「父さん! 寝ぼけてのか、なにしてるんだよ!」
「ど、どうしたそんなに慌てて……飯くらいゆっくり食わせてくれよ」
朝食にありつこうとした俺は、息子の大声に制止されてしまった。
恰幅のよい男二人の食卓だ、朝からどっさりと白米やら胸肉が置かれている。元気な毎日は良質な朝食から。俺も息子もわかっているはずだというのに、それを止めるというのは何事か。などと冗談交じりに叱ろうとしたが、俺が喋るより先に息子が言った。
「ほら日付日付! 着替えないと!」
息子が指さしたのはカレンダーだ。
その日付はしっかりと赤い丸がついていた。
8月19日。間違いようがない日付だ。
「あ……あぁ……、そうか、そうかもうそんな時期だったかぁ……?」
「そうだよ、毎年大変じゃないか、忘れやしないって」
「そ、そんなことはねえだろうが……。むぅ……仕方ねえな……」
俺は目前まで迫った白米を諦め、自室に引き返す他なかった。
一人になったところで、こっそりとため息を付く。
ダメだった。どうやら息子はしっかりと覚えていたようだ。
俺は実際のトコロ、……何も覚えていないふりをしていた。本当は誤魔化して、なんでもないふりで一日やり過ごしたかったのだ。だが、どうやらそうもいかないらしい。
俺は観念し、クローゼットの扉を開いた。奥の方に収納された衣類ラックを引きずり出す。最下段。それは隠すように収められていた。
蛍光ピンクという、俺のクローゼットには他に一枚も存在しない色の布地。
紐と水着の中間のような、衣類とも呼べないような形状。
テカテカの光沢。すべらかな手触り。ゴムのような収縮性。
「…………」
俺は無言のままそれを手に取ると、ネクタイもシャツもスラックスも……そして下着すらも脱ぎ捨てた。
一年ぶり。
俺は裸にその布一枚だけの姿になった。
「う…………」
まるで誂えたよう……。
いや、本当に文字通り、俺専用に調整された唯一無二の着心地が俺のケツや股間や肩に食い込んだ。
鍛え抜かれた肩にも、大きく四角い尻にも、分厚い胸板にも、人より多少お大振りなイチモツにも、ラグビーのユニフォーム以上にどこもかしこもぴったりだ。
「一日……今日一日だ………ハイグレの日は…………」
俺は自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた。
そうして、そのピンク色のどハデなマンキニ姿のままリビングへの扉を開いた。
「さ……て……まあまだいつもの電車には間に合うかな、こうも暑いと遅い方のは混雑で地獄だからなあ」
俺はなんでもないような口調で一方的に語ると、会話を拒否するように白米を掻き込んだ。
いつも座る椅子が直に尻肉が触れる感触が妙にハッキリとしている。
風呂上がりでもこんな格好にはならない。
「あれ、実質専用車両があるんじゃないっけ? 去年確かそんなようなこと言ってたよな」
しかし息子は抜群の記憶力で俺にそういった。
「ん? ああ、そうか、そうだった、かな……。一年も前の話だとあんまり覚えちゃいないなあ」
「ハイグレの人とか、ハイレグだっけ? あと父さんみたいなマンキニの人とかが集まって」
「あ、ああそうだ、そうだったな!! うむ、今日は早く帰るから夕飯の用意だけ頼めるか」
息子の口から出てきた単語を塗りつぶすように大声を出すと、俺は大急ぎで食事を片付け始めた。
記憶を刺激され、羞恥でおかしくなりそうになる。去年のアレ。一昨年のソレ。そして今。俺だけが裸同然、いや裸以上に恥ずかしい格好をしての二人きりの食卓が耐えられない。
「ちょ、ちょっとあっちを見ていなさい」
「そんなこと言っても、どうせその格好で今日は1日仕事いくんだろ」
「それはそうなんだが……ぐぅ……、なんというか、久しぶりだから気恥ずかしいんだ」
俺はマトモなのだ、もう正常なんだ。声高にそう叫びたくなる。
そんな俺を息子は真面目な顔で咎めた。
