そこは一面銀世界だった。
光り輝く雪が横殴りに降り注ぐ、険しい山脈の中腹に、一人の女騎士が行軍している姿がある。
ヒルデである。山脈の向こうにあるマウスヒルから発った商隊がこの山脈を越えた先の麓で動けないでいる。それを一刻も早く救出するべく、この強行軍に挑んでいるのだった。
吹きすさぶブリザードがビシビシと肌を叩き、さしものヒルデも顔をしかめる。
通常の人間であれば、相当の耐寒装備を着込まなければ半刻も持たずに凍死するほどの極寒だ。
彼女の装備はビキニ一枚に僅かな金属製の鎧と恐ろしいほどに軽装であり、風雪の中にその姿を見るものがいれば、寒さでとんでもない幻覚を見たと思うだろう。
しかし彼女は常人ではない。天界より舞い降りし超常のものである。身のうちから溢れ出る魔力で体表を覆い、極低温の外気から身を守っていた。
通常であれば、己の魔力を紡ぎ呪文で作用を定めて耐寒の呪文を唱えねばならないところだが、身のうちから溢れ出る魔力を自在に操れるヒルデにとってはその過程は必要ない。
人が汗をかいて体温を調節する、そういうレベルで常人が苦労することをやってのけているのだった。破廉恥とも言える軽装は、むしろその効果を高めるためにある。身にまとうものが増えると、そこを伝って魔力が逃げてしまうのだ。
とはいえ、常時魔力を消費しているということは、それだけに戦いに回せる分が減るということである。湧き出てくる魔力も無尽蔵ではない。そのため、平時は腰に下げた鞭に魔力をストックしている。
(敵が現れたら、ことね……)
一つだけ懸念点がある。この山脈に棲み着いている唯一の大型種と言っていい魔物。フロストトロールだ。
体毛の少ない平地の種と比べ毛むくじゃらで、猿にも似たその姿は厳密にはトロールではないという話もあるが、とにかく危険な魔物である。
極寒に耐えるその分厚い体毛と、自分の胴体より太い木ですらねじりきってしまう膂力も脅威だが、一番恐ろしいところは別にあって、この魔物の精液はどんな異種族のメスであろうとも一発で孕ませてしまうのだ。
かつてもう少し気候が温暖であった頃はこの行路もそれなりに使われていたらしいが、女性は一人たりとも通行することは許されなかったという。奴らはメスの匂いを嗅ぎつける能力に長けており、結果として同行者全員を危険に巻き込んでしまうからだ。
極寒の山脈に生息する彼らは繁殖の機会も少なく、それゆえにそんな能力を身につけたのであろう。
平時なら負けるとは思えないが、この吹雪である。魔力を浪費し、雪の緞帳に隠れて襲いかかられたら――?
ヒルデは悪寒に身を震わせる。
そんな折だった。
「っ……」
眼の前の光景は、ずっと前から変化がない。横殴りの雪が同じ調子で降り注いでいる。しかし、その光景に一瞬、揺らぎがあった。白いとばりの向こうに、何かが動いた気がしたのだ。
「――きた……!」
ヒルデはそう直感していた。
「ごふるるっ、がふっ……」
吹雪の中からその身を現したのは、やはりフロストトロールだった。
体格は人間とそう変わりないが、隆起した筋肉と凶悪な顔つきが恐るべき魔物であることを知らせてくる。
「ギャアアッ!」
こちらを認めたトロールが歓喜の雄叫びを上げる。久しぶりのメスだと言っているかのようだ。
敵は二体。ここは先手必勝とばかりに、ヒルデは鞭を取り出すと勢いよく振るった。
「サンダーウィップ!」
バリバリと稲光が走り、一瞬にしてトロールたちを包みこんだ。
「アギギッッ!?」
バチン、と火花が散り、こちらへ無遠慮に近づいていた彼らの足が止まる。
効いてはいる、が、致命傷には至っていない。焦げた体毛に驚いて元気よく飛び跳ねてるくらいだ。
「くっ……」
(安全な位置から、というのは無理なようね……!)
