俺と悠太は腐れ縁で、ずっと一緒にバッテリーを組んでいる。同じ中学から同じ高校に進学して、また一緒だ。
でもあいつは俺たちの部活の主将に選ばれて、前までとは少し距離が変わった。
あいつはもともとバカ真面目で、曲がったこととかがとにかく嫌いで、頭が硬いやつだった。
主将になって、あいつはますますそんな感じが強くなって、どうやらいろいろ悩んでるみたいに見えた。プレッシャーを感じているんだろう。最近は投球も結構乱れている。あいつとは最近あまり話さなくなっていたけれど、付き合いが長いから、球を受けるだけでも俺にはそれがよくわかった。
だけど、俺たちは一応バッテリーだけど俺はただの部員だし、あいつに何かアドバイスできるような頭も持ってない。
まあ、あいつなら大丈夫だろうと思って放っていた。
だけどあいつは俺が思っていたよりもずいぶん悩んでいるみたいだったから――さすがになんか、話でも聞いてやるかなと思っていた。
なんだかんだ、俺が一番あいつのことをわかってんだし。
「あ、スマホねぇわ」
学校から駅まで着いて、改札を通ろうとしてようやく気づいた。
カバンをあさっても、どこにもスマホが見当たらない。
大丈夫かよ野口、部室に忘れたんじゃね? とすでに改札をくぐった部員たちが見て言う。
そういえば、今日は部室を出てからずっとバカみたいな話で盛り上がって、一度もスマホを触っていない。
「俺取りに戻るわ」
そうか、俺たちは帰るから、と部員たちは手を振ってホームの階段へと歩いていく。
薄情な奴らだな。俺はチッと舌打ちして、学校への道を戻っていく。
当たり前だが外はすっかり暗い。遅くまで練習していたから、学校側から歩いてくる生徒もいない。
そういえば、悠太は今日も部室に最後まで残っていた。「コーチと打ち合わせがあるから」とかなんとか言ってた気がする。
じゃあ、まだあいつがいるか。
俺はちょっとほっとした。そんで、なんでほっとしてんだよ、と思う。
まあ、でもだったらスマホを取りに戻って、打ち合わせだかが終わるのを待って二人で久しぶりに帰るのもわるくねえな。
少し前までずいぶん調子を崩していた悠太は、ここ最近なんだか蘇ったように調子が良い。
心配して、話でも聞いてやろうと思った矢先に、なんだか元気になったようだった。
何か秘密があるのかもしれない。悠太はずいぶん雰囲気が変わった。
どうせ彼女でもできたんだろ。
そう思うとイラッとした。俺はずっとそんなのもいなくて、一人でオナってばっかりなのに。
けっ。
そんなことを考えていると学校についた。学校はすっかり電気が消えて、暗くて人の気配がない。
だけどガキじゃあるまいし、そんなことでいちいちビビったりしない。
俺は校庭を横切って部室に向かって、――なんだか様子がおかしいことに気がついた。
部室棟、ちょうど野球部の部室の周りに、緑色のフェンス、みたいなものが建てられている。
なんだこれ? こんなもの、さっき帰るまでなかった。
そこには看板がかけられている。俺は近寄ってその文字を読んだ。
「定期メンテナンス作業中 ―アスリート・グロウス株式会社―
本日21:30まで関係者以外立入禁止
※空調システム殺菌洗浄・特殊防カビコーティング施工中
薬剤吸引による健康被害の恐れあり」
なんだこれ?
こんな話、全然聞かされてない。妙な違和感を覚えながら、俺はその看板の下の方の文字を見た。
その下には校長のハンコと、『許可済』のスタンプ。
「メンテナンスに関するお問い合わせはアスリート・グロウス(株)施設管理部まで」、と書いてあって、電話番号が書いてある。
その許可済みのスタンプの通りなら、ここで起きていることは何もおかしくないはず、ただの普通の工事のはずだ。
だけど俺は、何か変な感じがした。
入ってくるなよ、と言っている感じだった。絶対に入ってくるなよ、と言われている。
そんなのにたやすく従う俺じゃない。だけど、あまりにも何か変な感じがする。
俺は、ふと気がついた。
そういえば、悠太はどこにいるんだ?
