「ッかぁ~! やっと前期終わったぁ~!」 私、神崎日向は、胸に溜まった鬱憤を吐き出すように言いながら、ガンッと音を立てて中身が半分くらいになったチューハイの缶をテーブルに置く。 そんな私を見て、この部屋の主であり小学校低学年の頃からの幼馴染でもある暁月時雨は、チビチビと飲んでいた桃の缶チューハイから口を離してクスッと小さく笑った。 「お疲れ様、日向。今回も大変そうだったね」 アルコールが回っているのか、彼女は微かに紅潮した頬を緩ませて労いの言葉を掛けてくるので、私は小さく笑って「まぁね」と答えた。 「とは言っても、あと半年だし……もうひと踏ん張りって感じかな」 私はそんな風に言いながら、テーブルの上に広げられているおつまみのポテトチップスに手を伸ばし、一枚取って口に含む。 私は今、料理人になって両親の経営する店を継ぐという夢を叶える為に、二年制の専門学校で調理師免許を取る為の勉強をしている。 昔から料理をすることは好きだし、物心ついた時からの夢を叶える為の勉強が出来るのは喜ばしいことだが……それでもやはり、専門学校での勉強は楽な物では無かった。 元々勉強が好きな方では無いし、小さい頃から好きなことだからと言っても、義務的にやらされて評価される料理はお世辞にも楽しいなんて思えない。 私は二枚のポテチをアヒルのくちばしのように唇で挟んでパリポリと咀嚼しつつ、向かい側でお酒を飲む時雨に視線を向けた。彼女なら、どんな勉強でも楽々とこなしてしまうのではないか……なんて、ぼんやりと考えながら。 私自身、別に勉強が極端に苦手だったという訳では無いのだが……時雨は出会った時から、とにかく頭が良かった。小学生の頃から本をたくさん読んでいてテストの点数も良かったし、定期テストの度に貼り出される成績順位表では常に上位にいた。 高校を卒業してからは進学せず、在宅ワークを幾つか兼業しながら一人暮らしをしているが……正直、かなり勿体ないなと感じてしまう。 とは言え、彼女の体質のことを考えれば仕方ないかと思いつつ、私は半分ほど残っていたチューハイを飲み干した。 突拍子の無い話だと思われるかもしれないが……時雨は、吸血鬼の血を引く一族の末裔だ。 吸血鬼が滅んだのはもう何百年も昔のことで、その血もかなり薄れてはいるらしいのだが……不運にも、時雨はたまたまその血を色濃く受け継いでしまったらしい。 と言っても、吸血鬼としての生態等をそのまま受け継いだという訳では無く、見た目や体質に多少影響がある程度の遺伝ではあるようだが。 その中で、最も彼女の生活に支障をきたした体質が、日光や日中の活動が苦手になるというものだった。 一見すると大したこと無いように思われるかもしれないが、学生時代、私は彼女がその体質のせいで苦労している姿を幾度となく見てきた。 日中の活動が苦手な彼女にとって、太陽の下で体を動かさなければならない体育は苦痛以外の何物でも無く、外での授業は見学していることがほとんどだった。運動会や遠足等のイベントや外での遊びにも参加出来ず、休憩時間は自分の席で本を読んで過ごすことが多かった。 彼女の体質について詳細な説明があった訳でも無く、クラスメイトはなぜか遊びや行事に参加しない時雨のことを疎ましく思い、遠巻きにする者がほとんどだった。 そんな中で私だけが彼女と仲良くしていたのには、特に深い理由なんて無い。 ただ、小学校に入学してすぐの頃は同じクラスで席も隣だった為、私から話しかけて親しくなっただけの話。私も特別外で遊ぶのが好きという訳でも無かったので、彼女が外遊びや外での行事に参加しないこともあまり気にしていなかった。 小さい頃からたくさんの本を読んできた時雨の知識は豊富で、私の家が料理店で私自身も料理が好きだという話をすると、外国の珍しい食文化や今ある料理の発祥について話を聞かせてくれた。 頭の良い彼女の口から紡がれる異国の話は、今まで自分の周囲が世界の全てだった私の心を躍らせ、いつしか休憩時間になる度に彼女の元に行って話をするのが当たり前になっていた。 