「父さんダメだって。ちゃんと今日一日はとにかく思いっきり吐き出しておかないと。我慢して発作が起きたり、体調を崩したりって、テレビでもやってたよ」
「そ、それも、その通りなんだが……しかしだな……」
「今日一日は別に恥ずかしいことじゃないんだって。今日は8月19日。ハイグレの日。ちゃんと世界が決めた日なんだから、洗脳の後遺症がいつまでも治らないよ」
恥ずかしくない。
世界が決めた日。
息子が言った言葉を、俺はそのまま自分の頭の声で語り直した。
心が軽くなっていくのがわかる。
そうだ、俺は望んで洗脳されたわけではない。
これは治療行為なのだ。
この格好は正当な姿なのだ。
「そ、そうだな……仕方ないことだもんな!」
俺は椅子を蹴るように立ち上がった。
誇るかのように脚は開き、膝が曲がっていた。
指は5本すべてピッチリと揃い、鼠径部へと向かう。
「そうつまり……!」
そのまま鍛え抜かれた肉体を正面に見せつけるように、俺は腕を一気に引き抜いた。
「この格好は当然のことであります、ハイグレ! ハイグレッ! 覇威愚礼ッ!!」
そして当然のようにそのまま胸を張り、誇るように叫んだ。マンキニを見せつけるハイグレポーズ。コマネチの動作。ガニ股になり、チンポと筋肉を強調する神聖なる所作だ。
「………………」
そんな気持ちのいいシャウトが終わると、一転して静寂がおきた。
やってしまった。
まるで体が操られるように、頭が反射的にそうしてしまった。
正気に戻った俺は口を引き結ぶと、残った朝食を大慌てで胃の中に収めきった。
「そ、それじゃあ、会社、い、行ってくる、行ってくるな……!」
俺はそのまま息子の顔を見ず、逃げ去るように家を飛び出した。
世界ハイグレの日。
ソレは3年前から始まった。
ということは、我々が侵略を受けたのはもう5年前ということになる。
5年前。
ハイグレ魔王と名乗る異星人から、地球……とりわけこの日本は激しい侵略を受けた。
彼らはハイグレ光線と呼ばれる未知の兵器を用いて、我々の思考や常識に対して著しい変化を及ぼした。
その光線に射抜かれた男は、誰であれ抵抗できずハイグレ水着やマンキニやTバックといった煽情的な姿にされると、ガニ股になり手を鼠径部に当てハイグレポーズと呼ばれる変態的な行動を繰り返すというものだ。
ただの変態にされるだけではない、その行為を繰り返すだけで至上の快感を感じ、それを授けてくだすったハイグレ魔王とその幹部を神や王のように崇めるようになる……というものだ。
『な、なんだこの変態たちはいったい、なにを言って――うぉおおおおおおお!!』
俺もその犠牲者の一人だった。
あれは忘れもしない、通勤中のことだった。
会社まであと数分というところで俺はハイグレ人間に射抜かれ、体格に優れているということでマンキニ姿にさせられた。
『何だこの格好はッ、お、俺は、俺はいったいなぜこんな服を……まってください、俺はこんな変態では、な、なんだ、ハイグレ、ハイグレをしろ……だと……頭のおかしいことを抜かすんじゃ…………ぬ、かす……んじゃ……』
言い訳がましいが、俺の脳はこれでも数分間は抗ったのだ。
羞恥心と義憤で心は熱く、けれども頭は冷静だった。他の人々を逃がそうとさえしたのだ。だがすべては無駄だった。
『は……はいぐ……れぇ……!』
最初のハイグレポーズの瞬間、俺の敗北は決定的なものとなった。
あの快楽。脳みそすべてがハイグレで支配され、他のことはもう何も考えられなくなってしまった。
脳が溶けるなんて言葉があるが、あれは本当だ。俺はラグビーで鍛え上げた精神も、仕事一筋の部長の立場も全部吹き飛んでしまった。それをはっきするための脳がハイグレによって溶かされたのだから、仕方がなかったのだ。
『ハイグレッ、ハイグレッ! ハイグレ、とっ止まらな、ああハイグレェッ、覇威愚礼ェ! 覇威愚礼ェェ!!』
俺はそのまま取り憑かれたようにハイグレポーズを繰り返した。
