3 (何してるの、私……) まるで夢でも見ているような心地だが、そうではないことを頭皮の痛みが教えてくれる。初めて経験するブリーチ剤の刺激――痛いはずなのに、それが心地よく感じられてならない。 暇潰し用にと渡された雑誌を読むこともなく、詩織は鏡に映る自分を見ていた。金髪になって、明日から仕事をどうすればいいのかはわからない。とりあえず明日は体調を崩したと偽って休もう、と決める。これまで、頼まれれば文句も言わず何連勤でもしていた詩織が仮病を使うとは誰も思わないだろう。 それから先のことは――今は考えたくない。 看護師としてあるまじきことをしているのはわかっているが、詩織の気分はこれまでにないほど高揚していた。看護師の国家試験に合格した時の喜びですら、今の足元にも及ばない。一時も休まず高鳴りを続ける心臓は、血液ではなく強酸性の液体を全身に送っているようだった。 たっぷりと時間をかけた一度目のブリーチがおわると、これまで二十四年間、漆黒を保っていた詩織の髪は、オレンジ色へと変わり果てていた。今なお脳内に色濃く残る自分との差異に、背筋が痺れる。 はあ――何度目になるかもわからない溜息が漏れた。 鏡に映る自分の美しさに対する感嘆の吐息だ。 自分は本当はこんなにも可愛かったなんて。これまで詩織はそれに気づかず、背中を丸め、俯いて生きてきた。一体どれだけの損をしたのか。もっと早くに気づいていれば、と悔やまれてならない。 はあ、と今度漏れた息は、後悔の溜息だ。これからはもう間違った選択をすまい、と心に誓う詩織は、その選択が看護師という職業とは相容れないことをあえて考えないようにしている。 二度目、三度目とブリーチを重ねると、オレンジの髪はさらに色素を破壊されて、白へと近づいた。その白さは、詩織の期待感を煽らずにはおかない。 「それじゃ、ヘアカラーを使っていきますね」 そう言って、藤井が薬剤で詩織の髪を染めはじめる。髪に触れられるたび、たまらない心地よさが心身に広がった。まるで、髪が性感帯へと変わってしまったかのようだ。カットクロスの下で、詩織は内股を擦り合わせていた。 放置時間がおわり、カラー剤が詩織の髪に定着を果たす。 そして鏡に映し出された己の姿に、詩織は殴りつけられたような衝撃を覚える。これが本当に自分なのか――それを確かめるために手で顔を触らずにはいられないほど、その印象は変わっていた。真面目なだけが取り柄の根暗な看護師はもうどこにもいない。そこにいるのは繊毛のように軽やかな雰囲気の金髪美女だった。 おおー、と藤井が声をあげて目を細める。 「めちゃくちゃいい感じですねー」 その通りだ、と思った。 可愛い。 そう評価することに恥ずかしさはない。なぜなら、その可愛さは真実であるからだ。そして、その可愛らしさは、藤井が最後の仕上げに前髪をふわりと浮かせ、手でかきあげたような癖をつけて額を露出させると頂点に達した。 あまりにも、可愛すぎる。犯罪的ですらある。 その思いに、体ではなく、脳が絶頂していた。頭蓋の内側に溢れた快楽物質が脳襞の奥まで染み込み、詩織を至福で包む。目に歓喜の涙が滲み、息遣いが焦げた。 かつての自分と今の自分――その落差に目眩がしそうだ。 世の女性たちが、なぜあれほどまでに我が身を飾り立てることに執着するのか、詩織はようやく理解する。これまで、身ぎれいにすることには気を払っていたつもりだが、お洒落になろうと思ったことはなかった。しかし、今、こうして藤井の勧めに従ってみると――その効果は劇的以上だった。 藤井は女性スタッフを呼び、髪型に合ったようなメイクを施すように頼む。 「僕のわがまま聞いてもらう形になっちゃったんで、これはサービスです」 自分に見惚れる詩織には、そう言う藤井の声がひどく遠くに聞こえた。 ファンデーション、アイライナー、口紅……化粧が塗り直されるたび、詩織の可愛らしさはより高められていく。自分がどこまで可愛くなってしまうのか、それが怖いほどだった。化粧をされながら、そのコツや、おすすめのメイク動画のチャンネルを教えてもらう。 そして――。 長らくの時間をかけて、施術が完了した。 詩織は様々な角度から自分の姿を確認する。見違える、という形容では足りない。詩織が遂げた変身は、芋虫が蝶となるような、凄まじいものだった。笑み――いや、「にやにや」と表現するしかないような表情を変えることができない。 「ありがとうございます」 と詩織は藤井に礼を言った。 「藤井さんのおかげで、私、全然違う私になれました」 「喜んでもらえて何よりです。お手入れでわからないことがあったら、遠慮なく電話してくださいね。責任をもってアドバイスさせてもらいますから」 「はい♡」 詩織は、自分が藤井と目をあわせて会話できていることに気がつく。店に来たばかりの時とはまったく違う。まったく違うことができる自分になれた、ということだ。