1
それはきっと、私の一番古い記憶。
……あるいは心の一番奥深いところに刻まれた傷。
『笑わない子ね』
鼻息混じりのつまらなそうな声。
これを言ったのは誰……。
いいえ、お母さんね。
顔も忘れてしまったくらい、遠い遠い昔に家族の元を去ってしまったあの人の声。
心に打ち込まれた楔。
その言葉は……もしかしたら、あの人への当てつけだったのかも。
『構わないだろう。あれはあのままでいい』
笑わないその人への。
『お父様に似て聡明なお嬢様だ』
今度は別の場所。
別の影法師。
作り笑いでそれを言ったのは、多分、父の腰巾着みたいな人。
その人……私の父はそれくらいの格の人間だから。
二谷正福。
国家の要職を代々担ってきた政治家一家に生まれ、自身も当選七回目? だったかの衆院議員。
それ以外の何も持っていない人。
国務に尽くすことだけが自らの人生における正道だと受け入れている人。
父は重要なポストを歴任しているし、今後ますます国政の中核に近づいていくのだろう。
私は二谷天寅。
二谷正福の一人娘。
それだけが私の全て。
家の格に恥じない立派な存在であることだけを求められ、応え続けてきた。
レッテルを貼られ。
『天寅はよくやっている』
認められて。
いつの間にか私という人間は完成していた。
誰からも求められる自分として。
正しい振る舞いがどういうものかは、既にこの身に染みている。
だから、道を踏み外すことなく歩んでいける。
歩む他にない。
延々続く一本道を。
これからも。
どこまでも。
「ン、ンー。こんなところね? 覚悟はしていたけど……予想を越えてつまらなかったわ」
これは?
誰の声だったかしら。
「何度もあなたの記憶のページをめくる手が止まりかけたわ。私の時間を返して、って言いたいくらい」
聞き覚えのない……その声は、驚くほど近い。
誰にも許したことのない、吐息が頬にかかるほどの距離。
「いじらしいのね。そうやって作り物の人形みたいなふりをして」
(作り物……)
揶揄するような声に対しても、私の心はぴくりとも動かない。
怒りも、苛立ちもそこにはない。
ああそうね、そうなのかもって思っただけ。
「いいわ、願いなさい」
筆みたいな……。
ふさっとしたくすぐったい感触が私の頬を撫でた。
(変なの……)
夢なのに。
(……願う? どうして?)
疑問は心に思うだけでよかった。
私の耳元……私の傍らにあり続けたその存在が、苦笑のニュアンスを伝えてくる。
「どうして? そう聞いたのね、あなた。どこまで自分が見えていないのかしら」
扉が開くみたいにして、私の視界が真っ白に染まる。
太陽に飲み込まれたとすら錯覚した。
「そんなの、あなたが救いを求めてるからに決まってるでしょ」
そして、光が晴れた時。
……私の世界。
ちっぽけな閉じた世界は変貌を遂げていた。
私の心を映し出したみたいに。
2
朝の……5時とか? 多分、それくらい。
今日もほぼ決まった時間に太陽は顔を出して、町を明るく染め上げようとしていた。
綺麗、なのだと思う。
頭ではそのことがわかる。
私の心は感動で揺らいだりはしなかったけれど。
(でも、多分……私はこの眺めを気に入ったのよね……)
昨日も今日もこうして私は日が昇る前にマンションを出て、空を見上げているのだから。
1日が切り替わる。
私だけの世界が朝の色に染まろうとしている。
柔らかな光が映し出した……この光景をどう表現すればいいのか、私の語彙では限界がある。
世界の終わり?
今、こうして始まったのに?
私はふぅっと息をついて、すっかり視界が晴れた周囲を見回す。
まず、目に留まったのは毛並みのいい子犬。
今にも「ワンワン!」と飛びかかってきそうな、前足を浮かせたポーズで固まっている。
傍らに立っている、リードを引いたご婦人も。
電線でさえずる小鳥達も。
今日も変わらず世界が動きを止めていることを、こうして確認して……。
『私は特に何も思わなかった、かしら。どうかしてるわよ? あなた』
どうかしてるのはわかってる。
私も、この世界も、絶えず私にくっついて離れないこの声も。
全部が全部、狂ってる。
『捨て鉢になってるの? そうやってあなたが心を閉じてる限り……あ、ちょっと』
私は走り出す。
って言ってもただのジョギング。何かが私の背中を押したわけじゃない。
(一番、どうかしてるのは私よね……)
高級住宅街の気取った町並み。行儀よく並んで信号待ちをしている車。
「あんなところにペットショップなんてあったのね」
私はこの町で生まれ育ったのに。
今、初めて景色が目に飛び込んできたような気持ちがしてるなんて。
朝のジョギングを終えてシャワーで汗を流すと、身体の中に溜まっていた悪いものを一緒に洗い流せたような気分になった。
爽快ってこういう感覚かも。
「ふう、疲れた」
髪をタオルで拭きながら部屋に戻った私は、すぐには何も思いつかなかったからベッドに座った。
さっそく、時間を見持て余してる。
ベッドのほぼ正面に位置する窓の向こうには、躍動的に翼をはためかせたポーズのまま硬直しているカラスの姿。
「あのカラスも間が悪かったわね。もう70時間くらいあのままかしら」
多分、それくらいのはず。
このベッドで目覚めて、世界が動きを止めていることに気付いたのは三日前だったもの。
違うと言われたら「覚え違いかしら」で済ませるでしょうけど。
(多分、どうでもいいのよね……)
ずっと私はどうでもいい。
多分、私が私になった時からずっとずっと。
「……とも言っていられないわ。さて、今日は何をしようかしら」
言葉にしたのは、受け身な自分に逆らってみたかったから。
昨日と同じ。
一昨日とも同じ。
「そうだわ、ホットケーキ。三段くらい重ねて……あれ食べてみたかったのよね」
私以外の誰も動いていないこの状況では、お店で食べることはできないのが残念だけど、料理くらいはできる。
今までその機会がなかっただけ。
「さっきスーパーを見かけたわね。あそこに……」
私、すごい喋るわ。
普段はロクに口も開かないのに、一人になった途端これだもの。
(さすがに周りに音がないと寂しいのかしら……)
「寂しい? 私が」
いくらなんでも気付いてる。
……この静寂の世界を望んだのは私自身なのに。
「ふふっ」
あ、笑った。
笑ったわ。
吹き出したのをきっかけに……あるいは呼び水に、私はこの世界で初めて目覚めたあの朝のことを思い出す。
しばらくベッドでぼんやりしてから、ふと、そうだわって思い立って。
父の寝室で、彫刻で掘り出したような厳しい父の寝顔を見下ろした……あの時みたいな気分かも。
顔に落書きしてやったの。
不毛よね。
バカみたいだわ。
(父を恨んでなんかいない……)
ただ、ほんのちょっと乱してみたかっただけなのかも。
これまで続いてきた。
これからも続いていくものを。
「まさか、こんな風にこじれるとは思わなかったわ。人間ってつくづく愚かね……」
ふっと肩に微かな重みが生まれて、大きな筆みたいな感触がふさふさと頬に触れる。
それは尻尾。
私は周りを見回さない。
「ちょっと! いつまでそうやってこの私を無視し続けるつもりなの」
聞き流す。
「もう飽きちゃったの。だって、信じられる?
もう三日三晩よ。すぐに泣きを入れると思ったの。
許してにゃも様! 私はこんな世界を望んでない。元の世界に戻して……ってね。
それが普通よね。あなた、本当にどうかしてると……」
うん。
ホットケーキを焼きましょう!
「ちょっとぉ!」