悠太はコーチと打ち合わせと言っていたはずだ。
どこか他の場所で? でも校舎は真っ暗だった。
そもそも、だ。
こんな工事だかがあるなら、悠太が必ず部員に連絡するはずだ。こうやって戻ってくるやつもいなくはないだろうし。
俺は腕を組んで首を傾げた。
とはいえ、スマホがなければ家に帰ることもできない。
俺はどうにか中に入ろうと、フェンスをぐいと引っ張った。
急場しのぎなのか、フェンスはあっさり傾いて、俺の体でもねじ込めば中に入れそうなくらいの隙間が空いた。
健康被害とか書いてあったけど、ちょっとなら大丈夫だろ。
だいじょーぶだいじょーぶ。
俺は自分に言い聞かせ、エナメルバッグをその場に置いて、フェンスの隙間から体をもぐらせる。
中に入ると、すぐに部室の扉が見える。
そこはやたらに静まり返って、何か工事をしている雰囲気もない。
部室の扉の小さな曇りガラスにはぼんやり光が見えている。
中に誰かがいる気配がした。
ますますおかしい。何をしてるんだ?
扉がわずかに開いて、隙間から光が漏れていた。ゆらゆら揺れるその光は、何か蝋燭みたいな感じだった。
扉には、「薬剤散布中・呼吸保護具なしの入室禁止」、と赤い文字で書かれた札が貼ってある。
明らかに普通でない空気だ。さすがに俺も気が引けて、引き返した方が良いのだろうかと思う。
すると、声が聞こえた。
悠太の声だ。
間違いない。俺がどれだけあいつと一緒にいたか。
あいつのことは、結局俺が一番わかっている。
だから俺は確信する。あいつの声だ。だけど、それは普段聞いたことのない声色で――俺は、違和感や恐怖を感じると同時に、何か幼馴染としての使命感に駆られ――ゆっくりと扉に近寄って、そっと隙間から中を覗き込んだ。
*
蝋燭の炎がゆらゆらと部室内を照らしている。ロッカーや壁に、大きな影が写って、揺れるたびに大きくその形を変えている。
その中心にいるのは、悠太だった。
悠太はまだユニフォームを着ている。練習後の泥に塗れたユニフォームで、手を体の横に当ててまっすぐ立っている。
その前、パイプ椅子に座っているのは――
「素晴らしいぞ、濱中」
その声でわかった、コーチだ。
だけどそのコーチの声も、普段聞いたことのないトーンだった。
コーチのヤマさんは、うちのOBで、若くて親しみやすいって評判だった。
『俺が部員の頃はな』、なんていう口癖がウザいっていう部員も多かったけど(実際それはそう)、でも部員たちのことをよく見ていて、優しいと部員たちの間でも人気者だ。だけど、
「適性も評価も、滅多にない素晴らしい素体だ」
そんなことを言うヤマさんの声は、やっぱり変だ。
「ありがとうございます」
そう返事する悠太も、やはり様子がおかしい。普段の快活な眼差しはどんよりと濁って、うつろに宙を見つめている。
体の端まで動かさず直立するその姿は、試合前ですら見せないほどに殺気立っていて――。
ヤマさんが立ち上がって、パイプ椅子が嫌な音を立てた。
ヤマさんの手が、悠太の顔に伸びる。悠太の頬を撫でるその手つきは何か異様で、まるで……ペットを撫でるみたいな? 出来の良い石像を触るときみたいな? ――それか恋人にするみたいな? ……とにかく、何か普通でない手つきだった。
そんな手で頬を撫でられても、悠太は動じた風もなく、キッと宙を見つめたまま。
悠太は何をしているんだ?
ヤマさんは何をしてるんだ?