そのことが、詩織に自信をもたらす。自信――それこそが、これまでの詩織に欠けていた最大のものだ。 支払いを済ませ、詩織は店を出ていく。 それを見送る藤井は、カット料金以上の金を搾り取ることができた喜びにほくそ笑んでいる。しかし、詩織という原石を磨いて宝石にすることに楽しみを見出していなかったといえば嘘になる。美容師をしていれば様々な女に巡り合うが、あれほどの逸材はめったにいるものではない。 己の美しさに気がついてしまった詩織がどうするか。 それは藤井の知ったことではない。 4 ショーウィンドウに写る自分の姿に渇いた笑いが漏れそうになる。 美容室を出た詩織が向かったのは若者向けの衣料品店だった。そこで、詩織は、醒めやらぬ陶酔の命じるままに、新しい服を買い、それに着替えた。タイトな白いシャツ、デニム生地のミニスカート――これまでの大人しいものとはまったく違う趣向の服装は、メイクもあいまって、詩織の魅力を倍増させている。 次に入った靴屋で買ったサンダルは、華美なばかりで履きやすくはないが、その不快感すらもが今は心地よい。 着ていた服と靴は、それぞれ買った店に処分を頼んだ。どちらもお気に入りの品だったはずだが、まったく心は痛まなかった。むしろ、溜まったゴミを捨てるような晴れやかな気持ちにさえなった。 素足に感じる空気を感じながら、詩織は変貌を遂げた自分を眺める。 軽やかな金色のかきあげボブ、目と唇を強調するメイク、ボディコンシャスなシャツはHカップの迫力をくっきりと浮き上がらせ、ミニスカートはわずかに身動きするだけで、際どいところまで見えてしまいそうになる。 恥ずかしくないわけではない。 ただ、それ以上に自分の性的魅力が誇らしかった。 ふふ、と満足の笑いを漏らして、詩織はふたたび歩きはじめる。どこか行きたい場所があるわけではない。今は、とにかく多くの人の視線に晒されていたかった。誰にも気を配られることのなかった詩織だが、今は人々の耳目を集めずにはおかない。男の好奇も、女の軽蔑も、どちらも詩織の自己陶酔が根拠ないものではないことを証明してくれる。 すれ違う人々のなかには、詩織が看護師として対応した人間もいるかもしれない。しかし、冴えない看護師と今の自分を結びつけて考える者は絶対にいない。そう考えると心が躍った。 注目されることがもたらす自信が、詩織の猫背を矯正している。背筋を伸ばして颯爽と歩く詩織の姿は、ますます通行人の視線を集め、詩織にさらなる自信をもたらしていく。魅力と歓心の作り出す好循環が、詩織の心に取り憑いていた。 それから、詩織は宵の口まで街のあちらこちらを歩き回った。何度か訪れたこともある場所でも、まったく違った印象を受けるのは、詩織が変わったからなのだろう。そんな体験の新鮮さに笑みがこぼれる。そして、その微笑みが、詩織をさらに魅力的に彩っていくのだ。 しかし、もうそろそろ帰らなければならない。 足元からじわじわと這い登ってくる夜の闇が、詩織にそう促す。わかっている。家に帰って、明日からどうするのか、考えなければいけない。でも、あと少しだけ――と、迫る夜を少しでも遅らせようと、詩織の足は繁華街へと向かっていた。 きらびやかに光る看板が、猥雑な雰囲気とともに、闇を追い払っている。 未体験の区域を、詩織は一歩、また一歩と進んでいく。女がひとりで来るには危険な場所というのはわかっている。詩織の体に向けられる男たちの視線は、もはや実際に手でまさぐられているも同然の露骨なものだ。 これまでの詩織であれば、即座に逃げ帰っていたことだろう。しかし、あえてそんな場所を歩いていることがたまらない。足を動かすたび、心に残ったかつての自分を置き去りにする快感があった。 (ああっ♡) 表面上は悠々とした態度を崩さず、詩織は内心で悶える。 (馬鹿。私ったら、本当に何してるのっ……) こんな姿を母が見たら一体どう思うのか。想像するだけで、申し訳なさに身が張り裂けそうになる。しかし、その謝意は、どうしても、実際の行動には結びつかない。今、詩織の体を支配しているのは、快楽を追求する心だった。 もう少し歩いたら帰ろう。あと少し。もう少し。――帰宅を先延ばしにしていくたび、詩織は繁華街の深みへと足を踏み入れていく。湿り気を増した空気に、さすがに踵を返しかけたところで、背後から「あのー」と男の声がかけられた。 振り返る前から何が狙いなのかわかる。そんな声音だった。 (どうしよう。どうしよう。どうしようっ) 胸の内側で心臓が激しく跳ねる。ナンパ――期待していなかったといえば嘘になるが、覚悟はまったくできていない。これまで男にそうした意図での声がけをされた経験もないため、断り方もわからない。 外見がどれほど変わろうとも、男性経験の乏しさは変えることができない。 「あの、すみません。いいですか?」 背中に重ねて声がかけられる。