3章
1
全身隅々までSFチックなマシン? で調べてもらったり、他にもあれこれ。
先生を変え、場所を変えって感じで検査を受けまくりでした。
さすがにこう続くと、じっとしてるだけでも疲れました。
身体も、心も。
検査が終わって待合室でぼーっとしてたのが、どれくらいの時間だったかもよくわからないくらい。
いえ、頭の芯がぼやけてるのはきっともっと前……。
声が出ないとわかってから今まで、ずっとこんな感じかもしれません。
薬品の匂い、白い部屋。
全部が現実じゃないみたい。
ありすがここにいることが、まだ信じられないし……受け入れられてもいません。
何かの間違いみたいに感じちゃってます。
「……むーん」
白衣の背中をありすに向けてうなっていた(カルテを見ていた?)女医さんが、丸椅子を鳴らしてこちらを向きます。
「平気、平気。大丈夫だからそんなに身構えないでね~~」
さすがに、がくってなりました。
このお綺麗な先生はなんだかの治療法を見出したとか、なんだかの画期的なアレをそれしたみたいなので、その道(どの道かは不明)では権威と呼ばれる方と聞いたんですが。
この病院も都心の一等地にズンと構えてる、「どうもお金持ちです」って感じのゴージャスな建物ですし。
なのに、先生のノリはなんだかほんわかすぎて。
「少なくとも、ありすちゃんの身体におかしなところはないよ。健康そのもの」
(ありすちゃん、て……)
長年のお友達みたいに接してこられて、逆にちょっと身構えちゃいます。
「だから、これは……」
ちょっと言いにくそうに、美人の女医さんは眉を曇らせました。
「心因性のものだろうね。心の問題ってこと」
できれば違う原因を聞きたかったのですが。
心のどこかでは、すでに先生が仰るような原因を想像しちゃってたのかもしれません。
あまり驚きませんでしたから。
(事務所は大騒ぎかもですが……)
今朝「声が出ません」って事務所に連絡した時の反応を思い出すと、申し訳ない気持ちになります。
ししょーはいませんでしたが、スタッフさんはみんなすごく心配してくれましたし。
一見さんお断りみたいなこの病院の、とんでもなくご立派なこの先生の診察を受けられるようにしてくれました。
多分、ししょーのかかりつけとかなんでしょうか?
「そうそうあることじゃないもん。落ち込んじゃうよね~」
「はえ? あっ」
気付いたら、先生の大きなお胸が顔のすぐ前にありました。
たぷんたぷんです。
「よしよし~」
思わずゴクリと見入ってしまった隙に頭をなでなでされました。
過去に大病を患った時はあちこちの病院をたらい回しにされたりもしてますし、ありすはこれでも病院に関してはプロなのですが、こんな扱いを受けたのは初めてです。
というか、普通にないですよねこんなの? 友達じゃないんですから。
「元気出して。ありすちゃんは笑顔がトレードマークでしょ」
「あっ、カハ……!」
ありがとうございますってとっさに言いかけて、やっぱり咳き込んでしまいます。
喉に石でも詰まってるみたいです。
「どういたしまして~」
伝わりました。
「ありすちゃんが症状を自覚したのは今朝だよね? まだちょっとしか経ってないし……
経過を見てみないとなんも言えないところだけど」
ひらめいて、ありすはスマホを取り出します。
『経過とは?』
スマホのメモ帳に打ち込んで見せてみました。
「焦ってる? 一刻も早く治したい? そういう焦りがかえって喉の負担になってるかもしれないよ」
声は出ませんでしたが、うって顔はしちゃったかも。
「当面はゆっくりしようね。それに勝る治療法はないと思うよ~」
(……でも)
口がそう動きそうになりました。
今度もきっと、先生はありすの顔色で言いたいことを察したのでしょう。
「休憩だよ。ほんのひと休み」
優しく笑いかけてくれましたから。
「鬱は心の風邪なんて言うけどね。人は誰でも最高のペースでずーっと走り続けられるものじゃないんだよ。
ありすちゃんはちょっと無謀に頑張りすぎて……
もう一人のありすちゃんとケンカしちゃったんじゃないかな~」
(もう一人の、ありす……)
「そんなペースじゃついていけないよ、ってね」
たとえ話なのはわかってますが、なんでしょう? ズキッときました。
鏡に映ったようなありすの顔。
悲しそうな……気遣うような顔が、不意に浮かんできたんです。
「目標に向かって一直線! って姿勢は、ありすちゃんらしいのかな~とも思うけどね」
先生は一体、ありすの何をご存知なのでしょうか?
