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孔明の罠
孔明の罠

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仕方なく女子高生になった元男子が徐々に"女性"に染まっていって、男に戻らず過去の自分と決別するまで その2

 春休みのとある1日。たどたどしい足取りで待ち合わせの喫茶店に入ると、未来の岡崎くんはすでにコーヒーに口をつけていた。 「う〜」  挨拶もなしにどかっと向かいの椅子に腰かけ、私は唸りながらメニューを手に取った。 「おう福島、卒業おめで……なんかダルそうだな、クマできてるし。どうした?」 「どうしたもこうしたもないよ。あ、私パンケーキ、メープル多め」 「はいはい。お前最近こればっかりだな」 「食べてみるとけっこうアリだなって、すっかりハマっちゃった」 「……それで、呼び出したワケはなんだ?」  受験戦争を無事に突破し、1ヶ月後には大学生の仲間入り。そんな晴れ晴れとした気持ちで迎えた昨日の卒業式での出来事は、こうして私を寝不足にさせた。  そうだ。ひとつのことで延々悩み続けるからいけないのかもしれない。気分転換に受験期のことでも少し思い出そうかな。うーんと……。  今から1年近く前に迫られた進路の選択で、私は無難に文学部を志望した。学術書に限らず本を読むのは嫌いじゃなかったし、日本の歴史や民俗学への見識を深めてみるのも視野が広がりそうで面白いかもと考えたからだ。  進路相談を担当していた先生は私が文系に進むことがよっぽど意外だったみたいで、放課後名指しで職員室まで呼び出されたりもした。正直余計なお世話だったけど、あれで生徒思いの先生だから悪い気はしなかった。ただ、進学校としての実績を作りたいのか、やたらと名門女子大のパンフレットを渡してくるから苦笑いするしかなかった。  夏休みは受験の天王山だなんて言われるけど、私と楓は比較的平常運転でそこそこ長期休暇を謳歌した……海に行こうって話になって、楓が水着を新調するぞって私を強引に連行して、着せ替え人形みたくしてきゃっきゃっとひとり盛り上がっていたあの日のことは、あまり思い出したくない。ついでに、女子用水着の法外なお値段の高さも。  秋になっても、私は部活に顔を出し続けていた。どことなく物寂しさを感じさせる季節柄、変わらないままでいる光景が私の心を妙に惹きつけた。そして今にして思えば、彼はそんな私を目当てに部室へと足を運び続けていたのかもしれない。  年の暮れ。受験本番直前だというのに楓はクラスの男の子と交際を始めた。彼のことは以前から気になっていたそうで、そのことは側から見ていて一目瞭然だった。ふたりはたまたま休日に鉢合わせをして、しばらく他愛のないやりとりをしたあと、最後は楓が勢い任せに告白したのだという。以前私にしてきた時とまるで同じ流れだったことに思わず苦笑してしまった。  ちょっとしたわだかまりを抱きながらも、私は割と素直にお祝いの言葉を口にできていたように思う。少なくとも、楓に対して未練のような感情はもうそれほど残ってはいなかった。  受験本番。私は緊張もあってか喉の渇きがやたら気になり、くぴくぴとしきりに水を飲んでいた。当然尿意は大きくなり、休憩時間にお手洗いへと向かった。そこで目にした女子の行列のなんと長大なことか。男の子だったころはこうした経験なんて一度もなかった。そりゃ、チャックから棒を引っ張って出すだけだもんね。女子だと座ってする必要があるから個室になるし、パンツをおろして座って拭き取って立ち上がってって工程も追加される。鏡面の前で身嗜みを整えようって子もいるし、どうしたって休憩時間中は長蛇の列を免れない。かといって試験中に手をあげて…なんていうのも少し恥ずかしい。  結局、私も我慢して女子の行列の末席に加わっていた。だけどそうした地道なコンデションケアもあってか、特に問題もなく私は受験を突破することができた。  そして、昨日。私たちにとって最後の高校生活、つまり卒業式だった。