どうすればいいのかわからないが、振り返らないわけにはいかない。もうどうにでもなれ――と、なかば自棄になって詩織は振り返る。 そして、男の顔を見た次の瞬間には瞳に慕情を弾けさせていた。 見上げるほどの長身、短く刈り込まれた金髪、女性的とも見える繊細な作りの顔……美容室で髪を切ってくれた藤井と同じ――あるいはそれ以上の容貌の持ち主がそこにいた。夜の街独特の空気が、ジャケットをラフに羽織った彼の容姿を際立てている。年齢は詩織と同じくらい――いや、少し下かもしれない。 「もしよかったら、一緒に食事しません? 美味しいお店知ってるんです。もちろん、奢りますよ」 清々しいまでに直球のナンパ――どう答えたものかわからず黙っていると、男は「お願いします」と詩織との距離を詰めてくる。近づくと、香水の甘さが詩織の鼻腔をくすぐった。笑みを浮かべた彼の視線は、まっすぐ詩織の顔に据えられている。 詩織もまた、彼の顔をまっすぐに見ていた。見れば見るほどに非の打ち所が見当たらない。これまでであれば、指を咥えて憧れていることしかできなかったような男性――それが向こうから声をかけてくる。話をすることすら叶わなかったであろう相手が、必死になって食事に誘ってくる。 自分は夢の中にいるのではないか、と思う。 しかし、夢ではない。これが詩織の現実なのだ。それほどまでに、詩織は美しく羽化を遂げてしまったのだ。酒を飲んでもいないのに目眩を覚えてしまうのは、その罪深さのためだった。 「ど、どうしようかな……」 精一杯の虚勢をはり、余裕のあるような素振りをして、詩織は言った。わずかながらも目があると見てとった男が、「変なことしませんから」「俺、お喋りうまいんです。楽しいですよ」「ご希望なら、お酒もご馳走しちゃいます」と猛攻をかけてくる。必死と表現してもいいその声音は、女神の竪琴よりもなお心地よく詩織の耳に響いた。 しばらくのあいだ、詩織は男の懇願を楽しんだ。 でも、ごめんなさい。私、もう家に帰ります。――言うべき言葉は明らかだったのに、それが実際に詩織の舌に載せられることはなかった。自宅に帰りたくない。狭苦しい部屋で、明日の仕事をどうしようと頭を悩ませたくない。その思いに後押しされ、詩織は男と夕食をとることになってしまう。 詩織の色良い返事を耳にした男は、よっしゃ、と声をあげた。 彼の名前は神田。年齢は詩織の見立て通り、彼女より若く二十一歳。大学を中退し、今は仲間と一緒に、希少な商品を買い占め、それを高額で売りさばく――いわゆる転売で生活しているらしい。彼の身につけた衣類の仕立てのよさが、その儲けのほどを端的に示していた。 (大丈夫。食事だけ……本当に食事だけだから) 男と並んで歩く詩織が自分に言い聞かせる言葉はどこまでも虚しい。 「本当は友達と飯食う予定だったんですけど、そいつ、来られなくなっちゃって。ひとりで食べるの寂しいなって思ってたところにお姉さんが通りがかったんです。めちゃ綺麗じゃん、って思った次の瞬間には声かけちゃってました。すみません(笑)」 名前は何ていうんですか、と尋ねられ、飯塚詩織です、と答える。 職業は? という問いかけに、少し悩んだのち、正直に「看護師です」と答えると、神田は苦笑いした。本当のことを言いたくないので誤魔化している思ったのだろう。詩織の今の姿を見れば信じられなくても仕方がない。 「詩織さんみたいな看護師がいるんなら、俺、毎日病院通いますよ」 そう言って、神田は詩織の腰を抱く。ほんの少し前までは見知らぬ他人だった男に触れられても、嫌な気分はまるでしない。自分に逃げられないよう、懸命にご機嫌取りをする彼の姿に、優越感は天井知らずに高まっていった。 最初に連れて行かれたのは、詩織も評判を聞いたことのあるイタリアンレストラン――特に美味しいらしいナポリタンスパゲッティを注文したが、神田とのお喋りに夢中で味わう余裕もなく食べ終えていた。 お喋りといっても、神田が欲望を剥き出しにして詩織を褒めそやすのを聞いていただけに過ぎない。まるでお姫様のように下にも置かない扱い――そんなふうに接されるのは初めての経験だった。圧倒的な羞恥とともに、やはり今の自分は可愛いのだ、という実感がこみあげてくる。 こんなにも楽しい食事は初めてだった。 感激とともに店を出ると、案の定、神田が「もう一軒行きませんか?」と誘いをかけてくる。今度は、美味しいカクテルを飲ませるバーに連れていくと言う。 食事だけで帰る――その誓いをいともたやすく反故にして、詩織は「行きたい」と答えていた。 「安心してください。酔わせて変なことしよう、とか考えてないんで」 神田はそう言うが、その視線はもはや臆面もなく詩織の乳房に向けられている。姿勢がよくなったおかげで、元より圧倒的なボリュームを誇っていたその部位は、さらに質量を増したかに見え、神田以外の男の視線をも強引に惹きつけている。