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【冒頭無料部分約6,000字】白衣の天使、堕ちる-1

1  都心に通勤する人間の多く住む閑静な住宅都市に、飯塚詩織の勤める病院はある。詩織の働く整形外科の他、十七の診療科を擁する総合病院だ。  今、女子用更衣室では、日勤を終えた看護師たちが、談笑しつつ、制服から私服へと着替えている。これから広告代理店の男性社員たちとの合コンに参加するという者、それを羨ましがる者、冷やかす者……ただひとり、詩織だけがその話の輪に入ってはいないが、詩織も含めてそれを気にする者はいない。  詩織は今年で二十四歳になる。  身長は百五十六センチ。体格は華奢だが、乳房はHカップと人並み以上に豊かに実っている。涼し気な目、通った鼻筋、ふっくらと弾力のある唇……顔立ちも、非の打ちようもない。そして何より、ヘアゴムの戒めを解かれた漆黒のロングヘアーは、白磁の肌と好対照をなし、見るものの目を惹きつけずにはおかない――はずなのに、実際にはまったくそうはなっていない。  詩織の備えた美点のすべては、彼女の周囲に漂う暗い雰囲気によって、完全に打ち消されてしまっている。陰キャ――同僚や後輩にそう評されていることを、詩織は知っているし、その通りだとも思う。  詩織が看護師を志したのは母が看護師だったからだ。母は、父を交通事故で失った後、女手一つで詩織を育ててくれた。忙しい中でも詩織との時間を大切にしてくれた母は、いつだって尊敬の対象だった。  母のような看護師になりたい。その思いで詩織は努力を重ね、夢を叶えた。  しかし――看護師になったはいいが、なってからどうしたいのかを考えていなかったことに気がつくまで、それほどの時間は必要ではなかった。  到達した夢の先には過酷な現実が待ち受けていた。業務に忙殺される日々が、元々内気で臆病な性質だった詩織から積極性を奪い、新しい夢を持とうとする気持ちすら枯らしてしまった。  どうしよう、と相談すべき母は、詩織が働きはじめた翌年、独り立ちした娘に安心するように倒れて鬼籍に入ってしまった。敬愛する母の死が、詩織の心をさらに渇かしたことは言うまでもない。  ミスはしないが、さりとて評判がいいわけでもない看護師。  今の詩織は、それ以上でもそれ以下でもなかった。 「それじゃ、お先に失礼します」「お疲れ様でーす」と同僚たちが着替えを済ませて出ていく。結果、いつの間にか着替える手を止めてしまっていた詩織だけが、ひとり更衣室に残された。  合コンか、と詩織は思う。 「合コンかあ……」と声にも出してみる。  合コンに参加した経験はないが、男性経験はある。といっても、相手はひとりだけ――看護学校時代、知人の紹介で知り合った大学生だ。数度デートをしてその都度体を許しはしたが、「一緒にいても退屈だから」という理由ですぐに振られてしまった。それ以来、男性には一切縁がない。  恋人が欲しい、という気持ちは当然ある。性欲を満たしたいのではない。弱い自分を受け入れてくれる相手が欲しいのだ。しかし、そんな相手を得るためには弱い自分を変えなければいけないということも理解している。 「難しいなあ」  はあ、と溜息をついた詩織は、ようやく着替えを済ませ、帰路につく。太陽はすっかり傾いてしまっていた。歩く道の薄暗さが、暗澹たる気持ちに拍車をかける。  暦の上ではまだ春だが、空気にはもう夏の気配が忍び込んでいる。気象予報士に教えてもらうまでもなく、肌が酷暑を予感していた。整形外科の領域ではないが、熱中症で運ばれてくる患者が例年よりも増えることだろう、と考えながら歩き、古ぼけたアパートに辿り着く。 「ただいま」  と、誰もいない部屋に虚しい帰宅の挨拶をする。  詩織にとって、自宅とは、ほとんど食事と睡眠のためだけのものだ。建物の三階に位置する部屋――最低限の家具の他にあるものといえば、看護師のレファレンスブックが並ぶ小さな本棚くらいのものだ。  