胸元に主役の証である造花を付けられ、それぞれが思い思いの感情を抱きながら式に参加した。儀礼的な行事だけれど、私もつい感傷的になってしまった。  受け取った卒業アルバムに映る自分は、当然すべて『福島のぞみ』だった。今さらなことではあるけれど、3年前この場所で同じように祝われて入学式を迎えた自分が、まさか高校生活の大半を女子高生として過ごして、女子高生として思い出を残し、女子高生として卒業することになるとは思ってもみなかった。  今ではなんの違和感もなくなった白くて細い女の子らしい指先で、手持ち無沙汰になんとなく胸元のリボンをつついてみたりスカートのひだをなぞってみたりしていると、こうやって卒業を迎えるまで、自分は女子の制服を着こなし続けていたんだなということが実感できた。なにをするでもなく、今こうして下を向いているだけで、私の視界にはこの身体から隆起したふたつの柔らかな膨らみが映り、自らを当然に女であると、この身体は女としての役割を全うするべくこの3年間も絶えず成長を続けていたのだと自覚させる。そのことに私はまったく嫌悪感を抱くことなく、むしろ誇らしくすらあった。 「せんぱいっ、ぐすっ……」  式を済ませた私たちを科学部員のみんなが迎えてくれた。中でもこの女子部員は中学時代、私が男の子だったときには同じ部室にいても一瞥もくれないような、いわゆる異性のことがすごく苦手な感じの女の子だったけど、今ではこうして私のために別れを惜しんで涙を流してくれている。縁は異なもの味なものなんて言葉がふと脳裏をよぎったけど、さすがに意味合いが違いすぎるかな。彼女とはまず男女の縁だなんて関係でもなかったし、そもそもふたりとも女なんだから。あるいはこれを口火に昨今盛んなジェンダーフリーの流れに同調して、大学で培うことになる文学、民俗学の知見を基に国語審査会へ一石を投じてみるのも案外面白いかもしれない。訴える相手が間違っている可能性も否めないけれど。  まあとにかく、彼女との関係だとか将来の展望だとか、以前であればまったく起こり得なかったことがやってくるのだから、人生というのはわからないものだ。 「福島、ずっと好きだった。俺と付き合ってくれ」  だから卒業式の日、男として生を受けたはずの私が同性であった男子から告白されたこと、さらにその人があの岡崎賢治だったということも、なんら不思議なことでもないのかもしれない。  昨日までの出来事を振り返って、私は目の前の彼に投げやりにこう言ってやった。 「私、あなたに告られたんだけど?」  目が点になる未来の岡崎くん。 「いや、お前に告った覚えなんてないんだが」  至って真面目にそう返す彼の様子がおかしくて、私は少しだけ機嫌を良くしながらネタを明かした。 「この世界の岡崎くんにね、昨日告白されちゃったんだけどって話」 「ああ、そういうことか」  それきりお互い無言になる。い、居心地が悪い……。  沈黙を破ったのは岡崎くんだった。 「それで返事に悩んで寝不足ってわけか」 「そ。あなたのせいでね」  そうおどけてみせると彼は苦笑いをして、それからひとつ咳払いをした。 「そもそも何に悩んでるんだ?お前が告白されたことなんてこれまで一度や二度じゃないだろう?人情で断りにくいのか知らないが、俺が告白してきた以上、断られる覚悟ってのも俺にはあると思うぞ」  だから告白は気にせずばっさり断ってもらって構わない、と彼は言い切った。 「え、えっと、まあ、それはそうなんだろうけど……」 「……」  彼が告白を断る前提で話を進めていることに少しだけモヤっとする。だけどそれはこれまでの経緯を踏まえれば至極当然の対応だ。だって私は男の子なはずだから。男が男に告白されてOKなんて普通はしない。  そう、しちゃいけないんだ。 「福島」 「で、でもさ、ほら、私が男の人と付き合って女の子してますよーって日常を演じられたら、未来警察を目を欺きやすくなったり?」 「……まあ、多少はあるだろうな」 「それにあと数年くらい別に全然我慢できなくもないし?文字通り雌伏の時だって思えば、私はまったく気にならないし?」  自分でもよくわかっていないこの感情の向くままに、私は思いついたことをそのまま口にして捲し立てていく。 