1月中旬の美術大学は、卒業制作展に向けての準備で慌ただしい雰囲気に包まれていた。
キャンパス内では学生たちが作品の最終調整に追われ、運搬用の台車が行き交い、展示用の資材が積み上げられている。
毎年この美術大学の卒業展は規模が大きく、学内と学外の会場を併用して開催される。
デザインや建築、映像など大型の作品は学内の広いスペースで展示され、絵画や彫刻などの比較的コンパクトな作品は学外の提携美術館で展示されることになっている。
真奈美の『イデアの瞳』三部作は絵画作品のため、美術館の展示スペースに展示されることが決定していた。
幸運なことに、紗季の彫刻作品も同じ美術館での展示となり、真奈美のブースから比較的近い場所に割り当てられていた。
「紗季ちゃん、隣同士みたいなものね」
作品搬入の下見に訪れた美術館で、真奈美は嬉しそうに紗季に声をかけた。
「そうね。お互い頑張りましょ」
紗季も笑顔で応える。
展示会場を見回すと、既に他の学生たちの作品が運び込まれ始めており、空間全体に緊張感が漂っていた。
卒業展は1月下旬から3月上旬まで約1ヶ月半の長期間にわたって開催され、各学生には土日祝日限定で割り当てられた日程でパフォーマンスを行う機会が与えられる。
パフォーマンスは申請制で、希望者のみがスケジュール内で実施できるシステムになっていた。
真奈美は当然のようにパフォーマンスも申請しており、先日ついにスケジュール表が確定した。
割り当てられたのは2週目の2月上旬土曜日と、4週目の土日の合計3回。
十分な機会が与えられたことに、真奈美は安堵していた。
一方、紗季は作品の展示と解説のみで、パフォーマンスの申請はしていない。
彫刻作品の特性上、ライブパフォーマンスには向かないと判断したからだった。
「真奈美の作品は、パフォーマンスがあってこそ真価を発揮するものね」
紗季は真奈美の展示スペースを見回しながら感心していた。
真奈美は絵画作品だけでなく、作品を引き立てるための装飾品や背景壁なども独自に用意していた。
展示空間全体をプロデュースし、『イデアの瞳』の世界観を最大限に表現しようと考えていたのだ。
「これ、ほとんど建築じゃない?」
紗季が呆れたように言うと、真奈美は慌てて反論した。
「あくまで絵画が主役よ!これらは全部、絵画を引き立てるための補助的な要素だから」
学校側も、絵画作品の展示におけるレイアウト用備品として一応は認めている。
ただし、真奈美がこっそり追加した壁については、正式な許可は取っていなかった。
この壁は、パフォーマンス時に裕子がマスクの着脱を行うための死角を作る重要な役割を持っていた。
観客からは見えない位置で、安全にイデアへの変身と元の姿への復帰ができるよう、綿密に計算されて配置されていた。
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重大な見落とし
卒業展2日前。
全ての展示準備が完了し、この2日間は学生と関係者のみの貸切期間とされていた。
学生たちは自由に他の作品を見て回ることができ、講師陣はそれぞれの作品について学生から説明を聞き、評価を下して卒業作品としての出展を最終的に認可する重要な期間だった。
この2日間だけは厳格な入場制限があり、学生と関係者以外は一切立ち入ることができない。
そして真奈美は、ここで重大な見落としに気づいた。
自分の部屋で最終確認をしていた真奈美は、スケジュール表を見つめながら青ざめていた。
イデアの着ぐるみを使用しての作品説明を予定しているが、肝心の裕子はこの期間中、会場に入ることができない。
説明は当然自分が行うため、自分がイデアを着用するわけにはいかない。
つまり、イデア役がいないのだ。
「どうしよう...」
真奈美は頭を抱えた。
講師への作品説明は1日目の午前に予定されている。
もう時間がない。
頼れるのは紗季だけだった。
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緊急の依頼
紗季の作品説明が終わった頃を見計らって、真奈美は紗季をランチに誘った。
「紗季ちゃん、お疲れ様!ランチでもどう?」
美術館内のカフェで向かい合って座った紗季は、真奈美の表情を見て薄々感づいていた。
真奈美がランチに誘う時は、大体何か変なお願い事があるパターンなのだ。
