前回⬇️

前回⬇️ 女主人に導かれたのは森の奥深く、蔦の蔓延る古風な二階建ての屋敷だった。 重厚な玄関ドアを軋ませて開けると、広間にちょっとしたクローク、奥手に2階へ続く階段が見える……が、一体何処を歩けばいいのやら、見える範囲の床は殆ど脱ぎ散らかした服や、鉛筆の線が数本這うだけの描きかけのキャンバス、埃を被った...
レナーテの変わり者の主人の話は面白くてつい聞き入ってしまう。彼女の方も語り口こそ愚痴混じりだったが、『先生』の事を話す表情や声色はいきいきしていて、楽しげな色が滲んでいた。
彼女のレモネードのグラスが溶けかけの氷だけになった頃、やにわにバーの階段を駆け下りてくる軽い足音が聞こえた。幼き歌い手にしてグランドホテル・エルドラドの眠り姫、今日はお早いお目覚めだ。
「ジョンおはよう!そちらはお客様?」
今日のシグルーンはエレガントなネイビーのワンピース姿だ。大きく開いた襟から覗く白磁の肌に、赤いチョーカーが華を添える。静かな夜の海のように波打つ黒髪はいつものように編み込まれて居らず、無造作に肩を覆っていた。
「おはようシグ。こちらはレナーテって言うんだ」
赫々然々で……と事の顛末を説明している間、レナーテは猫のような目をいっそう大きくしてまじまじとシグルーンを眺めていた。
「お人形が動いてるみたい……」
「それはたまに言われるの!でも残念ながら、ちゃんと生きているのよ、私」
そう言ってにっこり破顔すると、陶器の人形のような顔に急にあたたかみが増す。
「ボーイから聞きましたよ、ジョン。買い出しに行った酒瓶を全て割ったとか」
彼女を追うようにゆっくり階段を降りてきたのはバーテンダーのクラウス、こちらも陶器のような……というよりも、冷たい刃物のような雰囲気だ。いつも鋭い目付きがいっそう刺々しい。
「ごめん!今月の給料から天引きしといてくれる?」
「そうしたい所ですよ。でも福利厚生と労働環境改善に執心な支配人はそんな事しないでしょう、働いて返してください」
彼はそう言うとレナーテを振り返り、
「うちの者が大変ご迷惑をおかけしました」と目礼した。
「迷惑だなんてそんな。レモネード、とっても美味しかったです」
「クラウスが仕込んだドリンクは全部美味しいの!是非また遊びに来てね」
シグルーンは絶妙な角度に小首を傾げ、甘えるような声色でレナーテに言う。幼さの中にどこか艶めいた香りを漂わせる彼女の微笑みに、普通の客ならばいちころで常連客へと変身するのだが、レナーテは彼女と目が合った途端何故か驚いたように肩を跳ねさせ、半歩退いた。半秒ほどの僅かな沈黙が流れる。彼女はそれを誤魔化すように「そうね。先生に相談してみるわ」と少し早口で続け、そのままバスケットを手に取って出口へ向かった。
「送っていくよ!森の道は分からないから途中までになっちゃうけど……」
「いえ、とんでもない。ジョンさんだってもうお仕事の時間でしょう?」
彼女は私とクラウスに重ねてレモネードのお礼を言うと去って行った。階段を昇るその足音が聞こえなくなった時、カウンターで静かに開店準備をしていたクラウスがシグルーンの鼻先を軽く小突いた。
「お前はいい加減距離感というものを覚えろ、シグ」
「私、なにかお気に触るような事を言ったかしら?」
「そういう訳じゃ……ただメイドの給料でここのバーを勧めるのは酷だろ。あとお前は誰にでも馴れ馴れしすぎる。オーナーが言うように、ここはキャバレーでもショーパブでもないんだ」
クラウスはこう言うが、レナーテが急に態度を変えたのは少なくとも金銭面でのひけめからではないように思える。彼女の抱えていたバスケットの中には大玉のメロンが堂々と横たわっていた。まだ王都近くの農園ではメロンの収穫には早いから、温室育ちの高級品だろう……つい先日上階レストランのシェフがこのまろやかな果実をデセールに使おうと企て、予算オーバーだと副支配人に却下されているのを従業員食堂で見かけた。『二束三文』だと彼女は言ったものの、画家先生の絵は彼女達に豊かな暮らしを提供しているようだ。