無味乾燥な内装が端的にあらわしている通り、詩織にこれといった趣味はない。かろうじて、気が向いた時に映画館に行き、到着した時間にあわせて適当な作品を鑑賞するくらいのものだ。おかげで、彼女の銀行口座は無為に数字を増やし続けている。  簡単な料理を作って食べたあと、歯磨きを済ませた詩織は、湯船に浸かる気力もなく、シャワーを浴びる。浴室から出て、ドライヤーで髪を乾かしながら、そろそろ髪が伸びてきたから切らなければ、と思う。 「そうだ」  ふいの閃きが、詩織に声を出させた。  いつも通っている馴染みの美容院――昭和の香りを色濃く残したあの店ではなくて、別の所に行ってみる、というのはどうだろうか。性格を変えるのは容易ではないが、美容院を変えてみるくらいの冒険ならば自分にだってできる。  あくまでも伸びてきた髪を少し切って、元通りにするだけだ。髪型を変えたり、髪を染めたり、ということはまったく考えていない。  物心ついた頃からずっと黒のロングヘアーで、それを変えたことはこれまで一度もなかった。詩織にとって、髪とは、ある一定の状態を維持するものであって、あれこれと変えてみてるものではないのだ。  スマートフォンで美容院を検索し、雰囲気のよさそうな店を見つける。洒脱な外装は、いかにも若者向けという印象で気後れしてしまいそうになるが、そもそも自分だってまだ若いではないか。  ホームページへ移動したところ、WEBで受付をしていたので、一週間後にある休日に予約をいれた。完了のメッセージが表示されると、詩織の喉から小さく息が漏れる。新しい美容院で髪を切る――本当に些細ではあるが、非日常に踏み出せたことに満足感を覚えた。  これをきっかけにして、自分をいい方向に変えることができたら、どんなに素敵だろう、と思う。  もちろん、そんなに簡単に人間が変われはしないのはわかっているけれど。  手帳に予定を書き込む詩織の顔は、不定形の幸福な未来を描き、微笑みを浮かべている。その幸福が、期待とはまったく違う形で叶うことを、その時の詩織は知らない。 2  久しぶりに迎えた休日の朝、バスと電車を乗り継いで、詩織は予約をしていた美容院へと向かった。服装はベージュのワンピース――落ち着いた色合いとデザインは詩織によく合っているものの、やはり雰囲気の暗さが邪魔をして、誰も彼女には気を払いはしない。それにくわえて、素顔も同然のメイクが、彼女の存在感をさらに薄くしていた。  そして到着した美容院――実物はネットに掲載されていた画像よりもはるかに洒落た印象を受けた。いつも行っている美容院とはまるで違う。清潔感と開放感に溢れた造りに、思わずたじろいでしまう。  しかし、弱気になってはいけない。軽く身支度を整え、深呼吸をして、詩織は店に足を踏み入れた。  最初に対応してくれたのは女性だったが、予約の確認の後、セットチェアへと通された詩織の元へやってきたのは男性の美容師だった。 「藤井です。よろしくお願いします」  気さくな挨拶をして、男が頭を下げる。  年齢は三十代後半くらいだろうか。髪をアッシュブロンドに染め、太縁の眼鏡をかけたその顔は端正に整っていて、美容師よりも俳優のほうが似つかわしい。着ている白いワイシャツは襟がたてられ、開かれた胸元にはシルバーのアクセサリーがのぞいている。陽光が満ちる店内でも、彼の周りだけ、特別に照らされているかのようだった。 (格好いい……)  彼の秀麗な容姿に、詩織は一瞬で心を鷲掴みにされていた。  はわはわと心を見出しながら、「よ、よろしくお願いします」と挨拶を返す。その様子がおかしかったのか、彼が笑みを深めると、切なさが喉を締めつけた。 「この店は初めて、ですよね?」 「はい。いつもは別のお店に……でも、気分を変えたくて」  そうですか、と藤井は言った。 「もし気に入ったら、次もうちの店に来てくれると嬉しいな。ついでに僕を指名してくれると、もっと嬉しい(笑)」  彼の爽やかな笑顔をとても正視できず、詩織は視線を伏せた。