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孔明の罠
孔明の罠

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仕方なく女子高生になった元男子が徐々に"女性"に染まっていって、男に戻らず過去の自分と決別するまで その1

 俺の名前は福島望。現在高校1年生。県内随一の名門校である志木本高校に成績トップで入学し、科学部副部長として部長とともに部員をまとめ研鑽に励む充実した日々を送っている。  客観的に見て、俺は高校生の中では極めて優秀な部類に入るだろう。運動も苦手じゃないし、友人だってそこそこ多い。教師から生活態度を嗜められたことなんてないし、ましてや生徒指導部に呼び出された経験もない。言わずもがな、学業にいたってはこの県で俺と張り合えるやつはいない。周りの人たちはそんな俺を神童だと褒めそやし、その度に俺は鼻高々だ。そう評価されるだけの努力は重ねてきたつもりだし、結果もついてきてくれたのだから謙遜はしない。  とはいえどれだけ卓越していようと所詮はただの一高校生、その範疇に過ぎない人間なのであって、例えば今日みたいなイレギュラーを前にした時にまで超然としていられるというわけでは、当然ない。俺はあくまで男子高校生として存在していて、その枠組みを踏み越えることなんてありえない。  高校生では総理大臣になりようもないとか、そういう話の比喩を言いたいわけじゃない。俺は今、現実的に不可能という話ではなくて、もっと直接の意味で、そのままの意味で『俺が男子高校生であればありえない』ことの話をしているのだ。  朝日が東窓を照りつける。外界からの刺激に意識が目覚め、あくびをしながら起き上がる。視界に入った薄ピンク色の寝間着に辟易としながら、ぼさついた後ろ髪で手慰みしつつ、俺は自室に置かれた姿見の前に立つ。  ほんのわずかな身じろぎでさえさらりと揺れ動く肩越しまで伸びた綺麗な黒髪。筆先でそっと一線を引いたかのようにささやかな眉。小ぶりな童顔にまるで遠慮することなく大枠を占める大きくぱっちりとした瞳。滑らかなしなりを見せながらそれらを囲い彩るよく伸びた睫毛。慎ましく小綺麗な鼻のつくり。白肌に浮かぶ薄紅色のぷっくりと膨れた瑞々しい唇。寝起きのぼんやり呆けた顔ながら、人の目を惹きつけてやまない端正な目鼻立ちは健在だ。  掴めば折れてしまいそうな細首の下はややフェミニンな寝間着に包まれ、しかし胸の箇所だけは内幕に伏せられた身体の凹凸を隠しきれておらず、盛り上がる双丘の存在をこれでもかとばかりに主張していた。  代わりに、以前であればこと朝方に主張の激しかったはずの股間部はすっかり静まりかえっている。小さくほっそりとした自分の柔い右手をズボンに、さらにパンツに潜り込ませてみようとすると、股間にぴっちりと密着し秘部の露出を防いでいたそれはあっさりと伸縮し形状を歪め、その侵入を許してしまう。  しかし俺の指先が事もなく目的の物を確認できたかというと、当然そうはならなかった。ありし日の逸物はもはや幻で、パンツの中で握られた俺の右手は虚しくも空を切った。  右手を開き、その中指を自分側に向け、指先を股間に軽く押し込む。するとその動きにあわせて俺の秘部はむにゅっと形をいじられた。  本来であれば、そこで終わりのはずだった。俺の身体は、そこで終わるべきものだった。  今はその先に道がある。中指は通行止めを受けることなく肉に沈んでいく。肌という壁なんてなく、あるのは終わりの見えない一筋の割れ目。 「っ……」  湿り気のある内部の壁面と指先とが擦れ合い、奇妙で面映い刺激を知覚した。経験のない感覚に俺は思わず手を引っ込めて、それからため息をひとつついた。ふと鏡を見ると、先ほどの女の子が顔を紅潮させながら気難しげな表情を浮かべていた。 「のぞみー、そろそろ起きないと遅刻するわよー」  母の声だ。時間には余裕を持って起床していたはずだけど、気づけば時刻は既に7時を回っていた。 「はーい!……はぁ」  なんてことのない朝のやりとり。しかし俺からしたら異常でしかない。俺の名前は『望(のぞむ)』だし、発した声もソプラノといって差し支えのない、こんないかにも女子らしい声音ではなかったのだ。  つまり何が言いたいのかというと、俺は元々男だったのだ。 ×××  昨日の放課後。俺はひとりの不審者に絡まれていた。 「俺は未来から来たんだ」  雰囲気からして年齢は30を回った辺りだろうか。男子の平均身長そのままの俺より一回り大きな背丈とスマートな体格。聡明そうに見える顔つきだが目元は黒のサングラスに覆われていて判然としない。身なりはみすぼらしくもなく、かといって立派というわけでもない。ただ、あまり見慣れない出立ちをしていた。日本語は流暢だったが、異国の人かもしれないと思った。  いずれにせよ、ここで足を止めてやる気にはならなかった。俺にも人並みの良心はある。けれど道案内ならいざしらず、突然通りすがりに未来人だなんて言われて耳を傾けてやるほどお人好しでも酔狂でもない。  聞かなかった振りをして素通りを試みた。