ある日、シズカは王族の狩りに同行していた。猟犬を使って獣を追い立てている彼らの姿を、小高い丘から冷ややかに見下ろしている。
つまらぬ任務ではあるが、彼らに危害が及ばぬよう護衛するのは騎士の務めの一つだ。
しかしこういう場合、今や王族そのものには危害は及ぶことはない。この国を落とそうと思うなら、もっと狙うべき対象がいるとわかっているからだ。
「ふっ……」
シズカはなにかに気づくと、軽く口角を上げて微笑んだ。
ギンッ……。
「ひっ……」
隣で控えていた騎士が軽く悲鳴を上げる。
シズカの頭のすぐ横で甲高い音がして、矢がからんと音を立てて地面に落ちる。その先端が何やらどす黒い色に染まっているのは、毒だろう。
それがシズカの脳天に至らなかったのは、もちろん彼女の能力によるものだ。矢尻が迫った瞬間、空気中の水分を凍結させ氷の盾を形成し弾いたのだ。
「皮肉なものだな……」
馬から降りて矢を拾うと、力を込める。するとみるみるうちに矢を氷が覆っていき、一回り巨大な矢と化した。
そしてシズカは振りかぶると、森の草むらの一点に向けてそれを思い切り投擲した。
一瞬の静寂のうち、草むらの影からじわりと赤いシミが広がっていく。
「刺客……ですか」
「ああ。たまにはこんなことでもないと、腕がなまってしまうよ」
「よく気づかれました……」
「そうでもないとこの役目は務まらない。無駄とは思うが、あれを検めてくれないか」
「あっ、はい!」
今やこうした刺客が狙うのは、自分たち天騎士だ。国の守護を司る存在なのだから当然だが、本質的には無意味だ。
彼女らは天界から遣わされただけの存在であり、仮に失われればその代わりが顕現するだけだ。そもそも、そんなことは竜の加護が発動して以来一度も起きていないはずだが――。
無論過去には、王族を狙った刺客が存在していた。はるか昔、当時の王が刺客の襲撃を受け、一時昏睡状態に陥るほどの大怪我を負った。
しかしそれがアインバルトへの敵対行為と判断した当時の天騎士が天界から竜を召喚し、刺客を差し向けた国の王宮に上空から急襲、その王に剣を突き付けてしまった。現在に”天”騎士がそう呼称される所以である。
その衝撃は凄まじく、アインバルトの豊かな国土を切り取らんと息巻いていた周辺国家は一斉に手を引いた。
(はは、そんな事もやってみたいと考えてしまうよ)
武人として顕現したシズカにとっては退屈な日常ではある。
(しかしそれも、民にとってはもっと深刻なのかもしれない)
この国には竜の加護により安寧が約束されている。しかし代償として他国への侵略行為も封じられているため、それを知った周辺国家はアインバルトへほとんど無関心であった。
しかし何も起こらない、というのはある意味で退屈なものだ。
刺激のない日常に飽きた若者たちはアインバルトを発ち、戦いがはびこる世界へと飛び出していく。
人間は戦いを求める生き物、とまではシズカは考えない。しかし生きるために”律動”が人間には必要なのだということはわかってきた。
(この国は、ゆっくりと死に絶えようとしているのではないか)
ゾッとしないことも頭によぎる。そしてそれは、自分たちのせいかもしれないのだ。
「シズカさまっ」
「ん……」
「賊を検めましたが、特に出自を限定できるような痕跡は何もありませんでした」
「そうだろうな。いずれの者であっても、そんな下手は打たないさ」
「ただ……」
「ん?」
「こんな物を持っていたのですが、なんでしょう」
部下がキラリと光る首飾りを手渡してきた。首を下にして尻尾から吊られたような彫り物が下げられている。
「逆さ竜の紋章か……」
古い信仰に由来するものらしいが、どんなものであるかはシズカも知らない。ただ、逆さに吊られた竜、というその彫刻は、彼女に一抹の不安を抱かせたのであった。
日時は変わり、深夜の王宮。
王妃カチーナはカーテンを指先でのけると、向かいの部屋で行われているであろう情事に思いを馳せた。
そこは後宮の伽で使われる部屋であり、夜な夜な王が情事にふけっている。
アインバルトの現国王、アドランは良い王でも、良い夫でもなかった。
幼少の砌には版図を広げるという強い野心を持っていたが、いざ王座へ着いてみれば竜の加護の代償として一切の侵略行為を封じられていたのだ。
政務は家臣が行い、国家の意思決定は著しく制限され、つまり王はお飾りなのだと気づいたとき、アドランは腐り始めた。そしてそれはやがて、横暴な振る舞いと性的倒錯という発散方法となって現れた。
夜な夜な違う女たちを抱き、王宮の一角はさながら娼館と化していた。
しかし、カチーナはその対象にはならなかった。
(つまらぬ女、と思われたのでしょうね……)
豊かな身体を持ちながら、淑女としての慎みを忘れぬカチーナは、交合の時であってもひどく乱れるようなことはなかった。
それを退屈と感じたか、王妃が心を開かぬと感じたかは定かではない。しかしその後に王がカチーナを抱くことは減り、程なく皆無となった。
政略結婚でもあり、もとより互いに愛情などなかった。しかし求められぬことは、女としての心に傷をつけた。
ふう、とため息を漏らす。そして指先を思わず股間に伸ばしかけ、止める。この身体に仄かにくすぶるものを慰めることはある。しかし今この場で行うのは惨めだ――。
その時、背後でごとりと物音がした。
「だ、誰っ!?」
そこに立っていたのはミード司教であった。
「そなたは……こんな夜更けに何の真似か! 今すぐ出ていきなさい! さもなければ人を――」
「哀れなものですな、王妃よ」
「!?」
見透かされたような物言いに、カチーナの身体はこわばった。
「その満たされぬ欲望、解き放って差し上げますよ……!」
「な……ああっ!!」
ミードが掲げた掌から黒い光が放たれ、カチーナの身体は一瞬にして包まれる。
そして彼女の意識はプツリと途切れ、暗い淀みの底へと落ちていったのであった。