夏の終わりに空飛ぶ魚を捕まえて 上
Added 2019-08-17 12:18:43 +0000 UTCふよふよと浮かぶ透明な魚を見た。 夏空は青を強くして、空色というよりかはもう青なんじゃないかって思うほどに突き抜けた色で塗りたくられている。日光もきつくて影色とのコントラストがまるで別世界への境界線みたいに明暗を分けていた。 確かに空は海のように青く、波さえあれば見まごうかもしれない。 だけど、海は海、空は空。魚が泳ぐわけもなければ道理もない。いまだ成人していない僕らでさえ、世界の理くらいは理解しているつもりだ。 それでも、透き通った魚はレンズのように日光を折り曲げ、確かにそこに存在していた。 こんなものを見せられて、どうして泣いていられようか。僕は今さっきまで泣いていたとは思えないほどの勢いで、目を皿のようにして空を仰いだんだ。 「なあ、あれ……」 隣にいた君にも見えているようだ。きれいな魚が空を渡る光景が。 見えてしまったなら、追わなければならない。好奇心をリードにした僕らは飼い主に引っ張られる犬みたいに、遮二無二走り出していた。 「捕まえよう!」 それはどちらが言った言葉だったか。それとも、どっちもだったかな。 まあいいやとすぐに気持ちを切り返す。どうでもいいことだったから、気にするまでもない。 その魚を追って、僕らは青い空へと駆け出すんだ。 **** 「今日こそは捕まえてみるぞー」 意気込んだ声を空へと上げるのは黒っぽい毛皮の犬、黒部 山成(くろべ やまなり)。快活さが夏という季節にぴったりとはまっている彼は、今日も今日とて元気に自転車にまたがっている。 半袖と半ズボンは健康優良児の印象そのままで、尻尾を振りながら遠くに向かって吼えた。また部活をさぼって魚を探しに行こうとする彼に、僕は控えめに声をかける。 「またさぼって、怒られない?」 「大丈夫だいじょーぶ! 顧問だって何も言わないし、今のうちに夏を謳歌しないと青春がもったいないだろ!」 どこかで聞いたフレーズを我が物顔で振り回すヤマに対して、僕ができることは困ったように肩をすくめるだけ。一度言い出したら聞かないなんてこと、嫌というほど知っている。 それに、僕だって魚を捕まえたい気持ちがあるのは否定しない。 だから、ヤマからきらめかんばかりの笑顔で誘われてしまうと、どうしたって断れないんだ。 「リュウも当然いくよな!」 「もちろん!」 僕こと蓮井 敬瑠(はすい けいりゅう)も賛成の意を返し、二人とも自転車の用意完了。残念ながら運動部のヤマに比べて帰宅部の僕は運動が得意ではないので、今日もおいていかれないように決意を固めておかなければならない。 「リュウのダイエットもかねて、魚を捕まえような!」 「やめろ。気にしてるんだ、やめろ!」 「今年の健康診断、4キロ増えてたもんな」 「これは冬眠の準備! 熊は冬が近づくと体重が増えるんだ!」 「じゃあこれからもっと増えるってことか? ならますます運動しないとな」 ぐうの音も出なかった。にんまりと笑みを浮かべたヤマにしてやられた感じが悔しくて、口を曲げながら自転車をこぎだした。 逃走も立派な作戦。決して太った事の自己正当化に失敗したからではない。 セミの合唱がやかましい世界は、じりじりと焼け付く灼熱のジャングルだ。コンクリートたちが光合成に勤しんでいる合間を縫って、猛暑を浴びながらペダルをこいでいく。 「まあまあ、おれはリュウの体嫌いじゃねえよ。クラスの女子だって包容力があるって褒めてたし」 「あれは褒めてたんじゃなくて、お世辞! もうこの話題は時代遅れ!」 「あははーっ!」 笑い声のドップラー効果を残して、ヤマが軽やかに追い抜いていく。こちとら全力の前進なのに、やはり野球部のエース様は格が違う。 こなくそ、と思いながら足に力を込める。ペダルが一回転するたびに熱した空気の中に飛び込んでいく我が身のでかさが憎らしい。