時雨のことをあまり良く思っていなかったクラスメイトが『あの子と仲良くしない方が良い』と吹き込んできたこともあったが、彼女の話を聞くのが何よりも楽しかった当時の私はあまり気にせず交流を続けていた。 私が彼女の事情を知ったのは、中学三年生の卒業式が終わった後のことだった。 調理科のある高校への推薦入学が決まっていた私に、時雨は別々の高校に行っても友達でいて欲しいからと、自分の素性や体質について打ち明けたのだ。 嫌われるのが怖くて今まで言えなかった、ずっと隠していてごめんなさい、と。 感情表出が乏しい方である時雨が、初めて涙を流しながら語るその姿に、私は驚きながらも彼女の話を受け入れた。 確かに、吸血鬼の血を引いているという話は少し突飛で、俄かには信じられない部分もあったが……彼女がそんな冗談を言う方では無いことは十分理解していたし、何より彼女の涙がその話の信憑性を裏付ける確固たる証だと思ったから。 それに、ずっと謎だった彼女の特異体質の真相を知ることが出来て、むしろ納得する部分の方が強かったというのもあった。 彼女は地元でも偏差値の高い高校に進学したのだが、その体質や今までの経験のこともあり、高校でもクラスに上手く馴染めていない様子だった。 私は心配したのだが、他でも無い彼女自身が「私には日向がいればそれで良い」と言って気にしていない様子だった為、特に口出ししたりはしなかった。 兎にも角にも、そういった経緯で彼女は学校自体にあまり良い印象を持っておらず、体質のことで家族との仲もあまり良くなかったようで、高校時代は早く家を出たいと口にすることが多かった。 その為、高校を卒業してからは自分のペースで出来る在宅ワークで生活費を稼ぎつつ、今私達がいるマンションの一室を借りて一人暮らしをしているという訳だ。 「でも、そっか……もうすぐ、卒業なんだ……」 口に含んだポテチをボリボリと咀嚼しつつ時雨との記憶に思いを馳せていると、不意に彼女はポツリと呟くようにそう言った。突然の言葉に驚きつつ、ポテチを口に含んだまま「んん?」と聞き返してみると、彼女はチューハイの缶をテーブルに置いて続けた。 「日向はやっぱり、今の学校を卒業したら、ご両親のお店で働くんだよね?」 「ん……いや、卒業後は県外に行こうと思ってるんだよね」 おずおずと問い掛けてくる時雨に、咀嚼していたポテチを飲み込みながらそう答えて見せると、彼女はピクリとその表情を強張らせながら「えっ……?」と掠れた声で聞き返してきた。 ……そういえば、彼女にはまだ言ってなかったか。 私は少し離れた場所に置いてある新しいチューハイの缶に手を伸ばしつつ、続けた。 「うちの店、実は二号店を出す予定でさ。まだ先の話なんだけど……開店時期が丁度私の卒業とタイミングが合いそうで、折角だから、そっちで働いてみないかって言われてるんだ」 「で……でも、こっちのお店は……」 「父さんも母さんもまだまだ現役だし、きっともう二十年くらいは平気で働くと思うよ。人手も足りてるから、私が無理に手伝う必要も無いし……それなら、新しいお店の方に行った方が労働力的にも丁度良いし、私にとっても良い経験になるだろうから、一石二鳥ってワケ」 私はそう答えながら、手元に持ってきた新しいチューハイの缶をカシュッと音を立てて開け、炭酸入りの酒を喉に流し込む。 ……まぁ、この言葉のほとんどは、卒業後の進路について両親や専門学校の先生に相談する中での受け売りなんだけどね。 自分の発言に続けるように心の中で呟きつつ、グレープフルーツ味の炭酸が喉を刺激するのを感じていると、時雨がテーブルに置いた手を強く握りしめながら続けた。 「ちなみに、その……二号店が建つ場所は、大体、どの辺りなの……?」 おずおずとした口調で投げかけられたその言葉に、私は一瞬口ごもりそうになったが、すぐにチューハイの缶から口を離して正直に答えた。 