前回⬇️

前回⬇️ 王宮から城下の街へ続く橋の方まで足を伸ばしたのは久しぶりだった。決められた規則通りに生活していると、おのずと女学院の外に出る事も少なくなる。ブラックウッド領から王都まではそう離れてはいなかったけれど、学院の生徒に路面電車の運賃に充てる余分な金を持っている者などほとんど居なかった。家政専門学...
女主人に導かれたのは森の奥深く、蔦の蔓延る古風な二階建ての屋敷だった。
重厚な玄関ドアを軋ませて開けると、広間にちょっとしたクローク、奥手に2階へ続く階段が見える……が、一体何処を歩けばいいのやら、見える範囲の床は殆ど脱ぎ散らかした服や、鉛筆の線が数本這うだけの描きかけのキャンバス、埃を被った厚い表紙の本や、見たことも無い妙な雑貨に埋もれている。その上を這うなにかの虫の群れが私の訪問に驚いてカサカサ逃げ出しているのは見なかったことにしたい。
「いらっしゃい。あのね、片付ける意思はあったんだよね、ちゃんと……」
唖然とする私にばつが悪い顔で弁明するカミラさんの足許へ、どこからか毛足の長い美しい猫が優雅に現れて擦り寄った。彼女はそれを抱き上げて言った。
「これはマカロニって言うんだ。他にも2匹いるよ。三毛でのんびりしてるのと、黒くて痩せぎすの。彼女達のおかげでネズミだけはいないんだ!」
「三匹も……」
「他のには今のところ名前を付けてないんだけど……そうだな、とりあえずパスタとペンネにしようか」
彼女のネーミングセンスには閉口するとしても、この部屋の片付け、猫の毛掃除のおまけ付きを思うと気が遠くなる。カミラさんの腕から逃れたマカロニが、「汚い家ですが」とでも言い出しそうな顔で歓迎するように可愛らしく鳴き、ふさふさの尻尾をぱたぱたさせた。
カミラさんは屋敷を軽く案内してくれた。
まず最初に確認したのは埃に覆われたクロークの鏡だ。この屋敷の女主人はきちんと曇った鏡に映っていて、私はアガサの冗談を信じていた訳ではないのに妙に安心した。吸血鬼は鏡に映らないのだ。
この屋敷は二階建てで、大小合わせて10部屋程を有していた。森の真ん中に建っているというのに、木こりや猟師の住むような丸太小屋とは格が全く違い、かと言って領主館のような重々しい荘厳さとも無縁だった。強いて言うならば、王都の富裕な中流階級の家が1人でに歩き出し、野を越え川を越えやって来たみたいだ。しかし全てが美しく保たれた女王陛下ご自慢の王都では、街中探したってこんなに汚い屋敷などあるまい。目に入る部屋はどこも本当に酷い有様だった。ただ、がらくたに埋もれる家具をよく見てみれば、かすり傷があるものの繊細な彫りの施された猫足、埃に塗れて尚鈍く輝く真鍮、猫の足跡がくっきりついた緞子など、ひどく高級な品ばかりでもあった。
特に酷いのはカミラさんの寝室の上にある屋根裏部屋だった。数多の服や本、食べかけのクラッカーや腐った果物を踏み越えてここに到るまでに、私はもうこの週がまるまる掃除に費やされる事への覚悟を決めていたが、極めつけにこのアトリエを見た時にはもう一度絶句した。
狭い室内にイーゼルが何台も並んでいるが、その殆どはしわくちゃの外套や寝巻きが何重にも乱雑に被せられていて、重みに耐えかね傾いている。備え付けられたシンクは絵の具が詰まっているようで、洗うことを諦められたカラフルな筆や布巾達が山を成していた。天窓に降り積もった埃を見る限り恐らく一切換気をしていないのだろう、こびり付いた絵の具とシンナーの匂いが鼻をつき、大小の黄ばんだ石膏像達は青白く差し込む月明かりのもと、魂を持ったような目をしてアトリエの闖入者たる私をじろじろ眺めた。私は彼らを睨み返してー目つきの悪さでは負けないのだーこれは片付けの時に捨ててしまおうと決めた。
案内が済むと女主人は広間の右手、ダイニングらしき部屋ー勿論ここも酷い有様だったーのテーブルの上のものを床に退かして、オレンジジュースとハムサンドによる簡単な歓迎をしてくれた。とりあえずこの夕食からは変な匂いはしなかったので、この屋敷でほぼ唯一腐っていない食物なのだろう。
「今日は疲れただろうから、もう休むといいよ。こう見えてガスも水道も通ってるから、シャワーは何時でも使えるよ。バスタブは掃除しないとだけど……君の部屋は2階の左手側、階段から1番遠いところにしよう。あそこは使ってないから散らかってないはず」