ヤマに比べて空気抵抗力が段違いなんだぞこっちは。 校内一とも評される巨体を持て余す残念帰宅部にとって、毎日のサイクリングは地獄にも等しい所業だ。何が悲しくてクーラーという文明の利器に自ら別れを告げないといけないのか。 ああ、本当に。あの魚を見つけたのはいつだったか。 少しでもヤマとの距離を縮めようとしながらも、思考は過去へとさかのぼる。 あれはそうだ。じいちゃんの葬式が終わって、僕とヤマだけの帰り道。 キラキラとして、透き通っていて、まだ高い太陽の光を受ける透明な魚。 それは宝石のようでいて、ヒレを動かして空を翔ける名称不明の何かが、僕らの前を通ったんだ。 空を見上げて追う僕たちを大人たちは怪訝な目を向けてくる。僕らにしか見えていないのだと、悟るのにそう時間はかからなかった。 どうしてなのかはわからないけど、きっと、おじいちゃんからもらったお守りのせいだと思う。式場でヤマと僕にと手渡された小さなガラス玉のようなものをもらってから、僕らは魚が見えるようになった。 僕とヤマの胸元で輝くネックレスにはしっかりとおじいちゃんの遺品がなびいている。 「おーい、リュウ! いたぞー!」 思考の海で猛烈なクロールをし続けていた僕をヤマが引っ張り上げる。息を切らしながら顔を上げると、確かに魚が空を泳いでいた。 川辺の土手までやって来た僕らは、道なりにそって泳ぐ魚を前に足を止める。 「ぜー! はー! み、みつ、けだ……」 「……さすがに体力なさすぎるだろ。ちょっと休んでから追うか?」 「そうして……死ぬ……」 「しゃあないな。ほい、水。こういう暑い日は熱中症に気をつけましょうって言われてるだろ」 そんなことは言われなくても知っている。だけど、タダでさえ熱いのに全速力で自転車をこいだら誰だってこうなるだろうとも。 とは言えず、そもそも文句の一つも言葉にならないほどの憔悴を浮かべて、僕はヤマから手渡されたペットボトルを口に含んだ。 気合十分。ぬるくなりかけた水が体を冷ましてくれる。 「……よし、追うか」 「まだ無理じゃね? この前頑張りすぎて吐いてただろお前」 「今日は無理そうなら途中でギブアップするから。まかせてくれ」 「いや、お前を置いてけねえし。何も任せられねえわ。ほら降りろ降りろ」 「でも、魚が……」 「さっきからリュウを待ってる間もそこら辺をくるくる回ってるだけだったし、逃げたりはしないだろ。それより体力の回復が先だって。捕まえるときに全力をださねえとさ」 などと言われればどうしようもない。僕の重い体は今すぐにでも休息を求めているんだ。 自転車を土手にとめて、斜面へとヤマは誘う。僕は転がり落ちるように自転車から降りると、芝生が敷き詰められた地面に全身でダイブした。 「さすがにもうちょっと運動したほうがいいぞ、お前」 「うるせぇ……今、ゲーム買ったばかりなんだよ」 「でも、その年でこの肉はやべえって」 などと言いながら人の腹肉をつまむくそ犬。確かにむっちりしているように見えるが、熊はもともと皮下脂肪が多いだけで筋肉だってあるんだ。ただ持久力がないだけ。 汗でぐっしょりと湿った毛皮をからかうような指先でなでて、犬は笑う。 その背後では魚がくるくると空を回っており、すっかり日常の一部になったことを感じてしまう。確かにあの調子ならすぐにどこかへ行ってしまうなんてことはないだろう。 だから少しだけ、風を感じていたい。 川べりから見る清流は日光を反射してキラキラだ。光の粒をまぶしたみたいで、生命の温かさのようなものであふれているように見える。 こうしてただぼんやりとしているだけでも、草木のそよぎが目に優しい景色を生み出してくれるから、特に退屈もしない。 夏ももう終わりかけていて、お盆の時期に水辺には寄るな、なんて迷信もあったっけ。川の近くで魚を追うなんて、昔の人からしたらただの自殺行為にしか見えないかもな。 