XaiJu
葉一
葉一

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【過去作】常識改変もの(1)

1.Prologue ♭ 人気の無い帰り道、彼は街灯の下に佇んでいた。同じ高校の制服に同じ学年の襟章だったが、俺はそいつのことを知らなかった。 「……見つけた」 そう呟くと、内心『なんだこいつ』と思っている俺に近寄ってくる。よく見ると制服は泥と血で汚れている。右腕の袖はばっさりと切り裂かれていて、鮮血が迸っていた。 「なんだよ、お前」 そう言うと、そいつはほんの数瞬、悲しい顔をした。話したことも、見たこともない奴のくせに。 「今から言うことをよく聞いてください、この周辺は無許可の修正が多発しています。今すぐ他の書記官が参りますので」 「修正?」 血だらけの腕時計をちらと見て、そいつは露骨に顔を顰めた。急に畏まった口調を止め、吐き捨てるように言う。 「伊代君、もう時間が無い」 何で俺の名前知ってんだ、と言おうとすると背後から「お、伊代じゃん」と声を掛けられた。軽薄な口調から、振り向くまでも無く同級の板橋だと分かる。 「板橋、こいつ知ってる?なんか絡まれてるんだけど」 端正な顔立ちでいつも飄々としている彼は、「誰?」と笑いながらそいつと相対する。その余裕のある雰囲気はすぐに消え去り、驚愕といった様子にみるみる変わっていく。 「板橋?」 俺の間の抜けた声が暗がりに響く。「何で」と震えた声が板橋から漏れる。 「標的と接触。任務を開始します」 ごく平坦な声で、そいつはそう告げた。板橋が素っ頓狂な声を上げて走り出す。状況が呑み込めない俺はそのまま立ち尽くしていたが、そいつは素早くペンとメモを取り出し何かを書きつけていた。 「注釈1、美崎高校3年生伊代卓也17歳には今より12時間の修正耐性が付される」 そう宣言すると、剥ぎ取ったメモが薄緑色に光り出した。「これを持っていて」と言うと人間離れした跳躍で板橋を追い始める。 「あっ、おい!」 手に残されたメモには、そいつが言った文章がそのまま記されていた。どういう仕組みか文章の上から『有効』の文字が緑色に光っている。 ※ 学生の書記官。 それが修正者達の中で話題になったのはつい最近のことだった。まだ若いのに凄腕であるという。 書記官における基礎的な技能である『書記』は勿論、簡略形式の『速記』、対人保護を始めとする様々な制限や利得を司る『注釈』を自在に操るらしい。 板橋はその噂を話半分に聞いていた。いくら何でも、そんな化け物みたいな奴がいる訳がない、と。書記官と言うのはそもそも分業制で、『書記』は誰、『注釈』は誰、と3~4人がチームになって修正者と相対するのが常だ。板橋はそれを最高にカッコ悪いと思っていた。一人で出来なければ、それをやる価値も大幅減。そういう価値観を持つ修正者は多かった。 息を切らす。サッカーをやっていた『ことにした』肉体では、如何せん無理が来たのだろう。『注釈』付きの書記官に敵う訳がない。追い付かれる前に、と彼は公園に逃げ込み公園の敷地をほんの少しだけ『修正』した。公園そのものを更地などに『修正』することも可能であったが、大きな『修正』は書記官に察知されやすいし、人々に違和感がどうしても残る為やめた。 繊細かつ大胆に、植込みの一角だけをゴミ置き場として『修正』する。『修正前』の植込みに隠れた彼は、『修正後』のゴミ置き場からは姿が見えない。板橋の『修正』能力はかなりのものであると言えるだろう。 「記述に誤りを認めます。修正箇所を呈示」 ほんの些細な『修正』を発見する男に、板橋は肝が冷えた。緑色の光が、彼の施した『修正』を打ち破る。 「標的発見」 自分が初めて敗北を喫する、それもあったが何よりも、同じ年齢である筈の書記官の目が凍るように冷たかったこと、それが板橋を心の底から恐怖させた。 「許し、て……」 「認められません。修正には許可が必要で、個人の都合で世界を修正してはいけないきまりになっています」 知ってるだろう、と書記官は目で語っていた。 「美崎高校3年生板橋亮、あなたはこれから27年分の統括書記官の『書記』が適用されます。人道的観点から、ここに記されていることはあなたには伝えられませんが」 「い、嫌だ」 「犯罪などの不法行為に従事することはありません。また、不当な労働に従事することはありません。婚姻は人道的観点から出来ないことになっています。以上」 「あ、ああああああああ…………」 書記官の取り出した書状が『有効』になる。