カミラさんは広間から不揃いの椅子を2つ引きずってきて、木製のスツールの上に胡座を組んでハムサンドを頬張りながら説明した。もう1つ、酷く高級そうな柔らかいビロード貼りの椅子に勧められるがまま、私もおずおずと腰掛けた。
「あの、私木の椅子で構わないのですけど……」
「椅子?柔らかいの嫌いなの?」
好きも嫌いも、そもそもこんな上等な椅子に座ったことが無い。主人より良い椅子にふんぞり返るメイドなんて前代未聞だ。
困惑していると、女主人は食べかけのハムサンドをナプキンの上に起き、真顔で言った。
「ひとつだけ言っておこうか。私が守って欲しいのはこれだけ。あんまり私をご主人様扱い、お嬢様扱いしないで欲しいんだ。君も対等に、この家のいち住人だと思って欲しい。もちろん、君がメイドのように暮らしたいって言うならそうすればいいけど、それでも私はご主人様ではないよ」
最初の1週間で家中の皿という皿を洗い、埃という埃を払って、ありったけの洗剤を使って洗濯をしてしまえば、カミラさんとの暮らしは想像よりもずっと楽だった。彼女について分かったことがある。
まず一。最初の夜に言ったように、カミラさんはご主人様扱いされるのを嫌った。「友達と話すような感じでやろうよ。その方が気を遣わなくて済むだろ?」というのが彼女の言だが、私はどうしても雇用主相手に砕けた口調で話す気にはなれなかったので、呼びかける時は「ご主人様」「お嬢様」ではなく「先生」、慇懃な言葉遣いは極力避ける、という点で妥協してもらった。
彼女はその言葉通り、私を使用人扱いするのではなく同居人として接した。例えば私は家のどこにあるどんな立派なソファにでも寝転んで良かったし、お茶の時間には持ち手の細い高価そうなティーカップで紅茶を飲むことも出来た。日に三度の食事と掃除洗濯さえこなしていれば何をしても良い……いや、それすらしなくても先生は文句のひとつも言わないだろうけれど、給料を貰う以上そこはさぼるつもりは無かった。
二。先生は本当に生活能力が無い。初めて訪れた時の散らかりようは竜巻が室内に吹き荒れたのかと疑うほどだったし、食料棚には瓶詰のフルーツジュースにハム、チーズと乾いたバゲットが半ば黴ているだけ、使われた食器が雑に重ねられたキッチンの隅にガス式の冷蔵庫が置いてあるものの、中には傷んだイチゴがドロドロに溶けているだけだった。今までどうやって暮らしていたのだろう。
私はまず市場への道を覚えて、食品や調味料、錆びていないフライパンや包丁を買い込むことから始めた。あまりに足りない物だらけでー片付けの時に気持ちが良くなって殆どのものを捨ててしまったからだー日に何往復もする私を見兼ねた先生は市場に着いてきて、荷物を運ぶのを手伝ってくれた。
三、先生は日がな一日絵を描いているか、本を読みつつ3匹の猫を撫でて暮らしている。絵を描いている時の先生は何を言っても生返事で、かといって本人の気が済むまで好きにさせていたら翌朝空腹で床に倒れていたりする。私は食事の時間、掃除をしたい時、寝かせるべき時間は遠慮なく先生をはたきではたいてキャンバスの前から退かせることにした。幸い、先生は芸術家にありそうな気難しさはあまり持ち合わせておらず、私がそうして水を差しても「あれ、レナだ。いつから居たの?」とけろりとしていた。
そんな生活だから、元々は美しかったのであろう赤毛は荒れ放題だった。私は主人の着付けや髪結を手伝う事も習っていたので、彼女の髪を動きやすそうな長さまでざくざく切った。先生は鏡の前で私の手つきに感心しながらされるがままにしていた。
ついでにこちらも伸び放題だった猫達の爪と毛も刈ってやった。自身の抜け毛や爪研ぎが掃除の負担になっていることを薄々悟っていそうな賢いマカロニは大人しく身を任せてくれたが、ほか二匹には手を焼いた。特に痩せぎすの黒猫ペンネは私の事が嫌いなようで、先生と二人がかりで布でぐるぐる巻きにしてようやく爪を切った。この一件でペンネは余計に私を嫌ったのだが、私の方もこの猫は例のフットマンの言葉を思い出すので苦手だった。