強制されていたそれは一回行う度に、俺の声、俺の筋肉、俺の姿勢を活かした『俺自身のハイグレ』へと変わっていった。
『覇威愚礼ェッ!!! おぉぉおぅう覇威愚礼たまらんんンンンンイグゥゥウウハイグレエェエ覇威愚礼ェ獲ェェイィィイイ!!!!』
俺は激しすぎる快感の中で、そのまま手も触れずに射精してしまった。
自分の顔面近くまで飛び出した雄汁を見ながら、俺は自分が決定的に変わるのを感じた。
洗脳。
いや、生まれ直すような気持ちよさだった。
尻に食い込むマンキニ。
チンポを強調する膨らみ。
全身のエロさをこれでもかというほど見せつけるマンキニとハイグレポージング。
すべてが愛おしく、素晴らしいものだと思えた。
そして俺は叫んだ。
『ハイグレ! この俺、木之本郷はハイグレ人間ベータタイプこと、マンキニ野郎に洗脳していただきました! んーーー覇威愚礼ェ覇威愚礼ェ!!!』
俺は自らのマンキニ姿を誇るようにハイグレポーズをすると、勝ち誇るようにニタニタと笑っていた。
そんな俺を人々が軽蔑や恐怖の目で見ている。
そんな視線を受けても、俺は人々を哀れと思っていた。
この素晴らしいハイグレがわからないなんて、なんて愚かで遅れているのだ、と。
そして次に行うことは決まっていた。自らの意思で会社の同僚や上司、そして俺を信頼する部下たちをマンキニ姿へと洗脳するお手伝いをした。
日本中、いや世界中をハイグレ人間にするために。
偉大なる魔王様の御心のままに――だ。
そんなようなことが、日本中あちこちで起こった。
一日で一気に侵略は進んだのだという。
俺も日中かけて会社をハイグレ人間に変えていき支配下に置いていった。そして夜、俺は勇んで自らの自宅、つまり最愛の息子をマンキニ野郎にせんと挑んだ。
だが、そうはならなかった。
既のところで未然に防がれた。
詳細は我々一般人には伝えられていない。だが、現れたヒーローの活躍により、ハイグレ魔王と呼ばれる侵略者は撤退し我々の洗脳も解除されたのだ。
『マンキニ野郎になった父さんが帰ったぞぉお♥ さあ開けるんだ一緒にハイグレ魔王様に従う変態野郎に――……………………あ、え、…………は!?』
俺は自宅の扉の目前で、洗脳を解除された。
残されたのは火照った体と、射精のしすぎでイカ臭くなった筋肉、1日中楽しんだ極上の記憶と、それと同等の羞恥と後悔だった。
……俺のこのセリフが聞こえたかどうか、息子にはこの5年間尋ねたことはない。
「い、行ってきます……」
普段は大声でする挨拶を小声で済ますと、俺は自宅を飛び出した。
8月、真夏の太陽がマンキニ一丁に革靴と靴下だけの俺を突き刺してくる。
ビジネスバッグで股間だけは隠しているが、食い込んで丸出しになった俺のデカくて筋肉質な尻は丸見えだ。とはいえハイグレの日ということで、ご近所さんも俺を咎めたりはしない。ただ視線だけは嫌と言うほど突き刺さった。
駅に向かうまでの間、数人のマンキニ姿や、ハイグレ姿の男たちとすれ違った。普通の制服姿の学生たちに混じってハイグレ親父が恥ずかしげに歩いているのは滑稽という他なかった。
侵略されたのは都心部からだった。つまり、サラリーマンほど元ハイグレ人間率が高い。最初は数人。だが、駅に近づくとその比率は次第に大きくなっていった。
「ハイグレッハイグレッ!」
駅につくとハイグレ人間の比率……元ハイグレ人間の比率はかなりのものになっていた。その中で一人、改札の前で紫色のハイレグ水着姿の中年が勢いよくハイグレポーズを取っていた。
彼はどうやらもう我慢ができなくなってしまったようだ。その目は完全にまっすぐ前を睨みながらも誰も見ていない。自分の世界。ハイグレの世界にイッてしまっていた。
「勘弁してくれ」
俺は小声で呟いた。
よりにもよって改札のすぐ横なので、側を通らざるを得なかった。
まったくみっともない。