まさか、ありすの熱心なファンなんでしょうか。さっきもありすをよくご存知みたいなことを言ってましたし。
「何かに向かって走ってる時は視野が狭くなっちゃうものだよ。
一度、上手くいかないだけで何もかもおしまい……みたいに思い詰めちゃったりね。
それはありすちゃんに限らない、誰にでもあることなの」
でもね? って先生は続ける。
「平気だよ。世界はそこまで、疲れてる人や困ってる人に冷たくないから。
ありすちゃんを応援してるたくさんの人は、
疲れて足を止めちゃったありすちゃんを責めたりしない」
なんでしょう? この違和感。
先生はとっても優しくて、ありすを励ますための言葉をくれているのに。
「風邪にたとえたよね? 心も治るの。今は不安かもしれないけど……ありすちゃんはまたきっと、走り出せるから」
そうじゃないんじゃないかな? って、心が先生の言葉に逆らってる。
受け入れようとしてない。
「まずは、もう一人のありすちゃんと仲直りだね~」
もし、もう一人のありすが心の中にいるなら。
ありすを見ているなら……。
(ありすの心が疲れちゃっただけ……?)
なんとなくですけど、そうのではないかもって気がしていました。
ケンカなんかじゃなくて。
(ストライキ……)
二人三脚みたいに走ってきたもう一人のありすから「あんたとはもうやってられませんわ」って三行半を突きつけられたような。
些細な、でも、大きなニュアンスの違い。
これは、ありすの中で渦を巻いてるこの感情はもしかしたら……。
(罪悪感……?)
不思議としっくりきます。
だとしたら、その罪の意識は誰を向いたものなのでしょうか?
ししょーや事務所のみんな?
お父さんやお母さん?
個人活動してた頃から応援してくれてる、ファンの皆さん?
それとも……。
「また、暗い顔してる~」
先生はクスッと笑うと、ありすのトレードマークのサイドテールをつまんでぴこぴこし始めました。
ふざけすぎです。
「笑顔、笑顔。ありすちゃんは笑ってる顔が一番……あ、ごめんなさい。
さすがにこういう言い方は今のシーンにふさわしくないね~」
もう別に大丈夫です、っていうのが本音でした。
気が抜けてしまったというか。
「とにかくお医者さん命令だよ。当面は静養ね? ゆっくり自分を見つめ直してみて」
また、頭をくしゃっと撫でられました。
「診察は以上。次に会う時は元気な顔を見せてくれると嬉しいな」
相槌を打ちかけて……ありすは、より誠実に伝わるようにスマホを取り出しました。
『病院は元気な時に来る場所ではないはずです。すぐ治る予定なのでご心配なく』
メモ帳に書いて見せます。
「……ぷっ、ありすちゃんはいけずだよ~」
ウケました。
「治ったら治ったでお茶でも飲みに来ればいいでしょ? ウチの犬のおなかを触りに来るとかでも……」
この人は何を言ってるんでしょうか。
「最近、もふもふに磨きがかかってきたんだよ~」
知りません。
「お疲れ様でした。美城さん、お声がけしますのでしばらくロビーでお待ちください」
横でずーっと難しい顔をしていた白衣の女医さんが、ちょっと尖った声をかけてきました。
多分、「はよ帰れ」ってことです。
さすがに濡れ衣では? ありすは悪くないような。
『ありがとうございました』
スマホにそう打ち込んで、先生にお見せします。
「またね~」
(次なんかないって言ったでしょうに……)
それをスマホで伝えることは、どうしても、なんとなく、躊躇われてしまいました。
-Interlude-
「……心配だね~」
患者が診察室を出ていった後、権威、『現代のBJ(美人すぎる女医の略)』などと称される女医は嘆息する。
「いえ、あの、先生……学会が。お時間的にもう限界ですよ」
「それはわかってるけど~」
すでに声が眠そうだ。
それもそのはずで、多忙な彼女にとって本来この時間は貴重なお昼寝タイムなのだ。
ありすを診察するため無理に捻出した時間と言ってもいい。
「……事務所の社長さんと付き合いがあるんでしたっけ? 断り辛いご事情もあるとは思いますけど」
「しがらみとかそういうのじゃないよ。わたしがそうしたかっただけ」
「……まさか、本当にファンとか言い出すんじゃないでしょうね。
先生は音楽どころかテレビもロクに見ないのに」
「そうなんだけどさ」
忠実な助手の忠誠心からくるトゲトゲした態度をやり過ごすように、女医は微笑む。
「思い詰めちゃう子なんだよ」
「はい?」
「助けてあげたい……ううん、助けなきゃって思ったから」
2