私達が住んでいる町から電車で約五時間以上掛かる距離にあり、今みたいに気軽に会うことも難しくなるだろう、ということも。 私の話を聞いた時雨は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら口を噤んで俯いてしまう。 元より良い反応をされるとは思ってなかったし、だからこそ中々言い出せなかったというのもあるが……ここまで目に見えて悲しそうな反応をするとは思っていなかった為、思わず言葉に詰まってしまう。 どうフォローしたものかと思考を巡らせていた時、彼女は突然ガバッと顔を上げた。 「それッ……私も行ったらダメかなッ!?」 「……えぇッ?」 微かに震えながらも凛とした声で投げかけられたその言葉に、私は思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまう。 すると、彼女は私の目を真っ直ぐに見つめたまま続けた。 「私ッ……日向と、離れたくないよ。日向が迷惑じゃ、なければ……私も一緒に、二人で、県外にッ……」 「いやいや、無理だって! ただでさえ県外に引っ越しって大変だし、新店舗の準備もあって、しばらくバタバタするから! 時雨は体質のこともあるし、無理させられないよ!」 「で、でも……ッ!」 「それに……実は、二号店が建つ予定の場所の近くに、親戚の家があって……卒業してからはそこでお世話になる予定なんだよね……」 だから、一緒に行くのは無理かな……と。 やけに食い下がる時雨の様子に驚きながらも、私は何とか言い切る。 私だって、この話が来た時には凄く迷った。 生まれ育った故郷を離れて見知らぬ土地に行く不安も勿論だが、幼少の頃からの付き合いである時雨と気軽に会えなくなるのはかなり辛いものがあった。 でも……──と、私はチューハイの缶を握る力を強めながら、必死な表情で縋るようにこちらを見つめる時雨の目を見て、続けた。 「ごめん。でも、私は……——子供の頃からの夢を、叶えたいんだ」 両親みたいな立派な料理人になって、自分の作った料理でたくさんの人々を笑顔にしたい。物心ついた時から抱いてきた夢を、ついに叶えられるかもしれないんだ。 今まで彼女にこのことを話さなかったのは──否、話すことが出来なかったのは──決意が固まる前に彼女に止められたりしたら、気持ちが揺らいでしまう気がしたから。 私自身、これからどんな苦難が待っていようと、絶対に自分の夢を諦めない覚悟が出来てから。 そんな風にうじうじと悩んでいる間に時間は経ち、ここまで先延ばしにしてしまった挙句、酒の力を借りてようやく打ち明けることが出来たというわけだ。 悩む中で、彼女と一緒に県外に、というのも勿論考えたが……私の夢を叶える為に県外に行くのに、ただの幼馴染である彼女に付いてきて貰うのも、何だか変な話だと思ったのだ。 だから、まさか彼女の口から一緒に行きたいなんて言葉が出てくるなんて思いもしなかったのだが……これから国家試験の勉強や新店舗オープンの準備やらで忙しくなることは明白で、そこに更に彼女との二人暮らしまで入ってくると、流石に対処し切れない。 「……そっか……」 私の言葉に、時雨はどこか冷たく暗い声で小さく呟きながら、静かに俯く。 明らかに落ち込んでいるその様子に、私は胸の奥がギュッと強く締め付けられるような感覚を抱きながらも、慌てて口を開いた。 「でッ……でもさ! 別に、今生の別れって訳じゃないんだし! しばらくは会えなくなると思うけど、二号店の経営とかが落ち着いたら、また遊ぼうよ! お盆とか、お正月とかになったら絶対帰ってくるし……時雨が会いたいって言えば、いつでも──」 いつでも飛んで来るよ。 出来るだけ明るい声で続けようとした私の言葉は、突然唇を塞がれたことで遮られる。 唇に感じる柔らかな感触と、口内に広がる桃の風味を纏ったアルコール臭に思わず目を見開くと、赤い光を放つ時雨の瞳と目が合った。 「んんむッ……ぷはッ、時雨、ちょっと待っ……んむぅッ!?」 