1
コンコン、コン……。
二度ノックした後、三度目ははずみをつけるみたいにほんの少し間を置く。
いつもわたしに尽くしてくれる、じいやだけの癖。
(もう、お風呂の時間だったのね……)
いつの間にかページをめくることを忘れていた膝の上の本を閉じると、見計らったタイミングでドアが開く。
一国のお姫様に尽くすみたいな、見慣れた恭しい一礼。
決められたやり取り。
「お加減は如何です?」
「……本を読んでいたの」
問われたこととは違うことを答えているのは自覚している。
でも、仕方ない。
わたくしが「元気」と答えても、「苦しい」と答えても、じいやの受け止めは変わらないのだから。
寂しげな、悲しげな、わたくしを見る目は決まりきったもの。
「左様でございますか」
この部屋の間取りは12畳くらいかしら?
普通のご家庭の子供部屋として見れば、広い方なのかも。
この四角い部屋がわたくしの全て。
わたくしの世界そのもの。
「外をご覧になられましたか? 今夜は見事な満月ですよ」
「そう、ね。とても綺麗」
「……では、如何でしょう? お嬢様」
なんでもないようなふりをして。
とぼけるみたいにして。
「お風呂の前に少し庭に出てはみませんか?
ちょうど今朝、お庭のペチュニアが花を咲かせましたので」
声は少しの緊張をはらんでいた。
「そう、ね」
じいやの言葉で、わたくしは美しく咲き誇ったペチュニアの花を連想する。
紫やピンク、オレンジや白の花もあったかしら?
お屋敷の庭はお父様ご自慢の、キャンパスみたいなものだもの。
きっと、とても美しいでしょうね。
「そうしようかしら」
見てみたいと思ったわけではない。
「かしこまりました」
そう答えた方がじいやは喜ぶだろうから、というだけの気持ち……もしかしたら義務感で。
わたくしはいつものように嘘をつく。
そして、やっぱり後悔したの。
夜の色に染まったお庭は、わたくしが脳裏に思い描いた光景とはかけ離れていたから。
どこにペチュニアが咲いているのかもわからない。
憂鬱で、雲がかかったみたいなわたくしの心を描き出したみたい……とすら感じてしまった。
「お嬢様、こちらをお召しください」
じいやは影みたいにわたくしに寄り添って、必要なことをみんなしてくれる。
こうやって、肩にカーディガンをかけてくれたり。
(でも、気付いてくれないの……)
そんな考えがよぎってすぐ、わたくしはひどい自己嫌悪に襲われた。
じいやは気を利かせてくれているだけ。
わたくしが使用人の目につくことすら嫌がるから、じいやはこうして静かな夜の散歩に誘ってくれるの。
でも、ダメ。
世界が深い海に沈んでしまったようなこんな夜では、せっかくの色彩も濁ってしまう。
何も見えない。
この閉じた世界、この景色がわたくしの運命。
「綺麗だわ、とても」
じいやの視線……寂しそうな眼差しに気付いたから、わたくしはそう口にした。
どこに花が咲いているのかなんてわからないまま。
「お嬢様がそう仰っていたとお伝えすれば、旦那様もたいそう喜ばれることでしょう」
じいやは少し早口だった。
「さて、冷えて参りましたな。そろそろお屋敷に戻りましょうか」
「そう……あ、ごめんなさい。もう少しだけ」
どうして、わたくしはそう言ったのかしら?