1日、また1日と――
何もしていない、ただ流れるだけの時間を過ごすのは、苦痛で堪りません。
堪りませんでした。
少なくとも最初のうちは。
ここ最近はそういうことすら感じられないくらい、心が鈍ってるのを感じます。
目覚ましをセットしない朝。
配達で届いた味のしないごはんを、もそもそと食べるだけの午後。
世界に存在していないのも同然の日々でした。
声が出ないっていうのはそれだけの制限だったんです。
あるいは、自分への言い訳になってしまっていたのかも。
朝、目覚めてから「あーあー」と声を出そうとして、出ないのを確認したらそれで終わりです。
できることがないんですから。
こんな風に燻りながら、前向きになんかなれるはずがありません。
自宅での静養を命じられてから今日まで、家で何をしていたか説明するのは難しいです。
それくらい、何もありませんでした。
日記も書くことがなくて、4日目くらいでつけるのをやめちゃいましたし。
インターネットだけはどうしても、我慢できなくて見ちゃいますが。
ありすの無期限休養がニュースになった時、その瞬間だけはあれこれネットでも話題になってましたけど。
萎むのはあっという間でした。
どこから湧いて出た誰ですか? って感じにゴリ押しでデビューしたありすは、あっという間に過去の人になりました。
元々そこにいなかったみたいに。
今日までの日々はなんだったんだろう?
そんな風に思うこともあります。
夢見ていた場所にたどり着いて、ここから何かが始まるって期待に胸を膨らませていた頃のありすを、別の人みたいに感じます。
いっそ全部をなかったことにしたいって、自暴自棄な考えすら浮かんできます。
(だって、何も残せなかった……)
どうしてなのか理由を突き詰めたら、ありすのせいに決まってます。
他の何のせいにもできない。
ありすが力を出せなかったから。
ありすが弱いから。
――ありすがもっと頑張れなかったから。
『もう、やめにしたい?』
どこからの声でしょうか?
答えられない。
答えたら認めてしまう。
『なら、帰ろうか?』
帰る?
……帰るって、どこに。
3
プアーッ!
残響みたいな車のクラクションに、口がほとんど反射で「すいません」って動いてました。
「えほっ」
声は出ませんでしたけど。
ついでに言うと、今のクラクションはありすに向けられたものではありません。
もっとどこか遠く……下の方から?
下とは?
(ああ、そっか)
ふと思い立って……久しぶりに着替えて、マスクをつけて。
あのマンションの部屋を出た記憶が浮かんできました。
ひどく曖昧で、他人のものみたいな記憶で。
帰ろうって、そう思い立った気がする。
(でも、ここは……)
埼玉が誇る大きな町の、大きな駅です。
ありすが立ってるここは、駅から出てすぐの人が忙しなく行き来している駅から連結している立体的な通路です。
向かった先にはデパートとかファッションビルとかが並んでます。
この辺りはありすの地元ではないですけど(ありすの地元はもっと東京から離れてます)、馴染みはあります。
個人活動をしていた頃は、まさにこの通路で路上ライブをやったこともありますしね。
そう、今もギター弾いてる人がいる、あの植え込みの前。
町並みがありすの記憶と合致したことで、最低限のことだけはわかりました。
なんとも中途半端な途中下車です。
ありすの家はもっとずっと先の、群馬に程近いところなので。
(自分で降りたんだよね……)
改札を抜けた記憶もちゃんとあるのですが、やっぱりどこか曖昧です。
今、この場所から何をしようとしているのかすらわからないくらい。
実家に帰るわけにはいかない、親に心配させるのはやだなって思いがあります。
意識するほどに強くなります。
ありすを途中下車に踏み切らせたのは、今ここで意識したこの気持ちなのでしょう。
(なら、帰る?)
帰るってどこに……。
客待ちタクシーのケンカでしょうか? プァーン! って、また遠くでクラクションが鳴ってます。
……耳に障るどころか頭がガンガンします。
(とにかく、どこかで座りたい……)
頭の中を整理する時間も欲しいので。
そうは言ってもアイドルなので、あまり目立ちたくはありません。
(ベンチとか……)
「危ないっ!!」
ぐいっと力任せに腰を抱かれて、きゃってありすの心が悲鳴を上げました。
(何? え? あ……っ)
下りの階段からひゅうっと上がってきた風が、ありすの小さな身体を撫でていきます。
(ありす、どうしようとしてたんだっけ……?)