しかし相手はサングラスを外してこう言った。 「待てよ福島。俺だ、岡崎だ」  俺の所属する科学部には岡崎賢治という男子がいる。少しだけ器量の狭い人間だが頭の冴えはよく、部活動においては主力のひとりに数えられる優秀な部員だ。  そしてそんな岡崎と今俺の目の前にいる不審者とが、ありえないことに俺には一致して見えた。  少しだけ話を聞いてみると、彼の言うことが真実だとすればどうやら10年後にはタイムマシンが完成しているらしかった。なにを馬鹿なと最初は鼻で笑っていたが、窃盗事件の現行犯逮捕の現場を目撃することや、財布の残高が足りずコンビニで恥ずかしい目に遭う中年を見かけることなど、十数分後に起こる出来事をことごとく言い当てていく彼を見て、俺は柄にもない高揚を感じ始めていた。 (ドッキリにしても出来すぎている。これはまさか、本当に未来人かもしれない……!?)  適当なファミレスに入り腰を落ち着かせる。未来の岡崎の話をしっかりと聞くためだ。  そこで俺はまたしても衝撃を受けた。  10年後の世界ではタイムマシンはおろか、アカシックレコードの存在が認知されているというのだ。アカシックレコードとは、簡単に言うと世の中にあるすべての情報、事象が記録された存在のことだ。概念としてしか存在するはずのないそれが、未来では人類の管理下に置かれているという。そのアカシックレコードの管理は未来警察という団体に一任され、未来の俺も岡崎もその一員らしい。 「俺も福島も一流の科学者として名前を世界に轟かせていた。そして日本人期待のホープとして未来警察に加わった。そう、すべてが順風満帆だったんだ……なのに……」  ある日、岡崎はとある任務でアカシックレコードの一部を確認することになった。すると偶然にも、見知った人物のありうべからざる情報が目に入った。  『氏名:福島のぞみ 性別:女』  調べてみるとその情報は俺、福島望のもので間違いなく、ただ性別が女であるためにアカシックレコードに記されている『のぞみ』と、現に存在している男としての望との間で、世界線に著しい乖離が生じてしまっているらしい。  アカシックレコードがどんな媒体で、どんな使われ方をしているのかまでは話してくれなかった。しかし未来警察の職務や方針を踏まえると、アカシックレコードに則って男としての俺を消失させに訪れる可能性が極めて高いというのだ。 「消失ってのは、すなわち『存在や歴史、さらには今あるお前の意識すらも綺麗さっぱり男でなくして、アカシックレコード通りの、女の福島のぞみに置換する』みたいな感じだな。今はまだ組織に勘づかれていないが、今後5年間続く大規模メンテナンスでもしこのことが露呈したら、今のお前は……」  そして岡崎はそんな窮地の俺を救うべく、こうして未来からやってきたというのだ。  アカシックレコードを絶対として、脱線した現実を記述の通りに戻すため発明された修正用のタブレット端末。原理は分からないが、ここに表示されたデータは現実世界とリンクされているため、それを書き換えるだけで現実世界を改変することが可能なのだそう。 「とにかく、お前はこれからアカシックレコード通りの、『福島のぞみ』のフリをするべきだ。5年間、未来警察の目を欺けさえすればお前はお前のままでいられる。未来の俺たちは科学のさらなる高みを臨める。福島、わかってくれるな?」  そうして俺の福島のぞみとしての生活が……俺の女子高生生活が、始まった。 ×××  元々趣味に乏しい俺だが『福島のぞみ』もそこは同じようで、部屋にあるものにそこまで変化は見当たらなかった。本棚いっぱいに詰められた科学にちなんだ書物や参考書を見るに、科学部に籍を置いていることや俺のアイデンティティである理数系科目の成績は健在らしい。ただ、部屋の模様というか、色合いはどことなく暖色に寄せられているし、クローゼットを開けば当然着替えは女物一色だ。  ドアに掛けられた制服一式を見てため息がこぼれるが仕方ない。俺が寝間着を脱ぎ捨てると、姿見にはショーツ1枚を身につけただけの可憐で無防備な女子の姿が映る。細く筋肉の乏しい頼りなさげな両手足。骨盤のせいで以前より大きくなった臀部。反面ウエストは緩やかな湾曲を描きながら細まり、いかにも女子らしい柔らかなくびれを見せる。内側にはちょこんと控えめに縦筋をつくるへそがあり、さらに上をいくと染みひとつ浮かばない綺麗な柔肌は突如として半球を実らせ、その中心にぽつんと桜色のつぼみを添える。言うまでもなく、男であったならありえないはずの乳房だ。 「……」  それは手で鷲掴むと抵抗なく指圧をそのままに受け入れ、形をむにゅんと歪ませた。すごく柔らかく、きめ細やかな肌と相まって触り心地がとてもいい。しかしそんな触感と同時に『自らの敏感な胸が揉まれた』のだという蠱惑的な刺激が俺の脳に伝達される。 「っ……」  それが外界から来る有象無象の刺激とは異なり、自らの性的快感を招きかねないものだと直感的に認識し、俺は思わずぱっと手を離した。 「……はぁ」  透き通るような白い肌に健康的で女の子らしい身体つき。健全な男子高校生であれば目を離せないだろう女体が日光に照らされて、鮮明に映し出されている。