分厚い体毛の上を滑って肉体にあまり届いていないというのと、この吹雪が原因だろう。縦横無尽に吹き荒れる雪の粒がベールとなって雷の威力を分散させてしまっている。
「ならっ!」
こちらに向かってくるヒルデを見て、若干トロールたちは戸惑ったようだ。
その隙を突いて、更に至近距離から雷を放つ。
「グギャアアッ!!」
今度こそ、全身を雷に包まれて、トロールたちはブスブスと煙を上げ、雪に倒れて埋もれた。
「ふうっ……」
その分大出力で放ったこともあり、ヒルデは一瞬ふらつきを覚えた。殆ど感じなかった寒さも、今は肌寒い程度には感じている。
「急がなきゃ……」
トロールがこれで最後であるはずがない。急ぎ生息地から離れ、山脈を抜けなくては――。
その焦りが、ヒルデの判断を鈍らせた。
トロールの死骸を無警戒に踏み越えようとした瞬間、その死骸が起き上がり、そのままヒルデの腹部に抱きついてきた。
「なっ! こ、こいつっ……!」
よく見れば、体毛も表皮も焦げてはいるが、その向こうの肉体はピンピンしている。つまり死んだふりをしていたということだ。
(まさか擬死行動をとるなんて――!)
「あぐっ! あ、ああっ……!」
後悔しても遅い。ヒルデは腰を抱かれてぎりぎりと締め付けられる。
「ぐふっ♥ ぐふふっ♥」
トロールはヒルデの豊かな胸に顔を埋めて不気味な笑い声を上げている。これからこのメスを抱けることに興奮しているのだろう。
「このっ、離しなさいっ! あぐぅっ!!」
「グフ?」
トロールは自分が捕らえたメスが未だに気を失いもしないことが不思議らしい。たしかに、常人であればあまりの苦痛に失神するところだろう。
しかしヒルデは違った。いまだ意識はしっかりしており、反撃の機会を伺う体力もある。ただ、雷を溜め込んでいた鞭をしがみつかれた時に取り落としてしまっており、あとは自前の魔力でなんとかするしかない。
(あれしかない――)
ヒルデは覚悟を決めた。自分に被害が及ぶことも考えられるが、もはや仕方がない。
「滅しなさい! 邪悪なる獣よ!」
ヒルデは胸に埋まっているトロールの頭を引きずり出すと、そのこめかみに爪を立てた。
「はぁああッ!!」
バリバリバリっ!
空気が裂ける音がして、二人の体を電流が包みこんだ。
「グギャアーーーっ!!」
トロールは絶叫をあげ、その口腔から黒い煙を吐き出して倒れた。
ヒルデは指先からトロールの肉体に直接電流を流し込んだのだ。さしものトロールでも、内側から焼かれてはどうしようもない。黒焦げになって絶命していた。
「はぁ、はぁっ!」
ヒルデは残った一匹に目を向けると、決死の表情で睨みつけ、手をかざす。
「ぐ、ぐるるっ!」
そのトロールは予想外の事態に直面したのと、ヒルデの気迫に押され脱兎のごとく逃げ出していた。
「はぁ、はぁ……」
トロールの姿が消えたのを確認して、ヒルデは両腕をだらんと弛緩させた。
ヒルデの振る舞いはブラフであった。自分に電流が及ばないよう魔力で遮断していたのだが、その負荷は大きく、溜め込んでいた魔力をほとんど使い果たしてしまっていたのだ。
「くっ……魔力を使いすぎたわ……」
今は凍えないようにするだけで精一杯の出力しかない。今トロールに襲われたら逆らうすべはないだろう。
行軍を再開し、吹雪の中歩を進めるヒルデは、ふと岸壁に丸く影が落ちているのを見つけていた。
洞窟だ。
(あそこで少し休憩するしかないわね……)
倒れ込むように洞窟の中に躍り込み、岩の陰へ身を潜める。
「ふぅ……」
吹きすさぶ風雪から逃れられるだけでもありがたい上、気温も外と比べて幾分マシだ。危難から逃れた気の緩みか、ふっと眠気が襲ってきた。ヒルデの意識はそのまま深い底へと潜っていった……。
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