何とか彼女の体を突き返して抗議の声を発しようとするも、すぐさま唇を奪われたことでその行為は無為に帰す。その拍子に持っていたチューハイの缶を取り落として中身を絨毯にぶちまけてしまうが、そのことを気にする余裕など無かった。 なぜなら、今度は先程までの唇を触れ合わせるだけのキスでは無かったから。 声を上げようと半開きになった口に舌をねじ込み、こちらの意思など関係無く強引に口内を貪り交わる深い接吻。 次は逃がさないと言わんばかりに後頭部を鷲掴みにして舌を吸われ、まるで私の口内に自身の唾液を塗り込むかのように頬の内側や上顎の裏側まで丁寧に舐めとっていく。 甘い桃の風味と、やや苦みのある柑橘の風味が混ざり合い、どちらの匂いにも纏わりつくアルコール臭が口内から鼻腔へと駆け抜ける。 舌を絡め合う濃厚な接吻で酸素が足りなくなったのか、口内に広がる濃密な酒気に酔いが回ったのか……──それとも、目の前にある紅蓮の瞳によるものか。 頭の奥が熱を帯びて痺れるような感覚と共に段々と思考が働かなくなり、体から力が抜けていく。 何とか時雨の体を突き返そうとしていた両手は重力に従ってダランと垂れ下がり、先程零した酒で濡れた絨毯を手の甲で擦る。 時雨はそれに、赤く光るその目を僅かに細めると、唇を重ねたまま私の肩を持ってゆっくりと押し倒した。 背中が床に当たる固い感触と同時に唇が離れ、ようやく甘ったるい果実と酒の濃厚な香りから解放される。 しかし先程零した酒の匂いが周囲に充満しているのか、相も変わらず酒気を帯びた柑橘の甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐるのを感じながらも、私は呆然と目の前を見つめる。 そこにいたのは……見たことの無い、幼馴染の姿だった。 瞳には煌々とした赤く怪しい光を灯し、唇の隙間からは鋭い二本の牙が見え隠れしている。口の端から零れる唾液を舌で舐め取り、私の体に馬乗りになってこちらを見下ろすその姿は、物語に出てくる吸血鬼そのもので……──。 「なん……しぐ……ぇ……?」 「……ごめんね、日向」 呂律が回らない中で何とか問い掛ける私の言葉に、時雨は眉を八の字にした何とも言えない笑みを浮かべながら、謝罪の言葉を口にする。 床で仰向けに寝転んだ体は相変わらず脱力し、涎を垂らしたままの口で浅い呼吸を繰り返す私は、それに答えられない。 時雨は、そんな私の姿をどこか慈しむような目で見つめると、その表情に似つかわしくない鋭い牙の生えた口で続けた。 「日向に嫌われたくなくて、ずっと言えなかったの。……ごめんなさい……」 「……しぐ」 「でも、日向だって同罪だよね?」 掠れた声で謝る時雨に応えようとした私の言葉は、間髪入れずに続けられた冷ややかな声によって遮られる。それに、ただでさえ頭が火照って会話もままならない状態だった私が反論出来るはずも無く、言葉に詰まってそのまま口を噤んでしまう。 時雨はそんな私の頭に手を伸ばし、指で私の髪を梳きながら続けた。 「県外に行くなんて大事なこと、今まで私に言わないで、ずっと隠していたじゃない。日向にとって、私の存在なんて所詮その程度だったってことでしょう?」 「ち、ちが……」 「何も違わないよ」 静かな声で淡々と語る時雨の言葉に、何とか弁明しようと辛うじて振り絞った否定の言葉はあっさりと切り捨てられる。それに怖気づいて口ごもるのと、ポツポツと頬に何かの雫が落ちてくるのを感知したのは、ほとんど同時だった。 「何も違わない……出会った時から、ずっと、そうだったじゃない……」 どこか焦点の合っていないような紅の双眼から大粒の涙を流し、鋭く尖った牙の除く唇を歪ませながら、彼女は私を見下ろしていた。彼女は私の顔に落ちた自分の涙を指で拭い取りながら、更に続ける。 