しかし悲しいことにその少女はまさしく俺そのものであって、鏡の向こうの彼女は俺と同時にため息をついた。  引き出しから水色のブラジャーを取り出し、肩に引っ掛けていく。乳房をブラの内側に軽く当て、その形を少しだけ整えてあげてから背中のホックを止めて仕上げる。ワイシャツは着間違えを防ぐためなのか男女でボタンの配置が左右逆転していて、まだ少し慣れない。手こずりながらもぷちぷちとやる。  次に下半身まではみ出たワイシャツの部分ごと腰を無地のスカートで囲い、脇にあるファスナーを持ち上げて固定する。無駄毛のない綺麗な両脚に紺のハイソックスをそれぞれ被せ、最後に胸元に赤いリボンをくくりつけて、『福島のぞみ』の完成だ。  撫で肩に変わってすっかり掛けにくくなったスクールバッグは手に提げて、玄関でローファーを履く。 「いってきまーす」  俺が女子になってから、何回目かの登校だった。 ×××  性別が変わったというだけで、世界はそこそこ変わって見える。  例えばこの道路沿いに立ち並んでいるブロック塀は以前であれば俺の背丈を越えたりはせず、俺はその向こう側にある駐車場をありありと見ることができていた。しかし女子になり身長が160cmに届かなくなった今、その光景を目にすることはない。背伸びでもすれば別だろうけど。ともかく、見慣れた光景を普段よりやたらと低い視点から目にするのはなかなか違和感が強い。まあこれはこれで新鮮に映るとも言えるから、面白く感じなくもない。  ただ、先週末の混雑していた電車に乗った時は本当にしんどかった。というのも、隣に立っていた中年男性が半端に背の高い人で、彼が吊り革に掴まることでその腋が開かれ、そして身長の低くなった俺の顔面とそこがジャストミートしたのだ。別に匂いがキツかったとかいうわけではない、中年男性の名誉のためにも言っておく。とはいえ生理的には許容できるものでなく、情けなくも俺は岡崎と場所を代わってもらったのだ。  そう、先週末の話だ。俺と未来の岡崎は一緒になってショッピングモールに出かけた。女子としてあまりに無味乾燥な俺の小物や部屋模様が、未来警察に懸念を抱かせかねないのだそうで、まあ女子力の上がりそうな物を適当に調達しようという話になったからだ。正直神経質すぎる気もするが、未来警察やアカシックレコードに関して俺は実情をろくに知らないし、そのくらいの労力でこの人格が消滅するリスクを減らせるというのなら安いものだと思うしかない。とにかく、俺はこれから一般的な女子らしく過ごすよう心掛け、変に目立たないよう気をつける必要がある。  目立つといえば、『福島望』の容姿はやはりそこそこ端麗らしく、この姿になってから道行く男から視線を感じることが多い。最初は俺の女装…いや厳密にはもう女装ではないんだけど、あくまで精神的な意味で…俺の女装がおかしかったのかと焦って身をよじりながら全身隈なく身嗜みを再確認したものだが、どうやらそうでもないらしく、そのことを岡崎に聞いてみると、彼らは俺のどこかしらがおかしいからではなく、ただ俺が可愛いから盗み見ていたのだと返された。俺も男だからそういう感覚はわからないでもないが、俺は男なので可愛いと思われるのはなかなか複雑な気分だ。  しばらく歩いてみて意外に思ったのは、こうしてみると女子の胸というのは思っていたほど揺れるものでもないということだ。これは別に俺の胸が小さいからとかでなく、ワイシャツが胸の盛り上がりによって張るからだ。そうして張られたシャツが壁代わりになることでブラと一緒に胸を固定してくれている。そんなわけで、外を出歩いているうちはなんてことないが、もしブラのない寝間着の状態で今の俺が勢いよくぴょんとジャンプでもしようものなら、この双丘は慣性と重力とで大暴れを起こし、俺はたちどころにその付け根を大いに痛めるのではなかろうか。  ともあれそうした状態にない今であれば、俺に男女の違いを1番意識させるのはこの下半身を申し訳程度に包み込む頼りなさげなスカートかもしれない。ブラの独特な包容感もそこそこ意識に残るものだが、スカートは表に現れる分、やはり過敏になってしまう。歩くたびにふりふりと揺れながら、時折優しく太ももを撫でる学校指定のプリーツスカート。男子用のズボンと違って短く筒状なせいで脚の露出はどうしても目立つし、しかも外気がスースーと直接ショーツに行き届くこの心許なさといったらない。 「あ、のぞみ。おはー」  そんなこんなで悶々としていると、ふいに声を掛けられた。振り返ってみると、そこには笑顔で手をあげる俺と同じ格好をした女子生徒。 「おう…じゃなくて、うん。おはよう、楓」  彼女の名前は安達楓。  明るく元気で気配り上手、クラスでも人気者の女子だ。そしてなにを隠そう、俺の彼女である。 「正確には『だった』だけど……」 「?どしたの?」  俺と楓が付き合っていたのは俺が男だった時の話で、女子同士のこの世界ではお互い誰とも付き合っていない。当然といえば当然かもしれないが、俺にとってはそこそこショックな改変点だった。  不幸中の幸いなのはそんな彼女と未だ親友という形で関係を保てていることだ。