XaiJu
jpg
jpg

fanbox


第3話「糸の先」

私は五メートルほど離れた場所から、彼女を見ている。
だが、その距離は意味を持たない。
私の意識は、もう彼女の骨の中まで入り込み、筋肉の一本一本を握っている。

しゃがめ――
その命令は、声にならず、彼女の背骨を通って膝に降り、関節を折る。
わずかな布擦れとパンストの引きつり音が、私の中にも響く。
彼女は何も考えていない。
「しゃがむ」という言葉すら、彼女の中には生まれていない。
動きだけがそこにある。

ポーチを開け、口紅を取れ――
指の第一関節の硬さ、キャップを外す感触まで、私の神経のように伝わってくる。
彼女の視界も私に繋がっているが、私はそこに意味を与えない。
通行人の影、舗道の汚れ、光の粒……それらは全部ただの背景だ。

唇の輪郭をなぞれ――ではなく、もっと外だ。
口の周りを大きく回れ。
私は手首の角度を微調整し、唇を囲む乱雑な線を描かせる。
彼女の皮膚に塗料が重なり、甘い香りが空気に滲む。
その香りを彼女は嗅がない。
鼻腔は働いているのに、「匂い」という意味が存在しないからだ。

視界の端に若者たちが入ってくる。
私は彼女の視線を動かさない。
代わりに頬の筋肉をわずかに上げ、微笑を固定する。
笑顔の奥で、瞳は静止し、焦点を持たない。
そのまま、至近距離から浴びるフラッシュを受けさせる。
白い閃光が瞳孔を絞るが、それも反射に過ぎない。
彼女は眩しいとすら感じない。

時間を延ばす。
私はわざと動作のテンポを落とし、口紅の線を一周描くのに二十秒もかけさせる。
若者たちの笑い声が途切れ途切れに続き、スマホのレンズが何度も彼女の顔を舐めるように移動する。
それでも、彼女は何も反応しない。

私は彼女の中の全ての「やめる」を消している。
その代わりに、「続ける」だけを残している。
筋肉も、呼吸も、瞼の瞬きさえも、私の意識が流し込むリズムに従っている。

一分、二分、三分……。
彼女の体温がじわじわとスニーカーの内側にこもっていくのを感じる。
膝裏のパンストが湿る。
首の後ろにまとわりつく髪が、汗で張りつく。
全てが私の中に流れ込み、私はそれを「ただ続けさせる」ために利用する。

彼女は知らない。
自分が誰かに操られていることも、ここがどこかも、何をしているのかも。
その無知と従順が、私の掌の中で完璧な人形を形作っている。

私は糸を握ったまま、まだ切らない。
切らなければ、彼女は永遠に、この動きを繰り返し続ける。


続く


More Creators