「……確かに未来警察に不審がられても困るし、隠れ蓑みたいな感じで彼氏のひとりでも作っておいたほうがいいかもしれない」 「!そ、そうだよね。うん、仕方ないよねっ」 「ああ、大変だろうが辛抱してくれ……満更でもない、か」  話がまとまった時、ほんの一瞬だけ、彼が笑みをこぼしたように見えた。 「え?なにか言った?」 「いや、なんでも」  その日の夕方、私は岡崎くんからの告白に返事をした。私たちは付き合うことになった。 ×××  大学生活は思っていた以上に充実したものだった。  入学式で友達になったふたりの女友達はとても活発で、これまで勉強の虫だった私もグループの雰囲気にあてられ、一緒になっていろんな遊びを楽しむようになった。  大学近くのお洒落な料理店でお食事をしたり、ボウリングやゲームセンターではしゃぐこともあれば、ショッピングで流行りの洋服を吟味してみることもあった。誰がよりたくさんの男の人からナンパしてもらえるかなんて馬鹿げた勝負を提案されたときも、一緒になって可愛い水着を試着しながら、ああでもないこうでもないと意見を言い合った。自分を彩ることに楽しさを見出せるようになった。ちなみに勝負は実行に移されなかった。私自身本番には乗り気になれなかったし、賢治くんに話したら猛反発されてしまったからだ。  他にも伸びてきた髪にウェーブをかけてみたり、年相応のお化粧に興じてみたりと、女の子には楽しいことがいっぱいだ。  ともあれ、出費が増えれば反比例して懐は寂しくなるもので、いよいよ私はアルバイトをすることになった。お勤め先は未来の賢治くんとよく待ち合わせにする喫茶店だ。店長さんとは多少の面識があったし、女性用の制服には上品な可愛らしさがあって前から一度着てみたいと思っていたのだ。当然、志望動機には建前を使ったけど。  文学部での勉強は、あまり身に入ってこないことが多い。新しい見識を吸収できるのは楽しいし、講義もそこまでサボっていない。成績も悪いわけじゃない。ただ、講義中にも関わらず姦しい女子の集団や、講義時間の半分も経たずに適当に切り上げて教室を去るやる気のない教授、講義内容のクオリティの低さ等々は、私の勉学へのモチベーションを下げるのに十分すぎた。まあ、勉強が雑に済む分友達とたくさん遊べるわけだから、こんなキャンパスライフも悪くはないと私は思う。  他にもたくさん、今まで馴染みのなかった遊びや経験をして、私は女子大生としてこの上ない日々を謳歌していた。  そして今日、私は高校を卒業したあの日からお付き合いを続けている賢治くんをとうとう自分の家に誘った。家といっても実家ではない。私は大学生になってから一人暮らしを始めたからだ。一人娘が家を出ることにパパは猛反対していたけど、泣き落としてみたら1発で通った。ちょっと罪悪感も残ったけど、その辺はご愛嬌だ。引越しの際にパパから見覚えのある男物のパンツを渡された時は「娘相手にセクハラとは傷心も末期か」とドン引きしたけど、それは洗濯物に掛けることで男性も住んでいるということをアピールする、すなわち女性の一人暮らしではないと不審者を牽制するためのアイテムだったらしい。ちなみに見覚えがあったのはパパがよく履いているものだったからで、私は丁重にお断りして後日新品のものを通販で買った。  話がすごい逸れたけど、まあつまり、何が言いたいのかというと。  私と彼はきっと今日、大人の階段というやつを登るのだ。 ××× 「思ったより普通の部屋なんだな」  自室に招き入れた賢治くんの第一声がそれだった。 「面白みがなくってごめんね。ドアの上に黒板消しでも仕掛けとけばよかった?」  彼の言う普通の意味するところがよく分からず、ただ褒め言葉には思えなかったので、とりあえず私は嫌味で返した。 「わ、悪い。他意はなかったんだ。のぞみのことだから、てっきりもっと女子らしい雰囲気の部屋だったりするのかと思ってただけだ」 「……夢見る男子の幻想壊しちゃってごめんね」  しどろもどろな彼に対して私はそっけなくそう答えた。だけど内心少しだけ嬉しかったりする。