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近所のスーパーで必要なものを調達して、お金はちゃんと置いてきた。
その後は家に戻って料理を開始。
過信があったのかホットケーキにはだいぶ手こずったけど、いいの。
誰かが見てるわけじゃない。
不手際を叱られるわけでもない。
「もしかして根比べか何かのつもりでいるの?」
ちょっと焦げたけど、多分、これくらいの方がおいしいのよね。
知らないけど。
豪快に三段重ねて、メイプルシロップをうんとかけて……。
「だったら認めるわ。あなたちょっとしたものよ。
はいゲームはおしまい。おしまいよ? もう無視しないで」
初めてのホットケーキが完成した頃、根負けしたような声が再び耳元で上がった。
「いただきます」
一応、手はあわせた。
「……うん、なかなかいい出来だわ」
ふかふかしてる。
「終わりって言ってるでしょ! あ、それ甘くていい匂い。ワタシにもちょうだい」
とすっとテーブルが小さな体重を受け止める。
出たり引っ込んだり忙しいその生き物を、久しぶりに正面から見た。
もしかしたら初めてかも。
なんて品種の猫かしら? どこかしら上品な雰囲気があるわ。。
すりすり甘えられたので、私は切り分けたホットケーキをお皿の脇に寄せてあげる。
「にゃーん♪ かふかふかふかふ」
尻尾が機嫌よさそうに揺れている。
ホットケーキの味を態度で肯定されたことを、ほんの少し喜んでいるのを自覚した。
「おいしいわ! そして、あなたの負けよ。今のでわかっちゃったもの。あなたに私はちゃんと見えてて声も届いてるようね」
そこまで疑っていたみたい。
もうちょっと愛想よくしてあげた方がよかったのかもしれないけど、他者との関わりはよくわからないし。
この子を未だに理解できていない。
実のところ、私は推理を働かせようとすらしていない。
「聞いてる? 天寅はいっぱい食わされたのよ。私の勝ちってことでこの結果はもはや揺るがないの。
さあ、わかったらいい加減にして。とっとと目覚めるのよ」
ああ、言われてしまった。
そうだろうとは思っていたけれど。
世界は停止なんかしていない。
(やっぱり、これは夢なのね……)
長い長い、冗談みたいな夢。
私は孤独な夢の中で、こうして刹那の自由を許されているってだけ。
「つまらないの」
心のどこかでは常にその可能性を予想していたのに。
劇中劇のように、私はこの停止した世界を夢見てるだけなのだと突きつけられたら、途端に全てが色あせてしまった。
現実の世界において父の顔にひまわりの落書きはなく、あの厳しい顔で周りの大人達を怒鳴り散らしていて……。
私の世界は閉じたまま。
「やっと心が私を向いたわね。正解よ、これは私が見せてあげている夢。
何故って? あなたがそう望んだからよ」
ああ、そうだった。
(夢を見るのは二度目だったわね……)
笑ってるみたいな口元が印象的なこの猫は、いつかも私の夢に現れたわ。
……私を哀れんだ。
「たいして面白くもなかったでしょ? 一人ぼっちの世界なんて。
あれこれ試してたみたいだけど、あなたの心……ちっとも『動いて』なかった」
お皿のメイプルシロップを舐めながら、猫が言う。
「そうね。経験してみたかっただけ」
私の中にある可能性を試そうとしていたの。
(私はどこまでも私だったけど……)
嘆息して、私は猫の背中に手を伸ばす。
「ぞんざいね。それがレディの扱い? 触りたいならそれなりの洗練された所作でお願いしたいわ」
そう言われても猫に触るのなんて初めてで、加減がわからない。
(ぐにゃぐにゃしてるわ……)
骨がないみたい。
「そう、ンー……ンフッ! ごろごろ。そうよ、そうやって素直に言うことを聞けばいいの」
尻尾が立ってるから気持ちいいみたい。
ただの猫だわ。
「これが夢なら、あなたは私の妄想の産物なのかしら?」
「どうかしら。そう思う?」
質問を装いながら、言外に猫は私の問いを否定する。
「違うの? ここにいる私が目覚めることを望んだら、次はあのベッドの中で……」
ここで起きたことの全部を忘れてしまう?
