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途中で飽きた

くっそどうでもいい雑な文章なんで ヒマじゃないひとは読まないでね 絵が上手くなりたいって言ってた友人は ペンタブとかの環境だけ整えて停滞してる 漫画家になってみたいと言っていた彼は ウン年経っても作品が出来上がっていない 小説家になってみてえと控えめに夢を語っていたダチは SSを広く公開しなかったし、俺に見せるのでさえためらい気味だった 「絵が上手いね」って褒められるのが心地よかったのであろうあの子は 今でもたまに作品を公開しているが成長がみられない、反応も少ない なんで自分だけこんなに作品をアップし続けられるんだろう なんで自分だけ追求することが常となっているのだろう なんで自分だけ創作することを止められないんだろう 大雑把に言えば才能なんだろうけど、この文字だと聞こえばかり良すぎる。 こう表現したほうがより如実かと思う 非・定型発達、発達障害、極振りパラメータのピーキー野郎が 奇跡的に適所マッチングしただけ。 自分の手が止まらない理由はこんなもんだ。 じゃあなんで彼らの手は止まってしまったのだろうか 仮に、彼らが定型発達のスタンダードパラメータであったとしても それが停滞してしまう理由にはならないと思う。 パラメータ以外に、自分と彼らで何が違うんだろう。 そうだ、創作の目的だ。 「絵が上手くなること」が目的だった友人はいつも "何を描くのか"が具体的じゃなかった。 どんな絵が上手いのか、どういう絵が好みなのか、 様々な要素がふわふわしていた。 きっと絵を描きたいんじゃなくて、 上手な絵を作れるという能力に憧れていたんだ。 「漫画家になること」を希望していた彼もそうだ、 漫画を作りたいんじゃなく、漫画家になりたいだけだった。 前者だったらとっくに作品が完成してるはずで 漫画家という地位や能力への憧ればかりが先行して 彼自身がどういうものを発信したいかが不明瞭だった。 小説作品を作ってはいたが、広く公開せず 死蔵だけさせていたダチは "俺はこれが好きだ!" "こういう作品を発信したい!"は具体的だったし 作品をちゃんと完成させていた…いや、未完だった。 作品っていうのは、作者から独り離れて 様々な人の眼に入る場所に置かれて初めて完成するものが大半だ。 作品の内容、本文自体はシマっていても ダチはいつまでもあとから修正を加えては方針転換を繰り返していた。 小説を作ることで何をしたいのかが、目的だんだん不明瞭になっていた。 初めて会ったときからけっこう絵が上手だったあの子は いくつも絵を作っては公開していた。けれど いつまで経っても不明瞭な何かに不満げで 新たに公開した作品のいいね!が増えないことに愚痴をこぼしていた。 端から見るぶんには、作風も画力も内容もアップデートされておらず 同じようなモノを出して、同じような数の反応を貰えるという ステキな現状に対して何かしらの鬱憤を覚えている様子だった。 あの子はきっと、表現をしたくて作品を描いてるわけではなく みんなからの賞賛をもらいたくて作品を描いていたんだと思う。 既に一定量もらえてる好意的反応をしっかり認知できずに、 同じモノだけ量産しては反応の増加がみられないことに不満を抱いていた。 目的も自己分析も周囲への目配せも不明瞭だったのだろう きっと彼らは、作りたくて作ってるわけじゃなかった。 能力や地位、賞賛が欲しくて仕方なく作っていたり、 そもそも作る目的が具体的じゃなくなっていたんだと思う。 なんで創作をするのか、それを具体化できないと 不明瞭な何かがジャマをしてくる。 目的がハッキリしてないと、それに合った創作方法すら模索できない。 一番カンタンに絵が上手くなる方法って何だか知ってる? それは絵を描く動機をハッキリさせて、 その動機・目的に合った方法を自分自身で見つけ出して、 試行錯誤を繰り返してPDCAサイクルを回すことだ。 どうだろう?カンタンじゃなさそうだろう? ところがだ。 "カンタンじゃないぞ"っていう認知をしっかりして ラクチン上達!