それを鋭敏に感じ、ブラジャーの内側では乳首が小石のように硬くなっていた。 (だ、駄目……私、このままじゃ……) 本当にお酒を飲むだけ。一杯飲んだら帰ろう。絶対に帰ろう。 そう誓ったのに――詩織は、連れて行かれたバーで神田に勧められるがまま、次々とカクテルを飲んでしまう。実際に美味しかった、というのもあるが、これからの自分に対する危惧を酒精の作り出す靄の中に遺棄したい気持ちのほうが強かった。 酒を干していくうち、家に帰りたくない、という思考すら消え、見目麗しい男と楽しい時間を過ごしたい、という欲望が詩織を支配していく。神田が詩織を視姦するように、詩織もまた神田の顔を、唇を、股間を視線で舐め回していた。触ってすらいないのに股間がぐっしょりと濡れてしまう。 アルコールだけではなく、色欲にも濁りはじめたその瞳をのぞきこんで、神田が「そろそろ出ましょう」と提案する。次に彼が口にした「ゆっくりできるところで酔い醒ましでもしません?」という台詞――絶対に断らなければいけない誘いに、詩織は「はい♡」と一も二もなく頷いていた。 神田に腰を抱かれた詩織は、今度はホテル街へと歩きはじめる。 これからどうなるのかはわからない。しかし、詩織がふたたび看護師の制服を身にまとうことはない――それだけは確実だった。 5 詩織はナース服に着替える。 しかし、ここは病院ではない。 富裕層向けの高層マンションのリヴィング――壁の一面を占める窓からは黒布に宝石粒をばら撒いたような夜景がのぞめる。詩織の身を締めつけるナース服は、本来あるべき白でも淡いピンクやネイビーでもなく、その闇に染まったような漆黒だった。 ボンデージ素材で作られたナースのコスチューム――両脇が編み上げになったスカートは股下三センチもないような代物。胸の部分は存在せず、マイクロビキニでかろうじて乳輪を隠したHカップが、谷間にたっぷりと振りかけられた香水の匂いを立ち上らせつつ、惜しげもなくさらけだされている。 長いつけまつ毛と濃いアイライナーでこれでもかと強調された目元は、実際よりも大きく描かれたパールピンクの唇とともに、詩織の美貌を、ともすれば生殖器以上に卑猥に見せている。 じゃーん、と詩織は両手を広げた。 「どーよ、これ。めっちゃ似合うんじゃね?」 奔放な口調でそう問いかけ、詩織はソファーに座る男の隣に、身を投げ出すようにして腰を下ろす。動きの激しさに、極上の柔らかさを誇る乳房が、ぶるるん♡ と重量感たっぷりに揺れた。 似合う似合う、と好色に顔を崩しながら男が頷く。 このコスチュームは、詩織のものではなく、彼の所有物だ。以前付き合っていた女に着せて楽しんでいたらしい。その女は詩織よりも小柄だったらしく、衣装は詩織の肉体に食い込み、その肉感を徹底的に強調している。耳をすませば、身動きをするたび、みちみちと肉が軋む音が聞こえそうだ。特に極小のビキニを食い込ませた乳肉の迫力は、もはや暴力的ですらある。 「捨てないで取っておいてよかったわ」 男は、吸っていた煙草を左手に持ち帰ると、右手の指を詩織の胸の谷間に潜り込ませる。たまらない柔らかさと弾力、そしてほどよい湿り気に、彼の小鼻が膨らむのを、詩織は間近で観察する。余裕ぶってはいても、その股間はすでに盛大に隆起している。 「煙草ちょうだい♡」 詩織は、乳谷間を好きにまさぐらせながら、彼の指から煙草をつまみとると軽く吸い込む。ふう、とわずかに顎をそらして煙を吹き上げる彼女の姿からは、大人の女の色香が漂っている。 そう言えばさ、詩織、と男が話しかける。 「誰かから聞いたんだけど、詩織、前はナースやってたってまじ?」 その問いかけに、詩織は「ほんとだよん♡」と答えた。 「こんなエロいナースがいたら毎日でも入院してー(笑)」 同じような言葉を前に聞いた気がするが、いつ聞いたのかは忘れてしまった。いつだっけ――と考えながら、今度は煙草を深々と吸い込む。肺胞を毒煙で満たし、煙を吐く。結局、どれだけ考えてもいつなのかは思い出せない。しかし、金髪にして以降の出来事であることだけは間違いなかった。 あの時から二ヶ月が経過している。 すでに季節は夏に突入している。観測史上に残る酷暑だと連日ニュースが騒ぎ立てているが、空調の効いたこの空間には関係ない。 たった二ヶ月――それだけで詩織の何もかもが変わってしまった。 詩織は、当然、もう看護師ではない。働いてすらいない。 金髪の髪で出勤するわけにもいかず、さりとて適当な言い訳も思いつかず、無断欠勤を続けていたら、馘首を宣告された。せめてカードキーは返却をしにくるように、と言われて、二日酔いを曳きずりつつ、ヒョウ柄のチューブトップで病院に行った時の同僚たちの顔は忘れられない。 二十三人。それがこの二ヶ月で詩織が性的関係を結んだ男の数だ。しつこく懇願されて手や口、あるいは胸で処理してやった相手を含めれば五十人はゆうに超えるだろう。