ほんのちょっと前のことなのに、はっきりしません。
意識が霞に囚われて、同じくらい瞬間的にパッと晴れたような感覚とでもいいますか。
定まらない感覚に翻弄されるようにして。
まるで、階段に向かって飛び込みでもしようとしてたみたいに、ありすの踵は地面から離れていて……。
誰かにがっちり腰を抱かれています。
「あ、す、すいません、がっちり抱き締めちゃ……って、そ、そういう意味じゃないんですよ?
あなたがふらふら歩いてるから心配……」
目と目があいます。
その瞬間、その人が息を飲んだのがわかりました。
(この人、このおにーさんは……)
ありすと同世代くらいでしょうか? とりたてて特徴のない……。
ないはずのその若い男の人も、多分、ありすと同じくらいびっくりして目を丸くしていました。
(どこかで……)
ありすはこの人を知っている?
「ありす!? ど、どうしてありすがこんなところに……」
「や……ケホッ」
やめて、ってとっさに出かけた声が喉に詰まりました。
「確か病気で休養……」
ははーん、です。
狼狽しきったその声と、ありすのことをがっちり抱き締めて離そうとしないのが強烈なヒントになりました。
(ありすのファンですね……!)
多分、どこかでやったありすのライブに来てくれてたとかでしょうか?
だとしたら年季の入ったファンです。
さっき呼び捨てでしたし。多分、距離を詰めてくるタイプの古参ファンでしょう。
「ぐほっ!?」
状況を冷静に分析できたことで、ようやく乙女として正しく振る舞えました。
つまりは、ドーンと突き飛ばしたのです。
完全におっぱい触ってましたしね。
「ご、ごめんなさい……って、あれ? なんで俺が謝ってるんだっけ?
ありすがフラフラ危なっかしい足取りで……」
(もしかして、ありすのおっぱい触ってたことに気付いてないのでは……)
このピンチが似合う感じのしょぼくれた顔、やっぱりどこかで見覚えがあるような?
「??」
向こうも不思議そうにしてますが。
ともあれ事情が事情なので、スマートフォンの機能に頼ることにします。
『あなた、ありすのファンですね?』
挙動不審のおにーさんに、スマホのメモ帳で見せました。
「…………フフッ」
笑いました。
無礼なこんちくしょうです。
「そう! その通り! 華々しいデビューを飾ったありすちゃんに夢中で、めちゃくちゃファンです」
『声が大きい!』
「すいませんでした!」
なんですかね? 急にノリが軽いです。
ありすに出会えた興奮と緊張で舞い上がっているのかも。
「握手してもらっていいですか」
なんだかちょっとわざとらしい言い草に聞こえましたが、応じてあげました。
「ありす……ありすちゃんが体調不良で一時アイドル活動を休止するって見て、ずっと心配してたんだ」
今度は声を潜めてコソコソ囁いてきました。
ちょっとやりすぎ感もありますが、従順という意味では感心なおにーさんです。
また、ありすのことを呼び捨てにしかけていましたが。
「出歩いてるんだから、思ってたよりは元気なのかな? よかった」
『元気じゃないですよ。声が出ないんですから』
「えええええーーーーーーーー!!」
『声が大きい!』
いえ、大きいは大きいのですが。
今のはありすの失態です。
どこの誰とも知らないただのファンおにーさんに、こんなシークレットな情報を教えたりして。
『シーッですからね』
こくこくとおにーさんは頷きます。
まあ、信じてあげましょう。
『ネットで言いふらしたりしないでくださいよ? ちょっとした喉の病気です』
スマホで見せるのは楽です。
口ごもったりとか、そういう雰囲気までは伝わりませんから。
「ちょっとしたって……それ、本当に大丈夫なの?」
芝居ではそうそうできない心配そうな顔です。
(そう、でしたね……)
あんまり実感がなかっただけで、ちゃんとありすの声は誰かに届いていたんです。
見られていたんです。
ファンとか、応援してくれる人に。
そんな当たり前のことと向き合うことからも心が逃げてたなんて……。
『すぐ治しますよ。ありすの伝説は始まったばかりですから』
おにーさんが笑います。
ありすも、ちょっとだけ笑いました。
「安心したよ! そ、それじゃあ……うん、これからもずっと、永遠に応援してるから」
立ち去る雰囲気を見せたおにーさんの肘を、気付いたらガッ! と掴んでました。
なんででしょう? わかりません。
「ありす? えっと……」
『まあまあ、待ってください。どうせ急ぐ用事もないんでしょう?』
「何気に失礼だよね、キミ」
呆れ顔で言われました。
このおにーさんのファン心理はどこ行っちゃいましたかね?