「あー、川島石が見える。もうこんなところまで来たんだ」 川の真ん中にある小さな島に、大きな石が置かれている。僕はそれを見て自分がこいできた距離に思いをはせた。 明らかに人工的だが、その意義はどの歴史書にも記されていない変な岩。小さい頃はあの岩を目印に自転車を飛ばして遊んだ記憶もある。 小さい頃は遠く感じた距離も、大きくなるとあっという間だ。こんなにへとへとになってはいるけれど、時間で考えると半分以下になっているはず。 浅いところを渡って行けばいけない場所ではないけれど、当然学校からは禁止されている。それでも、僕はヤマと何度もあそこで遊んで、感情を積み上げてきた。 「あの魚、始めて見るやつかな」手持無沙汰になったので、問いを投げかける。 「かも。前に見たやつより小さいし、動きもちょっと迷子っぽいし」ヤマは相変わらず人の腹を揉みながらだが、答えてくれる。 一番最初に見た魚はもっと大きくて、もっと堂々と泳いでいた気がする。けど、今日の魚は小さいうえに、何かを探しているような行動だ。魚も何かを探したりするんだろうか。 「というか、お前はいつまで人の腹を触ってるんだ」 「いやー、これがなかなか癖になる柔らかさで。おれには全くないものだからつい。思ったより筋肉ついてるんだな」 「いやみか!」 からからと笑うヤマに抗議のツッコミを一つ。服をめくって腹を露出させてくるこの幼馴染が変態の道を歩まないことを切に願う。 「っと待て待て、あの魚回遊をやめたぞ!」 「げえ、本当だ。急ぐぞリュウ!」 僕の声にスイッチが切り替えられたのか、ヤマは迅速に身をひるがえして斜面を駆け上がる。あいにくこっちは万年運動不足の冬眠準備中ベアーなので、自転車にたどり着くころにはヤマの準備がすでに終わっていた。 「リュウ! 急げって!」 「急いでる! もう僕にだせるハイスピー……どぉおぉ!」 これは急がねばと自転車にまたがろうとしたのだが、勢いがよすぎて自転車を押してしまったみたいだ。横への力に対して圧倒的無防備な二輪車は土手を下って一人気ままな滑り台としゃれこんでしまった。 「ああああぁぁ……僕の自転車ぁぁああっ!」 「ああもう! いいから、乗れ!」 「乗れって、後ろかよ! 僕は重いぞ!」 「いいからっ!」 ヤマの剣幕に体が勝手に動いてしまって、僕は後ろにお邪魔してしまった。部活の荷物とかを括り付けるためのキャリアに僕のお尻を乗せる。 「あと、自転車の二人乗りは違反なんだって、学校でも――――」 「知らんっ! 見つかったらリュウの尻がでかすぎて病院に連れていく途中でした、って言うから!」 「お前ぶっ飛ばすぞ!」 ギィっとペダルが抗議の音を奏でるけど、ヤマの脚力がそれを黙殺する。立漕ぎで前傾姿勢になりたいだろうけど、僕が後ろから捕まっているのでそれも難しい。 これは絶対に降りたほうがいいと思うんだけど。 「ふ、ぐおおぉぉ! 思ったより、重いなお前!」 「うるせえうるせえ! だから言ったじゃねえか! おら、もっとキリキリ漕げや! 野球部の健脚はそんなもんかぁ!」 「こ、なくそおぉおぉぉ!!!」 全力で漕ぎ出して、熱い風が頬に当たるようになってきた。自然とヤマの匂いが鼻をくすぐるようになってきて、僕は言いようもない何かが、胸に湧きあがってくるのを感じた。 夏という季節の輝きを一身に浴びているこの瞬間が、体の内側から熱を生み出していく。得体のしれないものを懸命に追っている馬鹿みたいな夏が、僕を昂らせるのかもしれない。 そんな熱中症のようなわけのわからない感情を全力で無視して、僕は立ち上がる。 「僕が捕まえるから、ヤマはとにかく魚を追って!」 「任せろ! でも、この役割分担、ぜってぇ逆だと思うんだよな!」 ヤマの意見は実用性がないので却下っ。 僕は犬の肩に手を置いて、届けと願って魚を目指す。 