同性として接されるのは妙な感覚だが、これはこれで彼女の意外な一面が知れたりして面白い。 「あ、リボン曲がってるじゃん。まったくのぞみってばー」  例えばこうした世話焼き気質も以前の俺では見られなかったものだ。俺が女子初心者で抜けが多いからというのもあるんだろう。 「ちゃんとリンス使ってる?寝る前顔にオイルは塗った?のぞみせっかく可愛いんだから、ちゃん美容ケアしなきゃもったいないよー?」 「あ、あはは……」  言いながら俺の至る所をさすりさすりとしてくる楓。いかにも女子のスキンシップって感じでなんだかこそばゆい……。 「あ、時間」  言われてみると、確かに少しのんびりしすぎた気がする。このままだとぎりぎり遅刻してしまいそうだ。俺と楓は揃って道路を駆け出した。 ×××  再三触れたが、この世界にあるすべての情報や友人知人の記憶に存在する福島望は女であるように置換されている。それは家族だろうが彼女であった安達楓だろうが例に漏れない。  ではなぜ俺自身の記憶はそのままなのかというと、岡崎曰く、 『タブレット使用者と改変対象が知り合いの場合、改変に私的利用のリスクが増すだろ。だからそういうときは改変対象の意識とか記憶には干渉できないように設計されてるんだ。仮にお前が不本意な改変を受けていたとしても、当人が洗脳紛いの状態にならないなら未来警察に告発が可能で、不当にこれを使ったやつはあえなく御用って寸法だ』  ついでに言うと、そのタブレットは初期設定時に登録された持ち主にしか操作することはできないらしく、改変対象とまったく面識のない第三者に操作させることで設計の裏をつくなんてことは不可能なのだそう。もしそれができるのであれば、いっそ俺は今ある意識を手放して、事態が落ち着くまで心身ともに女子になっていたほうが楽だったかもしれない。なにせ俺が女子になったことで交友関係も変わってしまっている。改変から日の浅い現状、その対応に俺はそこそこ苦慮しているのだ。 「やっぱそうだよねー。あ、でもこの服とかのぞみいい感じじゃない?」 「う、うん。かもね……」  性別が違えば話のネタも変わってくるのは当然のことで、以前なら単なる一クラスメイトでろくに会話もしたことがなかった女子がファッション誌片手にあれこれどれそれうんぬんかんぬん、仲良さげに話しかけてくる。 「……のぞみ最近調子でも悪い?なんか喋り方もたまに変だったりするしさ」 「へっ!?い、いやいや!別に全然元気だぞ!だよ!普通!超普通!!」  そりゃ17年間男子やってきた人間が突然女子として過ごせと言われて、他人にまったく違和感を抱かれず擬態なんてできるわけもない。まして周囲の女子にとって『福島のぞみ』という人物像は既にある程度確立されたものなわけで、それに合わせて振る舞おうというのはもう無謀でしかない。訝しがられて当然だ。 「……あ、のぞみ、さては……」 「さ、さては……?」 「……『あの日』、なんでしょ?もー、言ってくれれば気ぃ遣ってあげるのに!」  とはいえ、見た目だけで判断するなら今の俺は間違いなく、寸分違わず『福島のぞみ』であるため、超自然的、あるいは超科学的な事象に馴染みのない彼女らが俺を男ではないかと邪推するようなことはない。居心地の悪さは、まあ我慢するほかない。ちなみにあの日とはおそらく生理のことだろう。 「……」  生理、正しくは月経と呼ぶらしいそれは子宮関連の生理現象に起因する女体にのみ起こりうる現象だ。以前の俺であれば当然無縁のものだったけど、これからはそうも言っていられない。今後幾度となく俺の身にも訪れ、この身体をより女性として適した身体へと変容させていくのだろう。そう考えると一層気が重くなる。 「でもどうする?次の授業って体育だよ?」 「あっ」  そうだった。今日は体育がある。これから先の生理のことよりも、今はこちらを対処しなければならない。  今の俺は女であるからして、男女分かれての授業では当然女子側に割り当てられる。いや、それだけだったらまだいいのだ。周囲に女子しかいない状況が気まずいにしても、無難に授業を受けるくらいわけない。  問題は、その準備段階にある。つまり、着替えだ。  岡崎は俺になるべく普通の女子として、変な目立ち方をしないように過ごせと言った。俺が女子更衣室に入りたくないがため今ここでひとりトイレに逃げ込み着替えを済ませること、これは普通の女子たりうるのだろうか。一度や二度ならセーフかもしれない。でも、残りの高校生活、体育の機会あるごとにそんな手段を選択するのは現実的でないように思う。 「でも大丈夫そうかな。のぞみはもともとそこまで酷くなるタイプでもなかったもんね。じゃあほら、いこっ」  男であれば花園とでも表現できよう女子更衣室に、俺は合法的に連行されていった。  身を縮こまらせながら友人の後ろに続いて女子更衣室へと足を踏み入れる。背徳感で言えば女子トイレを使う時もなかなかだったが、あれとは違って今この場には個室なんてものは設けられていない。ちらりと顔を上げれば、自分以外の女子たちが一斉に着替えをしている光景が目に入る。  