「私には日向しかいないけど……日向の周りにはいつも、家族とか、クラスの子とか、たくさんの人がいて……日向にとって、私なんて、周りにいる大勢の中の一人でしかないことくらい……昔から、分かってたよ……」 「ちがッ、はなしをッ……」 「でもッ……それでも良かったッ。日向にとって、私がどんなにちっぽけな存在だとしても、貴女が私の傍にいてくれるならッ……それでも良いって、思ってたッ……」 涙で濡れた声で語る度に、彼女の動きに合わせて長い髪が揺れて、下にいる私の顔をくすぐる。彼女は震える指で私の顔に落ちる涙を何度も拭い取るが、他でもない彼女自身の頬から伝い落ちる雫が、私の頬を濡らし続ける。 そんな終わりの無い作業に嫌気がさしたのか、それとも何か他に別の理由があったのか。 彼女は「なのに……ッ」と掠れた声で呟きながら私の頬を拭う動きを止めると、その手を強く握り締め、唇を噛みしめながら顔を伏せた。 ……マズい。 この状況は、危険だ。 熱に浮かされて蕩けた思考の奥から、生物としての本能とも言えるナニカが警告を鳴らす。 相変わらず体に力は入らないし、唯一自由の利く思考すらも、時雨の赤い瞳を見ているだけでガリガリと音を立てて少しずつ削られていく。それでも何とか頭を働かせ、鈍重な思考を必死にフル回転させる。 ……そう。そうだ。 そもそも、その牙と目は何だ……? 中学の卒業式の時、他でもない彼女の口から、遺伝したのは体質のみで吸血能力は無いと聞いていた。 先ほど彼女は、嫌われたくないから言わなかったと言っていた。ということは、今まで吸血能力があることを隠していたということで……それはつまり、彼女が生きる上で血を吸う必要は無いということ。 でも、じゃあ……どうして今、その能力を露わにした彼女に、私は組み伏せられている……? こんなの、まるで……今から、私の血を吸おうとしているかのような──。 「余計なこと考えてるでしょう?」 鈍重ながらも必死に働かせていた私の思考は、突然顎を掴んで顔を近づけてきた幼馴染の言葉によって遮られる。 必死に掻き集めていた思考は顎を掴まれた衝撃であっさりと霧散し、それでももう一度先ほどまでの考えを手繰り寄せようとしていた私の意識は、息が掛かる程の至近距離まで近づいてきた彼女の瞳を見たことで停止する。 キスしていた時も、会話していた時も、ずっと私の目を見つめ続けていた赤い瞳。 安全な物では無いことは明白だと言うのに、なぜかずっと目が離せなかった紅の灯火。 それを至近距離で見つめた瞬間、今まで辛うじて保っていた理性や自我のような部分が直接熱せられたかのように火照り出し、忘我の海へと溶けて消えていくのを感じる。 思考も何もかもを放棄して虚ろになった私の脳内に、紅蓮の光がゆっくりと侵蝕し、染め上げて……わたし、が……きえ……──。 「……」 「ふぅ……やっと、完全に効いたかな……」 時雨はそんな風に呟きながら、完全に自分を手放して脱力する私の顎から手を離し、その手で私の首筋をゆっくりとなぞった。 「ごめんね? やっぱり、吸血鬼としての力自体は大分弱いから、時間掛かっちゃったね」 「……」 「……なんて、もう聴こえてないか」 彼女はどこか諦めたような笑みを浮かべながらそう呟くと、放心する私に顔を近付けて……──「っ」──……唇を重ねる。 今度のキスは、舌は絡めなかった。 数秒ほど唇を重ね合わせた後、彼女はゆっくりと顔を離し、私の目を見てクスリと小さく笑った。 「でも、これでやっと……私のモノに出来る♡」 込み上げてくる興奮を押し殺しきれていないような上ずった声でそう呟くと、私の着ている服の襟首に指を掛けて、首筋が露わになるように広げて……── 「──ッ……!? かはッ……!」 突然首筋に走る鋭い痛みに思わず声を上げて体を強張らせると、私の首筋に顔を埋めていた時雨はピクリと肩を震わせて、すぐさま体を起こして私の顔を見つめた。 その口元は赤い液体で汚れ、彼女が顔を埋めていた箇所にジンジンと熱を持った痛みを感じることから、先程の痛みが彼女による物だということが容易に分かる。 ……と。