「そうなるのは嫌なのね。だから、これが夢だと受け止めた途端にちょっぴり怖がってる。
つまらない夢の方がまだマシって思うくらいには、あなた現実に参ってるのよ」
参っている――
この猫が私の妄想の産物なのだとしたら、投げかけられたこの言葉は。
「自覚もあるでしょ? たとえばあなたが目覚めたあの朝……私、えーって声が出ちゃったの。
あのおじさんの寝顔にイタズラした後、あなた部屋に戻ってぐーすか寝ちゃうんだもの」
「一度、やってみたかったの」
「昼寝?」
「いいえ、朝寝坊」
「何もかもが止まった町をジョギングして回ってたのは?」
「それは、町の異変を確認……」
言いかけて思い留まる。
閉じたまぶたの裏にあの光景を蘇らせる。
「いいえ。朝の町が綺麗だったから」
私はわくわくしていたの。
その感情が少しずつ、次第に萎んでしまっただけで。
「たったそれだけのことを認めるのに、いちいち躊躇うのか理解できないわ。
あなたはロボットでいたいの?
それとも、そうでなきゃいけないって自己暗示でもかけてるの?」
難しいことを聞かれたわ。
「……色々、試してはみたのよね? 朝日を見上げたり……漫画読んだり、散歩したり」
ホットケーキを作ったり。
「でも、一向に満たされないんでしょ?」
全て事実。
それで? 満たされないことに私は不満を感じていたかしら。
それとも、ホッとしたの?
「焦れるわ。あなたの中に願いが生まれない限り、私達はこうして半端に繋がったままなのよ。
いつまでも二人でこの退屈な夢の中」
結局、この猫は何なのかしら。
疑問には思いながらも、相変わらず私の心はその答えを欲しがっていない。
曖昧に、漠然と、時計の針を進めたくないってだけの気持ち。
(私ってこんな人間だったのね……)
意外と弱い?
いえ、私はずっと弱いかも。
「またその顔? はぁ……うだうだぐちぐち……同じところに立ち止まって。
自分の尻尾を追いかけ回しているバカな犬の方が、まだしも見ていて面白いくらいよ。
ため息が出ちゃう。あなたって本当にブスだわ」
「そうかしら」
「自覚があるから怒りもしないんでしょう?
自業自得……むしろ、自業自縛よ。素材は悪くないのに自分で台無しにしちゃってる。
そんな辛気臭い不機嫌面で、私は世界一不幸な女よって周りの人間にアピールして回ってたら、誰だってあなたと距離をとるわ。
こんなアホなことを『願う』必要なんてなかった」
まくしたてるような猫の声と重なって、もうひとつ……聞こえる気がした。
誰かの声。
『心がないみたいじゃない。薄気味悪い……』
母の声。
あの時も傷ついたりはしなかった。
(そんな私の態度は、きっとかえってあなたを傷つけたのね……)
そんなつもりではなかったの。
あなたが私に何を求めているかを教えてくれたら、きっと私は上手く……。
いいえ。
少なくとも私は『それだけは』できなかった。
「ね? こんな魔法、わざわざ私に使わせる意味はなかったのよ。
あなたは元々どこにもいないし、誰もあなたなんか見てないんだもの」
そうね。
思い上がりだったのかも。
「ああ。もしかして……みっつの願い、みたいなこと?」
荒唐無稽な話だけど、そんな考えが閃いたことでなんとなくこの不思議な現象が腑に落ちた。
だってこの猫、こんなに私を見透かしているんだもの。
「私を満足させて報酬に命を奪うとかそういう。ふふ、物語の主人公にでもなった気分。
でも、選んだ相手が悪かったわ」
「どうしてよ?」
「私を満足させなきゃいけないんじゃないの?」
あくまでイメージだけど。
「手を焼くと思うわよ? そういうの、私ちっともわからないの。
私が私である限り……そうね、私をリセットしない限り幸せの絶頂なんて訪れたりしないんだわ」
「リセット、ね」
ちりん、と鈴が鳴る。
「じゃあ聞くけど、どう変わりたい? どんなあなたになりたいの?」
私をまっすぐ見上げて、猫が言う。
「どんなあなたになりたいの?」
この止まった世界で、ずっと私が私に問いかけてきたこと。
「わからない」
気付かないままの方が幸せだったかもしれないこと。
私は厳しい家に縛られている、哀れな被害者なんかではないという……ただの事実。
そう、なかったの。
(なりたい私すら見つけられない。わからないんだもの……)
だから、わたしはつまらなくて当然。
家に望まれるように生きて、言われた男とおそらく結婚して。
『笑わない子……』
そうね。あなたの言う通り、笑わないまま死んでいく。
「そういう卑下も自己嫌悪も必要ないの。漠然とでも曖昧にでも、そんな自分は嫌って思うんでしょ?