二十四歳にもなって、男性相手にこんな反応をしてしまう自分が恥ずかしくてならない。  それから、藤井は詩織の髪を触りつつ、クリップボードのカルテに情報を書き込んでいった。そうしながら、詩織の緊張をほぐすためだろう、様々な話題を振ってくれる。最初はうまく舌が回らなかったが、藤井の話術は絶妙で、多少吃りながらではあるものの、きちんと受け答えができるようになった。  職業について尋ねられた時には、家事手伝い、と答えた。こう言っておけば、仕事について尋ねられることがなくなり、喋ってはいけないことを喋る危険もなくなる――看護師になりたての頃に先輩から教わった知恵だった。  今は、看護師の仕事については考えたくない、という気持ちもないではない。 「カットの予約ですよね。どんなふうにします?」  ひと通りカルテを書き込みおえて、藤井が尋ねる。  それに対して、詩織は、髪の毛を多少短く整えてもらいたい、と答える。  詩織の要望を聞いた藤井は、「それもいいと思うんですけど」と前置きをして言った。 「個人的には、思い切って短くしちゃうのもアリかな、って」 「短く、ですか?」  予想外の提案に、詩織は声を上擦らせて尋ねる。  はい、と頷いた藤井は詩織の前にカタログを広げ、掲載されている写真の一枚を指で示した。そこに写っているモデルの髪丈はショートよりは多少長いものの、今とは比べ物にならないほど短い。さらに、ふわりと浮かせた前髪をセンターから左右にわけ、すべらかな額を大胆にのぞかせている。かきあげボブ――という名称は、ファッション知識に乏しい詩織でも知っていた。 「こんな感じ。どうですか? 今年の夏は暑くなるらしいですし、こういう感じにするのも悪くないんじゃないかな、って」 「ええと――」  ここへは髪を切りに来ただけ。髪型を変えるつもりはない。やんわりとそう伝えたいはずなのに、どうしても言葉がでてこなかった。こんなに格好いい人がそう言っているのだから――自分に自信のない詩織にはそう思えてきてしまう。  どうしよう、と詩織は惑う。こんな髪型にしたら、周りは自分をどう見るだろう。似合っていないと笑われるのではないだろうか。いや、そうに決まっている。だからこのまま、ロングヘアーのままでいるのがいい。  すみません。やっぱり髪を切るだけでお願いします。  口にするはずだった言葉は、しかし、藤井の魅力的な笑顔の前に蒸発してしまう。さらに「安心してください。僕が絶対可愛く仕上げますから」という追撃を受けて、詩織は何も考えられず「わかりました」と答えていた。 「この髪型にします……♡」  詩織の言葉を聞いた藤井は、カタログをしまい、施術の準備をはじめた。  詩織の体にカットクロスがかけられ、椅子の高さが調節され……髪を切る準備が進んでいく。そのたび、喉が締めつけられるような感覚が増していった。たかが髪を切るだけ――そのはずなのに、ただそれだけ、とは思えない。  次に藤井は、櫛で詩織の髪を梳きはじめた。自分で梳くのとはまったく違う心地よさ――まるで髪の毛一本一本に神経が通っているような錯覚に、詩織は、んっ、と艶めいた鼻息を漏らしてしまう。 「これくらい切ることになりますね」  藤井が黒艶髪をすくい上げ、切り落とす長さを示す。あらためて目の当たりにするその長さに胸が詰まった。自分はとんでもない選択をしてしまったのではないか。冷や汗が滲んだが、今さらやめてくれと言い出せるわけもなかった。  詩織はクロスの下で拳を握りしめ、「お、お願いします」という言葉を喉から押し出した。  水が吹きかけられた後、詩織の髪に鋏が近づく。心臓を高鳴らせる詩織の鏡ごしの視線の先――鋏が開閉すると髪房が切り離されていった。  それを見る詩織の胸にわきあがった感情が後悔なのか歓喜なのか、それは詩織自信にもわからない。確かなのは、もう引き返すことのできない一歩を詩織が踏み出してしまった、ということだ。  一度、もう一度、さらにもう一度……と鋏が開閉するたび、詩織の一部が切り落とされていく。