ではレナーテのあの驚いたような反応は何だったのだろう。すぐに取り繕われたあの半秒、まるで茨の棘に触れてしまったような、幼子が幽霊の影に怯えるようなあの仕草……
「ところで、あの方はどなただったんですか」
危うくぼんやり考え込みそうになったところをクラウスの問いかけに引き戻される。
「あぁ、道端で助けてくれたメイドの子だよ。レナーテっていうんだ」
「苗字は?」
「えっと……ベンジャミンじゃなくて、ボヌールじゃなくて……」
そういえば苗字はしっかり聞いていなかった。カミラさんが「いい名前だね」と褒めた名前、去年の取調べの時に彼女が名乗っていた名前を、脳内中の引き出しをガタガタ言わせて思い出そうとしていると、クラウスが「ベルナールですか」と一言で的中させた。
「それだ!」
思わずぽんと手を打ってから不思議に思ってクラウスを見ると、彼は眉間を抑えて深いため息をついていた。
「知り合いなの?」
レナーテの母親は昔このホテルで働いていたと言った。クラウスが何歳からここで働いているのか詳しくは知らないが、もしかしたら彼女、もしくは彼女の母親と面識があったのかもしれない。しかし彼は諾うことはせず、ソファ席に沈みこんでどこか遠くを見つめるように考え込んでしまった。きょとんとして私達の話を聴いていたシグルーンも心配げに「クラウス、寝不足?今日はもう寝る?」と彼に寄り添うようにソファに掛け、尋ねる。
「違う……し、今から仕事なんだから寝れないよ」
呑気なシグルーンの問いにクラウスは珍しく苦笑まじりの表情で答えた。滅多に笑わず、慇懃な態度を崩さない彼も、シグルーンにだけは砕けた口調で話す。付き合いの長さ故だろうか……と考えた所で、もしクラウスとベルナール母子に面識があるとすれば、それはシグルーンも同じではないかと思い至った。レナーテのあの反応も、昔何かがあったのだとしたら説明がつくだろうか。とはいっても、レナーテの母が存命だった頃といえば8年以上も過去のことだ。ここ1年の記憶しか持たない私には、何があったのか想像もつかないが……。もしそうだとしたら、あたかも初対面であるかのような態度を貫いたシグルーンは、幼さが故にレナーテの事を忘れている?
いや、シグルーンは無邪気な顔をして、ポーカーをはじめとしたギャンブルでは負けを知らない程の凄腕だ。もし、彼女が賭けの最中と同じように平然と嘘をついたり隠し事を出来る子なら……青い瞳を盗み見ると、彼女はすぐに気が付いて「ジョンもおねむ?」と私を甘やかすようににっこり微笑む。心がとろけるような可愛らしい笑顔は全てをどうでも良い些事にしてしまう魔力を持つようで、私は今度こそ考えるのをやめた。そろそろ髪を梳かし蝶ネクタイを締め、開店準備に取り掛からねば。
「眠くない!今日も頑張るぞ!って思っただけだよ」
「ほどほどにがんばりましょうね!」
実に彼女らしいのんびりした返事だ。シグルーン・ミューラーはやはりこうでなくては。
私がその広告に見惚れて交差点に美酒をご馳走した日から数週間後、王立美術館で催された新進気鋭の画家達による展覧会は大盛況を博したが、それは一枚の絵が盛大に脚光を浴びたからだった。
その絵はとある画商によって会期の始まる寸前に無理やりねじ込まれたようで、会場の一番隅にこぢんまりと飾られていたものだったが、会期初日に訪れた女王陛下がこの一枚を大層気に入りその場でお買い求めなさった事がセンセーションを巻き起こし、面白半分で冷やかしに来た文化人達の心をしかと掴んで雑誌や新聞のコラムは連日この小さな絵への賛辞の嵐、噂が噂を呼ぶ形で今日、今まで絵画に興味もなく大通りを素通りしていた人々ですらこの絵見たさにその足を止め美術館に列を成すらしい。
作者は明かされておらず、絵の端の走り書きのサインから、その画家の名前が「カミーユ」や「カミロ」あたりの名前であるという事だけが分かっているらしい……と、ここまで聞いて私には思い当たる節があった。