そこまで推測したところで、先程の痛みによって、ほんの僅かにではあるが何とか思考出来るようになっていることに気付く。 と言っても、熱に浮かされた頭をフル回転させて、ようやく自身の現状を把握できる程度の微弱なものだが。 熱い激痛を感じながらぼんやりとそんなことを考えていた時、時雨は痛みに呻く私の頭にソッと柔らかに手を置き、まるで泣きじゃくる幼子を慰めるような手つきで優しく撫でながら口を開いた。 「ごめん、ちょっと痛くし過ぎちゃったかな。……人の血を吸うのは初めてのことだから、力加減とか、分かんないんだ」 申し訳なさそうに言う彼女の言葉が、熱に浮かされ靄が掛かった頭の中でやけに反響して聴こえるような感覚がする。 彼女の声を聴いた瞬間、痛みによって辛うじて取り戻しつつあった意識が、ゆっくりと熱を持ってその形を保てなくなっていくのを感じた。 「しぐ、れ……おねが……まって……」 意識の輪郭がぼやけて惚けるような感覚の中で、私は何とか気力を振り絞って抵抗の意志を示す。 少しだけで良い。 お願いだから、私の話を聞いて欲しい。 私にとって、時雨がどれだけ大切な存在か。 料理人になる夢が、どれだけ大切なのか。 私がいつか自分の作った料理で笑顔にしたい人達の中には、当然貴方もいるのだと。 そんな私の声に気付いたのか。 時雨は今まで見たことないような優しい微笑みを浮かべると、ソッと優しく私の頬を撫でて、ゆっくりと私の耳元に口を近付けて……── 「でも、すぐに何も分からなくなるから……もう少しだけ、我慢してね」 ──もう一度、私の首筋に噛み付いた。 「……ッぁ……ぁぁあッ……」 首筋に走る鈍い痛みと、全身の熱が引いていくような感覚に、半開きになった口から無意識の内に声が漏れる。最早自分の意思では動かせない肉体は痛みに強張り、血を吸われる度にビクビクと小刻みに痙攣した。 時雨はそんな私の頭を宥めるように優しく撫でながら、空いた方の手で私の手に指を絡めて強く握り、どこか下品さを感じるような水音を立てて血を啜り続ける。 彼女の口から発せられる水音が鼓膜を震わす度に私の体は痙攣し、白みがかった視界に広がる部屋の天井はその動きに合わせて揺れていた。 「あぁあッ……ぁぁッ……ぁ……?」 虚空を見つめながら脱力した体を痙攣させていた時、無意識に口から零れていた声に、微かな疑念の感情が混じる。 なぜなら、時雨の吸血による痛みが、少しずつ治まっていくのが分かったから。 未だに時雨は私の首筋に顔を埋めたままで、室内に響く液体を啜る水音も止んでおらず、彼女が吸血を止めたと言う訳ではなさそうだ。 それでは一体何が……? と、微かな疑問が脳裏を掠めた時だった。 「ぁ……あっ、あぁあッ!?♡」 爪先から脳天に至るまで、文字通り全身を貫くような快楽電流が私の脳髄を揺らし、白みがかっていた思考を完全な純白へと染め上げる。 口から勝手に漏れ出ていた無機質な声は熱を帯び、血を吸われることで体温を失いつつあった身体は火照り出す。 「ぁひゅっ♡ ひっ♡ しぐぇっ♡ ちょっ、まっへ……♡ しぐえぇッ♡」 思考を失いぬるま湯の中を漂っていた意識は激しく明滅し、突然純白の世界へと投げ出されて自分が何者かすら分からなくなる中、私はこの状況を作り出している張本人に助けを求める。 何も分からない中、とにかく誰でも良いからこの状況から助け出して欲しいと救いを乞う私の声に、時雨は──「……んひぁぁあッ!?♡」──私の首筋を噛む力を強めて、ジュルジュルと一際大きな水音を立てて私の血を啜る。 同時に、ただでさえ私の上に覆い被さるような状態になっていた自身の体をゆっくりと重ねて全体重を乗せることで、勝手に跳ね上がる私の体を押さえつけた。 その瞬間、私はこの状況から逃げるどころか、体を震わせて快感を逃がすことすら許されないのだと……──この場で主導権を握っている支配者は誰なのか、文字通りこの身に知らしめられた。 「ぁぁぁぁぁぁあああああああッ!?