「うおおおおおっ! 空気抵抗がぁ! 空気抵抗増大いいぃぃぃ!」 「無駄口叩いてないで足を動かせ!」 練習をさぼっている野球部員にはいい運動になるだろう。汗水たらしながら必死の形相で追いかけるヤマの上で、僕は太陽を一身に浴びる。 着実に距離は詰められていて、透き通った魚の形をした何かはその輪郭をくっきりと視界に描き出す。手を伸ばして、あと少しで。 水面の反射光がいくつも魚に注がれて、それ自体がさながらアクアリウムのようだ。水滴の内部を思わせる乱反射が魚を形作っており、触れたらはじけてしまうかもしれない。 指先が、もうちょっと。ヒレにまで届きそうな距離で。 だけど、僕のでかい手が魚を掴もうとした瞬間に、防衛本能からかその身をひらりとくねらせる。 そして遮二無二魚を追っていたヤマは馬鹿正直に軌跡をなぞって、つまりは、坂の方へとハンドルを切ってしまった。 『あ』 僕らが気づいたときにはもう遅く、自転車は土手を駆け下りていく。 「うあああああああぁぁ!」 草原を全速力で突き進む僕の口から悲鳴が漏れて、車輪が暴走し始めた。ハンドル操作を振り切って、凸凹に揺れ落ちる。 まるでジェットコースターみたいな一瞬だったけど、すぐに僕らは自転車から投げ出されて宙を舞う。 このままだと落ちてしまう。そんなわかり切ったことを考えて、スローモーションで流れる風景の中でヤマの姿を探した。 僕と違ってヤマはエースだ。この後にだって大会を控えている。 だから、怪我をさせるわけにはいかないんだ。 「ヤマっ!」 黒い犬を見つけて、思いっきり抱き寄せた。つもりだったのだけど、ヤマも僕をかばうように抱きしめ返してきた。 これで守ってくれているつもりなんだろうけど、あいにく体のでかさが全然違う。 まあ気持ちだけでももらっておきますか。 そう考えて、僕らは芝生の海へと身を投げ出した。 ごろごろを坂道を転がって、ようやく止まったころには土と草まみれだ。 「……いってぇ、無事かリュウ」 「なんとかぁ……」 全身の節々から痛みを発する信号に苛まれながらも、僕らは立ち上がる。 川に落ちなかったのは僥倖と言えるだろう。これでおぼれでもしたら目も当てられない。 「ヤマは怪我とかないか」 「余裕よ、誰かさんがでかかったからな」 「そりゃよかった。これでデブの言い訳も立つ」 「いや、お前はデブじゃねえよ。ちゃんと筋肉あるじゃねえか」 「……そういうの真顔で言うのやめてくれる?」 恥ずかしげもなく言い放ちやがって。 体についたごみを払いながら首をひねると、自転車もどうやら無事みたいだ。どこか曲がってないといいんだけど。 「あーまた逃がしたぁ!」 悔し気な声を出すヤマが川に向かって吼えている。転んだばかりだというのに、その元気はどこから来るんだ。 「やっぱり普通に追っても駄目だな。でも虫取り網は逃げられちまったし、どうしたもんかなぁ」 自転車を起こしている間にもヤマはうんうんと唸って思考中だ。ペダルもまわしてみて、よし、チェーンも特に外れてないな。 持ち主のところまで押していくと、ご苦労と返事をもらった。何様だこいつ。 「やっぱ別の手を考えるしかないな。リュウは何かいいアイデアあるか?」 「あったらとっくに出してる」 「だよなー。とりあえず、今日は帰ってかき氷でも食うか」 「練乳は用意してあるんだろうな?」 「……ちなみに糖分を押さえようって言う発想は?」 「ない!」 甘いものは別腹だからな。 僕がおしてきた自転車を受け取ったヤマと一緒に坂を上っていく。 あんなにきらめいていた水面も、今は積乱雲の影になってその輝きを失っていた。 遠くでは太陽の恵みを受けた煌びやかな世界があるというのに、僕らの周りだけはうっすらと影で隔離されているみたいだ。 涼しいのはいいことだけど、なんだかやるせない。夏が、僕の中から消えてしまったみたいだ。 「……なあ、聞こえるか?」 