実際、紗季の彫刻展示は想像以上に大変で、真奈美が色々と手伝ってくれたからこそスムーズに終えることができた。
ある程度のことなら協力するつもりでいた。
「それで、何をお願いされるの?」
紗季が先手を打つと、真奈美は苦笑いを浮かべた。
「やっぱりバレてる...」
「まあね。で、何?」
真奈美は深呼吸してから、事情を説明し始めた。
「作品の説明の時に、イデアの着ぐるみを着て立っていて欲しいの」
「は?」
「絵画の被写体が実物としてその場にいるのといないのでは、作品の魅力の伝わり方が全然違うの。最高の作品の魅力は最大限伝えたいけど、モデルの裕子ちゃんは中に入れないから、事情を知っている紗季ちゃんしかいない」
「今度ご飯奢るから、お願いだから協力して」
紗季は呆れた顔で真奈美を見つめた。
「なんでそんな大事なこと忘れてたの!」
「ごめん!気づいた時にはもう遅くて...」
確かに、あの人形のような着ぐるみは美しくて神秘的だった。
でも、まさか自分が着ることになるとは思っていなかった。
しかも他の同級生や友達も見ている中で、あれを着て出るなんて流石に抵抗がある。
でも、作品にかける真奈美の想いは、あの日から知っている。
真奈美には色んな借りもある。
「恥ずかしいけど...仕方ないわね」
「本当に?」
「でも、条件があるわよ」
紗季は真剣な表情で二つの条件を提示した。
「一つは、この人形の中に私が入っているということを、絶対に誰にも言わないこと」
「当然よ」
「二つ目は、私を一人にせず、必ず近くにいること」
真奈美は大きく頷いた。
「この二つの約束のうち、どちらか一つでも破られたと私が判断した時、私はあなたの大切なものを守れる自信はないわ」
紗季の言葉には、冗談めかした恐ろしさがあった。
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初めての変身
講師へのプレゼン本番まで、あと40分。
更衣室では、真奈美のサポートで紗季のイデアへの変身が始まっていた。
「最初は足先からね」
紗季が肌タイツに足を通した瞬間、不思議な感触に困惑した。
「これ...なんか変な感じ」
冷たく人工的な質感が、素肌に密着していく。
まるで自分の肌が別の素材に置き換えられていくような錯覚を覚える。
タイツを胸元まで上げた時、真奈美は重要なことを思い出した。
小声で紗季に尋ねる。
「紗季ちゃんって、胸何カップだっけ?」
「え?なんで?」
「いいから教えて、重要なの」
「ん~、Eカップだけど。それがどうしたの?」
真奈美は俯いて少しだけ無言になった。
小さな声で「世の中は不公平にできている...」と呟く。
「胸のサイズがなんなの?」
紗季に聞かれ、真奈美は少し不満げな言い方で答えた。
「問題ないってことの確認でした。とっても羨ましいです、すいませんでした~」
補正パッドは必要ないことを確認し、そのまま着用を続けていく。
イデアのタイツ、ドレスを着終えると、タイツのフード部分を胸元に垂らし、衣装隠し用の黒いケープを着て更衣室を出た。
できるだけ誰にも見られないよう、素早く真奈美のブースまで移動する。
約20メートルの距離を、二人は息を潜めて歩いた。
ブース裏の死角になる部分に紗季を誘導すると、そこには人一人が収まるのがやっとのスペースがあり、小さな椅子が置いてあった。
「狭くてごめんね」
真奈美がケープを脱がせると、紗季は少し不安げな小声で話しかけた。
「狭さとかは大した問題じゃないわよ!すごく緊張するんだけど!本当にこれ着て私、前に出るの?」
「すぐ終わるから、なんとかお願い」
真奈美はタイツのフード部分を紗季の頭に被せ、背中のファスナーを上げる。
首から下が完全に人工的な肌に覆われた瞬間、紗季は自分が別の存在になりつつあることを実感した。
「マスクの構造と視界、呼吸穴について説明するね」
真奈美がマスクを手に取りながら説明を始める。
紗季は緊張しながらも、真剣に説明を聞いていた。
作品説明の進行は順調に進み、真奈美の出番まであと15分前後となった。
いよいよ、紗季にイデアのマスクを装着する時が来た。
「頭を少し下げて」
前面パーツが紗季の顔を覆いかぶさる瞬間、冷たく硬い内壁が頬に触れた。
内部のスポンジが沈み込む感触が、顔全体に伝わってくる。