♡」 それと同時に、私は悲鳴のように甲高い嬌声を発しながら絶頂する。大切な幼馴染の温もりと重みに包まれて、全身を劈くような快感に身を焼かれながら、私は恥も理性もかなぐり捨てて泣き叫ぶ。 気持ちいい。 思考も、意識も、恥も、理性も。何もかもを快楽の激流に流されてかなぐり捨てた私に残されたのは、たった五文字の単純な感情。 悦楽の海に呑まれて揺蕩うだけの存在へと成り果てた私にとっては、それだけで十分だと感じながら、全身を包む柔らかな温もりに身を委ね── 「ちょっと、日向。しっかりして?」 ──……ようとした私の意識は、軽く頬を叩かれながら囁かれた声によって呼び起こされる。 白濁に沈んだ意識がゆっくりと浮上し、白一色だった視界が徐々に明瞭になっていくのを感じながら、私は霞んだ目を声がした方に向けた。 するとそこには、赤い液体に塗れた口元を緩めて満面の笑みを浮かべながらこちらを見下ろす、幼馴染の姿があった。まだ意識が完全には覚醒しきっておらず、焦点の合わない視線を返答に変えるようにして眺めていると、彼女はクスクスと楽しそうに笑いながら私の頬を優しく撫でた。 「ぼんやりしちゃって可愛いなぁ♡ まだ目が覚め切ってないところ悪いけど……喉、渇いてない?」 笑みを崩さぬまま、軽く小首を傾げながら問い掛ける彼女の言葉に、喉……? と疑問に思ったのも束の間のことだった。 「……かひゅッ……!?」 突然、喉を締め付けられたかのような息苦しさと共に強烈な渇きが襲い掛かり、私は掠れた呼吸音を立てながら息を詰まらせる。 あまりにも突発的な渇求に動揺しながらも、とにかく何か水分を摂れる物は無いかと周囲に視線を向けようとした瞬間、突然両頬を掴まれて正面に向き直される。 そこでは、両手で私の顔を固定しながら、どこか仄暗い微笑を浮かべる時雨の姿があった。 「ダメだよ、日向。余所見なんて。……今の日向は、何飲んでも意味無いんだから」 「し、しぐえ……? なにを……?」 未だに頭の奥が痺れて思考もままならず、冷淡な口調で端的に告げる時雨の言葉を理解出来なかった私は、呂律の回らない口で何とか聞き返す。 そんな私の反応に、彼女はクスリと小さく笑みを浮かべると、自身の身に付けている服の襟に指を掛けてゆっくりと広げて── 「今、日向の渇きを満たすことが出来るのは……私だけだよ♡」 ──白く透き通るようなその首筋を、露わにする。 彼女の言葉を理解するよりも先に、体が動いていた。 今まで全く力の入らなかった両手を時雨の首に絡めると、華奢な彼女の体を強引に引き寄せてそのまま首筋に牙を立てる。 どうして普通の人間である筈の私に牙が生えているのか。そんな疑問など、今はどうでも良いことだった。 美味しい……ッ! 美味しい、美味しい美味しい美味しいッ! 口の中に広がる芳醇な甘露は、今まで口にしてきたどんな食物よりも美味で、すっかり渇き切った私の体を満たしていく。 「ぁはッ♡ 日向が私の血を飲んでるッ♡ 私が日向の中に入っていくッ♡ 日向が私を求めてるッ♡ やっとッ♡ やっと日向を私のモノに出来るッ♡」 恍惚とした様子で言う時雨の声が鼓膜を震わすが、今の私にそれを気にする余裕など無かった。なぜなら牙を突き刺した箇所から溢れ出る雫を嚥下する度に、正に乾いた大地が水を吸収するように、空っぽになった私の心を新たな感情が満たしていくのを感じたからだ。 吸血鬼の手で同族へと変えられた人間は、その吸血鬼を主として全てを捧げる眷属となる。 時雨の手によって吸血鬼に変えられた私は、彼女を主として身も心も捧げる所有物。 主の為だけに生きる所有物である眷属に思考や感情などは不必要な物なので、全てを捨てて主の命令に従うだけの傀儡となる。 眷属の全ての欲求を満たせるのは主のみであり、主の傍で生涯を捧げることだけが唯一の生き甲斐であり幸福である為、主無しでは生きていくことなど出来ない。 血を啜り渇きを癒す度、それらの情報が揺るがない真実となり、渇いた心が主への絶対の忠誠心と陶酔感で満たされていく。 