「なにが? 僕の腹の音?」 「自虐ネタはいいから。……ほら、すぐ近くでさ」 夏が鳴りを潜めた世界で、ヤマのささやく声が大きい。 影の国で差された方向に耳を澄ますと、確かに鳴き声のようなものが聞こえてきた。 「猫かな」 「たぶん」 「――いいこと考えた!」 どうせくだらない事だと思うけど、という言葉を飲み込んで、ヤマが駆け出すにまかせた。 鳴き声の主はすぐに見つかった。縞模様のかわいい猫が一匹、うずくまって鳴いていたのだ。 ヤマはその子を恐る恐る撫でてみるが、特に反抗は見えない。捨て猫なのかもしれない。 僕はヤマの考えるいいことがなにか大体察していたが、特に何も言わない。それでヤマの気が済むなら。 「なあなあ、リュウ!」 猫を抱きかかえた犬が、僕を見て口を開く。 キラキラした太陽みたいな目は、いつだって僕の傍にいた。 だから、僕は、あの魚を捕まえようと思うんだ。 「やっぱ、魚には猫だよな!」 **** 「おれがヤマ、あっちがリュウ。だからおまえは……うん、ホシゾラにしよう!」 謎の因果関係でホシゾラと名付けられた縞猫は、すんなりとヤマの家にいついたようだ。ヤマのご両親も息子のためならとあっさり了承して、ホシゾラは快適な家猫生活を送っている。 もともと人懐っこい性格だったのか、ホシゾラはことさら僕に懐いてくれた。顎の下を撫でるとごろごろと喉を鳴らして、手を止めるとまた撫でろとやかましく体をこすりつけてくる。 ヤマの家は今時珍しい典型的な日本家屋で、縁側ではチリンチリンと風鈴の音が涼やかな音色を奏でている。僕らはスイカを食べながらごろごろしつつ、今日の予定を話し合う。 「おれらじゃ無理だけど、ホシゾラなら捕まえてくれるかもな」 「でも、ホシゾラに魚が見えるのか?」 「そこはほれ、お前の石を貸してさ」 「じいちゃんの形見なんですけど!?」 ぎゃあぎゃあとした押し問答を風鈴に茶化されつつ、やはり最終的にはヤマの案が通ってしまうのだ。 僕は渋々と首から石を外して、ホシゾラの首輪につけてやる。 「ほらよ、これでいいか?」 「へへ、ありがとな。じゃあ今日はおれとホシゾラで行ってくる」 「んじゃ僕は帰ってゲームでもするかな」 「おう、たまには休め。そろそろ足も筋肉痛だろ?」 「……よく分かるな」 意外とヤマは気が回る。元が優しい性格だから、他人の、とりわけ僕の変化にはとても機敏だ。スイカの種を頬につけて笑う犬に対して、僕は反論の言葉を持たない。 ヤマは快活な笑顔を浮かべてホシゾラを抱き上げて、僕と一緒に玄関に向かう。 セミの合唱を潜り抜けて、僕らの今日はおしまい。まあどうせまた明日会えるのに、寂しいと思うのは贅沢なのだろう。 「ヤマ」 なんとなく、呼んでみた。突き抜ける青空に投げかけるにはか細い、そよ風みたいな言葉。 「んー?」 青を背にしてヤマが振り返る。黒い毛皮に影の低彩度は、はかないくらいに魅力的で。 「……怪我とかするなよ」 「わかってるって。おれが怪我とかしたらお前泣くもんな。じゃいくかーホシゾラー!」 猫を自転車の籠に乗せて、ヤマは素早く走り去っていく。 小さくなる背は焼け付くアスファルトの熱気で揺らめいていて、蜃気楼のようだ。 「……はぁーあ」 追いかけたくなるなんて、本当に変な僕。 「やだなぁ……」 ほほをかく僕の顔はきっと赤い。暑さのせいじゃないことは、たぶん、明白だ。 「やっぱ、好きなのかなぁ」 男なのに、幼馴染なのに、親友なのに。 ずっとそばにいるのが当たり前で、きっとこれからもずっと一緒だと信じていて。 それでも、ああ。 もっと先をと、望む自分がいる。 「はぁ」 思春期特有の気の迷いであることを信じて、僕は家路につくことにした。こういう日はゲームでもして気を紛らわせるに限る。 思えば、どうしてじいちゃんは僕とヤマに石をくれたんだろうか。