息が詰まりそうになっているのに。
「謝罪など。どうぞ、お嬢様の望まれるように」
庭に咲き誇っているお花の色や香りすらもわからない、こんな夜の底で。
いいえ、むしろ、だからこそ。
(運命……)
ああ……きっと、今夜わたくしはそうなのね。
「運命って何かしら?」
今夜、わたくしは苛立ってるの。
「運命……で、ございますか」
「そう、運命」
いらいらして。それよりももっとずっと、悲しいの。
いつまでも続くこんな日々が、わたくしの全てであるということを見つめ直したら。
「ただの世間話よ。今夜は……そう、とてもいい夜だから。
ふと、ね? さっきの本を思い出したの」
いいえ、わたくしはずっと思ってきた。
「もし、この世に生きる全ての人々は生まれながらに運命という名の星を与えられるのだとしたら。
どうして、わたくしの星には光が宿っていないのかしら?」
それだけが不思議。
ずっと、ずっと悲しかったの。
物心がつく前……まさに、天から与えられた運命と呼ぶ他ないものだった。
わたくしは生まれながらに胸を患っていて――
当時、「10歳は迎えられない」とお医者様に伝えられていたのだそう。
幼いわたくしにとって、病院の外の記憶はほとんどない。
お父様とお母様。
優しいじいや。
限られた人だけがわたくしに寄り添って、わたくしにたくさんの優しさをくれた。
幸運、だったのだと思う。
わたくしは病を乗り越え、こうして生きているのだもの。
わたくしの家は裕福な家で、お父様やお母様はわたくしに未来を与えるために手を尽くしてくださった。
ちゃんとわたくしは知っている。
そして、じいや。
じいやは多忙なお父様やお母様との溝を埋めるようにして、いつも側で尽くしてくれた。
寝たきりのわたくしに、たくさんの物語を読み聞かせてくれたり。
たくさんの物語にわたくしを重ねて、どんな輝かしい未来が待っているかを明るい顔で教えてくれたわね。
お姫様のわたくし。
主人公のわたくし。
わたくしはなんにだってなれる、って。
「運命はお嬢様の側に。片時も離れることなく、その時を待っておりますよ」
ああ、この顔。
「わたくし、意気地なしかしら。いつまでもこうやって……」
じいやは優しい表情を崩すことはなかった。
きっと、慣れたことだもの。
「このじいやめは今日までお嬢様のお仕えして参りました。お嬢様を……見て、参りました」
一瞬、そう思ってしまった。
じいやの声が嗚咽でつっかえるのを聞くまでは。
「どうして、お嬢様を意気地なしなどと申し上げることができましょうか。
今日までお嬢様がどれほど苦しい思いを……」
「ごめんなさい、じいや」
じいやは優しくて、今夜……わたくしは少しだけ意地悪だった。
こんなこと言わなければよかった。
「謝罪など。お嬢様のお散歩にお供するのは、じいやの無上の喜びでございます」
「また、そうやって大げさに言って」
わたくしも……じいやも、こうしてまた嘘をつく。
与えられた役割を演じるみたいに
「お屋敷に戻るわ」
「ええ、かしこまりました」
結局、じいやはわたくしの問いへの答えをくれなかった。
わかっていたこと。
今夜のわたくしが意地悪だっただけ。
2
お風呂を済ませたり、今日を終えるための支度を一通り済ませる間……。
そう、ずっと。
わたくしは今夜のことを後悔していた。
「おやすみなさいませ、お嬢様」
じいやは深々とおじぎして、ドアを閉めたのだと思う。
その後で、微かにドンッと聞こえた。
(ごめんなさいね、じいや……)
ドアの向こうでじいやはドアに額を預けるようにして、声を殺して泣いているの。
『私は神を呪う。お嬢様が一体、どれほどの罪を犯したと仰るのか。
何故、お嬢様にこれほどまでに過酷な運命を与えるのか』
聞いてしまったことがある。
じいやは毎晩こうして、わたくしに代わって嘆いているの。
天を呪ってる。
(息が苦しいわ……)
それに、なんだか熱っぽい。
まぶたがひどく重く感じて……目を閉じたら閉じたで、どくどくと自分の心臓が脈打っていることを意識してしまう。
忌々しい呪いは、わたくしを解放などしていないって言われてるように感じてしまった。
「神様、こんなのあんまりよ」
望むことも、願うこともわたくしに許してくださらないだなんて。
わたくしはたくさんの幸せをもらっている。
お父様やお母様、優しいじいや。
だから、返したい。
お父様やお母様が与えてくれて、じいやが願ってくれている……わたくしの未来を望むだけなのに。
わたくしに関わる人達はみんな笑っていて欲しいから。
なのに、現実は逆。
わたくしは関わる全ての人達の心に影を落としてしまう。
ここにいるだけで誰かを苦しめる。
――わたくしは茨の姫。
この身体を蝕む茨の魔法は、わたくしを絡め取って離さないばかりか、わたくしに寄り添おうとしてくれる優しい人達を傷つける。
こんな気分で眠りに就いたら、きっと悪い夢にうなされてしまいそう。
そんな風に思ってわたくしは目を開けたけれど、閉じていてもそう変わらない。
明かりの消えた部屋は、唯一、月明かりだけが……。
「ああ、美しい」
その声は、久しぶりにこぼれた涙が頬に筋を作った……ちょうどのタイミングだった。
「――あの月ですよ。あなたもそう思われるでしょう? お嬢さん」
「ええ、そう……ですね」
思わず答えてしまったのは、顔の横から聞こえてきたその声があんまり自然で……。
スッとわたくしの心に滑り込む、悪魔のようなタイミングで投げかけられたものだったからかもしれない。
「今宵の満月は格別だ。雄弁、とすら言ってよいでしょうね」
多分、うさぎさんかしら?
