒のキャミソールを身につけた体はスレンダーで、およそ無駄というものが見当たらない。ホットパンツから伸びる脚は驚くほどに長かった。「ギャル」という単語から誰もが想起するような格好――それは今の真央も変わらないだろう。 若さの弾ける体がそばにあるからこそ、自分の年齢が強調される気がした。恥ずかしさに俯けば、「駄目ですよ♡」と顔を上向けられる。 「やーん♡ 真央さん本当に綺麗♡」 少女の態度はひどく親しげだ。いや、これはもう、馴れ馴れしいと言うべきだろう。彼女は、あの夜、ナイトクラブにいたのだろうか。見覚えがあるような気がしたが、それを言葉にして確かめる勇気は真央にはなかった。 絶え間なく口を動かしながら、少女は真央にメイクを施していく。その手際のよさには、長年化粧をしてきた女として、素直に感心させられた。 少女が特に言葉を尽くして褒めるのが、化粧のノリのいい――よすぎる肌の質感だ。確かに、肌感がよくなった、とは思っている。乱れた生活をしているのに、普通に過ごしていたあの頃よりも、色艶、潤い、滑らかさは優れている。あの頃だって、スキンケアを怠っていたわけではないのに。強いられる性行為で女性ホルモンが分泌されているのだろうか。 自分の半分ほども年齢を重ねていない少女に「嫉妬しちゃう♡」と言われ、真央は耳まで真っ赤にして羞恥に悶えた。 褒めそやされるあいまに、あれこれとメイクについてのアドバイスを受けた。素材を活かすナチュラルメイクではなく、「可愛い」を作り出し、自分を鼓舞するギャルメイク――そんなものが自分にできるのだろうか。疑問には意味がない。なぜなら、真央は、それをやらなければいけないのだから。 メイクを崩さないためのフィックスミストを吹きかけた後、「おまけ」と称して胸にオリエンタルな香水を振りかけられる。 「はい。これで完成でーす♡」 どうですか、と尋ねられても、真央は答えられない。彼女の意識は、完全に鏡の中の自分に奪われている。金髪にした時のように、これが本当に自分なのか、とは真央は思わない。今回の彼女が抱くのは、 (こんなのは……私じゃない……) という思いだった。 施された化粧が髪や衣服とともに描き出すのは、まったく見知らぬ女だった。厚塗りの土台の上で、つけまつ毛をつけた目が、アイライナー、アイシャドウ、マスカラの演出で強烈すぎる存在感を誇っている。豊かな唇は鮮やかなピンクの紅を引かれ、ふるいつきたくなるような潤いを与えられていた。その艶かしさは、否応なく、女性器を連想させずにはおかない。 三十八年間、真央がずっと見続けてきた真央は、そこには微塵も残されていない。ほんの数十分の化粧は、それをすべて覆い隠すのみならず、まったく新しい真央を作り上げていた。 言葉を選ばずに表現すれば、いかにも頭の悪そうな印象だ。そして、くっきりとした目のせいだろう、とても強気な――凶暴な印象をすら受ける。とてもではないが、まっとうな母や妻の顔ではない。不良、という単語を思い浮かべてしまうのは、真央が古い人間だからなのだろうか。 しかし――これが、新しい真央なのだ。そう自分に言い聞かせても、やはり、現実感がないのは変わらない。鏡に映る自分が、どうしても自分とは思えない。おそらく、実感が襲ってくるのはまだ先なのだろう。その時のことを想像すると息が苦しくなった。気弱に翳る表情が、ようやく、鏡に映る女に真央らしさを滲ませる。 「どうですか。めちゃくちゃ可愛いですよね♡」 ねっ♡ と問いかけられ、真央は返答に窮する。 鏡に映る自分は、自分には思えない。他人のようにしか見えないからこそ、そこに冷静な判断を下せてしまう。さすがに「可愛い」という形容はできないが、少女の言う通り、魅力的であることは認めなければいけないだろう。ただし、その魅力の方向性は、真央がかくあるべきと考えるものとはまったくかけ離れている。 「お化粧道具は、全部プレゼントしちゃいますね♡ 裕貴くんにそうするようにって言われてるんで♡」 使ったものは少女の私物ではなく、すべて、裕貴に頼まれて新しく買ったものらしい。確かによく見ればどれも真新しい。おそらく、部屋に戻れば、服同様、古い化粧道具は捨てろ、と言われるのだろう。 「裕貴くんに終わったって連絡しますねー」 スマートフォンを取り出した少女が、そうだ、と言う。 「メッセージだけじゃなくて、写真――じゃなくて動画撮って送ってあげましょうか♡ そっちのほうが裕貴くんも喜びそうだし♡」 こういう感じで――と指示をした後、少女はカメラを起動させた。 