なんのためにこの日が作られたのかわかっているのか。彼はまるで理解していない。今日は変態露出願望を叶える日でもなければ、祭りや馬鹿騒ぎをする日でもない。
今日という日は、日頃鬱積している痛みと向き合う日なのだ。
8月19日がハイグレの日に制定される一年前。
つまり侵略から1年後のある日のことだ。
とあるアスリートが生放送中にマンキニ姿になると、声高らかに『俺は本当はマンキニ野郎なんだ、みんなマンキニを着よう!!』などと叫んだのが発端だった。
あの洗脳がすべて消え去っていない。
内心では理解しながらも、誰もが認められなかったその事実が明るみに出た。
そして爆発した。
そのアスリートの放送を見ていた視聴者から、何人もの再発症者が出て、一時世間は騒然となった。
根本的な解決法もなく、かといって被洗脳者全員を病院に隔離してしまえば日本のインフラは終わりだ。ハイグレを認めないと、より一層症状は進行する。
結果、それらすべてを軟着陸させるために、一年で一度だけハイグレの日というのが定められた。
それがこの日だ。
(つまり、我々は治療を受けている患者なのだぞ、それをあんな……楽しそうに…………)
欲望はわかる。
ハイグレをしたい。マンキニになりたい。ガニ股で腰振ってチンポから白いのを出したい。男らしく大声を出しながらハイグレポーズを1日中していたい。そんな願望。我々被洗脳者が頭の奥底に残してしまっているしこり。
だが寛解を目指すためにも、この行いがいかに下劣で馬鹿げていて面白くない行為かを確認する、というのが皆の共通認識のはずだ。
それをあんな大声で、人前で、堂々と……まるで我々を誘うようにするなど……。
「ハァ……ハァ、勘弁、してくれ……ッ」
改札を抜けると、気がつけば俺の両足は間隔がすっかり離れていた。
歩くにしては不自然なまでのガニ股で右に左に揺れながら夢遊病者のように歩いていた。
肩が隣の男の汗ばんだ肩にぶつかってしまった。だが、俺も隣の男も謝らなかった。なにせ彼も俺と同じように虚ろな目をした異様なガニ股のマンキニ男だった。
半開きになった口からはだらしない吐息と涎、そしてはいぐれ…はいぐれ……と声が漏れている。
ああイカン。
今日は、今年は、会社まで行くのだ……。
ハイグレポーズをしてはいけない。あれを一度やってしまったら終わりだ。オシマイだ。あんな変態行為なにも楽しくない。恥ずかしいだけだ。息子に顔向けできない。会社に顔を出せない。会社にもいかず1日中、ハイグレハイグレと繰り返す…………ああぁ…………。
「は、ハイグレェエン♥♥」
叫び声が上がったのは俺の口……ではなく、すぐ隣の男の口だった。
その声に俺は既のところで踏みとどまった。
横を見ると男は大きくのけぞって人目もはばからず激しくハイグレをしていた。
「ハイグレ!」
「はいぐりぃええええええ♥♥」
「うぉおおスマねえみんなぁぁぁあ刃威具令ィィイ♥」
それを皮切りに、ホームで次々ハイグレの合唱が起きはじめた。
ああ、まただ。今年もこうなった。
一年溜め込んだ男の欲望があちらこちらで爆発している。
折角一年かけて忘れてきたものが蘇ってきている。
こんなものは逆効果だ。
今すぐやめるべきだ。
もう今年限りにするべきだ。
今年限り…………もう来年はない。ということはもう一生ハイグレできないかもしれない。
そんな、そんな……ことになってしまうのか…………。
「ハァ…………ハイ…………はいぃい…………」
俺の茹で上がった頭が、異様な方程式を勝手に組み合げ始めた。
まずい。そんなことはないと今更否定しても、頭には「もうハイグレができない」という言葉が残ってしまっている。
手が勝手に下に向かっていく。またが開く。つま先が外に向かう。
ああ、ダメだ。駄目だ。まずい。俺負ける。負けちまう、今年も、今年も…………。
『三番線、電車が参ります――』
そんな俺を正気に戻してくれたのは、アナウンスの音声と電車だった。