お耳の垂れた……燕尾服? 姿のうさぎさんは、窓を遮るようにちょこんと枕元に座っていた。
いつの間にか、魔法みたいに。
「ツンと落ち着き払っているようでその実、幼子のように目まぐるしく表情を変えている。
その表情の雄弁さに気付いてしまったら、もう目を逸らせない。
いつまででも眺めていられますよ。あなたが毎夜、そうしていらっしゃるように」
「……わたくし、おかしくなってしまったのかしら」
「あるいはそうかもしれません」
クスッと、うさぎさんは笑って肩をすくめる。
「古来より月の魔性は見る者の心を狂わせる……などとも申します。
あなたの元に参じた私めは、月に遣わされた魔物なのかも」
「だから、うさぎさんなのね」
「ご慧眼です。ですから……ほら、ご覧なさいお嬢さん。月から私の形の影が欠け落ちておりますよ」
「くすくす♪ ウソばかり」
うさぎさんは鼻を鳴らして、喝采に応える役者さんみたいに気障なポーズをとる。
なんだか物語の一部を切り出したみたいな時間。
「わたくし、物語は好きなんです」
笑ったことで、心の強張りがほぐれたのを感じた。
あるいは魅入られて。
「物語に触れるたびにこんな想像をするんです。
何か素敵な出来事が、風のようにひゅうっとわたくしを攫っていって……」
「鏡の国へ? ご招待しましょうか、アリス」
事もなげな声。
心が一瞬だけ怯んだのを感じた。
「ああ、ダメね。それはわたくしの願いではありません」
もしかしたら、わたくしは口をついたこの言葉をいつか後悔することになるのかも。
そのことを意識しながら、わたくしは続けた。
「わたくしは兎月白雪。他の誰かになりたいわけではないんです」
「ふふ、あなたは誇り高い女性だ」
うさぎさんは今度も気取った仕草で肩をすくめる。
「わたくしの答えはあなたを失望させてしまったのかしら。ええと……」
「さて。結局のところ、私は何者なのでしょうね?」
名乗ってはくださらないみたい。
きっと、この方は意地悪なうさぎさんなのね。
「そうですね。あなたはわたくしの心が見せる幻覚か……。
いいえ、あなたは死神でわたくしを迎えに来たのかも」
「ご冗談を。あなたの傍らに居座っていた死神は、とうに追い払われたのでは?」
しれっと、うさぎさんはそう口にした。
わたくしの弱さをえぐる、ナイフのような鋭い言葉。
「天寿を全うするのは、さて……齢80を超える頃か、遥かその先か。
大切に慈しむ限り、そのお身体が早々にあなたを裏切ることはないでしょう」
「怖い方」
心を覗き込んだように、わたくしの『全部』をご存知だなんて。
「なら、きっとあなたはこう言うんです。
願いを言え。然るべき対価と引き換えに貴様の願いを叶えてやろう」
「正解……と申し上げたらあなたは何を望みますか?」
「そうね、あの月までエスコートしていただこうかしら」
それは、吸い寄せられるように……引き出されるように口をついた願い。
もしかしたら、少しやり返したくなったから?
「お安いご用です。では、お手を拝借」
え? と、わたくしは口にしたつもり。
代わり聞こえたのは、ひゅうっと風を切る鋭い音。