美人画という主題、あまりに高い描写力からこの画家は男だとばかり思われているが、Camille(カミーユ)、Camillo(カミロ)の最後の文字をaに変えるとCamilla……レナーテの主人の名であるカミラになる。この展覧会まで全くの無名であったこと、その絵に描かれたのが暗く長い髪のメイドである事からも、そうだとしか思えない。
この事を他言するつもりは無かった。レナーテの語る画家は浮世を煙たがり森に引き篭る厭世的な人物像だ。どういった取引があったのかは知らないが、素性を隠しての出品が画家とメイドの妥協点だったのではないか。
しかし皮肉な事にそのミステリアスさもまたスパイスとなり、市民は皆……我らがバーのお客様方も謎の画家の正体を推理する遊びに夢中になっていた。正解を知っている身としては、彼らの的はずれな推理を聴くのはむず痒くて仕方がない。
「大学の連中はもとより、図書館でも画集という画集が貸出中になっている。それも、有名な画家のものよりも有志で出版された同人誌同然のものばかりだ。アートアカデミーの卒業者名簿まで貸出中で、予約待ちが十人もいる始末だ」
こうしてたまにダイナーで会う堅物司書テオドールですら、ため息混じりにこの探偵ごっこを始めた。
「テオはあの画家に興味無いの?」
「興味はある。ただ、絵については俺の好みでは無いな。世間ではアートアカデミーを出た田舎貴族がこっそり別名で画家をしているだとか、密輸された外国の有名画家の筆だとか言われているが、恐らく違うだろう」
「なんでそう思うの?」
「『王立美術学校の生徒の8割が男性だから、あれだけ描ける画家は男性に違いない』という決めつけから疑ってかかるべきだ。確かに描写力には目を見張るものがあるが、作者はきちんとした美術教育を受けたわけでは無さそうだ。あの絵の明部を見ると絵の具の層はごく薄く、色鉛筆か何かで白いキャンバスに直接淡い色を乗せただけにも見える。アカデミーで習う油画技法は様々だが、写実をやる者の殆どがなんらかの色の下塗りに上塗りを重ねる間接画法をとっていて、あの絵のように下塗りを省くやり方をする生徒はほぼいない……アカデミーの連中は薄々気がついているだろうが、世間の評判を独占する作家が外部の人間とあっては名が折れるので誰も言い出せないでいるんだろう。さて、ではなぜあそこまでの実力と熱量を持ちながら、美術学校に進学しない?ひとつ、高すぎる家柄が放蕩を許さなかった……これはありそうだが、あの絵の背景の部屋は小綺麗でそこそこ裕福に見えるものの貴族の大豪邸には見えない、却下。ふたつ、王立学校に通うには貧しすぎた……これも同様の理由で却下。みっつ、ありそうもない話だが、まだ幼い子供が描いたという説。これも恐らく違うだろう、絵の水平線の高さ……これはつまり作者の目線の高さだが、ここから推測するに作者の身長は170センチ程度はある。王立美術学校には13歳から入学できるのだから、これも却下。よっつ、作者は身分の高い女性であり、男性主体の画壇に名を連ねるには慎み深すぎた。これがいちばん妥当じゃないか?サインに入ってる名前だって、カメリアやらカーミラやら、似た綴りの女性名はいくらでもあるだろう?画家は女性かもしれない」
彼がすらすらと披露する推理の切れ味に私は食べていたベーグルを噴き出しそうになり、苦心して平然とした表情を取り繕った。
「絵をつぶさに観察すると、寧ろ世間知らずの深窓の令嬢が描いたという方が納得できる。あの絵の長所は優れた色彩表現だろう。統計的に色に敏感なのは女性、明暗に敏感なのは男性という研究もある位だから、あの絵を描いた画家が女性である可能性は割合高い。女性の場合、特に優れた四色型色覚を持つ者も少なくない。ろくな絵も載ってない同人画集なんかを借りるより、こうした論理的な根拠を求めて外国の研究論文などを借りる方が有用だ……まぁ外国の書類は一般人には貸し出せないが。明暗については少しなおざりと言うか、俺から見ると少し薄暗く感じる。多分作者の虹彩は俺の持つヘーゼルの色より濃い茶褐色で、青や緑ではないだろう」