「うっ...結構きつい」
「大丈夫?」
後頭部からもう一つのパーツが重なり、頭頂部で前後が合わさる。
耳の少し上にある金具が、カチリと小さな音を立てた。
その瞬間、紗季の身体の露出は一切無くなった。
視界が突然狭まり、まるで細い隙間から外を覗いているような感覚。
呼吸は明らかに制限され、わずかな空気しか入ってこない。
自分の呼吸音と心拍音がマスク内で増幅され、外の音が遠くなる。
マスクの中で紗季は混乱していた。
これまで当たり前だった「見る」「聞く」「呼吸する」という基本的な行為が、すべて制限されている。
顔を包むスポンジの圧迫感で、自分の顔の輪郭すら分からなくなっていく。
でも同時に、不思議な感覚も芽生えていた。
外界から完全に隔離されたこの密閉空間で、いつもの自分から切り離されていく感覚。
紗季という個人の存在が薄れ、代わりに何か別の存在になっていくような...
「私、今どんな顔をしているんだろう」
マスクの中でそう思った瞬間、ふと気づく。
もう自分の表情は存在しない。
外から見えるのは、イデアの完璧に美しい人形の顔だけ。
「息が...少し苦しい」
「慣れるまで浅くていいから、ゆっくり呼吸して」
最後にウィッグが被せられ、紗季は完璧なイデアへと変身した。
頭に重量が加わり、長い髪が肩にかかる感覚。
鏡を見たわけではないが、もう完全に別の存在になったことを肌で感じていた。
初めてのマスクで視界の狭さ、息苦しさと顔の圧迫感に驚いてはいるが、なんとかパニックにはならず落ち着いている様子だった。
むしろ、この新しい自分への好奇心の方が勝っていた。
「これが裕子さんがいつも体験していることなんだ...」
真奈美は段取りを説明する。
「まず、合図したらこの壁の向こうからゆっくりと表に出てきて。立ち姿、歩き方はできるだけ優雅でゆっくりな動作を心がけて。何を言われても平然として動揺せず、ただ人形としてそこにいてくれればいい。あとは私が誘導するから、わかった?」
イデアのマスクからくぐもった声で紗季の声が返ってくる。
「そんないっぺんに言われても分かんないよ!優雅って何?」
「直感でいいから、なんとなくゆっくり動いて!じゃあお願いね!」
そして紗季は一人でブース裏に取り残された。
壁の裏でスタンバイしながら、呼吸を整え、今真奈美が指示したことを思い出しながら頭の中でイメージする。
ブースの前では少し人が集まっているような賑やかさがあったが、裏でスタンバイする紗季にはその様子は分からない。
マスクの中で紗季は思った。
「優雅って言われても...どうすればいいの」
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プレゼン本番
真奈美の出番がやってきた。
講師たち数名がブースの前に集まる。
講師の後ろには、真奈美の作品を気にかけていた数名の学生や友人たちが陣取っている。
中には紗季の友人たちもおり、想像以上に賑わっている様子。
真奈美は心の中で紗季に同情した。
頼んだのは自分なのだが...
「絵画学科、古川真奈美です。この作品の制作期間は約8ヶ月間で...」
真奈美は丁寧に基本情報を説明し、コンセプトの説明に入ろうとした時、少し待つように言い、ブースの裏側で待つ紗季に合図を出した。
ブースの中央から、美しい黒いドレス型ワンピースを身にまとい、美しく神秘的な魅力を放っている等身大の人形イデアがゆっくりと姿を現した。
イデアがブースに登場した瞬間、ブース前で小さなどよめきと拍手が起こった。
遠くにいた学生数名も真奈美のブースに寄ってきて、ちょっとした群衆ができ上がる。
マスクの中で紗季は驚いた。
この注目度は想定外だった。
イデアはゆっくりと周りを見渡しながら、3方向に小さく丁寧にお辞儀をした。
その動作は、紗季が考える「優雅」を直感的に表現したものだった。
「この作品のコンセプトは『変身』です。人間と人形の境界線を探求し、現実と虚構の融合を表現しました。そして、このモデルであるイデアは...」
真奈美のプレゼンテーションは順調に進み、講師陣も興味深そうに作品を観察していた。
マスクの中で紗季は、狭い視界を通して観客の顔を見つめていた。
正面しか見えない制限された視野の中に、見覚えのある顔がいくつも映る。
同じ学科の友人、よく話す先輩、そして...