枯山のように寂しかった詩織のLINEは、今や、男たちの名前がひしめき合っている。むろん、全員が詩織に見合う優れた外見の男たちだ。 酒も煙草も、男たちと遊ぶうち、慣れ親しんだものとなった。酒は毎日飲むし、煙草については一日一箱を消費し、日に日に本数が増えていっている。健康に気を使わなきゃ、などと無粋な注意をする男は周りにはいない。 今、顔貌を蕩けさせている男の名前は亮太――二十三人のうちのひとりだ。このマンションに家族と暮らす大学生で、両親が海外旅行に行っていて留守だということでここにやってきた。啓介という弟は家にいるらしいが、今のところ、姿は見ていない。 「自分の部屋で勉強してんじゃね。あいつ、真面目くんだから」と亮太は苦笑いしていた。私立の学園に通っているという弟は、親が支払った金銭と引き換えに合格を得た大学にも碌に通わず、女と遊び歩いている兄とは正反対の人格の持ち主らしい。 詩織はもう仕事はしていないが、男たちが貢いでくれるおかげで、貯金はほとんど減っていない。ねだる必要もなく食事を奢ってもらえるし、物欲しげに見つめれば何でも買ってもらえる。詩織の部屋は、次々と贈られるブランド物で溢れかえっている。 可愛くいること――それが詩織の仕事といえるかもしれない。 看護師などではなく、それこそが詩織の天職だったのだ。気がつくまでに、だいぶ時間がかかってしまったが、気がついたからにはもう間違ったりはしない。より可愛く、男たちの歓心を惹くように――ファッションに無頓着だった詩織は、今や自分磨きに余念がない。 海外通販で化粧品を取り寄せ、サプリメントをあれこれと摂取し、高級なエステに足繁く通う。かきあげのボブヘアーに変わりはないが、金髪はさらに明るく、白銀に近い色へと変わっている。カットと染め直しは、半月前、藤井の店でしてもらったのだが、詩織の変貌に彼も驚きを隠せていなかった。 藤井も二十三人のうちのひとりだ。あれほど高嶺の花だと思っていた彼も、今の詩織からすればおやつに手を伸ばすよりもたやすくベッドをともにすることができる。まるで赤ん坊のように詩織の乳房をちゅぱちゅぱと吸いつつ、手淫であっけなく精液を絞られていく彼の姿は、笑ってしまうほどに滑稽だった。 しかし、どんな美容法よりも、男たちと過ごす時間それ自体が詩織の魅力を増進していた。 朝も夜もない生活は、華奢であった体にむっちりと肉をつけ、何もせずとも濃厚な女の香りを醸し出している。特に質量を増した太腿と尻は、今、サイズがあっていないコスチュームを内側から圧迫し、苦しげな悲鳴をあげさせていた。 「あー♡ 詩織のデカパイたまんねー♡」 柔らかなメスの肉を弄びながら、「やっべ」「まじやっべ」と鼻息を荒くして身を擦り寄せてくる亮太。詩織は、最後に深々と吸い込んだ後、煙草の火を灰皿に揉み消した。 「そろそろ、しよっか♡」 そう言った詩織は、彼の頬に掌を添えて、彼の唇にむしゃぶりつく。絡みあう舌と舌。べちゃべちゃという唾液の粘つきに、ふたりの鼻息が切なく混じり合う。 口吻に耽りながら、亮太の手は詩織の豊乳を揉みしだいていた。指と指の隙間に盛り上がる肉が、その抜群の柔らかさを示している。ひと揉みするごとに、濃密な女の匂いが深々とした谷間から立ち上って彼の牡の精髄を痺れさせた。 彼を陶酔させるのは乳の匂いばかりではない。詩織の艶髪にたっぷりと擦り込まれたヘアコロン――間近に嗅げる甘ったるい匂いが、亮太の内側で詩織の存在を際限なく大きくしていく。 完全に自分の掌の上で、次第に荒くなっていく亮太の鼻息を感じながら、詩織は緩急をつけてキスを楽しむ。その手は、彼の股間へと伸び、男の膨らみをさす♡ さす♡ さす♡ と撫でさすっていた。コスチュームの下、オープンクロッチのパンティは滲み出る愛液に濡れている。彼女を濡らすのは、性的な快感ではなく、己の魅力でオスを支配する満足感に他ならない。 頃合いを見計らって、詩織は唇を離す。ふたりのあいだに唾液の橋が渡った。詩織は顎に垂れたそれを掌で拭う。獲物を前にした肉食獣のような眼光が、亮太をますます奮い立たせる。 「詩織――とりあえず胸で一発頼むわ。あ♡ コスは着たままでよろしく」 そう言った亮太は、いそいそとズボンをおろし、勃起を露出させる。人並み以上のサイズの肉棒は、持ち主の昂りを端的に示し、下腹につきそうなほどに反り返っていた。破裂しそうに膨れ上がった亀頭――鈴口からは透明な粘液がとろとろと滲み出てきている。 「男ってほんとパイズリ好きだよねー」 女としては大変なんですけど、と詩織は苦笑いしながら、ソファーを立ち、広げられた彼の脚のあいだに跪く。ふたつの巨肉鞠が近づいただけ――だというのに、亮太のペニスが一刻も早い圧迫を望んでいななく。 パイズリ――二ヶ月前まではどんな行為なのか見当もつかなかった性技だが、今では紛うことなき詩織の特技だ。