「ああ、の、乗らねば…………ああぁっ」
俺は……俺達はハイグレ人間達から逃げるかのように、我先にと電車に乗り込んでいった。
電車の窓からはすっかりハイグレの虜に戻ってしまった男たちが電車にも乗らず「ハイグレハイグレ」と叫んでいるのが見えた。
二年目から既にそうなっていたが、俺が乗り込んだのは実質ハイグレ専用車両になっていた。
恥もみんなでかけば怖くないということなのか、迷惑にもならないようにという意識からか、それとも単に被洗脳者の皆様に避けられたのか、ともあれ俺の乗り込んだ車両はハイグレマンキニ人間率100%の男臭い個室と化していた。
幸いにも俺の勤め先は乗り換え不要なため、あとは乗っているだけで到着というわけだ。
俺は目を閉じ、口を引き結び、まっすぐ二本の脚を閉じた。
股の間にビジネスバックを挟み込み、両腕は胸板の前でガッチリと組む。鍛え抜かれた体幹があればこその仁王立ちだ。
マンキニ姿でこのような得意げなポーズをするのは不本意だが、しかしマンキニやハイグレを目にするよりはマシだろう。
そうやって俺は到着するまで自分を暗闇に置こうと思っていたが、そうもいっていられない状況になってしまった。
「部長、お疲れ様です」
「お、おう……」
声の主は誰だかすぐわかった。俺は申し訳ないが、目を開けないまま返事をした。
俺の部下だ。通勤経路が同じ部下。もう一本か二本遅いものに乗ることが多い彼だったが、今日はやはり混雑を避けて俺と鉢合わせになったようだ。
この車両に乗り込んできたということは、間違いなくマンキニ姿だろう。
……おそらく俺と同じ、ド派手で変態的なピンク色だ。
「毎年、参りますね……」
「すまんな……」
「い、いえ、部長のせいだといいたいわけではないんです。アレは、事故みたいなものでしたから……」
なぜ色までわかるか。
それは、俺がこの手で彼を洗脳したからだ。
マンキニ野郎となった俺は、通勤してきた彼を見るなり飛びつくように光線銃でぶち抜いたのだ。
そうして向かい合って、ニタニタ笑いながら大声でハイグレの素晴らしさを称え合った仲だ。
………数カ月はマトモに顔も見れなかった。
ハイグレの連鎖は誰にも咎はないと法律的にも常識的にも決まっているが、そうわかっているからといって感情までも自由にはならない。難儀なものだ。
「ふぅ……まあ、会社まで、騒がしいが、我慢しよう……お互い」
「は、はい…………」
俺はせめてもの贖罪とばかりに、彼を他のハイグレ男から隠すように覆った。
乗っているだけでいい。
毎日毎日乗り続けてきた電車だ。すぐに解放される。
俺はそう言い聞かせながら、再び脚に力を込めた。
そうして、俺はこの姿勢が大きな過ちであることに気がついた。
「ハイグレェ♥ ハイグレぇみんなも一緒にやろうぜええ♥」
「ハイ、グレッ! ハイ、グレッ! 私は本日を持って仮初の人生を捨てハイグレ人間として再び生きることを誓います! ハイ、グレェ!!」
両腕を自分の脇の下に収納してしまっているせいで、すべての声が丸聞こえだったのだ。
マンキニハイグレ男ばかりという環境に耐えられなくなった男たちが、次から次へと自分を解放していっている声が聞こえてくる。
(な、なんて下品な声だ。品性の欠片もない、おまけに自分だけではなく他人を誘うなど、まったくイカれている……!)
その合唱が次第に大きくなっていくのだ。たまったものではない。
俺は必死に頭のなかでハイグレやマンキニを憎む言葉を繰り返した。
だが声はどんどん大きくなっている。
叫ぶ声がデカくなっているだけではない。俺の耳が、まるで飢えた口のようにハイグレの合唱を飲み込んでいるのだ。
そのうち電車内がますます狭くなってきた。
乗り込んでくる新たなハイグレ人間と、ガニ股になる男が増えていくせいだ。彼らが空間を専有するものだから、どんどんマトモな男は肩身が狭くなっていく。