この石がなにかだなんて正直どうでもいいんだけど、じいちゃんが僕にもこれをくれた理由がわからない。 現実逃避の思考はどうでもいい方向に曲がり、暑さも忘れようと必死に努めた。気だるそうにペダルをこぐ今の僕が通常運転。この前みたいにがむしゃらになるのは魚を追っているときくらいしかない。 ヤマの家から僕の家は近い。歩いてだっていけるけど、今日も魚を追うだろうと思って自転車で来ていた分余計に早くついてしまった。 普通の一軒家である我が家の自室にのそりと入り込み、まず第一にクーラー。そのまま部屋着に着替えてベッドに倒れこみ、僕はシーツをぎゅっと握る。 「……じいちゃん」 人はいつか死ぬものだけど、じいちゃんの死は唐突すぎた。まさに青天の霹靂と言ってもいいほど、じいちゃんはあっさりこの世を去った。 死ぬ前日にだって、僕とヤマにスイカを切ってくれていたのに。それから、あれ。 ……確か、ああそうだ。じいちゃんは、こう言っていたっけ。 『好きな人ができたら、離したらいけないよ。ひとたび離れたら、ずっと後悔することになる』 それは、きっとじいちゃん自身にも向けてた言葉。戦時中にばあちゃんと離れてしまって、ずっと探していたなんて、僕は葬式の時に初めて聞いた。 僕らにとって戦争は過去の話だけど、じいちゃんにとってはそうじゃない。じいちゃんもまだ若くて、僕らと同じくらいだったみたい。そのころにはもう好きな人と結婚を誓って、子どももいて、そして離れ離れになってしまった。 僕の好きな人は、でも、ヤマじゃない。絶対違う。絶対、絶対だ。 シーツをきつく握って、自分に言い聞かせる。 だって叶うはずないじゃないか。僕らは男で、幼馴染で、ずっと隣にいただけの関係だ。 それが今更恋だのなんだのと、それに、断られたら僕はもう立ち直れない。 ヤマが隣にいないのなんて耐えられない。だって、ずっと一緒だったんだ。 そこまで考えて、思考の悪循環に入り込む予兆を感じ取る。いつ自覚したのかわからない感情に振り回されるのも嫌になって、僕は思いっきり体を起こして立ち上がった。 よし、気持ちを切り替えて、ゲームでもしよう。喉も乾いたし、お茶を持ってきてっと。 これが終わったら夏期講習の準備もしないといけないし、宿題だってある。夏休みと言えど忙しいんだ。最近は魚を追うのに忙しかったから、できるところまで進めておこうか。 窓の外では青い空に白い雲が浮かんでいて、強烈な日光が世界の彩度を高めている。 きっとあの空のどこかで、また魚が泳いでいるんだろう。 捕まえてどうしようというわけでもない。ただ、僕らには必要なんだ。 何かに熱中する時間が。僕たちだけの時間が。 じいちゃんがいなくなった世界から立ち直るために必要な時間を、僕らは魚を追うことで手に入れている。 一種の現実逃避みたいだな。まあ、間違ってないか。 ヤマが早く立ち直ってくれますように。そう思いながら、僕はゲームのスイッチを入れた。 **** どうやらホシゾラによる魚捕獲作戦はうまくいかなかったようだ。 「なんかホシゾラがすぐどっか行っちゃうんだよ。家には帰ってきてくれるからいいけどさぁ」 「一人の時間が欲しいとかじゃないの?」 「現代っ子かよ」 そんなことだろうと思っていた僕は熱戦の経過を語るヤマに気のない相槌を打って、合間を縫うように宿題を広げてやる。 「ちなみに、どこまでやった?」 「少しだけ」 「思ったよりやってるな」 ヤマの部屋のふすまを全開にして、風を感じてページがはらはら舞う。そろそろクーラーをつけたほうがいいと思うんだけど、いまだに扇風機だけが現役というのだから耐えられない。 しかもヤマの部屋はとても日当たりのいい縁側近く。虫と日差しに対して防御力ゼロの空間を、部屋と呼ぶことに現代っ子の僕には抵抗がある。 「ヤマー……クーラー……」 「毎年同じこと言ってるよな。扇風機だけでもいいじゃん」 「よくねえよ。熱すぎるわ。