だなんてリップサービスに惑わされることなく、 自らが技術向上するのに必要な具体的要素を模索できることこそが 一番ラクに絵が上手くなる方法だと思う。 覚悟とか努力とかは必要条件じゃない。必要なのは認知。 カンタン上達!だなんてふわふわした情報に踊らされ続けるほうがしんどい。 目的地もルートも不明瞭だと、 山登りなのかピクニックなのか散歩なのかも不明瞭で ただフラフラと周辺をうろついて時間と体力を浪費するだけだ。 自分の目的地が断崖絶壁の山頂で 崖登りの険しいルートだとわかれば、 必要な道具だとかスキルだとかまでわかる。 ルータから外れてしまったり、迷子になったということも自覚できる。 目的地がわかれば、別の目的地を設定することだってできる。 目的地を中腹のキャンプ場にすることだってできるし そこまではクルマで行こう、なんてプランだってすぐ作れる。 そうだ、あの彼らと今の自分の違いは、きっと 創作の目的の具体性にあったんだろうか。 でもちょっと待て、小説を作っていたダチは それなりに目的もハッキリしていたし 実際にいくつか作品は作っていた。 もっと違う何か、差があるはずだ。 そこはやはり、作品を公開し続けたかどうか…かもしれない。 作品を公開することに抵抗を覚えてしまうと、 作品を作ることにまで抵抗が波及してしまいがちだ。 ではどうして、作品を公開することに抵抗があるのだろうか? コンプレックスを抱えていたダチは大勢の前で堂々といられず 内輪ではガッツリ喋る気の良い内弁慶だった。 きっと、"みんな"から好かれたかった…いや "みんな"から嫌われたくなかったのだと思う。 定型発達っぽい、かもしれない人は、 "みんな"なんて実際に居やしない想像上の妖怪を相手に 相撲をとりがちだなー、とよく思う。 作品を公開するのには 強い度胸も高い自己肯定感もいらない。 必要なのは、否定や指摘ばかりで攻撃してくるかもしれない "みんな"なんて空想上の化け物は居やしない、という事実を認知することだと思う。 おばけなんて ないさ おばけなんて うそさ 否定や指摘が怖くて公開できなかったそのダチ本人こそが 色んな作品にケチをつけることを常としており、本人も自覚していた。 "みんな"っていうオバケこそ、自身の行為を写す鏡だった。 俺がケチつけるんだから、きっと"みんな"も否定や指摘をしてくるだろう。 たぶんそういう感覚だったんだろう。 "みんな"という正体不明のオバケに自己投影しすぎだ、 もっと周囲のニンゲンを観察すれば"個人"が見えてくるし、 俺という"個人"は"みんな"とは違うイキモノで "みんな"は俺じゃないし、誰もが"みんな"じゃない。 作品を公開して、見てくれるかもしれない 数多の"個人"は、"みんな"じゃない。俺とは違うイキモノ。 中には似たヤツがいるかもしれないから、ケチもつくかもしれないが それは"みんな"じゃない。 中には似てないヤツもいるかもしれないから、賞賛がつくかもしれない。 それは"みんな"じゃない。 作品を広く公開する相手ってのは 想像上の"みんな"ってバケモノじゃなくて、 想像もつかない数多の"個人"だ。 きっと彼は、周囲への認知のしかたが 作品の公開への抵抗を覚えてしまうスタイルだったのだろう。 ここでもやはり、認知がキーワードだった。 自分が思うに、正しい認知なんて存在しないし 間違った認知だなんてのも存在しない。 ヒトが認知する世界なんてのは、そのヒト個人で完結しているものだから 誰一人として同じ認知なんて共有してないと思う。 認知の正誤なんてのは、全員が正しいし、同時に全員が間違っているんだ。 それぐらい、個人の認知世界ってのは自由なんだから 自分の都合のいいように捉えてしまえばいい。 新幹線で食べるごはんは、カロリーが速さに追いつけないからカロリー0。 摂取カロリーばかり気にしてしまうひとにとって ものすごく都合がよいナイスな認知案だと思う。 そういうのを採用しながら、自己認知の世界を作ると おっぱい


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