『こんな治安の悪いところにありすを放り出していく気ですか? ファンの風上にも置けませんね』
「ここ別に治安悪くないよね? 埼玉に殴られるよ」
『些細なことはいいんです』
気付いたら、ファンおにーさんの手を握っていました。
勘違いさせちゃうのもなんですし、普段だったら絶対こんなことしないんですけど。
『1日とはいいませんが、半日マネージャーということでお願いできますか?
可愛いありすが一人でフラフラしてると目立つので』
「……なるほど、壁役ってわけか。そういうことなら任された」
これはどういう表情なんでしょうか?
ありすがあげた宝くじもののサプライズに対し、おにーさんは泣き顔のような笑い顔のような……ふにゃふにゃした顔で頷きました。
4
そんなにパワフルなわけでもマッチョなわけでもないおにーさんに隠れるみたいにして歩き出して……。
チラチラと横顔を盗み見ながら思ってました。
どうしてだろう? って。
ケンカ空手百段(自称)のボブさんとかと比べたら、全然、頼りない普通の人なのに。
どうして、こんなに安心するんだろう。
「ところでありす。これ、どこに向かってんの?」
ちょっと、いえ、だいぶデリカシーがないのには辟易としますが。
もう完全に呼び捨てですもん。
『古い映画にこんなのがあったでしょう? 新聞記者とおてんばな王女様。フォロ・ロマーノで出会った二人は……』
途中で書くのをやめました。
だって、あの映画ってラブストーリーですよね?
「どうかした?」
うん、そういうのじゃありません。
全然、胸がドキドキ高鳴ったりとかはないですし。
ありすはアイドル。アイドルはファンのみんなに想いを捧げるものですから。
『おなか空きました』
代わりにスマホでそう命じます。
「お昼まだだったの? そっか、ならどこかで適当に……」
適当て。
向こうだって憧れのありすと一緒なのに、全然、わくわくどきどきしている雰囲気が伝わってきません。
こうやって並んで歩いてるのが当たり前みたいな、自然な歩き方です。
「俺、あんまり土地勘がないんだよね。探検してみようか?」
ウソを言ってるようには聞こえません。
なら、たいそうな偶然です。
(運命、みたいな……)
声が出たら本当にそんなことをつぶやいていたかもしれません。
ファンおにーさんを舞い上がらせちゃってたかも。
だから、内緒。
この時間はほんのちょっとした、通り雨みたいな時間に過ぎないんですから。
このおにーさんが言う『探検』はなかなかはかどりました。
この町には詳しいつもりでしたが、大きなゲームセンターの裏の路地裏にクレープ屋さんがあったのなんて初めて知りましたし。
ちょっとわくわくしました。
ありすはバナナチョコクリーム。
おにーさんはいちごクリーム。
二人で歩きながらクレープを食べてたら、修学旅行みたいな気分になりましたし。
おにーさんのクレープもちょっともらいました。
声が出ないことすら忘れかけてたくらい。
自然な、ありのままのありすでいられる時間がそこにはありました。
駅の東口を出てすぐ見えてくる大きなデパートに向かって進んで、ずーっと行ったら遊歩道に行き当たります。
あとは曲がって道なりに行けば、そのまま神社の参道に連結します。
(時々、お父さんに車で連れてきてもらったっけ……)
確かお隣の自然公園には動物園もありました。
神社でありすの健康を祈願したら、公園を散策してみるのかもいいかもです。
(動物園には確かウサギさんがいたはずです。だっこさせてもらえるかも……)
内心で計画を立てながら、ひとまずは最初の目的地の神社を目指します。
神社に続くこの参道はお正月はとんでもないことになってますが、さすがに平日の昼なのでガラガラです。
「おお、でっかい鳥居だ……」
見たままです。
クスッと笑うと、おにーさんも照れたみたいに笑いました。
『ここは家族でよく来たんですよ』
プライベート公開です。
「へー。それで、あの鳥居に登ったりしたの?」
『するわけないでしょ。バカなんですかね? あなたは』
「なんとなくイメージでさ。ありすはああいう高いところから落ちてきそうっていうか」
『どんなイメージですか』
えいって、足首を蹴っ飛ばすふり。
「今日のところはそういう罰当たりな真似はやめて、せっかくだからお参りして行こうか」
『いつだってそのつもりです』
「ありすが元気になるようにお祈りしないと」
ちくって胸が痛みました。
忘れかけてたましたけど、このおにーさんもありすのファンで……。
元気なありすがテレビに帰ってくることを待ってるんでした。
「ありす?」
なんでもないふりをして、ありすはスマホをぽちぽちやります。
『神社はあっちです』
「そりゃ、見ればわかるけど……」
いちいち、反応が平然としてるおにーさんです。
大ファンのはずでは?