今からでもいいから僕の部屋に行こう」 「お前の部屋、一人用机しかねえじゃん。それに、ホシゾラだってリュウにいてほしいってさ」 縞模様の猫がかわいらしい声で僕にすり寄ってきて、甘えている。暑さが上がるけれど、仕方なしとばかりに喉を撫でてやった。 水滴を浮かべたコップからカランと氷の解ける音がして、熱した体に麦茶を流し込む。そのまま冷蔵庫で冷やしたピッチャーから間髪入れずに注ぐ。 「あー、暑い。そろそろ夏期講習だし、ある程度進めてないと怒られるぞ、まじで」 「そうなんだけどさぁ。最近は毎日魚を追ってたし」 「そろそろ集中して勉強しないとまずいって。僕も全くやってないけど」 胸元のシャツをぱたぱた扇いで新鮮な空気を入れ替える。膨らんだ体にシャツがべったりと張り付き、肉付きが強調されてしまうのは悲しい。 「……リュウはさ」 「んー?」 麦茶二杯目。セミのコール音にヤマの声が割って入った。 「なんで魚を追ってるんだ?」 「なんでって……」 真っすぐな瞳で僕に問いかけてくる。広い部屋に真摯な気迫が満ちてきて、夏を押しおけてしまった。 ヤマと少しでも一緒にいたいという感情はもちろんあるけれど、それ以上に、ヤマを一人にしておけなかった。 だって、『ヤマの』じいちゃんが死んだんだ。部活にすらまともに行けてないヤマをこのまま放置なんてできるわけがない。 ご家族が葬儀後の対応で忙しい今、ヤマの傍にいてやれるのは僕しかいないんだ。 「おれのことが心配だからか?」 「それは、まあ、それもある」 「ふうん」 濁すような返事を返す僕はとても弱々しく見えただろう。自覚したくない恋心を抱えて、ヤマにまともな返答ができる気もしない。 「おれがそんなに頼りなく見えるってかー?」 「頼りないっていうか、ちょっと……怖い、かな」 焼け付く熱気で汗が毛皮を湿らせる昼下がり、影の中で僕は言う。 麦茶に映るヤマの顔がゆがんで揺蕩っている。黒い犬があわく消えてしまいそうなのが、僕は怖いのだ。 「じいちゃんが急にいなくなって、ヤマもいなくなったら、嫌だなぁって」 「そんなことは絶対ない!」 「うわぁ!」 急に距離を詰めてきたヤマが僕に抱き着いてきた。二人の毛皮の間で夏を凝縮するような行為は、僕の心臓を昂らせる。 「や、ヤマっ!」 慌てる僕の声に追従して、机のコップが倒れて転がった。中身はあまりなかったけれど、こぼれた液体はヤマの感情の噴出そのものだ。飛び散った氷が解け広がっていく様を、僕は茫然と見ていた。 「おれは、絶対どこにもいかないから! だから、リュウも、リュウも……」 「……うん」 悪いことをしてしまった。じいちゃんがいなくなって誰よりも寂しい思いをしているのはヤマの方だったのに。想起させるようなことをいうなんて、少し無遠慮だった。 普段は魚を追うことで紛らわせていた寂しさが、膨れ上がってはじけてしまったようだ。 お詫びの意味も込めて、僕はヤマの体に手を回して抱き返してやる。汗と蚊取り線香と太陽の匂い、はつらつでまぶしいヤマの匂いが僕を包みこむ。 「僕もどこにもいかないから。ずっと一緒にいよう」 「約束だ」 「うん、約束」 親友として、僕は君の傍にいる。つかず離れず、この距離で、君の隣にいよう。 これ以上は望まない。これが僕らの適切な距離感だ。 しばらくの間、僕らは無言で抱き合っていた。さっきまでクーラーを欲していたのが嘘みたいに、この熱源を手放すのが惜しくなっている。 ああ、でも駄目だな。このままだと本当に好きになってしまいそうだ。 意識して呆れた声音を作り、ヤマの耳にささやいた。 「……いつまで抱いてるんだ、甘えんぼめ」 「これが、包容力……」 とか言いながらむにっとお腹をつままれた。っておいこら。 「安心感がやべえ。これは癖になりそうだ」 「ならなくていいから。ほら、離れて離れて」 「もーちょっとぉ」 「僕はぬいぐるみか」 天然の肉布団にヤマはご満悦だ。