「うう、た、たまらんな……」
「え!?」
「ぬ、あ、いや、不愉快だ、という意味だぞ……」
部下が驚く声に、俺は慌てて言葉を付け加えなければならなかった。
彼は俺を責めたことは一度もないが、しかし……やはり自分を洗脳した男の言葉だ、疑ってしまうのも無理からぬ話だ。
「あちこちで当たってしまうのが嫌な感触でな」
俺は彼を守っていることを暗に強調するように言った。少々下品だが、少しでも信頼を取り戻したかったのだ。
目をつぶっていても、ペタペタと男の肌が触れるのがわかる。汗ばんでいる。やたらと官能的だ。ハイグレ人間として、男好きに変えられたあの記憶が蘇ってきてしまう。
違う、俺は子持ちの親父だぞ。男なんて……そんなもの興味などない。
そう思ってもついつい声に、そして肌に意識がむかってしまう。
まだ肌が触れ合うだけならマシだった……。
「ぐぅ!?」
「うぅ……す、すみません……!」
すぐ後ろから声がした。
男のハイグレ姿越しに勃起したチンポがコリコリと俺のケツに触れていた。
まるで尻の穴をほじくろうとするかのような位置の勃起に俺は低い唸り声を上げた。
謝っている人間に怒鳴ることなどできないし、かといってこの混雑具合だ、逃げることもできない。
電車の振動とハイグレの合唱で、まるで男たち全員がグラグラ揺れているようだった。
その振動に合わせて俺はケツを刺激され続けた。
それも部下の目の前でだ。
「ぬぅ……たまらん…………」
俺は再び声を上げた。
たまらない。
チンポがたまらない。
ケツがムズムズしてくる。
俺の中に眠っていた願望がどんどん膨れ上がってくる。
俺はホモじゃない。
俺は男が好きなんじゃない。
俺は……俺は…………。
「ハァ……ハァ…………」
「ぶ、部長……」
気がつけば声が聞こえる位置が変わっていた。
俺の背が縮んでいたのだ。
俺は気がつけば、ガニ股になっていっていた。
より深くチンポを味わうように、ケツが突き出て、膝が曲がっている。
脚を脚の感覚が閉じない。股の間に挟んでいたビジネスバッグなどもう何処かにいってしまった。
ハイグレ、ハイグレ。
頭の中で声が木霊している。
部長、部長ッ。
直ぐ目の前の声が掻き消えるくらいに、ハイグレの合唱が俺の頭の中と外で大きくなっていく。
駄目だ。
家でも我慢したんだぞ。
駅でも我慢したんだぞ。
これも我慢すればいいだけだ。耐えろ、耐えろ。辛抱しろ。
「ぬ…………はぁぁ♥」
俺は口に溜め込んだ喘ぎ声を吐き出しながら、それと同時に目を開いてしまった。
「…………」
そこにはド派手なピンク色のマンキニ姿の、短髪の好青年がいた。
俺の部下。息子くらいに年が離れた、筋肉質でガッチリとしたたまらんいい男だった。
そんな男が今俺の目の前でマンキニ姿になっているのだ。
「おぉっほ♥」
俺はオヤジ臭いスケベ丸出しの声を出してしまった。
その瞬間に、頭の中にマンキニが食い込む感触がきた。
「あ♥」
頭が真っピンクに染まっていく。
これだ、これこれ、この感触。
俺が受け入れた瞬間、まるで紐が意思を持っていたかのように俺のケツに、肩に、全身に絡みついてきた。
これが本当のマンキニの着心地だと主張するように。俺のくだらないプライドや抵抗を嘲笑うように。マンキニ様の快感が俺を埋め尽くして書き換えて行く。
「ぬほぉ♥ ま、マンキニィイィきもちぃいいいいぞおぉおお♥♥」
俺は素晴らしいマンキニの気持ちよさに喘ぐと、ガバリと完璧なガニ股姿になってしまった。
「部長!」
「はひぃ♥」
返事をしたのではない。
俺が声に出したのは、口にしてしまったら終わってしまうあの言葉だ。
もうだめだ。もう止まらない。
部下の前でまた負ける。
部下の前だからまた負ける。
見せつけたい。
俺のハイグレ。
俺のマンキニ。
思いっきり見せつけてしまいたい。見せつけなければいけない。
もっともっともっともっと…………!