「あ、田中先輩もいる」
心の中でつぶやきながら、紗季は自分の状況の異常さを改めて実感した。
みんな、まさか目の前に立っているこの美しい人形の中に、紗季が入っているなんて夢にも思わないだろう。
講師の一人が真奈美に質問をしている間も、紗季は微動だにしないよう全神経を集中させていた。
息苦しさはあるが、この緊張感は嫌いではない。
むしろ、普段は味わえない特別な時間として楽しんでいる自分がいた。
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予期しない展開
真奈美のプレゼンは大盛況に終わった。
しかし、ここで予定していなかったことが起こる。
講師が去った後も、他の学生たちはこの美しいイデアに興味津々で、場所を離れようとしない。
「近くで見ていただいて構いません」
真奈美はそう言って、ブースに設置されたロープパーティションのギリギリ手前までイデアを誘導した。
イデアのマスクの狭い視界の中から見える光景の先には、普段よく知っている人物たちが並び、興味津々で自分のことを観察している。
「あ、佐藤先輩もいる...山田くんも...みんな私を見てる」
マスクの中で紗季は複雑な気持ちになった。
いつもなら彼らと談笑している自分が、今は美しい人形として彼らの視線を浴びている。
この違和感と高揚感が入り混じった感覚は、これまで体験したことがないものだった。
紗季はマスクの中で激しく動揺し、真奈美にそっと耳打ちした。
「ちょっと真奈美、聞いてないわよ!」
「これすごく暑いし苦しいんだけど、いつまでやらせる気?」
実際、マスクの内部は自分の吐息で蒸し風呂状態になっており、額から汗が流れて目に入りそうになっている。
でも手で拭うこともできない。
真奈美はイデアに小さく答える。
「ごめん、このままじゃ収拾つかないから。少ししたら切り上げるから、もう少し頑張って」
そして真奈美はイデアの真横に立った。
学生たちはその美しさと精巧に作られたマスク、ドレスに見惚れており、ざわめいている。
「本当に人形みたい」
「でも確実に息してるよね」
「どうやって作ったんだろう、このマスク」
そんな声が聞こえてくる度に、紗季は自分が注目の的になっていることを実感した。
普段は目立つことを好まない性格なのに、なぜか今は悪い気がしない。
むしろ、この美しい存在として見つめられることに、密かな満足感を覚えている自分がいた。
「私、今すごく美しく見えてるんだな...」
マスクの中でそう思うと、不思議と背筋が伸び、より優雅な立ち姿を心がけたくなった。
そのまま15分ほど経ち、真奈美がイデアの方を見ると、優雅な姿勢を維持して綺麗に立ってくれてはいるが、胸が大きく上下しており、イデアの中に入っている紗季はそろそろ限界だろうと思った。
実際、紗季の体力は限界に近づいていた。
足の裏が痺れ始め、腰にも負担がかかってきている。
でも、この特別な時間を終わらせたくない気持ちも同時にあった。
そろそろ引き上げようと思っていた時、紗季の友人である愛梨沙が真奈美を尋ねてきた。
「真奈美~!すごいわねこれ、感動しちゃった」
愛梨沙の声に、真奈美は振り返って答える。
「愛梨沙ちゃん、ありがとう~」
「いや、本当にすごいの!この作品、絶対に賞取れるわよ」
愛梨沙は興奮気味に真奈美の肩を掴む。
「私、美術のことはよく分からないけど、これは本当に芸術作品だと思う。生きてる人形なんて、見たことない」
「そんな、まだ分からないよ」
真奈美は謙遜するが、内心では嬉しくてたまらない。
愛梨沙はまずイデアの方に向き直り、丁寧にお辞儀をした。