ペンネは先生にだけ可愛い顔をするのもまた小憎たらしいのだった。
「先生はその黒猫に騙されているんです」
絹織の高価な絨毯にひっくり返って先生にお腹を撫でてもらっているペンネを目の端に私は忠告したが、
「そういう小狡いところが猫の可愛いところだろ?」
と先生は鷹揚に言うのだ。主人の威を得た無口なペンネは鳴き声をあげる代わりにごろごろ喉を鳴らした。
「他の猫は可愛いですよ、先生と一緒でおやつをちらつかせればなんでも言う事を聞きますから。黒猫は計算高くて生意気で、まるで動物じゃないみたい」
「そんなに言わなくても、君だって猫達と張れる位に可愛いさ。あんまりやきもち妬かないでよ」
猫と一緒に床に寝そべった先生が上目遣いに揶揄った。ペンネは先生の腕の影から小馬鹿にしたような目をきゅっと細めた。本当に可愛くない。
しかしペンネは別としても、この屋敷で暮らして数ヶ月になる頃には賢いマカロニ、のんびり屋のパスタは座って繕い物をしている時に膝に丸まって収まるようになり、掃除の邪魔でしかなかった彼らにも次第に愛着が湧いてくるのだった。
四、先生は偏食家である。特にサラダや魚料理が嫌いで、この辺りのものは猫達もそっぽを向くので食卓に出したとしても私が全て平らげてしまわねばならなかった。栄養が偏ると口を酸っぱくして言ってみるものの、「嫌々食べるなんて食材に失礼じゃないか」と屁理屈を捏ねて聞きやしないのだった。実際、偏った食生活の影響か先生はよく体調を崩して寝込んでいる。特に月のものが来た時など1日寝室から出てこないので、毎食ゆるく茹でたヌードルやミルク粥を寝室まで運んで無理やりにでも食べさせなければいけなかった。
そんな病弱には付き合いきれないという訳で、私は先生の苦手な食べ物を上手く料理の中に隠して食べさせる方法を編み出した。ほうれん草はすり潰しどろどろになるまで煮込んでポタージュに、つるむらさきは刻んでキッシュの中に詰め込んで、魚は下味をしっかりつけてカラッとフライに。私が言えたことではないけれど出会った頃の彼女は痩せすぎだった。今の先生の健康的な身体は私の努力の結晶なのだ。
あと必要なのは適度な運動。屋敷から出たがらない先生のお尻を叩いて、少なくとも週に一度は街まで買い出しに連れ出した。家を出る時は不承不承とぼとぼ着いてくるのだが、先生は単純なので帰りにクランベリージャムをたっぷり挟んだスコーンを買えば満足した。私は何歳の子供を相手にしているのだろうか。多分五歳くらいだろう。
五、先生はとてもお金持ちである。賃金について事前に話し合っていなかったので私は少し不安だったのだけど、最初の月末にその話を切り出すと、「2階の階段の右の部屋、入ってすぐのライティングビューローにお金が入ってるから、好きな時に好きなだけ持って行っていいよ」と、とんでもない事を言った。その観音開きの棚を開けてみれば、積み上がった札束にチェストから溢れる金貨、その他目が飛び出でる程美しいジュエリーや束になった銀行の手形、何かの権利書が詰め込まれてー文字通り棚がはち切れそうな程適当にぎゅうぎゅう押し込まれてーいた。私が変な気を起こしてお金を持ち逃げしてしまうなどとは考えないのかと尋ねたが先生はお構いなし、この富に全く無頓着なのだった。私は一般的なメイドの給料分を毎月最後の日にその棚から頂いている。先生は全く把握していないのだから、私の主人はどちらかというとこのマホガニーのライティングビューローかもしれない。
ただこれには少し語弊がある。先生は唸るほどの財産を持て余していたが、私たちは金欠だった。矛盾しているようだけど、一重に先生が強情に「ここにあるものは一切換金しないよ」と言い張るのが原因だった。理由は聞いても頑として教えてくれない。
「そんなこと言っても先生、もう貨幣は全く残ってませんよ。銀行の手形なら……」
「やだ!それなら飢え死にした方がましだね」
「私は餓死なんてごめんです。1人で飢えててください」
しかしこうなったら私が街に出稼ぎに行くしかないのかもしれない。昼間に街のレストランでウェイトレスやコックをやるくらいだったら、先生の世話をしながら働けるかも……とここまで考えて、これじゃ本当に5歳の子供を養っているみたいだと気が付いた。だいたい雇い主を食べさせていくために出稼ぎに行くなんて本末転倒だ。
