「おめでとう……ございます……?」
始まりは唐突に、ごく普通の封筒に詰め込まれて送られてきた。
朝日が昇るように目覚めた、いつものように朝刊を取りに行った洋蔵は、信じ難い文章を読み上げて困惑していた。
「マッスル……人間……?」
口の中で復唱してみたが、やはりどうにも子供の悪戯としか思えなかった。しかしそれにしては、封筒の形や文面がいやに形式的である。
洋蔵は頭を抱えたくなった。夢から覚めた筈なのに、不思議と景色がぼやけている。夢だとしてもあまりに下品だ。自分の中から出てきた言葉だとは信じられない。信じたくない。
「疲れているのか」
洋蔵は簡潔に結論づけると、常より渋い顔をさらにしかめて家の中に戻った。朝食までに軽く運動でもするか。そう思いついた洋蔵はまだ寒い朝の空気を切って庭に出た。
じじむさい乾布摩擦を終える頃、家族や住み込みの社員たちが次々と目を覚ましていくのが分かった。狭いながらも賑やかな家に少しづつ活気が出てくる。そんな明かりを優しく見つめながら、洋蔵は汗ばんだ身体に手ぬぐいを叩きつけ男らしく威厳ある態度で家に戻った。
「おはよう、父さ……ん」
出迎えた長男が、普段の快活さを失って呆然とした顔をしていた。目を白黒とさせ、洋蔵の身体をじっと見つめている。
どうしたのだろうか。洋蔵は訝しんで近づいた。息子の体調管理は父の勤めである。
「ど、どうしたの、父さん」
しかし洋蔵が問うより早く、長男が身を乗り出して洋蔵の逞しい二の腕を掴んできた。顔に浮かんでいるのは不安げな表情だ。
「な、なんだ、どうした、どこかおかしいか?」
「お、おかしいなんてもんじゃ、ほ、ほら、早く着替えないと!」
長男は慌てた様子で洋蔵の手を取ると、急ぎ足で洋蔵の私室へと連れて行った。息子はただならぬ様子だが、その実態が分からない。
だが、洋蔵が真に驚いたのは部屋についてからだった。
「はい、これ、ダメじゃないか、ちゃんと着ないと」
工兵は箪笥を開きながら、だらしのない子供に言い聞かせるように言った。しかし、押し付けられた服を見つめ洋蔵は言葉を失っていた。
「なッ……んだ、これは……!」
服、と呼ぶのも躊躇うものだった。紐だ。くすんだような青い紐だ。∨の字になっていることだけがかろうじて分かる。下着、水着、そのどれでもない。ただ異常な紐だ。テレビ番組でこんな格好をしたコントを見た覚えがある。
「どうしたの、父さん、みんな起きてくるよ」
父親をからかうんじゃない。
そんな、言って然るべき言葉が口から出てこなかった。乾いた息だけが喉を鳴らしている。
あまりにも長男の顔が真剣だったからだ。まるでこの服装こそ、洋蔵の正装で、長年身につけてきたものだと言うようだ。
洋蔵は両手で広げた。でろんと∨字がだらしなく広がった。股間を覆う部分だけが僅かに広いが、それでもイチモツを隠しきる形ではない。いや、そんなことを心配するなど、瑣末な問題だ。こんな破廉恥な形状、たとえ服の上から身につけても、ドスケベ露出狂の中年男でしかないではないか。裸のほうがまだマシだ。全身で「私は変態です」と言うようなものだ。
「もう、しょうがないなあ、はい、父さん脱いで」
洋蔵の葛藤など知らぬ存ぜぬの態度で工兵は言った。部屋着のタンクトップをぐいと捲し上げると、有無を言わせず体から引き剥がそうとしてきた。
「や、やめなさい!」
狼狽して洋蔵は叫び、そのまま愛する息子の手を振り払って部屋を飛び出した。息子の声から逃れるように洋蔵は駆けた。どういうことだ、どういうことだ。息子がおかしくなってしまった。これはまだ夢の中なのか。一体何が起きている。
洋蔵は家の中を走った。行くあてなどない。気がつけば隠れるように、二回の角部部屋にたどり着いていた。聞き耳を立てながら大きな体を丸めていると、騒々しい叫び声が聞こえてきた。
「アホ抜かせ! 誰がそんなことするかい!」
間近で聞こえたのは、怒りをたっぷり含んだだみ声だった。洋蔵は扉をわずかに開けて、声の主を覗き込んだ
「あれは……」