様々な男の指導を受けたその技術は、磨きに磨かれ、専門の風俗嬢以上のものになっている。最近では挿入よりも胸での行為を熱望する男もいるほどだ。しかし、左右合わせて一・五キロにもなるHカップを腕の力だけで上下させ続けるのは決して楽ではないため、よほど気に入った相手にしかしないことにしている。 んしょ、と乳肉を寄せて、谷間に肉棒を挟み込む。固定のために少し力を入れただけで、亮太の喉から「あっ♡」と裏返った息が漏れた。 「いっくよー♡」 と声をかけたのち、詩織は乳房を左右から目一杯圧迫し、上下に揺さぶりたてはじめる。最初はゆっくりと、次第に激しく――鼠径部と下乳のぶつかる、たぱん♡ たぱん♡ という音がリズミカルに連続する。身動きをするたび、衣装のエナメル生地が妖艶に軋った。 うあ、と亮太が顎をあげて喘ぐ。 「詩織のズリテク、やっば♡ ちょー気持ちー」 柔らかさと弾力のもたらす極上の愉悦で、オスの急所を徹底的に翻弄され、彼の腰はソファーから浮き上がろうとしていた。その無様な様子が、詩織の感じている満足感を高める。圧倒的な強者として他人と接する――本当の看護師だった頃にはできなかったことを、詩織は、今、偽物の看護師として行っていた。 「んっ♡ んっ♡ んっ♡ んっ♡ んっ♡ んっ♡ んっ♡」 乳圧を微妙に調整しながら、ある時は激しく、ある時は緩やかに詩織は肉棒をしごきあげ、徐々に徐々に亮太を絶頂へと押し上げていく。やがて――ペニスが金属になったのではないかというほど硬くなり、オスの灼熱が乳内にぶちまけられた。 「おっ。おっ。おお……」 ひと撃ちごとに息を詰めながら射精を迎える亮太――詩織は乳房を動かし、彼の感じている快感を高めてやる。最後の一滴までも絞り出した彼は、大きく息を吐きながら背もたれに体を倒した。 「まじで最高だわ、詩織の乳。何発抜いてもらっても飽きねー(笑)」 そう呻く彼の肉棒は、盛大に吐精してもなお、隆々とそびえ立っている。射精一度で萎えてしまうような情けない男は、詩織のセックスフレンドのなかにはひとりとしていない。 「私はおっぱいだけの女じゃないんですけど〜?」 詩織は亮太の勃起に避妊具を装着すると、対面座位の姿勢で彼に跨った。濡れそぼった秘壺に、彼の肉棒を受け入れると「いっくよーん♡」と宣言したのち、腰を動かしはじめる。 「どう? 気持ちー?」 眉間に悩ましげな皺を寄せている亮太の顔をのぞきこんで、詩織は尋ねる。「うん」という答えが返ってくる前に物音を聞いたような気がして、詩織は腰を激しく前後させつつ、そちらの方向を見やった。 「どうかした?」 亮太の質問に「んーん。なんでもない」と答えた詩織は、肉杭で己の内臓を潰そうとするかのように激しく動きはじめる。高まる体温――汗でうなじや額に髪が貼りついている様子は、凄艶としか言いようがない。Hカップの乳房は、その重さのあまりに、体の動きから一拍遅れて上下動していた。 混じり合う男女の切ない息遣い。 それを吐き出す口と口とが近づき、舌が絡み合う。口吻を貪りあいながら、ふたりは絶頂へと向かっていく。亮太は性的快感のために、そしてオスが自分に魅了されているという満足感のために――亮太が詩織の名前を繰り返し呼びながら呻く。怒涛のように放出される灼熱が、詩織がどれほど優秀なメスであるのかを保証している。その喜びのままに昇りつめた詩織は、喉をそらし、下肢を不規則に震わせた。 沈黙――そのなかで、ふたりともがそれぞれの肉悦を噛みしめる。 「あはは。ちょー出したじゃん。うける」 やがて立ち上がった詩織は、絶頂の余韻に荒い息を吐きながら、取り外したコンドームに溜まった精液を見下ろして笑う。二度目の射精だというのに、そこには白濁がたっぷりと吐き捨てられている。 「しょうがねーだろ。気持ちよかったんだから(笑)」 その言葉に「嬉し♡」と目を細めた詩織は、亮太の頬にキスを与えた。それから、コンドームをゴミ箱に放ると、楽しげな表情のまま、唇の前に人差し指を立て、静かにしているように、と無言で命じる。怪訝な顔をしている亮太を置いて、詩織が足音を殺して向かったのは部屋の出入り口――行為中に物音を聞いた場所だ。 「あらら♡」 廊下をのぞきこむと、案の定、ひとりの少年が壁にその身を隠していた。 呆然と詩織を見上げるのは亮太とよく似た顔――彼が弟の啓介なのだろう。顔立ちは兄によく似て――いや、兄以上に整っているが、雰囲気はまったく別だ。いかにも真面目な男子学生らしい、堅苦しい空気をまとっている。根暗、という言い方をしてもいいかもしれない。それが優れた容貌を台無しにしてしまっていた。 「あ、あの、僕……その……」 ずり降ろされたズボン、露出した勃起、そして壁を汚している精液――啓介がここで何をしていたかは明らかだ。 