「女性が描いたというのは分かったよ。それが深窓の令嬢だと思うのはなんで?」
「当て勘だが……あのメイドの絵がこうも持て囃されるのは、現実のメイドには無い美しさを持っているからだ。あの絵のメイドは美しいが、下卑た官能の要素や俗っぽさを全くと言っていい程感じない。男が美人画を描いてもなかなかああはならないだろう……少なくとも女性を性的対象とする普通の男は。女でもすれっからしでは無理だろうな。あの絵のメイドは子供向けの絵本の姫みたいだ。幸せな結末以外知らない、満たされた女。実際のところメイドの暮らしなんてもっと過酷だろう。雇い主によっては苦役になると言っても良い。あれは良く描けた写実的な絵だが、写実主義じゃない。世俗の苦労も知らず育った富裕階級の若い女が、手遊びにモデルを雇って風俗画らしく描いてみた物じゃないか?」
テオは絵のクオリティについては一定の評価をしつつも、その口調は通俗的なものを見下すようだった。きっと拙い推理ごっこをする世間の事も同様に蔑視しているのだろう。
だが、レナーテの境遇を除けばその推理自体は殆ど正解だ。あのように仲の良い主人とメイドなどなかなか見ないものだから、この点については推理が及ばないのも仕方があるまい……老練な外国の画家の筆だの、画壇を彩る巨匠の何某が覆面で描いただの妄言を吐くバーの客達からすれば、ずばり屋敷に蟄居する富裕層の少女の筆と言い当てた彼の洞察力は恐ろしい。しかし彼は感心する私にくすりと笑い、付け足した。
「今話した事は全部出鱈目だ。冗談でその辺のいい加減な輩みたいな推理ごっこをしただけだよ。なんとなく描き手の当たりをつけていたから、犯人が分かってから証拠を探すみたいなものだったんだ」
なかなかいい性格をしている。彼の推理に聴き入って溶かしてしまったコーヒーフロートが偲ばれる。
「あの画家を知っているの?」
「名前や顔は知らない。知っているのは過去の作品について少しだけ……あれよりも拙いものの、あの絵の画風とよく似た絵が図書館の近くのコーヒーハウスに飾られているんだ。店主によれば6年前、とある画商の元に何十枚もまとめて売り飛ばされたものの1枚だったらしい。売った人間がメイドの女で、描いた人間はその主人の若い女らしいという事以外定かでない代物だったが、その全てが黒い髪のメイドを描いたものだったそうだ。とはいっても、王立美術館の絵に描かれたあのメイドではないようだが……雇うモデルを変えたんだろうか」
この話についてはよく分からないが、レナーテがカミラさんに出会ったのが4年前だと言うのだから、それ以前の話だろうか。カミラさんの過去についてはレナーテですらよく知らないのだから、赤の他人である私の知る由もない。
「なんなら今、そのスケッチを一枚持っているんだ」
「えぇっ、本当?なんでまた?」
「館長の思し召しだ。うっかりこの話を同僚にしたのがまずかった。超新星の画家の過去作品かもしれない絵を是非館内に飾りたいから、なんとしても見つけ出してこいとの命だ。それで今日は遠出してその画商の元を訪ねてきたんだ」
なるほど、どこの仕事も大変だ……と思っていると、テオは小さめのカルトンを開いてその絵を見せてくれた。クラフト紙に白と黒の鉛筆のみで描かれたものだったが……
深い鹿毛色のウォルナットで造られた階段の踊り場に、斜めに柔らかな金色の日の光が差していた。暖かく心地良い新緑の匂いの風が重苦しい緑のカーテンを柄にもなく機嫌良さそうにはためかせている。窓を開けたメイドが、階段下から見上げるこちらに気がついて微笑みかける。
「お嬢さま」と、柔らかい声につられてふと見上げたが、テオドールが頬杖をついているだけだった。
「どうした?」
「多分、これはあの画家の筆だと思うよ」