この問題は私の頭を長らく悩ませていたが、先生も珍しく現実的な問題にその脳を明け渡しているようで、ここ一週間はイーゼルに向かうことも無く上の空、廃人のように過ごしていた。話しかけても聞こえないようで返事がないので、私は猫達に構いつつ、王都の求人冊子を読んで暇を潰した。
「レナ、この家にある物でひとつだけ、売ってもいい物があるんだ」
先生は夕食の席でおもむろに、1週間ぶりに口を開いた。あんなに強情だったのにどういう風の吹き回しだろう。
「絵だよ。私の絵。二束三文だったとしても枚数はあるから、暫く糊口は凌げるんじゃない?」
「絵を?画商に持っていくって事ですか?」
「そう。昔売ったことがあるんだけど、まとめて売れば小金になったみたいだよ」
「良いんですか?売っちゃって」
先生が描いた絵は確かに屋敷中溢れかえらんばかりにあるけれど、それは先生にとって大事なものだと思っていたから売ろうなど毛頭考えてなかったのだ。
「それで君の悩みが解決するなら良いんじゃない?」
先生はあっけらかんと言ったので、私は次の日素人目に出来が良さそうなのを数枚風呂敷に包んで城下町の画商に持って行った。私がモデルのものは気恥しいので、猫や風景を描いた物を中心にしたけれど……。
それは確かに相当な金になった。私に絵の相場は分からないから、ひょっとしたら買い叩かれているのかもしれなかったが、私の知人で唯一絵に詳しい先生ときたらこの世の全ての物の相場を知らないのだから確かめようもない。
兎にも角にも、これで私達は食べていくのには困らなくなった。
六、先生は過去を明かしたがらない。かといって、なにか後暗い事をしてこの財を蓄えたわけではなさそうなのはすぐに分かった。片付いた食卓の上できちんとした食事を出してみれば、先生の所作はー彼女は意識していないようだったがーとても優雅で美しかった。ある日食後に苺のミルフィーユを出した時、横に倒すこと無く、パイ屑やクリームでお皿を汚すことも無く綺麗に平らげていたのを見るに、相当躾の厳しい上流家庭に育ったのではと察される。
彼女は私と会話することを好み、色んな面白い話をしてくれたが、そこにはただ森にひきこもって画家をしているだけでは身につかないような多分の教養が含まれていた。しかし、先生がお道化て話してくれる色々な話題の中に彼女の過去については一切含まれなかった。ただ一度だけ、野良同然の猫たちの中一匹だけお行儀の良いマカロニについて「私が子供の頃から一緒に居たからね。生き物の世話でもさせれば少しはしっかりするかと父が血統書付きの子猫を買ってきたんだけど、むしろその子猫の方が私のお目付役みたいだったよ」と笑って語っていた。勿論、すぐにパスタを拾ってきた日について話題を逸らされてしまい、それ以上『父』や『子供の頃』について教えてくれる気が無いのは明らかだったが。
とにかく暮らしに不自由した事など1度も無いという事は容易に想像がつく先生だったが、だからといってお淑やかなお嬢様らしい方かと言えばその逆だった。
足音は楽しい音楽でもかかっているかのように高らかに響いているか、或いはその気分でない時は猫背の体を引き摺るように殆どすり足で歩いているかの2択。女学院で教えられたように背筋をしゃんと伸ばしてしずしず歩く先生など、想像も出来ない。
「そんな事言ったって、楽しい時は浮かれていたいし、だるい時にお行儀なんて気にしたくないじゃないか。常に姿勢正しいレナがすごいんだよ」
「私はあれをやりましたから、本を頭に乗せて歩く練習。女学院からは稀に良家に嫁入りする娘も居たものですから、全員必修でした」
「げぇ……」
ティータイム、書斎のソファに沈み込み、小説を片手にご機嫌で無花果のタルトを堪能していた先生は、眉間に皺を寄せて苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。淑女らしからぬくしゃくしゃの顔が面白くて追い打ちをかける。
「天井から糸でつむじを吊られているように背筋を伸ばして、膝を曲げずに真っ直ぐ歩けって。コーデリア・ブラックウッドみたいに」