『神社の後は動物園ですよ? この神社は隣に公園がくっついてるんです』
「へー。もちろん、いいぞ! どこにでも付き合ってやる」
そんな大げさなもんでもないですが。
「たまの気晴らしだろ? パーッと遊ぼうぜ」
だから、そんなでもないんですが。
よきにはからえってくらいの気持ちで、ありすは謎のおにーさんに手を握らせてあげました。
もちろん今日だけ、特別に。
だいぶご無沙汰なので、この動物園はあちこち記憶と齟齬がありました。
ありすの過去の記憶と照らし合わせるようにしながら歩いてたら、変に楽しくて――
『あっちにはクマがいるんですよ』
『今日がラッキーデーなら、ウサギさんをだっこできます』
ガイドさんにでもなったみたいに伝えてました。
付き合いのいいおにーさんは、ありすのスマホをいちいち覗き込んでは「へー」とか「ウサギ触りたい」とか返してきましたし。
楽しい時間、だったと思います。
でも、ありすの心のどこかには棘が刺さったままで。
おにーさんに笑いかけられるたびに、そこがチクッと痛みました。
「お待たせー」
ありすをベンチに座らせて売店に行ってきたおにーさんが、両手いっぱいに色々持って戻ってきます。
「焼きそばとからあげと、もつ煮と玉こんにゃく買ってきた」
『お箸はちゃんとふたつもらってきたんですか?』
「はいよ」
ありすもおなかは空いてます。
「いただきます……うん、美味い! もつ美味いぞ」
こんな自然公園のベンチで、知らない男の人と焼きそばだのからあげだのを食べて……。
「あ、こら! 玉こんにゃく全部食うなよっ」
「もぐもぐもぐ?」
「ドヤ顔すんな」
本当に、ありすじゃないみたいです。
なんでだか、思いました。
本当のありすみたいだ、って。
なんだかんだで売店グルメを夢中で堪能して、おなかいっぱいになったら、急に空の色が気になりました。
今は4時くらいでしょうか?
オレンジジュースみたいなとっぷりと濃い空の色は、ありすが謎のおにーさんと過ごした時間の長さを教えてくれます。
2~3時間は余裕で一緒にいたはずです。
「俺、ゴミ捨ててくるわ。ついでにデザートでも買ってくる? かき氷とかソフトクリームとか……」
聞き流して、ありすはコテンとベンチに寝転がってしまいます。
おにーさんの膝を枕にして。
「コロンて。まったく、お年頃の女の子がすることじゃないぞ? 無防備すぎだろ」
偉そうなことを言いながら、おにーさんが頭を撫でてきます。
思った通り、好きな感じの撫で方です。
まるで、お父さんとかお母さんにそうしてもらってるみたいな……。
「相変わらずだなぁ、ありすは」
(相変わらず……?)
ふっと浮かんできた疑問が、すぐに溶けてしまいます。
あとちょっとの間だけ、このまま……。
今日が終わらないように……。
4
ふわふわ、ゆらゆらと……。
ありすの心が漂ってる。
それはとてもとても幸せで、安らいだ時間。
夢の中で思わず目を閉じてしまいたくなるくらい。
……時間が止まってしまえばいいのに、って思うくらい。
『目覚めたくないってこと?』
ああ、この指使い。
優しい声。
(あなただったんですね……)
声にはしない。
まだ、ありすはこうやって微睡んでいたかったから。
(だって、怖いもん)
声になんかしなくても伝わってる。
ありすとこの人……。
おにーさんは夢で繋がってる。
『怖い?』
小さな子供に戻った気分です。
頭を撫でられながら……優しく労られながら、ありすはこくんと頷きます。
『外の世界が?』
今度は迷って首を振りました。
うん、きっとそうじゃない。
外の世界にはお姉ちゃんと、大好きなお父さんとお母さんがいて。
ありすに居場所と夢をくれた。
――ありすと私、二人で夢を叶えるんだよ!