「ぴ、ぴ……ぴーすぴーす……っ☆」 耳まで真っ赤に染めた真央の両手が形作るのはピースサイン――しかし、通常のものとは反対に、掌を上に向けて前方に突き出すものだ。それが、巷間、「ギャルピース」と呼ばれていることはかろうじて知っていた。 (し、死ぬ……恥ずかしくて……死んじゃう……) 比喩ではなく、そう思う。その気持ちを映えて、手指がぷるぷると情けなく震えていた。長いようでごくごく短い動画の撮影が終了すると、真央の喉から「はあっ」と火のような息が絞り出された。 「あはは♡ ちょー可愛いです♡」 へらへらと笑いながら、少女はスマートフォンを操作した。三十八歳の生き恥ギャルピースをおさめた動画が、メッセージとともに、裕貴の元へと送信される。ほどなくして、受信を知らせる音が弾けた。 にっ、と笑って少女がこちらに向けた画面には裕貴から届いた『最高♡』の文字が踊っていた。とても見ていられず、真央は視線を背ける。よかったですね、と言われても、とても喜ぶ気持ちにはなれない。 「裕貴くん、近くの喫茶店で待ってるらしいです。場所は――」 喫茶店の場所を口頭で教えた後、少女は「また遊びましょうね」と爽やかな笑顔を置いて出ていってしまった。真央は、ようやく訪れた解放感に大きな息を吐く。いいや、真央は何からも解放されてはいない。それどころか、もはや真央の体が真央を捉える檻へと変わってしまったのだ。 緊張に体を強張らせながら、真央は椅子から立ち上がる。これから、この姿で、初めて外を出歩くことになるのだ。渇いた口腔にどうにか唾を飲み込む。その音が、ひどく忌まわしく頭蓋の内側に響いた。 化粧品をしまったバッグを手に階下へと降りる。 断頭台に踏み出すような心持ちで出た店の外――夏へと向かう季節が注ぐ爽やかな日差しは何もかもを明瞭に映し出す。ほんの数歩歩いただけで、真央の顔はこわばる。休日の繁華街。人通りの多さは言うまでもない。 行き交う男たちから注がれる視線の多さは、金髪にした時の比ではない。それは、過剰な自意識が見せる幻想ではなく、確かな現実だ。当然、真央の肌を焦がす羞恥もあの時よりもずっと増している。 特に男たちの視線を強奪するのはその乳房だ。大きさのあまりに重力に引かれて長く伸びた乳房――さらけ出されているI字の谷間の深淵は男たちの視線どころか意識までも奪おうとしているかのようだ。量感に溢れた肉鞠は歩を進めるごとにぶるんっ♡と揺れるが、あまりの重さに歩拍と揺れが噛み合っておらず、微妙にずれている。認識できるかどうかのそのずれが、また、男たちの意識下に作用し、彼らの劣情を掻き立てるのだろう。 (み、見られてる……) 恥ずかしさを握り締め、真央は思う。 ここまで素肌を外気に晒したのは初めての経験ではないか。犯罪ではないのに、ひどく悪いことをしている気分だった。実際にこれは許されることではない。これまで連綿と積み重ねてきた自分の存在を自分で破壊してしまっている。早く裕貴の待つ喫茶店に急がなければ、と足の動きを早めれば、乳房の揺れも大きくなる。 どきどきどきどき、と心臓が騒ぐのは、声をかけられないかどうか心配しているのだ。金髪の時には男に声をかけられ――ナンパされた。あの時ですら声かけの対象となったのだ。今回声をかけられないとは考えずらい。声をかけられるに決まっている。 (ナンパされちゃう……これ……絶対にナンパされちゃう……) 恐れているにも関わらず、真央の口角は、ほんのわずかだが上がっていた。恐れを抱いているのは間違いないが、劣情の視線を向けられることを、女の本能が喜んでしまっているのだ。母として、妻としての立場を蓋にして長らく抑圧されてきたそれは、久々の目覚めに沸き立っている。女の魅力を全開にした外見をしたこと――そして、その魅力を認識してしまったことが、それを勢いよく解放してしまったのだ。 次の一歩を踏み出せば、声をかけられるのではないか。怯えながら、真央は歩みを進める。声をかけられるだけで済むだろうか。こんな格好をしているのだ。物陰に引きずり込まれ、乱暴されてしまってもおかしくはない。不運にも、今日は危険日だ。もしも妊娠してしまったら――。勝手にたくましくなる妄想が心臓をさらに落ち着かなくさせる。 しかし、男たちは、真央に好色な視線を向けてはくるものの、声をかけてこようとはしない。露骨すぎる性的魅力が、かえって彼らを尻込みさせている――ということに真央自身は気がつかない。 男たちの欲情と同時に感じるのは、女たちの軽蔑だ。蔑みの目をむけられて当然――とは思いつつも、今は、彼女たちの蔑みの土台にあるのが嫉妬であるのがわかる。