「コーデリア……誰だって?」
先生は読みかけの本の影から胡乱げに尋ねた。先生と来たら王立音楽学校のスターたるイーライ・ジェンキンスも、グランドホテル・エルドラドの支配人クリスティーナ・ライラック女史も、それどころか司法総裁のリスト・エレーン氏の事すら知らない世間知らずなので推して測るべきだったが、この地域に住んでいながらその名前を知らないなんて事が有り得るのだろうか。
「ブラックウッド家がこの一帯の大地主なのは流石にご存知ですよね?ひとり娘のコーデリア嬢は女学生の憧れの的でした」
「知らないし、そんな奴らは毎日天井から首を吊られたみたく死んだような人生を歩いてるんだろうね。だいたい、君達だってその小娘を実際に見た訳でもないんだろう?」
「見事な金の巻き毛に思慮深い青い瞳、淑女として完璧な作法を身につけた方だって聞きました。お目にかかった事は無いけど、それが深窓の令嬢というものでしょう」
「ふうん、シュレディンガーの令嬢ってわけだ」
私は実際に先生の頭に本を乗せてみたが、ふらふら歩くのが癖になっている先生は2、3歩たりとも続かず、「私は頭が丸いんだな」とおかしな言い訳をしていた。
七、先生はしばしば私に絵のモデルになる事を頼んできた。
モデルと言っても寸分たりとも動かず固まっている必要は無く、最初にカフェで私を描いた時のように自由にしていてとの指示だったので、私は繕いものや読みかけの本などを持ってきてのんびりと過ごした。キャンバスの影からひょっこり覗く先生の目は柔らかく、最初のうちはその真っ赤な視線にすこし緊張して体が強ばっていたものがすぐに慣れ、忙しい日はこれ幸いとモデルをする時間にうたた寝をするのだった。
絵のモデルになる時の、画家の視線を一身に受けて酔い癡れるようなあの快感は他では絶対に味わえない物だ。こればかりはどんなに言葉を尽くしたところで先生のモデルになった人間にしか分からないだろう。
モデルは彼女の視線、時間、心をその間だけ独占できるのだ。先生が細かいストロークで頬のラインをなぞる時、鉛筆を寝かせて長い髪の流れを撫でる時。他の誰とでも代替可能な顔を持たない少女だった私は、その時に初めて置き換え不能な一人の人間になる。有象無象の女学生達の輪郭から、先生の描く線によって私は切り離される。「先生が私を見ている」という充足感がどういうものなのか、私以外知らないだろう。
先生の筆によって複製された私は、水面を見るように私に瓜二つでありつつ、私より遥かに美しかった。言葉にすると矛盾しているようだが、本当にそうなのだから仕方がない。単に姿かたちの問題ではない。キャンバスに縫い止められて永遠をも生きる私は、私と同じ茶色の瞳に思慮深さを湛え、かがり縫いをする指先に女性らしい柔らかさを、すっと伸びた背筋に品性の良さを備えていた。どれも私には無いもので、ショーウィンドウの向こうの高級品を見るように憧れていたものだ。
ニスを帯びて艶を持った滑らかな絵肌ーマチエールは魔法にかけられた鏡面のようだった。
「時々絵の中の自分と入れ替われたらと思います」
完成したキャンバスを前にそう呟くと、先生はきょとんとした顔で「なんで?」と問うた。
「そりゃあ、彼女が羨ましいからですよ。私に似ているのに、私よりよっぽど出来がいいわ」
「錯覚だね。私は見たままに描いてるんだから、君が絵と成り代わる必要なんてないよ。というか、君がキャンバスの中に行っちゃったら私は今晩何を食べればいいんだい」
「絵に描いたクランベリータルトとか?」
私は先生の情けない台詞に半ば笑いながら言った。
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次回⬇️

前回⬇️ レナーテの変わり者の主人の話は面白くてつい聞き入ってしまう。彼女の方も語り口こそ愚痴混じりだったが、『先生』の事を話す表情や声色はいきいきしていて、楽しげな色が滲んでいた。 彼女のレモネードのグラスが溶けかけの氷だけになった頃、やにわにバーの階段を駆け下りてくる軽い足音が聞こえた。幼き歌い...
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