それはそれで意志よ。あなたは少し踏み出したの。
安心なさい。誰だって初めて前に進む時はヨチヨチ歩きよ」
また、見透かしたようなこと。
「段階的に取り組んでいきましょ? あなたの可能性を示すのよ。
たとえあなたの心が置いてけぼりになっていても、世界がそれを許さない。
まずは実感ってやつを与えてあげるわ」
「何を言いたいのかわからない」
「私があなたを導いてあげるってことよ。ぶすったれた灰被りのお姫様」
……光?
この目が眩むほどの強い光は、いつかも夢の中で見た。
「私が見込んだあなたを、私が責任を持ってプロデュースするのよ? 失敗なんてありえない。
見てなさい。あなたがツンと澄ました顔して生意気に風を切って歩くだけで、どんな男だってあなたの虜になるわ」
「モテたいなんて言った覚えはないのだけれど」
「バカね、いい女は勝手にモテるの。そんなこともわからないからあなたはブスなのよ」
「私、あなたのことが好きではないのかも」
「正論が胸に刺さるのね? ン、ンー、わかる、わかるわよ」
テーブルを蹴った猫が私の肩に乗って、絡みつくようにふさふさの感触を伝えてくる。
「いいから黙って言うこと聞いて」
「そそのかすならもうちょっとその気にさせてくれないと」
悪魔だとしたら三流の手口だわ。
「そそのかすだなんて失礼ね。あなたは自分で選ぶのよ。
まずは、輝き方を教えてあげる。
あなたが何かを願うのはその後ってこと」
溶けるように猫がその輪郭を失っていく。
(ああ、そういうこと……)
この眩い光は、この猫そのものなんだわ。
「ただし、これは私による導きなんだから指示には絶対服従よ? 約束して」
「私は何をさせらせるのかしら」
「何度言わせる気? 私は都合のいいロボットを探していたわけではないの。
させられるのではなくて、あなたは進んで私に従うことになるって言ってるでしょ。
予言よ、予言。あなたはきっと夢中になる。
私にも、私があげる世界にも。生まれ変わったあなた自身にも」
「あなたの身体、もっと冷たいのかと思った」
包まれていることを自覚しながら、私はそんな軽口を叩いていた。
こんなの全然、私っぽくない。
「あなたって赤ん坊みたいね。知らないことばかりで……
きっと、これから何を見聞きしてもバカみたいに目を丸くして驚くんだわ。
今回の『仕事』は長引くでしょうけど、退屈はしなさそうね」
「赤ん坊? そこまでは言い過ぎだと思うのだけど」
「あら、生意気。あなたごときがあなたの何を知ってるって言うのかしら」
そう言われたら自信はない。
それに、少しだけ……。
『手間をかけさせてくれたわね。やっと繋がったわ』
声は私の内側から。
鏡に映った私の格好に気付いて、我慢できずに吹き出してしまった。
「何よこれ……」
可笑しいわ、とても。
『さあ、舞踏会に招待するわ。行きましょう? シンデレラ』
「どこに?」
『あなたは黙って私に従えばいいの』
結局、この猫は何で私はどうなるというのかしら?
(でも、行くのね……)
だって足が踏み出していた。
私は向かうの。
甘ったるいこの夢から覚めて、きっと夢よりもずっと現実離れした……。
いつか遠い昔、少女の頃に夢見たような世界へ。
完