「最初からそう言っているだろう……?」
テオは不思議そうだったが、私は彼の理屈っぽい裏付け抜きでも先程聞こえた気がした声はカミラさんの記憶だと確信したのだった。そのことをどう説明するか迷っていると、時計塔の鐘が鈍い音を響かせた。きっかり五つ。
「あ!もう5時、ごめんテオ、これで払っておいて!」
私はポケットから出した紙幣を机の上に置いて慌てて店を飛び出した。
「そこは段差があるぞ、気をつけろ!」
テオの呆れた声を蹴つまずきながら聴いた。
グランドホテル・エル・ドラド地下のバーは、格式高いホテルの名を汚さぬよう、品の良さに見合った価格帯とある程度の敷居の高さを保っている。気取りすぎない雰囲気が貴族階級から労働者階級までに親しまれているが、それだって医師や弁護士などの高位専門職、各界名士に大学教師など、「師」または「士」のつくような職業の客層がメインとなる。
そういうわけで基本的に我らがバーのお客は品が良い。ただ、金を手にしたものの品性が追いついてこなかったような客も稀に居り、ごくごく稀な事ではあるがこのバーでも正体を失った酔っ払いの諍いや、その延長線上の喧嘩は見られる。
昨夜訪れた地方のやんごとなき家柄の出身と名乗る客数名、彼らのたちの悪かったのは、身内同士ではなく彼らにお酌をしていたシグルーンに乱暴しようとした所だった。
近くのカウンターに居たクラウスが客に向かって酒瓶を投擲したのはホテルとしては大問題だったが、彼がそうでもしなかったら私とてこの軟い腕で殴りかかっていたかもしれない。
あわやバーテンダーと客の乱闘騒ぎになるかと言うところ、客として居合わせたヴィオラがその厄介な連中を(実に楽しそうに)始末し、彼の連れであるリストが(うんざりした色を隠しきれない表情で)店の電話から治安維持隊へ通報してくれた。
「もー、このおたんこなす!僕『平和的解決を』って言ったよね?」
ゆったりした振る舞いの彼にしては珍しくがちゃりと音を立てて受話器を電話に戻した後、リストはヴィオラに向き直って言った。ヴィオラは手をひらひらと振って悪びれる様子もない。
「だからクラウスが手を上げて乱闘になりそうな所まで待ってたし、最終的に全部素手で解決しただろ、仰せのままに」
「手もあげないでって話!暴力沙汰になると捜査する方も大変なんだから。法務総裁の同居人が犯罪者なんてとんだ笑いものだよ」
「逆に考えろよ、お前がお偉いさんで良かったぜ。俺はやりたい放題だ。だいたい俺が手をあげなかったら最初に瓶を投げたクラウスに責任が問われるだろ。あ、瓶を投げたのも俺って事にしとけよ、バーテンダー」
この男は気遣いが出来ているのか頭がおかしいだけなのか私にはまだ分からない。長年の付き合いであるリストの反応を見るに後者なのだろうか。
「警備員か治安維持隊が来るまで時間を稼いでくれればそれで良かったんだけどなあ?」
「どうせ大した家柄でも無いだろうけど、腐っても貴族階級相手だ、後で騒がれたら手間だろ。その辺の力自慢に任せるより、家柄でバトルしても負けない奴が片付けた方が色々都合良い」
パンキッシュなTシャツ姿に反して、ヴィオラの血統は相当に由緒正しい……らしい。又聞きだ。いや、この格好で王家公認ホテルへの出入りを許されているあたりは寧ろ彼の家柄を証明しているのかもしれない。
のらりくらりと交わす連れにリストはそれ以上の反駁を諦めたようで、じとっとした目で言う。
「君に任せた僕が間違ってたね、ごめんごめん……」
彼は今度はそのままブロマイドとして販売出来そうな完璧な笑顔で遠巻きに見ていた客達を振り返り、大声で言った。
「お騒がせしました。この人達はさっさと治安維持隊に引き渡すから、皆様どうぞごゆっくり」
「壁の絵が台無しですね」