臆面もなくワイシャツのボタンを外し、可愛らしいブラと大人の女性になりかけた艶めかしい上半身を曝け出すクラスメイトたち。脇のファスナーを下ろしするりと脱ぎ捨てられていくスカート。股間に被さる慎ましい装飾のされたショーツは女子ごとに色やデザインが異なり、みな思い思いの嗜好をささやかに主張していた。  ほとんど一糸も纏わないでいる無防備なままの彼女たち。しかしそんな場面に立ち会う俺を誰ひとりとして気にも留めない。 「のぞみ、はやく着替えちゃおうよ」  それどころか俺にこの集団の一員になるよう促しすらしてくる友人。彼女もまた俺の隣で平然と衣服に手を掛けていた。俺はなるべく真下に目を落としながら、早くここから立ち去りたい一心でせかせかと着替えを始めた。  俺は、男として当然の性的興奮とは別に、これまでに経験したことのない奇妙な感覚を抱きつつあった。なにかアイデンティティが錯綜していくような、後戻りのできない沼にでも引きずり込まれていくような、そんな感覚だった。 ×××  授業を無事に終え、これから俺は部活動だ。  それにしてもこの身体でする体育はなかなかに大変だった。運動は苦手じゃなかったはずなんだが、男女の身体のつくりの違いのせいかイメージ通りに身体を動かすことができず、結果は散々たるものだった。  もっともそんなドジ連発な俺に対して女子たちはなんら不審がる様子を見せなかったので、『福島のぞみ』はあまり運動が得意ではないものなのかもしれない。今さらな話ではあるが今度岡崎に『福島のぞみ』の人物像を確認しておこう。ちなみに岡崎とは携帯でやりとりが可能だが、普段どこに潜んでいるのかは分からない。浮浪者みたくなっていないといいのだが。  そんなことを考えていると、ふいに俺の携帯が震えた。噂をすればなんとやら。岡崎からのメールだった。 「……はぁ?」  そこに書かれていた内容は俺にとって衝撃的なものだった。  次に全国区で開かれる科学コンペへの出場を辞退するように言ってきたのだ。冗談ではない。俺たち科学部員にとってそれは甲子園ばりの熱狂と輝きを見せ、日頃の研究成果を遺憾なく発揮することができる年に一度の祭典だ。このために長い時間を掛けて準備を進めてきたというのに、今さら辞退なんてできるわけがない。  忠告の理由に目をやる。なんでも俺が未来で科学者として名を馳せる切っ掛けとなるのがこの科学コンペだという。つまりこの舞台が、俺と岡崎とを近い将来未来警察に接触させるのだそう。5年間は目立つ行動を控えるべきという行動指針に照らせば岡崎の話はもっともだった。  科学者になりたい。その夢のためには、今は目先の科学を捨てるしかない。仮にここで俺の実績が上がらなかったとしても、ことが落ち着いてからタブレットで世界を戻せば、まあ俺の記憶には復元されずとも俺自身は科学者の道を歩めているという。 「はぁ、仕方ないか……」  俺は部活の仲間に、コンペに参加しないことを伝えた。このタイミングで俺が抜けるのはこの部にとって大きな痛手になるだろうけど、まあこの時代の岡崎もいることだし、優勝は難しいにしてもなんとか形にはしてくれるだろう。 ×××  残暑もすっかり鳴りを潜め、山々は紅葉に染まりつつある。高校2年の秋といえば、誰しもが待ち望む修学旅行だ。趣味らしい趣味なんて科学くらいの俺だけど、課外でクラスメイトたちと観光地を回るのを楽しめないほど無粋でもない。さしあたって目の前のこれは有名なお寺なわけだし、適当に1枚写真を撮っておいてやろうとカメラを構えた。  ぼんやりとアングルを調節していると、隣で楓がなにかに気づいた。 「あ、おみくじある。引いてく?」  言いながら小走りに進んでいく楓。女子は占いとか風水が好きだと聞いたことがあるし、楓もその例に漏れないのだろう。楓に続いて班員が各々くじを引いていく。 「うっわ……」 「凶でも引いた?」  楓の露骨な反応を見て俺が結果を予想してやると彼女は首をぶんぶんと横に振り、 「中吉〜」 「なんだ、悪くないんじゃん」 「中途半端なのがいっちばんつまんないんだよー」 「おみくじにエンターテイメントを求めるのはおかしいでしょ……」  俺がそう突っ込みを入れるも、依然彼女は不満げだ。まあ、楓らしいといえばらしいかもだけど。 「あ、でもここ、『待ち人来たる』だって!もしかして私にもついに春が!?」 「現金だなぁ。ていうか、楓ってそういうのに興味あったの?」  実際のところ、楓は男子からかなり人気があるのだ。たまに告られもしている。にも関わらず彼氏のひとりも作らないのは、彼女がそういう男女の色恋に無頓着だからだと思っていた。 「そりゃあるよ。華の女子高生だよ。青春を謳歌してやろうって気持ちは人並みにあります」  しかし言われてみると俺が男だった頃は楓のほうから告白してきたわけだし、年相応にそういう関係は意識しているのだろう。 「でも、じゃあなんで男子からの告白いつも断ってるの?」 「え?う、うーん……なんというか、なんか違うなって感じるんだよね、今のところ」  俺がそう尋ねてみると、小難しそうな顔を作ってハテナと小首をかしげる楓。うーんうーんと唸り続ける。すると突然ぱっと表情を明るくさせて、冗談めかしてこう言った。 