部屋の女子力こそ低めに評価されてしまったが、「福島のことだから」という文言はつまり、私自身は彼から見てしっかり女子としてやれているんだってことを表していた。 『のぞみって高校の時より随分女の子らしくなったよね』  つい先日、親友の楓にそんなことを言われた。彼女とは大学が違うけど月に1回ほど一緒になって遊んだりする。 『なんか会うたびに磨きが掛かってるっていうか、いよいよ化けたな的な感じー?』  その時は「化けたとは、人をなんだと思っているのか」なんて不満を抱いたものだけど、今にして思えばなんてことはない。大学デビューというやつを指摘していたのだろう。私の場合は入ってからだから少し違うのかもだけど。  期せずして手にした女子大生の肩書きや、彼氏彼女の関係が、たぶん私をそうさせていったんだと思う。 「まあ、適当に腰掛けてよ。飲み物持ってくるね」  先ほどのやりとりは気にしてないよと口調で伝え、私は一度部屋を出る。ふぅと小さく息をついて、額に少し滲んだ汗を手の甲で拭った。これでも存外、私は緊張してたのだ。  お盆にお茶とお菓子をいくつか乗っけて部屋に戻ると、当然賢治くんは座って待っていた。ただ、その座っていた場所というのが椅子でもベッドでもなく絨毯だったのが、彼らしくてなんとなくおかしかった。  日もすっかり暮れて部屋の照明が活躍を始めた頃、どちらからともなく寄り添いあって、私と彼は口づけを交わした。いつもより長い口づけだった。  唇を離すと、彼の紅潮した顔と、迷いを感じさせる瞳がはっきりと見えた。普段はなんだかんだでたくましいくせに、こういうときだけこんななんだからズルいと思う。まあ、彼から見た私も同じような表情をしているだろうから、その辺はお互い様かな。  意を決して、私はシャツを脱ぎ捨てた。ブラジャー1枚になった上半身は彼の目を釘付けにさせる。ふふん、日頃から伊達にダイエットしていない。胸だってそこそこ大きいし、少し派手めの勝負ブラも魅力を高めてくれている、はず。おへそ周りのくびれもしっかり整えてあるし、男心を理解している私から見て、贔屓目なしにこの身体は相当に点数の高い仕上がりになっているだろう。そしてそんな私の自慢のスタイルは彼を見事に射止めたらしかった。  ブラを外すと彼はその手を私の胸に伸ばしてきた。控えめに下乳を、ついで乳首を撫で回し、やがて手のひらを大きく開くと、それを胸に覆い被せた。ごつごつとしたたくましい男らしい手が、指が、私の乳房を優しく揉み始めると、瞬時に私の脳は甘美な刺激をキャッチして、ほとんど反射で口から嬌声が漏れた。  自分自身でするのとはまるで違う感覚。同じことをされているはずなのに、神経が敏感に、過敏に反応してしまう。自分の…女の手でするのと、恋人の…男の手でするのとでの決定的な違い。本能が訴えかけてくる。異性に、男の人にしてもらうことこそが、この身体の本懐なんだと。  抱き寄せ、キスをし、胸を揉みしだかれる。彼の男らしい身体が私の華奢な女体を抱擁してくれると、それだけで心の底から安心感が湧いてくる。だからこの身を委ねることになんらの躊躇いも抱くことはない。キスは気持ちいい。頭にじんわりと幸福のもやが掛かって、お互いに愛し合っているのだと実感できる。胸を揉まれると特別な繋がりを手にした気になれる。他者に晒されることのない恥部をあらわにし、その存在を認めてもらえる。今後生まれてくる赤ちゃんのために備わった器官だというのに、心理的にはまるで男女を結ぶ秘密事のような役割を果たしてくれる。  じゅんと、股間が疼くのを感じた。女性器が愛液に潤い、男性器を迎え入れようと準備を整えている証拠だ。数年前では差し込む側だったというのに、薄情にもこの身体はもはや受け入れることしか考えていない。卵子を作り、精子を取り込み、この身で受胎を成立させようとしている。この世に生を受けた時から着実に女性としての役割を全うするべく性徴を重ねていったこの身体は、私の意思など意にも介さずその胸を膨らませ、骨盤を広げ、体格は小さく丸みを帯びさせ、筋肉の代わりに脂肪を目立たせる。私の年齢にもなればもう、子どもを孕み産み落とすための準備は…女体は、既に完成しているのだ。  