俺は、部室の中の奇妙な行為に心が囚われて――目を離せなくなってしまった。
その時、何か妙な匂いが薫った。優しい匂い? 甘い匂い? 何か頭を濁らせる、ぼんやりする匂いだ。
まずい、という気がする頃には、俺はその匂いにも囚われて――その場から離れるという選択肢が頭から消えてしまった。
ヤマさんは悠太の顔から手を離した。
「最近調子も良いだろう?」
「はい、とても。迷いを捨てることができ、心が澄み切っています」
「それはよかった。すべてはあの方々のおかげだ。我々は神々のための供物にすぎない――理解しているな?」
「もちろんです! 私は山岡コーチに精神を統一していただき! 抱いていたさまざまな迷いを捨て! 捧げられるべき人形になることができました! 私はさらに良質な神々への供物となるため、鍛錬に励み――この肉体を捧げる準備をしています!」
まっすぐに前を見つめる目は、爛々として、奇妙な光を宿している。蝋燭の炎を怪しく反射する、濁った目。
おかしい、と思った。部に入って最初、生真面目な悠太はヤマさんのことを山岡コーチと呼んでいた。だけど周りがみんなヤマさんって呼ぶから、あいつもそのうちにそうなった。だから、あいつがヤマさんのことをちゃんと『山岡コーチ』って呼ぶのは、よっぽど大事な試合の前くらいだ。
だから、あいつは今――
そんなことを考えても、頭がぼんやりして考えがまとまらない。ああ、この匂いのせいだ。この何か妙な匂いで、俺の頭はぼんやりしている。
「上出来だ」
ヤマさんが言う。
「お前には、これからもこのチームを我々と同じ存在にするために頑張ってもらいたい」
「はい! 私は、チームのみんなにも精神を、統一、……ッ、ッ」
そう言う悠太の顔、感情の見当たらなかった顔が、かすかに痙攣して歪んだ。
眉間に皺を寄せ、口を歪める。苦痛の表情だった。
「おぉ、なんだ、『乱れてる』な。お前はもう十分『統一』されたと思ったんだがなぁ」
言いながら、すっ、とヤマさんが手を持ち上げ、その指先を悠太の額へと持っていく。
そして、容赦のない手つきで鋭くとん、と中心をつついた。それに押され、ぐら、と悠太の頭が後ろに傾く。
戻ってこようとする頭、その額を、そのままヤマさんは何度も突いた。
そのたびに悠太はびくん! びくん! と体を震わせて、
「あ、っあ、」
悠太のぽかんと開いた口から間の抜けた声が漏れる。
つつかれるたびに、悠太の目が、ぶるぶると震えながら上へ上へと上がっていく。
「あっあ、あっあ、ああ、あ、あ、統一、統一、精神を統一」
そんな震える声を漏らしながら。
ヤマさんは背中をこちらに向けたまま、冷え切った声で語りかける。
「そうだ、お前だけじゃない、部員のみんなも統一しなければならない」
とん、とん、とん、とつつく。
悠太はもはや痙攣することもやめて――両手をだらりと垂れ下げて、されるがままになっていた。
――理解できたか?
ヤマさんは腕を下ろして悠太に問いかけた。
悠太は再び、びしりと姿勢を固めた。そのユニフォームに収まった股間が、ばつんと張り出して震えている。
「はいッ、みんなを、統一! 統一、しますっっみんなの! 精神を統一します!! それは素晴らしいことです!! 俺はそのためになんでもします!! させていただきます!!」
完全に白目を剥いて涎を垂らしながら、悠太は大きな声で宣誓した。
俺は異様な空気に飲まれていたけれど、その大きな声で急に正気を取り戻した。
――一体何の話をしているんだ!
おかしい。――これは間違いなくおかしい!
異常だ!