駆けつけた治安維持隊とリストの指揮によって悪漢どもが片付けられる頃にはクラウスの怒気は醒め、またいつも通りの冷たく気だるげな調子に戻っていた。彼が醒めた目で見るのは、飛び散った酒瓶の破片が無惨にも突き刺さった風景画だ。大人に襲われかけたというのにけろりとしているシグルーンも、どちらかというとこの絵画の損失の方を悼んでいそうだ。
「綺麗な絵だったのに残念だわ」
「それ、そんなに値打ちものだったの?」
「ホテルの格に釣り合うくらいには」
うんざりした顔で私の問に答えたクラウスを、ヴィオラがこっそり指で合図して呼び寄せる。
「絵なら安く譲ってくれる所を知ってる。海辺の町の7番通り、古物屋の2階で画商をしているアルフォンスという男が居るんだ。俺の名前を出せば優遇してくれるはずだ」
「なんでヴィオラが画商さんと親しいの?」
彼は派手な映画は好みそうだが、絵画のような類の芸術作品に興味がありそうには見えない。
「密輸入の外国の画家の絵をそいつに売り捌いてやってるんだ。お前、リストには言うなよ。勘づかれているとは思うけど、動かぬ証拠が出たら俺は今度こそ家を追い出されてお縄だろうからな」
ヴィオラは私を指さして忠告した。クラウスは呆れて閉口しているが、外国の絵が格安で手に入るというのには惹かれた様だった。それもそのはず、外国の美術品は女王の鎖国宣言以降新たに輸入する事が禁じられたために既存のものの値段が跳ね上がり、大変な値打ち物となっているのだ。バーに飾れば多少の話題になるし、部屋で埃をかぶせていても資産になる。
「ジョン、明日行って適当に見繕ってきてください」
「私よりクラウスの方が適任じゃないの?」
「私だって高尚な審美眼なんて持ち合わせてませんよ。このバーにそんな趣味の良い者がいる訳無いんですから、誰でもいいんです」
大方、勤務時間外に遠出するのを億劫に思ってのことだろう。道端でメイドとぶつかって絵を破いたりしないように、と釘を刺された。
「私もついていっちゃだめ?」
この場でシグルーンだけが無邪気に面倒な遠出を羨んでいた。それもそのはず、この子は塔の上のお姫様のごとくこのホテル、それも地下のバーと彼らの居室のある半地下の往復から外に出ることは許されないのだった。彼らが終日休みを取っている新月の日のうち年に二三回、日が暮れた後の夜の街にクラウスと一緒に洋服を仕立てに出る事があるかどうか。彼らの部屋の窓からでもホテルの裏庭くらいは臨める筈なのだが、あの部屋に執拗なほど何重にもかけられた厚い緞帳はビロードの毛足と積もった埃の区別も出来ない有様で、恐らく取り付けられてこちら一度も開かれた様子が無い……つまり客の話を除けば、彼女の知る外の世界は半地下の使用人ホールの出窓から見える、雑踏を行く人々の脚くらいだった。炎天下で陽炎のようにゆらめく水平線も知らなければ、寒い夜の空で女神の瞳のように冷たく見下ろす青い月も知らない。
「この暑いのに出歩いたら、お前なんか1分で蛞蝓みたいに乾涸びて死んでしまうだろ。外になんか出なくていい」
シグルーンの我儘なら渋い顔をしつつどんな事でも叶えているクラウスが、この点だけはなかなか譲らないのだ。彼にどんな意図があって彼女をこのホテルに幽閉しているのかは分からない。その癖、品性がある場とはいえ酒場で歌い手などという水商売をさせているのだから、ただの過保護にしてはちぐはぐだ。しかし彼らの間にはどこか踏み込みにくい空気があって、未だに理由を聞いたことはないのだった。
「そうかしら……ジョン、乾涸びないように気をつけてね」
残念そうな少女に、帰り際にキャンディを買ってくる事を約束した。

前回⬇️ 今度こそ風呂敷袋を持って、私はまた海辺の町へ繰り出した。 夏の盛りが近付くこの時期、美しい海のエメラルドグリーンが白い建物の壁に反射して、町中が青っぽく見える。ときおり覗く赤褐色の岩肌や木組みのオレンジが鮮明なコントラストを作る、この国の夏の色合いが目に眩しい。 画商の営む店は白い壁の建物が...
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