「私、のぞみが運命の相手だったりしちゃう気がしなくもないんだよねっ」 「はいはい、私も楓のこと好きだよー」 「きゃーうれしー!」  呆れた俺の棒読み台詞をまったく気にする素振りも見せず、満面の笑みでぎゅうっと抱きついてくる楓。そんな彼女をどうどうと宥めつつ、俺も自分のおみくじを開いた。 「……うげ」 「……あららー」  大凶。まさか令和のご時世に実在するとは思わなかった。 「……楓、私たちはなにも見なかった。いいね?」 「いやよくないよ!?ちゃんと現実見ようよ!」 「見ないよ。見る必要ないし。だっておみくじに書いてることなんて当たるわけないからね、科学的に」 「境内で言っていいセリフじゃないよ!?……はぁ、こういうの気にしちゃう辺り、なんだかんだのぞみも女子だよね。じゃほら、それちょうだい。私が代わりに読んであげる」 「……ん」  不承不承、俺は楓におみくじを渡す。 「ふーん。へー。ほーん」  間の抜けた声を漏らしながら楓は大凶の内容を読み耽る。 「あ!でもここなんかいい感じだよ!流れに身を委ねれば待ち人来たる、だって!」  ふむ。今は我慢のときだぞ的な話だろうか。ならこの大凶という結果も甘んじて受け入れなければなるまい。  俺がひとりぶつぶつ我慢我慢と念じていると、班員の女子が唐突に話題を切り替えた。 「待ち人っていえばさ、福島さん、この前の土曜日◯◯駅で男の人と会ってたよね」  瞬間、楓の瞳がきらりと怪しく光った。ような気がした。 「休日に男の人と駅で待ち合わせって、それもうあれじゃない!?デートじゃない!?」 「そー!あたし福島さんってあまりお付き合いとか考えてないタイプの子なのかなって思ってたから意外でね!」 「そういえばのぞみ、ここ最近やたら女子力上がったというか、なんか雰囲気可愛くなった感じあるよね。そっか、彼氏ができてたからか……恋する乙女ってやつだね!」  女子一同のマシンガントークに俺は頭を痛くする。土曜日の駅前であれば、そこに居合わせたのは十中八九、未来版の岡崎だ。近況報告のために集まっただけの話である。  ただ、それをそのまま説明するわけにはもちろんいかない。数瞬考えて、俺は当たり障りのない無難な回答を口にした。 「あれはただの従兄弟だよ。彼氏とかそういうんじゃなくって」 「えー、ほんとかなぁ。あんまり顔、似てなかった気がするけど」 「ほんとだってば。それにもしデートだったんなら、私もっとおめかしとかしてたと思うんだけど」  おめかしという言葉に若干のむず痒さを感じながらも、俺は彼女たちの疑惑をやんわりと否定していく。  ちらと発端の女子に目を向けると、彼女はあーとかうーとか頷いて、納得したようにこう付け加えた。 「たしかに福島さん、普通にラフな格好してたかも。女子のデート服って感じじゃなかったかなぁ」 「ほらね」 「ぐ、ぐぬぅ……」  いや、なんで楓はそんなに悔しそうな顔してるんだ。そんなに俺をネタに恋バナがしたかったのか? 「そんなことよりそろそろ次の場所行こう?けっこう時間経っちゃってるよ?」 「はーい……のぞみ、この大凶どうする?結んどく?」  そういえば悪い結果のおみくじは高いところに結ぶといいみたいな話があったっけ。辺りを見回してみるとそのために用意されているらしい立て掛け木材がいくつかあった。 「そうだね。1番高いのは……うーん」  不親切なことに1番高所にある場所は女子の身長では少し結ぶのに苦労しそうな高さだった。 「ま、仕方ないか。普通のとこに……」 「福島、貸してみろ」  岡崎がすっと俺の手元の大凶を取り、それを難なく高所に結びつけた。 「ん、ありがと」 「おう」  意外と気が利く現代版岡崎にそうお礼を言うと、ぶっきらぼうな反応が返ってきた。彼は未来版ほど愛想はよくないので、これが素の状態で別に機嫌が悪いというわけではない。 「そういえば岡崎くんのおみくじはどうだったの?」  楓がそう尋ねると岡崎は短く、「待ち人来たるだとさ」と返した。ここのおみくじ、待ち人来させすぎじゃない? ×××  今日の行程も無事に終了し、日が沈む頃には宿に到着していた。他の宿泊客も多いそうで、ピークに被らないよう入浴を済ませるべきとの通達もあったため、俺たちは荷物を部屋に置いたその足でそのまま浴場に向かう。大きく一文字『女』と書かれた暖簾を前に一瞬息が詰まりかけたが、なんとか平静を装って楓たちの後に続く。  罪悪感と折り合いをつけるべく着替えの時は極力周囲に目をやらないよう気を付けていたが、バスタオルさえ巻いてくれれば日頃女子たちに囲まれ続けて免疫でもできたのか、もうそこまで理性が揺さぶられるような感覚はなかった。俺も彼女らに倣って身体にくるりとタオルを巻きつける。 「で?岡崎くんとはどうなの、実際」  身体を洗っていると隣に座っていた楓がそんなことを聞いてきた。さすがにシャワーを浴びている彼女は今タオルを手放しているため、俺は努めてそちらに目をやらないよう気をつけながら会話を進める。 「どうって?」  しかし俺のそんな一見無愛想な態度を目にして、彼女は一層うきうきと話し出す。 「そりゃ恋愛的な話だよー。