とにかく、一旦ここから逃げないと。そう思ったのに、
「ところで、どうだ、野口の方は?『処置』は進んでいるか?」
そんな言葉が聞こえて、俺は思わずまた耳を澄ませてしまった。俺のことを話している。
「はい、野口にはまだ『処置』ができておりません」
真面目な悠太の声が聞こえた。普段悠太は俺のことを哲一と呼ぶ。俺のことを苗字で呼ぶことは滅多にない。よっぽど堅苦しい場でなければ。
だからそれは、今の悠太がやっぱり普通じゃないってことだった。
それに、『処置』……だって?
何の、話だ?
「まあ、いいだろう。あいつは適性も評価も低い存在だからな」
――優先順位も低い。いつでもいいだろ。
ヤマさんは吐き捨てるように言った。ヤマさんは普段、俺にそんなことを言うことはなかった。だから自分が何か侮辱されたことがわかったけれど、状況が異様すぎてどうしていいのかがわからなかった。
「それに比べてお前は優秀だ」
そう言って、またヤマさんは悠太の顔に手を伸ばした。その気持ちの悪い手つきを見て、俺は今自分が何をするべきだったのかを理解した。
そうだ、とにかく――まず悠太を救い出さないと!
俺はようやくそんな大事なことに思い至った。
とにかく、あいつをこの狂った場所から助けないと。
「てつ、いち、は」
そう、悠太の声が漏れた。悠太の目にわずかに光が戻って――
「おや、まだあいつへの執着があるか……これは、『再調整』が必要だな」
「あいつ、は」
その歪んだ悠太の表情。俺は思わず扉ににじりよって――錆びた扉が音を立てて軋んだ。
ヤマさんが俺に振り返る。ヤマさんの顔も、どこか異様だった。俺はわかった気がした。
ヤマさんも何かされたんだ。そんな顔だ。
「おう、野口じゃないか。どうした、こんな時間に」
口元に笑みだけを貼り付けたみたいな表情でヤマさんが呼びかける。
「入ってくるなって書いてあっただろう?」
「お、俺、……」
何か言おうと思って言葉にならない。
怯える俺にヤマさんは、
「まあ、ちょうどいいな。そうだ、今『処置』をしてしまおう。濱中、そこにいる野口を供物として我々に捧げるんだ」
悠太は苦しそうな顔でうめいた。
「ぐ、ぅ」
「どうした? できないのか? できるだろう? お前は優秀な供物だからな。神々のために働くんだ。お前が優秀な供物であることを示す、またとない機会だぞ?」
そう言って、とんとんとん、と額を二本の指で連続で突いた。
「ささげる、お前は野口をささげる、神々にささげる、お前は優秀な供物として野口を神々にささげる、それがお前の使命だ、理解しろ、理解しろ、理解しろ」
ぶつぶつのヤマさんに耳元で囁かれ、
「がっ、あ、ああ、あぁ、あー、あー、あああああっ!」
悠太が白目を剥いて、口角から泡を垂らした。直立姿勢の、後ろで組んだ腕が、そして引き攣った顔がぶるぶるっと震えて――正面に戻るころ、悠太は異様に澄み切った表情だった。
「はいっ! 私、濱中悠太は野口哲一を神々への供物として捧げさせていただきます!」
股間が震えている、そしてじわりとシミが滲んだ。あいつ、まさか――。
悠太が、大股で俺のところへと歩いてくる。俺は、あまりの事態に体が動かない。
なんでだ、と思って、室内にはあの異様な匂いが充満していることに気がついた。そうだこれは普通の匂いじゃない、くそ、これはきっと――。
「やめ、ろ」
俺がもつれる舌で言っても悠太は聞かず、俺の背後に回り込んでぐいと俺のことを歯がいじめにする。
弱い力で必死にもがいても、悠太の力は普段のあいつから想像できないくらい強くて、歯がたたない。
頭がくらくらする、俺は必死で叫んだ。
「やめ、やえろ、やめぇろぉっ……!」
「さあ、野口、儀式の時間だ。お前も神々の供物になるんだ」
ヤマさんが言って、その指が俺の額へと近づいていく――。