「こんにちは。初めまして、愛梨沙と申します」
マスクの中で紗季は心臓が止まりそうになった。
親友の愛梨沙が、まさか目の前で自分に挨拶をしている。
「本当に美しいですね。写真で見るより実物の方がずっと神秘的で...まるで本物の人形が魔法で命を宿したみたい」
愛梨沙はイデアの顔を見上げながら、感嘆の声を上げる。
「でも、中に入ってる方は大変でしょうね。苦しくないですか?ずっと立ちっぱなしで」
マスクの中で紗季は思った。
愛梨沙は昔から優しい子だったけど、人形に対してもこんなに気遣ってくれるなんて。
「バレる...バレるかも...でも愛梨沙の優しさが嬉しい」
紗季はパニックになりそうな気持ちを必死に抑えながら、声のトーンから愛梨沙が本当にイデアを一人の存在として認識し、気遣ってくれているのが分かる。
イデアはゆっくりと首を左右に振りながら、右手で小さく大丈夫ですというサインを送る。
その後、イデアとしてゆっくりと小さくお辞儀を返し、続けて感謝を表すような仕草を見せた。
「あ、お辞儀してくれた!それに今のは『大丈夫』って意味よね?真奈美、この子すごく礼儀正しいのね」
愛梨沙は感動したように言う。
「まるで本当のお嬢様みたい。育ちの良さが伝わってくる」
イデアは再び小さく頷き、今度は両手を前で軽く組んで、感謝を表すような仕草を見せた。
「でしょ?本当にいい子なの」
真奈美は苦笑いしながら答える。
マスクの中で紗季は「いい子って...私のことを人形として評価してる」と複雑な気持ちになった。
「頑張ってくださいね。応援してます。きっと多くの人に感動を与えられますよ」
愛梨沙は再びイデアに向かって励ましの言葉をかけた。
その優しさに、紗季の胸は温かくなった。
愛梨沙は真奈美の方に向き直る。
「ところで、ねぇ、紗季知らない?朝から姿が見えないし電話も出ないんだけど。持ってきて欲しいって頼まれてたものがあるのに」
真奈美が答えようとした瞬間。
「あぁ、紗季ちゃんならここに...」
その瞬間、真奈美の背中をイデアが強くつねった。
「痛っ!!」
真奈美はつい大声を上げてイデアの方を見た。
イデアはゆっくりと真奈美の方を見つめている。
その美しいイデアの顔の奥から、何やら怖い顔をした紗季の雰囲気が微かに伝わってくる。
「真奈美?どうかした?」
愛梨沙が心配そうに尋ねる。
真奈美は慌てて愛梨沙に向き直る。
「あぁ、紗季ちゃんはちょっと出かけてるんじゃないかな。また戻ってくると思うけど...」
真奈美は苦笑いで愛梨沙に説明する。
「ふ~ん、分かった」
愛梨沙は少し首をかしげながら答えた。
直後、愛梨沙は真奈美に近寄って小さな声で話す。
「ねぇ真奈美、これ中に入ってるの紗季でしょ?」
真奈美は驚いた。
「え...な、なんで...?」
「いや分かるって。身長も体型も一緒だし、さっきの仕草も紗季っぽかった。それに多分他の子も何人か気付いてると思うよ?でも別に隠すことじゃないと思うけど?」
「あぁ...まぁでも一応、そっとしておいて...本人の為に...私が無理言って協力してもらってるから」
「紗季らしいなぁ。人のために頑張っちゃうところ」
愛梨沙は微笑みながら言った。
「そうなんだ、まぁいいや。でも本当に美しく変身してるのね。普段の紗季からは想像できないくらい」
愛梨沙は再びイデアに向き直る。
「では、私は友人を探してきますので。電話くらい出なさいって、あなたからも伝えてあげてね。朝から心配してたんだから」
紗季は動揺した。
完全にバレてる...でも愛梨沙は怒ってない。
むしろ理解してくれてる?