そのたび、痺れが背筋を走った。鏡の中、これまで慣れ親しんだロングヘアーがボブへと変えられていくのを、詩織は瞬きも忘れて眺める。  熱っぽく潤んだ目、火照った頬、わずかに開いた唇――もしその顔だけを見たのなら、十人のうち十人が、性的な愛撫を受けていると勘違いするだろう。 (すごい……)  詩織の喉から溜息が漏れる。鋏が動くたび、これまで揺るがし難いと思っていた自己像がいとも簡単に――実にあっけなく壊れていく。自分を変えることのあまりの容易さに、詩織は打ち震えた。  髪が短くなるにつれ、重苦しい空気が消え、軽やかな印象がたちあらわれる。これが本当に自分の姿なのか、と感動してしまう。一歩を踏み出せずロングヘアーのままでいたら、この姿を見ることはなかった。  勧めに従って本当によかった、と思う。  ざっくりとカットされた髪が、今度は鋏を変えて繊細に整えられていく。鋏が動くたび、詩織の雰囲気は、まるで別人のように軽くなっていった。意識しているわけでもないのに、詩織の表情も明るくなり、背筋までもが伸びる。  髪が切り落とされるたび、自分の中の鬱屈したものが切り離されていくような気がした。こんなことなら、もっと早く髪型を変えていればよかった。今まで変化を恐れて、何も考えずに現状を維持していた自分を呪う。 「長さはこれくらいかな。どうですか。可愛いでしょ?」  藤井の問いかけに、詩織は「はい」と答え、すぐに誤解のないよう「か、髪型がっ。髪型が可愛いです」と付け加える。自分が可愛い、と臆面もなく言うような女だとは思われたくなかった。  しかし、包み隠さない本心を言えば――髪を短くした自分は、疑いようもなく可愛かった。可愛いだけではなく、大人の色香も濃厚に漂っている。これまでの自分とはまったく違うからこそ、詩織にはその魅力がはっきりと判断できてしまう。 (知らなかった。私……私って、こんなに――)  自分はこんなにも綺麗だったのか。その事実に、今さらながら驚嘆してしまう。はあっ、と吐かれた息は、喉が焦げそうに熱かった。 「あとは前髪のセットだけ――なんですけど」  実はですね、と藤井は言った。 「僕からもうひとつ提案があって」  提案、と藤井の言葉を繰り返す詩織の目は、陶酔に蕩けている。酒精ではなく、自分自身の姿が、彼女の脳を蕩けさせていた。 「どうせだから、というと言い方は悪いですけど、髪を切るだけじゃなくて、染めてみませんか? そうすれば、今よりもっと可愛くなれますよ」 「染める――茶髪とか?」  んー、と藤井は詩織の髪を見て軽く唸る。彼はふたたびカタログを取りあげ、冊子の後半にある色見本を詩織の前に広げた。そして、これくらいの色がいいんじゃないかと思うんです、と指で示す。 「これって――」  その色に、詩織は絶句する。  金。金髪。  藤井が提案したのは、そうとしか表現できない色だった。暗めの茶髪ならばともかく、看護師がこんなにも派手な髪色にすることは許されないだろうが、藤井は詩織を看護師ではなく、家事手伝いの女性だと思っている。  単に髪を切っただけで、自分のイメージがこれほど変わってしまうのだ。もしも髪を染めたら、しかも、金髪にしたらどうなってしまうのか。 (で、でもだめっ。断らなきゃ。看護師でいられなくなっちゃうっ)  いられなくなってしまう――のだけれど。自己変革――いや、自己破壊の欲動に、詩織は生唾を飲みこむ。染めてみたい、と強烈に思う。ションプーで落ちてしまうような誤魔化しではなく、本当に髪を染めてみたい。  髪を染めた自分を見てみたい。  絶対に今よりも可愛い自分を見てみたい。 「じゃ、じゃあ、この色で、お願いします♡」  ひくひく、と唇の端を興奮に痙攣させながら、詩織はそう言っていた。 ―――――― 続きはBOOTHにて頒布中です https://ringokidjp.booth.pm/items/3726252

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