そこにいたのは、洋蔵を除く社員では唯一の子持ちである柱田だった。丸太のような両腕を組み、偉そうにふんぞり返る姿は普段の柱田そのものだ。だが、目についたのは眩しいまでに露出した肌であった。
もとより肌を見せることに躊躇いがない男であったが、しかし褌とねじり鉢巻だけの姿で歩きまわるような人間でもない。鍛え上げた身体に似合った男らしい姿だが、日常生活の中でするにはさすがに場違いだ。
よく見れば褌も少し違う。いつも締めている六尺褌より切れ込みが凄まじく、骨盤よりも上で締めているせいもあり、本来隠れているのが粋とされる陰毛がはみ出し放題になっている。
「なにがフンドシマッスルだ! 朝っぱらから、こんな格好させてどういうつもりだコノヤロウ!」
柱田自身この褌には納得がいっていない様子だ。威圧的に腕を組み怒鳴っている。
「アホほオヤジの方だろうが! ドシフンマッスルに指名してもらったんだから、ドシフンポーズで挨拶するんはあたりまえだろ! 寝ぼけるんもいい加減にしてくれよ!」
そんな柱田が言い争っている相手は彼の息子だ。まだ幼いというのにやけにしっかりした少年で、普段から父の蛮行やガサツさを注意してきた。だが、今日の彼は様子が違った。
「ほら、さっさと挨拶できるようにならないと、みんな起きてきたら笑われちゃうぞ!」
息子の表情と態度を見て、洋蔵は背筋が冷たくなった。どこか似ていたのだ。先程見た自分の息子の姿に。
彼らはどちらも大まじめだった。真剣に、父親が「変ではない」ことを咎めていた。
「あーーったく五月蝿えなあ、やりゃあ黙るのかあ? オラ、こうか、これでええやろ」
「あー! 違う違う、ほれ、もっと手ぇ下げてぇ~」
うんざりと股を開いた柱田だったが、息子を納得させるものではなかったようだ。彼は身振り手振りで、父親に指示している。
「ほれ、こう! こう!」
息子は小さな手で自分の倍以上ある父の手を引っ張った。その手を褌の上へ持っていった。
「ここで、マッスルマッスル言っておもいっきり引っ張るんだよ」
「!? だ、誰がンなしょーもねえことするか! アホか!!」
柱田は息子の手を振り払い、頭に一発拳を落として叱りつけた。確かに、そんなマヌケな動作、息子の頼み事だとしても御免だ。ましてや柱田は男のプライドの塊のような男だ、とてもするとは思えない。
しかしそれにしても殴るのはどうだろうか。空気はいよいよ、おふざけでは済まないほどに張り詰めた。このまま親子喧嘩に発展でもしたらただでは済まない。洋蔵は隠れているのも忘れ、制止しようと立ち上がった。その時だった。
「あーもうだめだ。オヤジはもうだめなんだな、しょうがない、もう『通報』しないとだな」
息子はがやれやれと首を傾げポケットに手を入れるのが見えた。
通報?
物騒な言葉に、この場にいる二人の親父がその手元を見た。
取り出したのは子供用の携帯電話だ。彼はこれまでも幾度もそうしてきたこのような慣れた手付きで、ボタンをポチポチと迷いなく押していった。
「ほいっと」
そして最後の、おそらく通話開始ボタンを押す瞬間に彼は子供携帯を空に向かって突き出した。
電波は目には見えなかった。だが、変化ははっきりと訪れた。
「ふんぎぃいい!?!?」
つい今しがたまで、堂々と仁王立ちしていた柱田が弓のようにしなった。
「あ、あががががッ」
強烈な電流を流されているように柱田の逞しい筋肉が痙攣している。ビクビクと震える両腕が、次第にゆっくりと……命令を受けた機械のように下に向かっていくのが見えた。あれほど嫌がっていたポーズに体が変わっていく。腰が落ち、足が開く、雄臭い姿と白目を剥いた顔で柱田はびしりとポーズを決めた。
「マ……マママママ、マ、マッスルッマッスルゥゥゥウッ!!?」
叫んだのは、息子に指示されたとおりの『マッスル人間』らしい言葉だった。
肩が水平になるまで腕を引き、見事な∨マークを股間で作り上げた。
いわゆるコマネチだ。六尺褌の切れ込みを綺麗に強調するように、柱田は再び腕を下げた。
「マッスル! マッスル! フンドシマッスル!!!」
そのまま彼は生真面目に声を合わせてポージングやコマネチを繰り返してみせた。