全体的に華奢で、男の人を寄る辺にすることを前提にしたような頼りなさ。そんな男性とは別の道を歩んできたはずのこの身体が、今ここでそれとひとつになるべきだと私に促す。脳は欲求に忠実に、ただ本能のままに目の前の彼と交わろうと私の思考を掻き乱す。そしてそれらがないまぜになっていくことで、やがて私の中の迷いは晴れ出し、私がこの舞台に女性として存在するこの状況を肯定させるにまで至る。  お互い、生まれたままの姿になる。理性が捨てきれず、私は気恥ずかしさで胸と股間をやんわりと隠した。そんな私にお構いなしに彼は私をベッドに押し倒し、私の両腕を掴んで外側に追いやった。隠されるべき秘部が隠せないことに、そしてそれが彼の行動によってなされているということに、私は言い知れない倒錯感を抱いた。だけど今、そんな歪んだ感情すら私にとっては愛液を増す一材料に成り得た。私は身を捩りながら、しかし抵抗と呼べる抵抗もせず、予定調和に彼の逸物を受け入れた。  馴染み親しんだはずのそれは今の私にはなく、けれど自分が女性としてこの身を曝け出すことで、そこに生まれた空白を彼に埋めてもらうことができる。この感覚は、たぶん私が元男でなかったら味わえないもの。私だけの、最高の快感。 「んっ、ふぅ、あんっ……!」  気づけば私は、はしたなく艶かしい喘ぎ声を漏らしていた。行為は勢いを増し、彼の熱視線は私の心を貫き続ける。その情熱を一心に受けることで、私はまた女としての悦びに満たされていく。 「んあっ、は、はっ……!」  気持ちいい。気持ちいい。ひとりでは達し得なかった未知の快感が絶えず押し寄せる。彼に愛されているという充足感。肉体がひとつに繋がれ、明るく満ち満ちていく乙女心。  そして私の膣内を蠢く彼の逸物が、私の脳内に処理しきれないほど滂沱の快楽をもたらし続け、やがて思考は明滅を始める。気持ちの昂りは最高潮に達し、私の腕が、足が、彼から離れまいと、彼を離すまいと懸命にその男体に絡みつく。 「う、くっ!のぞみ!のぞみっ!!」 「んっ!あんっ!けん…んぅっ!けんじっ、くんっ!!」  彼が私の名前を呼ぶ。その度に私を抱く彼への想いが強まって、そしてーー 「っっ〜〜〜〜!!!!………………………………えへへぇっ……けんじくん、だいしゅきぃっ……」  それだけ言って、私は意識を手放した。  未来警察を欺くためだとか、この関係は隠れ蓑だとか、そんなこじつけはもはや、私の頭から掻き消えていた。 ××× 「お先に失礼します」 「ああ、福島さん。ちょっと」  時刻は既に午後6時。目ぼしい仕事は粗方片付いたため、ようやくこれで退勤できると思いきや、営業部の男性に声を掛けられてしまった。 「この案件の資料、明日朝イチで必要でさ。悪いんだけど今日中にまとめといてもらえるかな?」 「え?で、でも……」 「じゃ、頼んだよ」  そう言ってすたすたと自分のディスクに戻っていく彼の背中を眺めながら、私は内心でため息をついた。断ろうと思えば断れるはずなのに、こういうとき途端に言葉が出てこなくなる。私はいつからこんなに押しに弱くなっちゃったんだろう。なんだか前にも似たようなことを考えたような気がする。  社会人になった私は今、無名の広告会社で事務職員としてお勤めをしている。いわゆるOLというやつだ。  就活の際、私は周りがそうするように適当な企業の面接を受け、適当に内定をもらった。女性が働きやすい会社と聞いていたんだけど、そもそも性別に関係なく事務職は営業職に顎で使われるものらしいからあまり関係がなかった。  今日も残業コースかとうんざりしていたら鞄に入れていたスマホが鳴った。見ると賢治くんからの連絡だった。それだけで私の口角は自然と上がりだす。随分と安い女だと我ながら思う。  私が女子になったあの日から、とうに5年は過ぎていた。にも関わらずこうして科学者への道に進むどころか男性にすら戻っていないのは、私がそれを望んだからだ。『福島望』としてではなく『福島のぞみ』として、男性としてではなく女性として、私はこの生涯を全うすることに決めた。その選択をしたのには、まあいろんな理由があったわけだけど、今は割愛することにする。  