理解できてしまう。様々な年齢の女たちから感じられる性的魅力への嫉妬は、優越の心地よさを真央の心にひろげた。ぞくぞく、と甘い痺れが体表を這う。 そんな気持ちになってはいけない、と真央は自分に言い聞かせる。しかし、痛みは我慢できても、喜びに耐えるすべを彼女は知らない。望まぬ喜びに口角を疼かせながら、彼女は歩き続け、そして、何事もなく――誰からも声をかけられることなく、無事に喫茶店に到着する。 喜ぶべきことだ。感じる寂しさは、何かの間違いに違いない。間違いでなければならない、と彼女は自分に言い聞かせた。吐いた息に落胆が滲んでいるのも、きっと気のせいだ。 ドアベルを鳴らして喫茶店に入店する。奥まった席に座っている裕貴が軽く手をあげて真央の注意を引いた。真央は彼の向かいの席に腰を下ろす。店内に客の姿はほとんどない。わずかにいる人間は、それぞれ、スマートフォンや書籍に視線を落としている。人目がなくなり、真央の体がようやく落ち着きを取り戻していく。 「めっちゃいいな、そのメイク♡ エっロ♡」 呼びつけた店員に真央の分のコーヒーを頼んでから、裕貴が目を細める。 エロい。その言葉に真央が顔を背けたのは、あまりにも直接的だから、というだけではない。それがどれほど端的に今の自分を表現しているのかわかってしまうからだ。 「そんなふうに褒められたって嬉しくなんてないわ……」 「素直に嬉しがればいいじゃん。エロくなりたいっていうのは女として当然だと思うけど?」 「あなたが女性を語らないで。こんなところ、夫や子供には見せられないわ……」 「家族なんてどうでもいいじゃん。大切なのは真央が何をしたいかでしょ。真央の人生なんだから、家族なんて気にしないで、真央の好きにしたらいいんだよ」 「これはあなたの趣味でしょう。私はこんな格好したいだなんて全然――」 「男にじろじろ見られるの、嬉しいんだろ? 金髪になった時に認めてたじゃん。どうせ、ここに来る途中でもどきどきしてたんじゃないの。またナンパされないかな、って」 「そ、そんなわけ……っ」 否定の言葉を口にするその必死さが、裕貴の嘲りの正しさの証拠になってしまう。あまりにも素直すぎる真央の反応に、裕貴が吹き出す。真央は俯き、悔しさを噛み締めた。これも家族のためだ、と自分に言い聞かせる。 ていうかさ、と裕貴は続けた。 「家族――特に旦那のためにそんなに尽くす必要ある? 俺が言うのもあれだけど、真央を他人に差し出すようなやつだよ。おまけにエッチも下手なんでしょ。そんなん義理立てする価値ないって」 「あのひとを悪く言わないで……」 切実な声で真央は訴える。言っても無駄だと知りつつも、愛する男性を馬鹿にされたままにはできなかった。しかし、弱々しい反抗は、案の定、裕貴の嗜虐心を刺激してしまう。彼の目に宿る光が鋭さを増して真央を刺した。 「真央はあいつのために、俺の玩具になってるわけじゃん? だったら、そのあいだ、自分の好きにしてもバチは当たらないんじゃない? 一年が過ぎたら、あとは元に戻ればいいじゃん。文句言われたら、俺のこと、言い訳に使っていいよ♡ あいつにやらされたの、って」 「それは……そんなこと……」 できないわ、と真央は言う。しかし、しようと思えば、それがどれほど容易なのかが彼女をおののかせる。できないのではない。するべきではないのだ。それは明確な家族への裏切りに他ならない。家族を裏切ることだけは絶対にできない。 真央の苦悶をしばらく眺め楽しんだ後、裕貴は、「まあいいや」と話題を放り捨てた。 その代わり、一台のスマートフォンをこちらへ滑らせてくる。 「それ、真央の新しいスマホね。俺の連絡先はもう登録してる。自由に使っていいけど、勝手に家族に連絡するのだけは禁止ね」 以前家庭で使っていたものは裕貴に没収されている。真央が化粧をされているあいだ、裕貴はこれを買いに行っていたのだろう。機械は苦手だ。うまく扱えるだろうか、と考えながら真央は、傷ひとつないそれを手に取る。カバーをつけていない筐体の冷たさが掌に痛く感じられる。 「こんなものをわざわざ渡すのは、何かさせたいことがあるからなんでしょう……」 その言葉に裕貴は「わかってきたじゃん」と白い歯を見せた。 「せっかくそんなにエロくなったんだから、俺以外の男とも遊ばなきゃ損だよね♡」 真央のほうから男を誘ってホテルに連れ込め。その男と性行為した証拠をスマートフォンで撮影しろ。――それが裕貴の新しい命令だった。 「それって――」 つまり、逆ナンをしろ、と彼は言っているのだ。 (続)