その直後、今朝から何回かスマホが鳴っていたが忙しくて全然出れなかった事を思い出した。
きっと愛梨沙からの電話だったのだろう。
「そうか、愛梨沙は私を心配してくれてたんだ...」
マスクの中で紗季は、冷や汗をかいていた。
あと少しで真奈美がバラすところだった。
でも同時に、愛梨沙の優しさにも心が温かくなった。
人形としての自分を、一人の存在として気遣ってくれて、そして正体がバレても理解を示してくれた。
「ありがとう、愛梨沙...」
心の中でそうつぶやいた紗季の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
ブース前の学生も少し疎らになりかけたところで、真奈美は声を上げる。
「これでプレゼンを終了します」
真奈美はイデアをブースの裏に誘導しながら、観客に向かって最後にお辞儀をした。
イデアも同じように、ゆっくりと丁寧にお辞儀を返す。
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限界と解放
イデア(紗季)はブースの裏に戻った途端、マスクの中から大きく荒い呼吸音が聞こえてきており、倒れ込むようにして椅子に座った。
真奈美は急いでイデアのマスクを外す。
金具を外し、前面パーツを持ち上げると、マスクの中から顔が火照って少し汗ばんだ紗季の顔が出てきた。
「はぁ...はぁ...」
紗季は荒い呼吸を整えようとして俯きながら、真奈美に言った。
「あんなの聞いてないわよ?」
真奈美は申し訳なさそうに答える。
「ごめん、ああするしかなくて」
真奈美はドリンクを差し出し、紗季が落ち着くのを待った。
少しして紗季の呼吸が整ったのを見計らって、移動用のケープを紗季に着せ、そのままできるだけ誰にも見られないよう、また更衣室の方へ素早く移動した。
移動中、何人かの学生とすれ違い、すれ違いざまに「あれ?今の紗季じゃない?」という声も聞こえてきたが、構わず更衣室を目指す。
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変身の余韻
ようやく更衣室に辿り着いた二人。
真奈美が扉を開けると、室内は誰もおらず静寂に包まれていた。
外の喧騒とは対照的な静けさに、紗季はほっと息をついた。
「やっと落ち着けるわ...」
紗季は疲労感と安堵感が入り混じった表情で、真奈美に向かって小さく微笑んだ。
真奈美はマスクの入ったケースを大切そうに抱えながら、紗季の後に続いて室内に入る。
「本当にお疲れ様。あんなにたくさんの人に見られるなんて、想定外だったわ」
紗季はすぐに個室ブースに入り、イデアの衣装を脱いでいく。
カーテンの向こうから聞こえる布の音を聞きながら、真奈美はいろんな人が自分の作品に注目してくれたことへの喜びを噛み締めていた。
つくづく、自分の作品は自分一人では成り立たないんだなと思いながら、いろんなことに感謝の気持ちを胸にする。
「紗季ちゃん、本当にありがとう。あなたのおかげで、作品が生きたものになった」
カーテン越しに優しく声をかける。
しばらく経ってカーテンが開き、中から私服に着替えた紗季がタイツと黒い衣装を持って出てきた。
髪は少し乱れており、まだ頬に軽い火照りが残っている。
「真奈美、終わったよ」
真奈美は心から感謝を込めて答える。
「うん、紗季ちゃん本当にありがとう。助かりました」
二人が更衣室から出ると、廊下で数人の同級生が待っていた。
どうやら紗季が出てくるのを待っていたようだ。
「紗季ちゃん!」
同じ学科の女子学生が声をかけてきた。
「さっきのイデア、本当に可愛かったよ!すごく似合ってた」
「え...えっと...」
紗季は顔を真っ赤にして、言葉に詰まった。
「なんで分かったの?」
「だって身長とか体型で分かっちゃうよ。それに動き方も紗季ちゃんらしかった」
別の学生も加わる。
「本当に美しかったわ。あんな風に変身できるなんて羨ましい」
「私もやってみたい!どんな感じなの?」
矢継ぎ早に質問されて、紗季はますます困惑した。
「あの...その...」
顔を両手で覆いながら、恥ずかしそうに答える。
「すごく...不思議な感じでした」