「啓介くん、だよね? ここで何してたのかにゃー♡」 左右非対称の、意地悪を極めた笑みを浮かべつつ、詩織が問いかけると、啓介は真っ青になっていた顔を赤くして、「ち、違うんですっ」と訴え、慌ててズボンをずりあげた。しかし、こんなにあからさまな状況証拠を並べておいて、何がどう違うというのか、彼に説明できるわけもない。 啓介は二の句が継げず、うなだれてしまう。そこへやってきた亮太が、啓介の姿を見るなり、「おいおい」と笑い声をあげた。 「のぞき見は駄目だろ。お兄ちゃん悲しいよ。――でも、お前にも性欲あったんだな。安心したわ。お前も混ざる? 穴兄弟になっちゃう?」 黙り込んだままの啓介の姿が、詩織のなかでかつての自分と重なる。外面では真面目ぶっていながら、その内側には欲望を滾らせ、それでいてそのことを認められなかった自分――むらむらと湧き上がってくるのは紛れもない破壊欲だ。 壊してやりたい、と思う。 目の前の少年を、徹底的に、完膚なきまでに壊してやりたい。 「ねー♡ 啓介くん♡ 明日、お姉さんとデートしよっか♡」 と、甘い声で語りかける詩織は、もう啓介をどうするか決めている。 「ねー♡ 行こう? 絶対楽しいよ?」 「で、でも、僕、明日は学校が……」 啓介は聞き取れないほど小さな声で言い訳をする。全裸の美女を前にして、少年は顔を真っ赤に染め、視線をあらぬ方向へと逃している。その様子が、また、詩織の嗜虐心をくすぐった。 「一日くらい休んでも平気っしょ。デートも勉強のうちじゃん? 社会勉強♡」 詩織の言葉に、亮太が「そうそう」と適当な相槌を打った。 「いや、あの……」 なおも口ごもる啓介の胸を、詩織は容赦なく突き飛ばし、壁際に追い詰めた。どん、と右手を壁についた詩織は、つーかさ、と左手で髪を掻きあげ、Hカップの豊乳をむにむにと押しつけつつ、下方の至近距離から啓介に視線を刺す。鋭い光に射すくめられ、啓介の喉が窄まるのがわかった。 そんなふうに弱々しいところも、昔の詩織にそっくりだ。 「これ、お願いじゃないから。命令だから。――め♡ い♡ れ♡ い♡」 そう言って舌なめずりをする凶悪な姿は、少年の目には、白衣の天使とは最も遠い、黒衣の悪魔にしか見えないに違いなかった。いや、悪魔ではない。彼女は醜い芋虫から華々しい蝶へと羽化を遂げた。そして、美しい翅と優雅な羽ばたきで、男たちを魅了し続けるのだ。 6 翌日、詩織は啓介を美容院に連れて行った。 急遽予約を捩じ込んだのは藤井の勤める美容院――ぜひ藤井にカットとカラーリングをお願いしたい、と頼むと、苦笑いしながらも了承してくれた。 藤井の手によって、冴えない黒髪を清潔感に溢れるツーブロックスタイルにカットされ、金髪に染められていく啓介を後ろから眺めていると、まるで本当にかつての自分を見ているようだった。 その後、ショップでレザーのパンツとボーダーのシャツを買って着替えさせ、さらにアクセサリーを着けさせると、どこからも文句の出ないだろう「イケメン」に仕上がった。やはり兄弟だけあって、亮太によく似ている。いや、どちらかといえば、夜遊びに擦れていないぶん、詩織の好みかもしれない。 しかし、亮太との類似はあくまでも外面だけ――まとっている雰囲気はまだまったく別のものだ。 「あの、詩織さん、僕……やっぱりこんな格好……」 弱々しい声で詩織に言う啓介は、まだ己の変化を受け入れられていない。視線があちこちに飛び、両肩には困惑がぐるぐると渦を巻いていた。指先は落ち着きなく、ネックレスからぶら下がったタグを弄り回している。 外見的には派手で軽薄な少年がそんな様子を晒している滑稽さに、詩織は思わず吹き出してしまう。髪を金色に染められているあいだも、試着室を舞台にして詩織の着せ替え人形になっているあいだも、泣きそうな顔をしていた。 その気持ちはわかる――わかりすぎるほどにわかるが、同時に、もっと変身を楽しめばいいのに、と思いもする。せっかく詩織が母親を偽って学校に欠席の連絡をしてやったのだ。 「大丈夫だって。すげー似合ってるよ? やっぱデートするならイケメンくんだよねー♡」 啓介を励ます詩織の今日の服装はゼブラ柄のチューブトップ。伸縮性に飛んだ布地は豊乳を生々しく浮き彫りにしている。惜しげもなくさらけ出された乳房の裾野は、空に疼く太陽に炙られて、妖艶な汗を帯びていた。 通りで言葉を交わすふたりは、通行人たちからすれば、似合いのカップルとしか見えないだろう。 「似合ってるとかじゃなくて、こんな髪で、明日からどうすればいいのか……先生に怒られちゃいますよ……」 そんな悩みも、かつての詩織と瓜二つだ。 「明日のことは、明日考えればいいじゃん?」 何も考えず、脊髄反射で口にしてから、詩織は、それがあの時――金髪にしたての自分が聞きたかった台詞なのだと気がつく。そうだ。未来のことはその時になってから考えればいい。今が楽しければ、それでいいではないか。 「ほら、せっかくだし、記念撮影しよ♡」 詩織は、啓介に身を寄せ、インカメラを起動したスマートフォンを掲げた。