男であること、科学者としての道を捨てること……どちらにも未練はなかった。なくなってしまっていた。だけどこうして、慎ましやかながらも日々を幸せに生きている。私のあの日の選択は、きっと間違っていなかった。 「お疲れ様です」  ほとんど人がいなくなったオフィスで挨拶を済ませ、私は家路を急いだ。明日は賢治くんとのデートの日。なるべく早く寝てエネルギー切れを起こさないようにしたい。男の子だったときほどの体力は、今の私にはないのだ。  スーツを適当に引っ掛けてシャツを脱ぐ。浴室に入りまずはメイクはしっかりと洗い落とす。  目の前の鏡にはシャワーに濡れた全裸の自分が映し出されている。賢治くんの好みに合わせて腰まで伸ばした濡羽色の長髪。大きく膨らみきったふたつの乳房を始め、若々しくも大人としての成熟を果たした女性らしい身体つき。これまで何度も彼に抱かれ、その度に彼を満足させてきた自慢の女体だ。抱き合い、接吻を交わし、胸を押し付け、逸物を受け入れ、そうしてお互いの愛と性を確かめ合ったあの日々が、私をこんなにさせたのだ。  そんなことを考えていると下腹部がきゅんと疼き始めた。これはいけない。彼との情事に少しでも想いを巡らすとすぐこれだ。取るに足らない女心だけど、あまり節操がない彼女だとは思われたくない。慎むべし慎むべし。  明日私は、彼にプロポーズをしようと考えている。こんなはしたない私だけど、彼は私の想いを受け止めてくれるだろうか。  それに、時期的にも彼にはそろそろ私の正体を知ってもらわないといけない。それを伝えた上で、私はプロポーズに望まないといけない。 「……ふふっ」  気の重さは確かにある。だけどなんとなく、この想いが結ばれないなんてビジョンが浮かんでこないのだ。それはたぶん私が図太いからとかじゃなく、これまで彼と一緒に過ごしてきたあの日々が、大切な思い出たちが、きっと彼の胸にもしっかりと刻み込まれているんだという確信があるから。  まあ、この話を抜きにすればいつも通りの彼とのデートだ。とにもかくにも、楽しまなければ損だろう。  鏡の向こうの私は、とっても素敵な微笑みを浮かべていた。 ×××  一世一代のプロポーズを前にしたあの日も、今日のような心持ちだっただろうか。いや、あの時はもっと心を弾ませていたような気がする。 「それじゃ、そろそろ」 「はい、あなた……」  これからしばらく会えなくなる悲しみを押し殺して、私は最愛の人との別れを惜しんだ。  仕方のないことなのだ。彼が過去に行き『福島望』と接触をしなければ、後に未来警察が『福島のぞみ』に変えたところで岡崎賢治との接点は薄まり、やがて今とは違う世界線を…すなわち、私たちが結ばれない世界線を辿ることになる。そんなのは絶対に嫌だ。  すべては今あるこの幸福を守るため。そう、分かってはいるんだけど……。 「そんな悲しそうな顔をするな。言っただろう、タイムマシンの充電期間を考えたら3ヶ月に一度は帰ってこれるんだ」 「それは、そうなんだけど……」  これから続く長い長い5年を思うと、どうしても気持ちが沈んでしまう。 「う、うぅ〜……」 「ほら、お前がそんな顔してるから、この子だってぐずりだしたじゃないか」  おどけた口調でそう言いながら、彼は私が抱き抱えている娘をあやしだした。そんな彼の笑顔を見ていると、なんだか元気が湧いてきた。 「……ん、そうよね。しっかりしなくっちゃ。だって私はこの子のお母さんなんだものねっ」 「おう……そうやって笑ってるのぞみが俺は1番好きだよ」 「もうっ、茶化さないで!ほんと、あなたのパパはいけない人でちゅねー」  こんなちょっとした団欒の暖かなひとときを楽しみながら、私たちは時間ぎりぎりまでその場を離れようとしなかった。 「よし、じゃあ行ってくる」 「はい、いってらっしゃい……あなた、ちょっと」  玄関のドアを開ける彼に私は最後に一言だけ投げかけて、 「過去の『私』をお願いね、賢治くん」  振り返った彼の唇をそっと奪った。 了


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