そう言ってくれた。
ありすが元いた場所……夢の世界は弾けて消えてしまった。
そうなのだとしても。
ここにいる。
ありすも、お姉ちゃんも、みんなも。
だからきっと新しく繋がれる。
また出会うことだってできるんだよって、お姉ちゃんは励ましてくれた。
ありすがいつまでも寂しがり屋の弱虫だから、きっと……見かねてそう言ったのかも。
(そう、だったっけ……)
それが、お姉ちゃんとありすの約束。
ありすの本当の気持ち。
「ありすは見つけて欲しかったの」
今、初めて目が開いたような気持ち。
浮かんでくる顔がある。
大切な人も、どこかで見覚えがある人も……たくさん、たくさん。
「みんな、ありすはここにいるよって」
『あの頃と同じだ』
声がそう言いました。
(あの頃……)
ああ、そうなのかもしれない。
あの時計台。
小さな町を広く見渡せる小高い丘の上で、歌いたいって願ってた。
ありすを見失ってしまったお母さんに届けたくて。
私はありすだよ、って……叫ぶために。
「そうかもですね。ありすは何も変わってない……臆病で、寂しがり屋のありすのまま」
見つけて欲くて。
気付いて欲しくて。
何かをやっている間……頑張ってる間は、自分を肯定できるから。
たどり着けないままの答えを先延ばしにできたから。
「呆れちゃいますか?」
多分、おにーさんは笑ったんだと思う。
だから、ありすはお返しに太ももをギューッとつねってやった。
『その程度のことで呆れるわけないだろ? どれだけありすのことを見てきたと思ってるんだ』
「おにーさんですもんね」
『ああ、俺はずーっとありすのおにーさんだよ』
「だったら、どうしてすぐに会いに来てくれなかったの? ありすはずっと寂しかったのに。
ずっと歌ってたよ? ずっとずっと頑張ってた。
みんなに気付いて欲しくて……また、み、みんなと……」
『知ってるよ』
わかってくれる。
本当のありすを知っていてくれる人がいる。
見守ってくれていた。
ありすはそのこと……そんな当たり前のことにすら気付けていなかっただけで。
「…………グスッ」
『俺達みんな繋がってる。誰よりもさ? 俺がそのことを知ってるんだよ。
そのおかげで俺は助けられたんだから。
ありすがもし忘れちゃっても、俺は永遠に忘れたりしない』
助けたって、なんのことでしょう?
思い出せないことが、微かに痛い。
『約束だよ。ありすが苦しい時や困った時は、絶対に駆けつける』
「本当?」
『信じてないのか? 俺だぞ? ありすのおにーさんともあろう者が嘘なんかつくわけないだろ』
そう、でしたね。
おにーさんはお人好しだし、ありすのことが大好きですから。
『ずって見てる。離れてても応援してるよ……頑張ってるありすから目を逸らさない』
うん、ってありすは頷きます。
『俺達の町……ミッテベルの歌姫がどこまでいけるか見せてくれよ。
見せてやろう! 世界中のみんなに』
ミッテベル……。
「自然とそうなっちゃいますね。世界中の人がありすの歌を待ってるんですから」
『あはは。ありすはそうじゃないと』
ぽんって、手が軽くありすの頭を叩いた。
それは、合図。
『世界ときたか。スケールでっかいな、ありすは』
違うんです。
最初もそうで、次も……ありすはありすのために歌ってた。
寂しい心が歌になっていた。
「次も何もありませんよ。ありすはずーっと、誰かの元気になるために歌うんです。
持ってるありすの、いわば宿命でしょうね!
ミッテベルという枠も越えて、世界中のまだ見ぬたくさんの人達のために」
5
「だから、いちゅまでも……応え……ん……むにゃ?」
ほっぺの下が急に冷たくなった感じがして、反射的に顔を上げて……。
「へっくち」
濃い緑の匂いにくしゃみが出ました。
(公園……?)