のぞみ、そのそっけない感じが逆に怪しいんだよねぇ」  誤解に誤解を重ねられ、俺は内心若干慌てながら言葉を少し考えた。 「……別に、部活仲間ってだけだよ」  まあ未来の岡崎とはもう少し上手くやれているのかもしれないが、この世界の岡崎と俺との関係は特に深くない。部活仲間という言葉はこの上なく正しい表現だと思う。 「えー、ほんとにー?」 「む。じゃあ逆に聞くけど、私が岡崎くんを気にしてるような素振りなんて、これまでで1度でもあった?」 「いや、ないっちゃないんだけど……でもなんか、信頼関係?みたいのは感じることあるかも?」 「……」  未来版にいろいろと助けてもらっている分、無意識にそうした一面が顔を覗かせてしまっていたのかもしれない。これは気をつけないといけない。 「まあ、部活では実際そこそこ頼りになるからね、彼」 「そうそう、聞いたよ!岡崎くんってこの前のコンペ大会で最優秀賞もらったんでしょ?すごいよねー」  そう。岡崎は優秀なのだ。部内で科学知識の優劣を順位付けするとしたら、彼は3位とは頭ひとつ抜けた不動の2位となるだろう。1位は言うまでもなく俺なわけだが。  前回のコンペで俺は活動に貢献してやることができなかったが、岡崎が持ち前の技術力で全国に我が校の科学部を遺憾なくPRしてくれた。その甲斐もあってか、彼はなんと大会で最優秀賞を獲得したのだ。以前は俺の実力が目立ちすぎていただけで、本来であれば岡崎はもっと評価されて然るべき人材なのかもしれない。 「それから見た目も悪くないし、ぶっきらぼうに見えて案外気配りだしで、彼を狙ってる女子、学年でも何人かいるんだよ」 「……」  楓が今、どんな表情を浮かべているかは分からない。しかし岡崎を褒めそやすその口調はやたらと熱を帯びていて、俺はある懸念に思い至った。 「……もしかして楓、岡崎くんのこと……」 「へ?ああいや、そういうんじゃないよ」  しかし楓はあっけらかんといった口調で俺の言葉の続きを否定した。 「まあ向こうから告ってきたら多分オッケーしちゃうだろうけどね。けどそういうんじゃなくって、もしのぞみに春の兆しが見えたんならお姉さんが焚き付けてあげちゃおうかなーなんて考えてただけ!話した通り岡崎くんって倍率高いから、早くしないと後悔しちゃうよってさ」 「余計なお世話ですお姉ちゃん」 「ろ、露骨にしかめっ面だね……」  まあ、この世界の楓が誰と付き合うことになろうとも俺が気にすることではない。だっていずれは元の世界に修繕されて、俺と楓とが付き合うことになるのだから。  ただ、終わる世界だという認識があるとはいえ、それにしたって俺は彼女が別の男と付き合うという可能性に、そこまで嫌悪を抱けないでいた。  今の俺は、彼女をどれだけ異性と思えているのだろう。 ×××  入浴を済ませたはいいものの食事の時間までまだあったので、暇潰しにお土産でも物色しようとお土産屋に足を運んでみた。楓たちはかしましく長風呂に勤しんでいたため、こっそりと抜けてきて現在はひとりきりだ。女子になってからは大体いつも誰かと一緒になって行動していたので、これは少し新鮮な気分だ。周囲の人気の少なさもあって、ちょっとした開放感がある。 「お土産お土産、家族の分と……岡崎にも買っておいてあげるか」 「ねえ、そこの君」  さてなにがいいかと棚を矯めつ眇めつしていると、不意に後ろから声が掛けられた。 「?」  振り返ると見知らぬ青年が気さくそうに片手を軽くあげ、笑顔で俺と目を合わせてきた。 「君も修学旅行かい?実は俺もなんだけどさーー」  そこから他愛のない話を延々と聞かされ、俺がはあとかへえとか適当な相槌を打ち続けるのにくたびれたころ、彼はとんでもないことを口にした。 「ここで会ったのも何かの縁じゃない?俺たち話も合うしさ?連絡先、交換しようよ」  そこで俺は、ようやく自分がナンパされているのだと気づいた。俺にぴりりと緊張が走る。 「え、いや、そういうのは、ちょっと……」  初めての経験に俺はついしどろもどろな返答をしてしまう。そんな俺を見て男の口調は勢いづいた。明確には拒否されなかったことで、押せばいけるとでも考えたのかもしれない。 「いいじゃん連絡先くらい。君、志木本高の生徒でしょ?俺もあの辺住んでるからさ、いいとこいろいろ知ってんだよね!今度案内してあげるからさ、ねっ?」 「いや、その……」  俺はいったい、なんだってこんな煮え切らない態度でいるのか。きっぱり一言「ノー!」と突きつけてやれば、それで済む話ではないか。  そんなことは分かっている。分かっているんだ。だけどどうしてか、感情が思考についてきてくれない。  馴染みのない場所で1対1の差し向かい。それも相手は随分と背丈の高い男子だ。話ぶりから同じ高校生だとは思うが、なんでか彼がそこに立つだけで、不思議と俺は萎縮してしまう。俺のこの感情を最も端的に表すとしたら、それはきっと『恐怖』だ。俺は多分、男の人に迫られて、怖がっている。  もし断ったらどうなるだろう。相手の機嫌を損ねて恨みでも買われたら。そんな風に自分の防衛本能が、過剰に警鐘を鳴らすのだ。