「ひ、はひ…………す、すまん、こんな、こんな…………♥」
俺は言い訳がましく口を開いた。そんなまだるっこしい俺を崖から突き落とすように、俺の背後からケツにチンポがぶち当たった。
ゴリ…………ハイグレとマンキニのチンポとケツのキッスだ。
俺は大きくのけぞった。それと同時だった。
「ぬほぉぉおチンポ♥ チンポチンポぉぉおお♥ ハイグレェエエ♥♥♥」
のけぞると同時に、俺は組んでいた腕を解いて思いっきりハイグレポーズをかましてしまった。
その気持ちよさといったら。
射精の何倍、何十倍。
こんなものを我慢していたのが阿呆のように感じられるくらい、視界も思考もすべてが真っピンクに染まった。
ただの一回で俺のチンポは完全に勃起し、マンキニをビンビンに引っ張り上げていた。
俺はのけぞって天井を見上げていた顔を、真正面の部下に向け直した。
「は、ハイグレ、ハイグレ、1年ぶりのハイグレはたまらんぞおおおおお! 江藤クン!! そら、覇威愚礼ェ♥ 覇威愚礼ェ♥」
俺は完全にスケベ一色になった顔面とチンポと筋肉を見せつけるように、そして浴びせるように部下に体を擦り付けた。
「ブ、部長やめてく、ださいっ!」
「ハァハァ……ま、また一緒にハイグレをしようではないかあ、なあ、なあ、そのかわいいを雄っぽく歪めて、俺に見せろ、見せてくれ♥ こうだ、こうやって、覇威愚礼ィ♥」
俺は野太い声でカツアゲでもするかのように全身をグリグリと擦り付けた。
もう止まらなかった。
ほんの少しも躊躇いはなかった。
頭の中にはハイグレやマンキニでいっぱいだ。
今日一日。
我慢などできるわけがない。
朝っぱらから今年もハイグレ。
去年は駅のホームで降参だった。
一昨年が家から出てすぐ駄目になった。
そして今年、多少の我慢はできているが、結局会社にはたどり着けなかった。
まあそんなことはどうでもいい。
どうで向こうも察して、欠勤あつかいにしてくれることだろう。
「だから1日心置きなく俺とハイグレをしようではないか、さあ、さああ♥♥」
俺はキスでも迫るような距離に髭面の顔を近づけて言った。
部下の顔は拒否などしていなかった。
むしろ熱に浮かされ、どんどん歪んでいくのがわかる。
そうだ、お前もハイグレには抗えないだろう? それがわかっているから俺はお前に迫ったんだ。
さあ一緒にハイグレ人間に戻ろう。マンキニホモ野郎に戻ろう。あの日のように楽しく過ごそう。
「あ、あああ部長!!!」
電車のアナウンスが聞こえた。
どうやらもうすぐ次の駅らしい。
「覇威愚礼ェ♥ 覇威愚礼ェ♥ みんな揃ってハイグレするのは気持ちいいなあ、なあ!!」
「ハイグレ! ハイグレ! 敗訴のとおりです部長!!!」
俺達は普段降りない駅のホームに降りると、解放されたことを喜ぶように豪快にハイグレをしていた。
俺達のような男たちが一斉に降りたからか、ハイグレ専用車両はすっかり隙間ができていた。
「ハイグレ! ハイグレ」
「ハイグレぇえ♥ ハイグレぇ♥」
電車内ではまだ我慢しているハイグレ人間達がこちらを可哀想なものでも見るような目で見ていた。本当に哀れなのは、こんな気持ちよさを我慢している彼らの方だ。
ああ、この感情。俺はすっかりハイグレ人間、マンキニ野郎に戻っちまったようだ。
「まあしょうがないな! こんなに気持ちいいんだ、今日は1日たっぷり楽しむぞ、なあ付き合えよ! 覇威愚礼ェ♥」
「もちろんです部長、たっぷりハイグレしましょう、俺をマンキニ野郎にした責任取ってもらいますからね! ハイグレ!」
「はひぃ♥ それを言われちまうと俺も弱いんだぁ♥ も、もちろんであります♥ ラブホ代でも、交通費でも、全部俺持ちだ♥ 覇威愚礼ェ♥」
俺達は二人、誓い合うように正面でハイグレをして、お互いにチンポをぶつけあった。
「おほぉおお立派なチンポ擦り付けて覇威愚礼ェ♥ 一人じゃできないこの感動たまらんねえぞおお覇威愚礼ェ♥」
「部長のチンポもケツも、俺のハイグレマンキニチンポでメロメロにしてやりますからね、覚悟してください、ハイグレ!」
「は…………覇威愚礼覇威愚礼ェ♥♥ 覇威愚礼ェ♥覇威愚礼ェ♥♥♥」
俺は「かしこまりました」という代わりに大声で何度もハイグレを連呼した。
そうして、俺がさきに射精し、そのすぐあとで部下が射精した。
たった一度の射精だけで、既に俺達の体は雄汁まみれのベッタベタだ。
だがこれじゃあ足りない。
もっともっと変態になりきるまで、雄まみれにならなくては。
「さあいくっすよお部長!」
「覇威愚礼ェ♥覇威愚礼ェ」
こうして今年も俺のハイグレの日は出社さえできずに終わってしまったのだった。