「あ、ああ、なんだ、身体が、か、勝手に、いう、こと、フ、フンドス! フンドシ!」
「ほらな、オヤジのマッスルポーズ、ちゃーんとカッコいいだろ、恥ずかしいことなんてなんもないのに、なにを嫌がってんだが」
「マ、ママママッスルッ!! マッスル! お、おぉおッン!?」
洋蔵の混乱した頭で、現実のものとは思えない光景をただ見つめていた。息が乱れる。声が出ない。くらくらする。なぜあの柱田が、あんな姿で……、それも息子の目の前で。
「はぁぁ、マッスルッ! あ、あ、なんだこりゃあ、なんだぁぁマッスルッ! た、た、たまらん! マッスルたまらん! マッスルは義務だ! マッスル人間の義務! ギムギムギム! マッスルマッスル!!」
柱田が抵抗してくれれば、まだ混乱も引いただろう。だがそうはならなかった。プライドの高い男は、マヌケなポーズを繰り返しながら次第に顔を緩めていった。
「マッスルマッスル! マッスルマッスルマッスル❤」
声がバネのように弾んでいく。筋肉の塊のような身体が下品な姿に変わっていく。逆ハの字であった眉が、上下逆さにへなへなと歪んでいく。
「マッスル気持ちいぃい~~❤」
ついに、感情が激しく声に出ていた。
肉棒が気持ちよさそうに勃起して、股間の褌をビンビンに押し上げるのがわかった。亀頭が透けて見えていた。腕の動作に合わせ、腰がガクンガクンと回っている。
「はぁぁあン、フンドシマッスル、フンドシマッスル! フンドシにガチガチチンポコこすりつけて、フンドシマッスルいいきもちぃいいぃぃ❤」
柱田はデヘエと舌を出しニヤけた面で吠えた。いやらしさで顔面は埋め尽くされ、褌という男らしい衣装でも補えぬほどの下品な雄顔になる。舌がデロデロと空を舐めていて。さも気持ちよさそうにヨダレを垂らした。
「はぁ~~マッスルマッスル! フンドシマッスル❤」
コマネチのついでに手のひらを勃起にこすり付けることで、更に気持ちよさを味わおうとする浅ましさなど、根っからスケベのそれだ。とてもついさっきまで拒んでいたようには思えない。腰を振り振り、尻をくねくね、角刈り頭はぐらぐら揺れる。褌を締めた股間を限界まで低く落とし、出来上がった∨のラインに何度も何度も手を交差させる。
「マッスルマッスル! 息子の前でマッスルマッスル❤」
凄まじい動きで交差させ、柱田は顔を俯いた。そして、すっと真剣な表情をして顔を上げた。
「わたしはフンドシマッスル人間ンン柱田真ッォオ! 今日も朝からマッスル人間の務めを果たさせていただいておりまぁああっすマッスル人間ご指名ありがとうございまぁああっっす❤」
溌剌とした太陽のような笑顔を浮かべ、柱田は変態姿で腰を突き出した。
「あぁ……あぁぁ……俺ぁぁ、そうだあぁ、俺ぁフンドシマッスル人間に指名していただいんだったぁあああ……へへ、へへへへ、あぁぁ……さいこぉおぉぉ…………❤」
柱田はうっとりとした顔で、生涯最高の喜びを味わっているかのようなとろけた声で言った。褌に食い込んだ肉棒がドクンドクンと弾むのが見えた。射精したのだ。手も触れず、ただポーズを繰り返しただけで、雄汁を褌の中に無駄撃ちしたのだ。
「はぁぁ……マッスル射精たまらぁぁぁぁぁン❤」
「おはよ、オヤジ」
息子はたいそう満足そうに、改めて父に朝の挨拶をした。
「おう、おはようさん❤ マッスルマッスル❤」
そんな息子を愛おしげに見つめると、柱田は脇を見せつけるように二の腕をムキムキとさせ、マッスルマッスルという言葉に合わせて腰を落として返事をした。
これが、正しい挨拶。
正しい在り方。
心からそう信じ切った動きだった。
――まるで別人だ。
頑固で喧嘩っ早い男がするものではない。
なんなのだ。本当に。
一体どうして、あの柱田さんが……。
「おとうさん、どうしたの……?」
背後から聞こえた声に洋蔵は冷たい水をぶっかけられたかのように硬直した。そのままゆっくりと振り向くと、眠っていた次男がいた。
「あ……」