しょうがないからもう少しこのままにしてやる。 倒れたコップを拾い上げ、身重な体で何とか麦茶を注ぐ。体の外が熱いんだ、中を冷やさないとやってられない。 「じゃあさっきの話の続きだけど、なんでヤマは魚を追ってるんだ?」 「んー、おれか? ふっふっふっ、よく聞いてくれたな」 ガバッと顔を上げると、そこにはいつものヤマがいた。喜色をちりばめたまぶしい目に僕の顔が映っている。 こんなに部屋は広いのに、僕らは密着したまま言の葉を紡いでいる。はた目から見たらどう見えるのかなんて、あまり考えない方がいいだろう。ホシゾラも呆れて丸まってしまったくらいだ。 「じいちゃんがさ、昔言ってたんだ。この石で見えるものを捕まえると、願いが叶うって」 「……ほんとぉかぁ?」 「嘘じゃねえって。……それ聞いたのおれらが小学生のころだけど」 「それ絶対からかわれてるって」 「でも、リュウだって魚を捕まえたら痩せるかもしれないだろ!」 「人の願い事を勝手にダイエットにするな」 無防備な耳を引っ張って抗議の意思表示をすると、ヤマがキャンっとかわいい声を出す。すると仕返しとばかりに腹をつままれた。 さすがにこのままでは僕の感情が持たない。今の僕を守る感情の防波堤は飛び散った氷よりも脆い自信がある。 「僕の包容力が好きなのはわかったから、早く離れてくれ。暑い」 「……もうちょっとだけ、駄目か?」 せわしなく動いていた熊の耳が、寂しさに縫い付けられてしまった。 ああそうか、ヤマは本当に寂しかったんだ。 ご両親も今は忙しいから、寂しいという感情を言えるはずもない。ましてや思春期真っ盛りのお年頃。甘えるのが最も苦手な僕らだから、こうして互いを支えるしかないんだ。 だって、僕もじいちゃんがいなくなって寂しかったから。 「甘えん坊め」 「ごめん」 「いいよ」 何度も脳内でしょうがないと繰り返し、僕は決意する。 「今日泊ってこうか?」 「さんきゅ、頼りなくてごめん」 「いいよ。ってか謝りすぎ」 最後にひときわ強く僕の体を抱いて、それでヤマは離れてくれた。 夏空を逆光にした笑顔はくたびれていて、目元の毛皮が少しだけ濡れている。 「駄目なのはわかってるんだ。いつまでもこうしてうじうじしてたら、じいちゃんにも怒られるって。だから、決めてるんだ」 立ち上がったヤマの胸元で輝石が揺れている。扇風機の風を受けたヤマの毛皮がそよぎ、僕が撫でた跡がわからなくなっていく。 「魚を捕まえて、じいちゃんに見せてあげたら、きっと喜んでくれる。それまでは、追いかけ続けようって」 「わかった。なら僕も付き合うよ」 すんなりと出た言葉だった。僕は本心から、ヤマの手助けになりたいと考えている。 「ありがと。おれ、リュウがいてくれてよかったわ」 汗ばむどころか汗だくになる熱気の中で、空を見るヤマの横顔に儚さを感じていた。溶けていきそうになる黒を引き留めようとして伸ばした手を、中途半端に止めるのは気づいたからだ。 なんだ、僕も寂しいんじゃないか。 だったらやっぱり、この感情は恋じゃない。人恋しいだけの、思春期の思い込みだ。 叶うはずのない思いを持ち続けるのはとても苦痛で、なんでもいいからこの感情に恋以外の名前が欲しかった。 太陽が傾き始めてもなお隆盛を失わない世界で、僕は少しだけ考える。 「じゃあ、リュウが帰って泊りの準備する間、宿題でもするか。冷えた麦茶のお代わり持ってくるなー」 すっかり元気になったヤマがピッチャーをもって縁側に向かう。こっちを向いて笑う顔に日光が当たって、ひまわりみたいに咲き誇る。 屈託ない笑顔がとてもまぶしくて、あれがさっきまでこの腕の中にあったのに現実感がわかない。 あの時間をもっとと望むのは贅沢だ。わかってる、わかってる。 もし僕が願い事をかなえられるとしたならば、どうか。 ――――この感情を、消してください。