シャッター音とともに撮影された画像――満面の笑みを浮かべ、横にしたピースサインで目を飾る詩織の隣で、悲しげな顔をした啓介が硬直している。 それを亮太に送ると、「ウケる」というメッセージが返ってきた。本人が望んではいない弟の変貌も、彼にとっては単なる娯楽に過ぎないようだ。啓介に画面を見せると、「全然面白くないですよ……」と捩れた声を出した。 それから、詩織は、あちらこちらへと啓太を連れ回した。ゲームで遊び、食事をし、ショッピングをし……遊び歩きながら、ことあるごとに「まじ格好いい」「ほんとイケメン」「たまんねー♡」と彼の容姿を褒めそやしてやる。やめてください、と照れてもやめてはやらない。 最初は硬い表情だった啓介だが、徹底的に褒め続けていると、漆喰が剥がれるようにぼろぼろと、表情を崩しはじめた。そこにのぞくのは、詩織にとっても馴染みの優越感だ。 それはそうだろう。現在に啓介は、実際に格好いいのだから。正常に働く頭があり、まともに目が見えていれば、それは認識できるだろう。身近な場所に、亮太という近似したサンプルもいる。 満更でもない表情が増えた啓介を、頃合いを見計らって、詩織はネットで評判のスイーツパーラーへと連れ込んだ。店内を埋め尽くす若い女性客――その視線が、ほとんど唯一の男性客である啓介へと集まる。 緊張のあまりに体をこわばらせていたのも束の間、啓介の顔はこれまでにないほど蕩けていった。彼女たちが啓介にむける火照った視線は完全に「イケメン」に対するそれだ。やばい、誰だろ、格好いいんだけど……ひそひそと交わされる囁きが啓介の脳襞を甘く撫ぜる。 その様子を眺めながら、詩織はジェラートに舌鼓を打っていた。 店を出たあとも、足の赴くまま啓介を連れ回した。その頃には、啓介はもう嫌がる素振りも見せず、詩織との時間を楽しみはじめていた。彼女が自分に贈ってくれたものがどれほどの価値を持つのか、ようやく理解できたのだろう。 そして、啓介は現在の自分の姿とあわせて、己の欲望をも認めていく。それまでとは比べ物にならないほどの頻度で胸や太腿を舐めはじめる視線――それに答えるように、詩織はボディタッチを増やし、少年を昂らせていく。 喋りながら乳房のポジションを直す。組んでいる脚を組み替える。「暑いねー」とチューブトップの胸元をつまんで、蒸れた体を扇ぐ。ひとつひとつは些細でも、積み重なったそれは、少年の獣欲を狂おしいまでに掻きたてる。 もはや、啓介が期待しているものは明らかだ。詩織はデートの名目で啓介を連れ出した。デートの終着点といえば決まりきっている。啓介の瞳が性行為を熱望する光をぎらつかせだす頃には、夜の帳が降り、あたりをネオン看板が照らしはじめていた。 夜に影を与えられた啓介は、ますます魅力的に見える。そんな彼に笑みを見せた詩織は、啓介の腕を取り、「それじゃ、行こっか♡」と歩きはじめた。 「行くって……どこに……?」 そう尋ねる啓介の歩行が詩織にやや遅れているのは、何とかして勃起を隠そうとしているためだ。心配げな口調とは裏腹に期待感に満ちたその表情は、詩織とのセックスを疑っていない。啓介の頭には、昨夜目にした兄と詩織の交わりが蘇っているに違いない。 だからこそ、詩織は言ってやる。 「決まってるじゃん。啓介くんのおうち」 それを聞いて啓太が「へ?」と間の抜けた声をあげた。 「もうデートは終わりだから帰らなきゃ。年上として、家まで送ってあげる。――何か不満ある?」 ないわけがない。動揺を曳きずる啓介の足取りが鈍くなり、やがては止まってしまう。腕を離した詩織は、啓介の顔をのぞきこみ、意地悪な表情で「んー? どうしたの?」と尋ねる。 セックスしたいんだ? と詩織は尋ねる。 こく、と啓介は頷いた。 それならこう言ってみよっか、と詩織は啓介に耳打ちをする。 言うべき台詞を耳に流し入れられた啓介は、目を見開き、そしてすぐに笑みを浮かべる。兄と瓜二つの軽薄な笑顔――それは、啓介が即物的な欲望に身も心も屈したことを意味している。 「――ラブホ行ってパコんぞ、詩織」 その言葉に詩織は「きゃは♡」と笑いを弾けさせた。明日からどうするのか、啓介はもう悩んではいない。明日のことは明日考えればいいと――今が楽しければそれでいいのだ、そう思っている。真面目で根暗な少年を、詩織は壊してしまったのだ。それをなしえた自分の魅力が誇らしく思えてならない。 「それじゃ、行こっか?」 詩織は、ふたたび啓介の腕を取り、今まで進んでいた方向とは逆、ホテル街へと歩きはじめる。やや躊躇いがちながら、詩織の腰を抱いた啓介の腕――それが少年がこれからどのような変貌を遂げるのかを端的に示している。 刻一刻と濃くなっていく夜闇に溶けていく金髪のふたり――しかし、いつであろうと関係はない。彼らはもう、今がよければそれでいいのだから。 (了)