ここが次男の部屋だというのを忘れていたつもりはない。だが、起きてくるのはまだ先だと思っていた。柱田の大声のせいか、父の気配を感じ取ってしまったからか。とにかく次男は起きていた。
洋蔵は声を出すのも忘れ、乾いた喉でツバを飲んだ。そして見た。その手に握っていたものを見た。
携帯電話だ。
洋蔵が自分自身で買い与えた、次男の身を守るための子供携帯。
「………」
「おとうさん、どうしたの?」
不安げに聞いてくる次男だったが、指はゆっくりとボタンに向かっていた。
見ているのは洋蔵の顔ではない。服装だ。
どうしたの、どうしてそんなおかしなかっこうをしているの。
言葉の奥にそんなものを感じ取った。
「………」
迷っている時間は、なかった。
元自衛官たる中年親父の決断は早かった。洋蔵は服を破るように脱ぎ捨て、大急ぎで下着も放り投げた。足を上げ、穴と呼ぶには大きすぎる紐の隙間に足を通した。
変態の衣装はケツに食い込み、股間を締め付け、とてつもなく最悪の着心地だった。
こんな格好までしたのに、次男はまだ不安げだった。
「ま……まっす……る」
洋蔵は絞りだすように言った。
正解。
とでも言うように、次男の顔はほころんだ。
「マッスル……! マッスル……!! マンキニ……! マンッキニマッスル……!」
柱田と全く同じように、洋蔵は腕を交差させた。
足はガニ股。つま先は外向き、内ももを愛する息子に見せつけて、胸をせり出し雄らしく。
股間がマンキニの全面に締め付けられ、キュゥと小さな快感となった。
ああ。声が悩ましげに溢れ、洋蔵の太い眉毛が歪んだ。
「マンキニ……!! マンッキニィッマッスルゥゥ!!」
あなたはマッスル人間に任命されました。
起き抜けに読んだあの文章を思い出す。
おめでとうございます。あなたはマンキニマッスル人間梶原洋蔵へと生まれ変わりました。今後はマッスル人間として、多くのひとに笑顔と勇気を届けるために生活なされますように――
寝ぼけていたと思っていた言葉は、鮮明に脳内にあった。
「フンドシマッスル❤ フンドシフンドシ❤ 今日も朝からいっちょ元気にフンドシマッスル❤ しあわせしあわせ❤ マッスルマッスル❤」
わたしはマッスル人間として、生きていかなくてはならないのだ。
それ以外に道はもうない。なぜ俺が、も、だれがこんな、もわからない。ただ、その事実だけは間違いない。
さもなくば、待っているのは通報だ。
相応しくなければ、強制的に相応しい男へと変えられる。
あの柱田のように。
柱田は起きてきた工員たち全員にポーズを見せつけ、でかいケツタブを見せつけて、ニヤニヤ助平な目で男達に媚びている。
まるで男好きのホモだ。それもかなり好色で、見境なしの淫乱だ。だが男たちは誰一人咎めていない。あの姿こそが正しいのだ。
「マッスル! マッスル! おはようございます! みなさま、おはようございます!!」
洋蔵は大声で叫んだ。
誰もがいつもと変わらぬ顔で、おはよう、おはようっす、と返して来る。
違うんだ。
これは異常なんだ。
目で訴えかけても、誰一人気に留めない。愛する息子たちも、長年付き合った社員も、誰も。
「マッスルゥ❤ おっぉお、チンポから汁でまくりじゃあねえかあ❤ 俺のお下品ちんぽうから、フンドシ汁がとびだすぞぉぉ❤ はぁあんん、たまらん、マッスルマッスルゥ❤」
柱田は腕を引いた姿で硬直しながら、ガニ股でプルプル震えていた。
イカ臭さが褌を貫通し、汗水を染み込ませた工場に染みていく。
「男の朝はフンドシやぁあ! 俺ぁ男だ、マッスルマッスル❤」
腰をねっとりと揺らしながら柱田はあたりを徘徊していた。ガニ股コマネチという異常な姿で、あちらこちらに褌を擦りつけている。
一瞬洋蔵と目があった。柱田はにやにやしたスケベエな顔で、得意気に鼻を鳴らしてみせた。自分のほうが粋で男前な親父だとでも言うような表情には、マッスル人間としての誇りすら感じられた。
そして事実、世界からはそのように扱われた。
その日から家の中での序列は変わった。
社長である洋蔵を差し置いて、マッスル人間として優秀に『なった』柱田のほうが家の中で信頼を集めるようになってしまったのだ。
つづく