それは男だったはずの俺にとってこの上なく情けのない話で、普通の男子であれば持ち得たはずの並みの度胸すらこのたった2年で失っていたのだということを否が応でも自覚させた。 「いいじゃん、ほら」 「うう……」  これはもうどうしようもない。観念して連絡先を渡すしかないかと、俺が口を開こうとしたその時だった。 「おい、そろそろ晩飯の時間だぞ」  俺と男だけだった場に異音が混ざる。馴染みのあるその声は、岡崎によるものだった。見ると浴場から出たばかりなのか、顔は薄らと赤く染まり、髪の毛はほんのりと水気を残していた。 「お、おか……」 「行くぞ、ほら」  ぶっきらぼうに顎先をくいとやり、それきり背を向けて立ち去ろうとする。ナンパから俺を助けようとしてくれたのかと思ったが、もしかしたらそういうわけでもないのかもしれない。  逡巡する俺が後ろについてこないことを不服に思ったのか、もう一度こちらを振り返り、岡崎はこう言った。 「食事の前に点呼がある。早くしないと先生が見回りでも始めるぞ」  それはまるで言外に「俺だけじゃなく教師もお前らのすぐ側にいるんだぞ」と伝えているようで。そんな当たり前の事実に、気持ちがふっと軽くなるのを感じた。  後ろめたそうな表情のナンパ男に向き直り、俺は堂々と頭を下げる。 「ごめんなさい。私、携帯持ってないので」  体のいい断り文句は、不思議なくらいすんなりと俺の口から出てきてくれた。 「意外だったな」 「へ?」  廊下をゆっくりと並んで歩きながら、助けてくれたのであろう岡崎に表立ったお礼を言うべきかどうか悩んでいると、岡崎が独り言のような声音でそう呟いた。 「いや、福島はあの手の連中なんて適当にあしらえるイメージだったから」 「……」  実際、俺自身自分をそう評価していた。ただ、『福島望』の自己評価を今の自分に当てはめるには、この2年は長すぎたということなんだろう。無論、そんな話をこいつに言えるわけもないけど。 「まあ、ちょっと動揺しちゃってさ。初めてのことだったから……」 「初めて?ナンパされたのが?」  なので適当に話を合わせようとしたらよく分からないところで食いつかれた。その反応の意味するところが理解できず、俺はつい首を傾げた。 「初めてだったけど、なに?」 「ああ、いや……」 「?」 「……福島は普段から、ああいうの多いもんだと思ってた」 「え?それって……」  どういう意味?そう尋ねようとした時、楓が部屋から顔を覗かせた。 「あ、遅いよのぞみー!どこ行ってたの?」 「う、うん。ちょっとね……あれ?」  気づけば先ほどまで隣にいたはずの岡崎がいつの間にやらいなくなっていた。 「ほらっ、はやくはやくー」  まあ女子が集まる場所に男子ひとり居合わせるのも居心地が悪いだろうし、その辺を察して来た道を引き返したんだろう。じゃあなんでこんなところまで彼はわざわざ足を運んだのか。意味もなく気まぐれにぶらぶらと?そんなわけがない。  俺は改めて心の内で感謝の言葉を彼に送った。 ×××  修学旅行が終わりを迎えれば、あとは受験まで一直線だ。俺たちは3年生に進級し、いよいよ進路を確定させる。  そんな折のとある休日、いつもの喫茶店で岡崎が言った。 「福島、お前は文系を選択するべきだ」 「……はい?」  岡崎の話を聞くに、俺たちほど優秀な学生にとって日本の大学の講義はあまり有用ではないのだそう。そこで岡崎は独学の下位互換ともいえる無味乾燥とした講義をだらだらと受けるよりは、普段アンテナを張っていない分目新しい知見を得られるだろう文系学科を志望するほうが俺のスキルアップに繋がるのではないかと判断したらしい。 「そうはいっても……同じ志を持つ研究仲間とか、ゼミで手に入るコネだとか、そういうのもあるんじゃないの?」  学問にだけ着目すれば岡崎の話は一理あるのかもしれないけど、それだけが大学のすべてだとも思えない。俺が岡崎の話をそう訝しんでいると、彼は苦々しい顔でこう続けた。 「ま、もちろん今のが理由の全部ってわけじゃない。1番大事なのは、お前の台頭を未然に防ぐことにある」 「台頭?」  こくりと頷いていかにも神妙そうな言い回しをする岡崎。 「科学者としての、な。前にも似たようなことを話したが、お前には今後何度か未来警察と接点を持つ切っ掛けになる出来事が訪れる。そのうちのいくつかはお前が在学中の研究で世間から注目を集めた結果だったんだ。だからこの世界では進路を変えることで、なるべくそういったリスクを遠ざけておこうって話だ」 「……」  ここでもまた未来警察。  アカシックレコードの大規模なメンテナンスはあと3年ほど続く。今の俺、『福島望』の存在を保ち続けるためにはそれまでの間『福島のぞみ』として彼らに気取られないように生活していないといけない。思っていたより長い道のりだと気づき、俺は小さくため息をこぼした。 「わかったよ。それじゃ、進路は考え直さないとだね」  そう言葉にした自分の声音は、思いのほか軽やかなものだった。 続く ↓ https://tsfnowana.fanbox.cc/posts/3075492


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