頭の中がぼやけていたのは2、3秒くらいでしょう。
今日起きたことの全部を取り戻して……。
「おにーさん」
見回したら、その背中はだいぶ遠くにありました。
一瞬、背中が学生服に見えた……。
誰かに重なった。
離れていく背中に、ありすの声は届いてなかったと思います。
でも、聞こえたみたいにひょいっておにーさんの手が挙がりました。
またねって言うみたいに。
追いかければなんとかなる距離です。
それはわかっていましたが、一度、ベンチに座り直したらその気はなくなりました。
これでいいって思えました。
「お姫様であるところのありすをほったらかしにして一人で帰るなんて、駄目なおにーさん……ん?」
ん? って、ありすはもう一回息をもらしました。
それからコホンと喉を整えて。
「らー、らーーー♪」
やっぱり……!
「声が出る!」
気付いたら、ぴょーんとベンチから飛び上がっていました。
嬉しさが胸で弾けます。
捨て鉢な気持ちで……もう、声なんかどうでもいいとか思いかけていたのに。
全部、吹っ飛んじゃいました。
こんなに嬉しい。
……また歌えるってだけで、喜びが弾ける。
「いい気分転換になったんでしょうか? あの変なおにーさんにお礼を言わなきゃかもですね」
まあ、いいですってすぐに思い直しました。
元気な姿を見せればいいだけです。
あのおにーさんはありすのファンですから。きっと、どこかで見てくれています。
これからもずっと。
「さて……」
ふと周りを見回すと、いつの間にか人だかりができていました。
「あの子って……」
小さな子供を連れた若いお母さんが、こちらに聞こえるくらいの声でつぶやきます。
ジャージ姿のおじいちゃんもいます。
「えー、何ー? もしかベンチで寝てたの? ウケるんだけど」
JKの集団も。
(そうでした……)
ありすはアイドルで……。
今、歌いたい気持ちが溢れ出しそうになっている。
「みんなー! 今日は集まってくれてありがとー」
「なんか始まった」
「集まるってか、いるの知って来たわけじゃねーし」
wwwみたいに言われました。
このアウェー感、癖になります。
「こんなにファンのみんなが集まっちゃったら、これはもう歌うっきゃないね!」
ワンワンっ! って犬が吠え始めましたが、気にしません。
「何かの収録ですか? これ」
「まーまー。ちょっと聞いていってくださいよ……待ってくださいね?」
音源はスマホでいいでしょう。
ステージは……かなりお行儀が悪いですが、ベンチでなんとか。
スマホの音量をマックスにして、レッスン中に何度も聞いてきた音源を流し始めます。
ギュッて胸に迫る、優しくてどこかセンチメンタルなメロディ。
泣きのギターです。
「この曲知ってる」
「わかった、途中でボエーって言うんじゃね?」
「ウケる」
冷たい反応が続きます。
心が何かを思い出しそうになっちゃいました。
「……テレビカメラどこですか? これ、モザイクとか入るんですかね」
「わんわんわん!」
大丈夫だよ、って誰かの声が聞こえた気がしました。
そんなの言われるまでもありません。
「道に迷ってた? 違う、私は歩き出しただけ」
最初の声を出したら、お客さんのざわざわが聞こえなくなりました。
すーっと空気がクリアになっていく、この感覚は久しぶり。
お客さんとありすがひとつになっていく。
ありすの声が届いてる。
「たとえ繋いだ手が離れても 幸せな夢が醒めても
怖くないよここにいる
あなたがくれた笑顔は まだ胸(ここ)にあるから」
心に羽根が生えたみたいです。
歌うのって……。
笑いながら歌えるのって最高に気持ちいい。
「みんなー、ありがとー」
ベンチの上で手を振ったら、ちゃんと拍手が返ってきました。
いいお客さんです。
一部の人はまだきょろきょろして、カメラを探してるみたいですけど。
「なんだ、口パクとか言われてたけど普通に上手くない?」
「ありがとー!」
「ネットにあぷすんねこれ? いいでしょ別に」
事務所とかレーベル的なアレだと多分よくないですけど、流しておきます。
それどころではありません。
「はーい、アンコールにお応えしてもう一曲!」
「誰のアンコールだよ」
ノリのいいJKがいてくれて助かりました。
だって、ありすはまだまだ歌いたい!
そういう意味では、ありすの再起とも言うべき野外ライブはちょっと物足りなかったです。
15分くらい歌ったところで警察の人が飛んできたので、大慌てで逃げることになってしまったからです。
でも、大丈夫! 逃げ切りました。
……その後、警察から事務所に連絡が来てたみたいですけど。
ご迷惑をおけかしたことをちゃんと反省したら、前に進みます。
約束、したんですから。