「不思議って?」
「自分じゃないみたいで...でも、なんだか特別な気分になれて...」
紗季の正直な感想に、同級生たちは興味深そうに頷いた。
「素敵ね。紗季ちゃん、本当にお疲れ様」
真奈美が紗季を庇うように割って入る。
「みんな、ありがとう。でも紗季ちゃん疲れてるから、今日はこれで」
「あ、ごめんね。でも本当に素晴らしかったよ」
同級生たちは笑顔で手を振りながら去っていった。
一人になった紗季は、まだ顔が火照っていた。
「みんなにバレてたのね...恥ずかしい」
「でも、みんな優しかったじゃない。批判する人なんて一人もいなかった」
真奈美が慰めるように言う。
「そうね...みんな理解してくれて、嬉しかった」
紗季は少し安堵の表情を見せたが、すぐに真奈美の方を向いて少し不満そうに言う。
「でも真奈美、あんなことになるなんて、聞いてないわよ?本当苦しかったんだからね!」
真奈美は申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんごめん。でも紗季ちゃんのイデア、本当に美しくて様になってたよ?」
そして真奈美は興味深そうに尋ねる。
「ねぇ、変身した気分はどうだった?」
紗季は真奈美に感想を聞かれると、あの自分が自分ではなく何か別の人物になっている感覚を思い出した。
いろんな人が自分に興味を持ち、美しいと言ってくれる感覚。
マスクの中は苦しく、視界も狭い上にマスクの圧迫感で頭が少し痛くなっていたが、あの変身している時の感覚は今まで経験したことがない不思議な気分だった。
紗季はつい数十分前まで自分があの美しい人形に変身していたんだと思うと、なぜか胸が温かくなった。
「まぁ、それでも楽しかったよ。良い経験させてくれてありがと」
紗季は微笑みながらイデアのタイツと衣装を真奈美に手渡した。
真奈美は嬉しそうに答える。
「紗季ちゃんならそう言ってくれると思った。本当に似合ってたしね」
紗季は少し照れながらも、釘を刺すように言う。
「でも、流石にこれっきりよ!自分の作品の説明もしなきゃいけないんだし」
真奈美は安心したように頷く。
「うん、残りは裕子ちゃんが出てくれるから大丈夫」
紗季は少し寂しそうな表情を見せる。
「そっか、裕子さんが...」
真奈美はその表情を見逃さなかった。
「あれ~?ひょっとして紗季ちゃん!またイデアになりたいって思ってる~?」
紗季は慌てて否定する。
「ち、違うわよ!!それより愛梨沙が探してたから行ってくるね!衣装任せといていいの?」
真奈美は笑顔で答える。
「うん、大丈夫だよ。あとは私で片付けるから、愛梨沙ちゃんによろしく」
「あ、それと」
「ん?」
「晩ご飯、楽しみにしてるから」
紗季は不敵な笑みで真奈美に伝える。
「あぁ...ははは、こいつめ、覚えてやがったか」
「18時ね!」
「はいはい~分かりましたよ」
こうして真奈美の作品説明会は無事に終わりを告げる。
講師陣からの評価も上々で、正式に卒業展への出展が認可された。
そして、いよいよ卒業展の本番が開幕する。
真奈美は一人になった展示スペースで、イデアの衣装をケースに丁寧にしまいながら考えていた。
紗季の協力のおかげで、作品の魅力を最大限に伝えることができた。
でも同時に、新たな発見もあった。
紗季がイデアを演じる姿は、真奈美が想像していた以上に自然で美しかった。
まるでイデアが、紗季という新しい命を得て生まれ変わったかのように見えた。
「紗季ちゃん、本当にありがとう。でも...もしかして、また機会があったら頼んじゃうかも」
真奈美は苦笑いしながら、次回のパフォーマンスに向けて心の準備を始めていた。
裕子にも連絡を取り、本格的な卒業展への準備を進めなければならない。
でも今日の体験は、真奈美にとって貴重な発見でもあった。
自分の作品が、演じる人によってまったく違う魅力を放つということ。
そして、その魅力が観客に与える感動の深さ。
明日からいよいよ一般公開が始まる。
多くの人々に、イデアの美しさと神秘性を伝える時が来た。
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(つづく)