少し前までの私ならば受け入れられなかった感情かもしれないが、ご主人様に血を吸って貰い眷属となった今の私にとっては至極当然の常識であり、拒絶する理由などある筈も無かった。 「日向、もう十分でしょう? そろそろ離して……私に顔を見せて?」 ご主人様の体に抱き着くような体勢で夢中になって血を啜っていた時、ポンポンと後頭部を軽く撫でられながら、そんな風に囁かれる。その声を聴いた瞬間、私は慌てて彼女の首筋から口を離して顔を上げた。 「もッ……申し訳ございません、ご主人様! 眷属の分際で、ご主人様の血を余分に頂いてしまい……罰ならば何なりと──ッ!」 何なりとお申し付けくださいませ、と続けようとした私の言葉は、唇に人差し指を当てる形で遮られる。突然のことに驚いていると、目の前にいるご主人様は、私の口に指を当てたままクスッと小さく笑みを浮かべた。 「もぉ……そんなこと、気にしなくても良いよ。それより、その口調とご主人様ってのは止めて、今まで通りに接してくれる?」 「いえ、ご主人様の眷属である私などが、そんなおこがましい真似……」 「じゃあ、私の命令……従えないの?」 赤い瞳でこちらを見つめながら軽く小首を傾げて聞き返す主の言葉に、私はグッと口を噤む。数秒程の間を置いた後、私は小さく息をついて口を開いた。 「分かったよ、時雨。……これで良いの?」 「うんっ♡ じゃあ、日向。貴女が何者になったのか、教えてくれる?」 今まで接してきたように答えた私の言葉に、時雨は満面の笑みで頷くと甘えるような声で言い、私の体を抱き締めて首筋の辺りに顔を埋めてくる。突然の密着に驚きながらも、私は何とか平静を保ちつつ口を開いた。 「何者って……私は時雨に血を吸って貰って生まれ変わった眷属で、時雨の為だけに生きる所有物でしょう?」 「えへへっ♡ じゃあ、これから私とずっと一緒にいてくれる?」 「当たり前じゃん。だって、今の私は時雨がいないと生きていけないんだからさ」 何を当たり前のことを、と内心で呆れながらも答えて見せると、時雨はドロリと蕩けるような笑みを浮かべながら私の首筋に顔を擦り付けて甘えてくる。 体から力を抜いてそれを受け入れていると、彼女は不意に私の服の下に手を滑り込ませて、私の肌を直に撫でながら続けた。 「でも、日向も私と同じ吸血鬼になっちゃったから、これから学校に通うの大変だね。どうしようか?」 「時雨が辞めろって言うのなら辞めるし、続けろって言うなら続けるよ?」 「うーん……日向が私みたいに苦労するところなんて見たく無いし、学校で変な虫が寄り付くのも嫌だから……辞めちゃおっか」 「うん。分かった、辞めるよ」 「あとこの際だから、スマホに入ってる連絡先も全部消しちゃおう? 私以外の人と仲良くするなんてダメだよ?」 「分かった。今すぐ消そうか?」 「ん~……学校辞めるまでは、何かと連絡とったりする必要もあるだろうから、辞めた後で良いかな」 「分かった。そうする」 「えへへ……♡ 良い子♡」 上半身を掌で丁寧に撫で回しながら囁かれる言葉に従順に頷いていると、時雨は甘い声で囁きながら、頬に口付けを落としてくる。 それから彼女はゆっくりと手を下ろし、私の履いているズボンとショーツの中へと手を差し込みながら続けた。 「じゃあ……日向。次は、さっきとちょっと違う気持ちいいこと……しよ?♡」 甘えるような声で囁かれるのと、下半身の方からくちゅりと水音が響いたのは、ほとんど同時だった。 下腹部から込み上げる甘い刺激に、私は思わず声を漏らしそうになるのを何とか堪えながら、彼女に顔を向けて笑みを返す。 「時雨が望むのなら……勿論良いよ?」 「ん♡ ありがと、日向。……大好き♡」 時雨はそう言うと体を起こし、ソッと優しく唇を重ねた。 互いの唇に塗りたくられた血液が唾液で溶けて混ざり合うのを味わいながら、私は彼女の体に両手を回して抱き締めつつ、挿入される舌に自分の舌を絡み合わせるのだった。