XaiJu
加賀優作
加賀優作

patreon


止め処なき流行り、遣る瀬なき廃り


 私は、一度見た顔は忘れない。忘れようと意識しない限り、いつまでも覚えていられる。

生得的性質なのか生存戦略的に培った能力なのかはさておき、私はヒトの顔貌、ひいては体型も含めた骨格に対するアンテナの感度が非常に高い。その昔「BONES」という海外ドラマがあったが、あれくらいの内容ならオチまで見なくても大体の内容を予見できてしまうくらいには。美容整形への傾倒も、審美的な追究というよりも、解剖学的・観相学的な関心のほうが、動機としては大きい。

 以前、韓国製の高級歯磨き粉を使用していたことがある。なにが高級なのかというとそれは香りで、開発者自らが調香師と共同で香料を作っていて、歯磨き粉にしてはやや高値でも根強いファンが途絶えない。しかし、彼の国の審美への意識は偏執的なまでに高いゆえか、配合されている成分が日本の薬事法に引っ掛かったのか、一時期国内販売がされていない状態だったのだが、先日、陳列されている品を見かけて裏を見ると日本語の印字が。日本進出ってわけね〜。ミントだのシトラスだのばっかり出している日本企業よ、世界のオーラルケアは一手先を進んでいるぞ、と思った次第である。ちなみに、お気に入りの品はもれなく買い揃えた。

 エチケットと審美は、境界線が曖昧である。

例えば、脱毛にしろ、ヘアスタイルにしろ、善しとされるのは流行という名の集団心理に因るところが大きい。もちろん、「不潔ではない」という意味において、オーラルケアは非常に重要だ。歯周病菌は血流に乗って脳や心臓に悪影響を及ぼすし、なにより口臭は周囲の人間を良い気にさせない。こういった体臭については、特に日本人に多い印象を受けるが、周囲の臭いには敏感に反応する割に、自らが放つ臭気には意識を向けない傾向が強い気がする。今の時期では、首元に小型の扇風機を当てたり、部屋干しであろう下着に汗をたんまりと吸わせたり、汗の模様が浮かんだ服で公共物の座席にもたれかかるなど。まあ私がそういったものに過敏なだけなんだろうけれども。ただデオドラントもまた、外資系企業の品のほうが質が良いのは確かだ。

 口腔に話を戻すと、審美の領域では、歯を漂白したり、形を変えたり、あるいは移動させて矯正する。きょうびはセラミック矯正やマウスピース矯正といった手軽な治療が手の届きやすい価格で広まって、「歯列矯正はエチケットだ」という言説まで出現している。これは「良い歯並び」と「良いお育ち」は文化的に常にセットだったことの証左といえるのではないだろうか。観相の世界では歯並び、というより歯の形や生え方に注目する観点がある。「すきっ歯は幸運を呼ぶ」、「八重歯は口答えが多い」、「出っ歯は多弁」なんていうのも、ごくごくプレーンな歯占いの一種だ。私個人としては、その個体らしい形質は審美的にどうであろうとその人を表す特徴であるから、噛み合わせに不便がなければ特に問題視する必要はないと考えるが、むしろ、合っていない形の差し歯や、短期間の3Dシミュレーションによって表層的に揃えられただけの歯列を目の当たりにすると、取って付けたような、なんとも不思議な感覚に陥る。

 当たり前の大前提をあえて書くが、人は別の誰かに成り替わることはできない。

偽名や整形によって別人になりすますことは一時的にできるだろうが、本質的にはそれはただの擬態である。カメレオンがそこにいる事実に変わりはない。よほど鈍感か他人に関心がない限り、人は、無茶な整形や不自然な髪型、間違ったメイク、合っていない服装には違和感を抱くものである。観相を専門とする私に言わせれば、人体の理想型はウィトルウィウス的人体図ではなく、あなたの中にある。自分という可能性を苗床にして、望む木々や花を育むのだ。美醜はその肥料にすぎない。その人の意志が感じられる庭園は、居心地が良い。逆説的に言えば、誰もあなたになれはしないのだ。

 エチケットとされつつある流行の中には不可逆的な施術も含まれる。脱毛がその最たる例と言えるだろう。先日出会った人が印象的だったので紹介するが、彼はレーザー脱毛によって下半身を更地にしている。私自身は適度な繁みがあったほうが落ち着くので特別なことはしていないが、過去に何度も脱毛を勧められ、その度にやり過ごしてきた。「そのうちにボーボーブームが来るからそれを待っている」などとユーモアを交えることが多いけれども、正直なところ、「私の身体を変えられるのは私だけのはずなのに、なぜこの人は私の身体を変えさせようと干渉してくるのだろう?」という理不尽を全身で感じていた。そんな長年に渡る理不尽の答え合わせなのか、ピンクマウスのような下半身の彼は、「ちょっと後悔してるんだよねえ」と漏らした。その後悔から、ナチュラルに生やしている人に惹かれるようになってしまった(!)とまで。流行は性的な好みにも影響してしまうのだなと、心に虚が差すようであった。

 ある研究によると、体毛を立たせる立毛筋という筋肉の信号の一部は、脳の音感を司る部位で処理されているそうだ。それを鑑みると、歌手の生歌をライヴ会場で聴いたときの鳥肌にも、攻撃的な人物を目の前にしたときの武者震いにも納得がいく気がする。「空気を読む」という言葉があるが、あれは言い換えれば「雰囲気を聴き取っている」といったところか。その能力を捨て去ってまで、あるいは制御不能状態にしてまで得る審美性は、空気を聴く力が再び必要になる場面が訪れたとき、どこまで「美しさ」として機能するのだろうかと想像する。

 先述の通り、私は一度見た顔は忘れない。忘れようと意識しない限り、いつまでも覚えていられる。

これに対抗するかのように「印象に残らない形態が美しい」という価値観がある。「忘れ鼻」なんていうのがそれだろう。巧妙に仕上げられたそれは、どんなに印象の薄い人でも記憶するこの私の目を掻い潜る。しかし私の記憶には「鼻だけぼんやりした人」として保存されるが、「美しい人」というフォルダには残らない。非常に似顔絵の描きにくい顔立ちというわけだ。引き算の美学それ自体は繊細で素晴らしいと思うが、あまりにも引き去りすぎるのも、それはそれで薄ら寒い感じがする。「適度に」がいちばん、難しいのだ。

 人間関係においても似たことが言えると思う、付かず離れずがいちばん難しいから。





Shine on you.


More Creators