板橋は呆けたようにその書状を見つめ、丁寧に鞄にしまうと書記官など見えないように、そのまま家路に着いた。 ♭ このまま放っておいてトラブルになるのも心配だと思ったので、二人の後を追うと公園の入り口からふらりと板橋が姿を現した。 「あ、おい大丈夫かよ」 「ああ」 そう応えたものの、板橋の目は虚ろで俺ではなくどこか遠くを眺めているようだった。 「俺、このあと塾だから」 「塾?お前が?」 この茶髪のアホ毛は突然何を言い出すのかと思ったが、どうやら本気のようである。お前いつも部活やってるし、あの成績で何言ってんだよ、と。 「え、だってお前、部活――」 部活、何やってたっけ。板橋といえばこれ、というのがあったはずなのだが、記憶がどこかぽっかりと抜け落ちてしまったかのように出てこない。 「俺?部活やってないじゃん」 「え?ああ、そっか」 覚えていなくても良いことだったが、板橋の家は貧乏だったのではなかったか。だから、サッカー部に入りたかったが諦めた、と聞いたことを思い出す。 「なんかごめん」 「いいって。じゃあな」 手を振ってひらひらと歩き出す彼に、何か言わなければならないことがなかったか。手に握り締めている紙切れに思い至り、俺は声を上げる。 「お前、さっき高校の奴に追っかけられてなかったか?男の……見た事ない奴」 板橋は首を傾げた。 「見てない。じゃあ、ホントに行くから。また明日な」 そんな馬鹿な。じゃあお前がさっき咄嗟に逃げたのってなんで。疑問を挟む間もなく、板橋は背を向け歩いて行ってしまう。俺は公園の中に入ってみたが男の姿は無かった。 ♯ 僕は息を潜めて伊代君が公園から出るのを待った。 血が止まっていないのと、『注釈』『書記』を連続で行使してしまったからか、全身が重く、今にも倒れそうだった。 標的の行った急場の『修正』が切れ、ゴミ置き場は元のあるべき公園の一角へと戻っていく。僕の姿も伊代君から丸見えになってしまうことだろう。その隙に、もう一度だけ『注釈』を使えばこの場を離脱できるだろう。 伊代君。 彼とまた出会えたのは嬉しかったが、彼をこれ以上巻き込むのは本意でない。だから、僕は君の眼前からすっかり消えてしまうのが最も良いんだ。 ペンを取り出したその瞬間、ケータイが鈍く唸り振動する。長く、1度。統括からの強い警戒。 僕は身構えて異変を捉えようとする。『修正』を見抜くには何らかの違和感を感じ取る能力が必要不可欠だった。書記官として、この能力に長けていない者はいない。 板橋の『修正』が解け、僕の姿が露わになる。前方にはまだ、伊代君が佇んでいた。僕は腹を括って彼とまた相対する。 「おわっ!お前どっから出て来たんだよ!!」 伊代君が僕を見つけて怒鳴りつける。そんなことよりも、僕は彼のその姿に驚いてしまっていた。 学ランから下に、何も身に着けていないのだ。 格闘技で鍛えたと思われる逞しい下半身を、惜しげもなく堂々と露出している。僕に近付こうと歩く度、黒々とした陰毛に覆われた男性器がぶらぶらと揺れていた。 『修正』越しに公園を見ていた時は、そのようには見えなかった。このほんの一瞬の間に、僕を除くここら一帯の世界に『修正』が施されたことになる。 「伊代君、……その、下は何で裸なんだ?」 「はあ?暑ぃからだろ!じろじろ見んな!!」 幸い、『修正』は意識の表層までの深度で止まっているようである。恥ずかしいという感情があるだけまだマシだとも言える。 「僕があげた、紙は?」 「紙?」 訝しむ彼の右手の中に、僕の渡した『注釈』の切れ端が握られていた。 「それ、君が右手に持っているやつ」 「ん?なんだこれ?」 紙には赤い字で『無効』。『注釈』さえも『修正』をする修正者。板橋どころではない、大変な能力の持ち主だった。 「これを預からせてもらうよ」 何かしらの痕跡が残っているだろう、と思い伊代君からメモを取り上げる。彼だけでも『修正』を解かなければ、と思いペンをもう一度取り出した。 「伊代君」 「お前、さっきから俺の名前よぶけどさ、お前のこと知らないんだけど」 「そうだな」 いつも君は僕のことを忘れている。いや、忘れさせられてしまっている。 「いつも僕は君に迷惑ばかりかけているな」 「はあ?」 「君が僕を忘れてしまっていることは、一向に構わない」 だからこそ、僕は伊代君を護らなければならない。 『書記』を始めると切り裂かれた右腕から、血が溢れ出た。ごく自然な形での『修正』。それを一つ一つ、解きほぐすように。僕が知っている世界と『修正』される前の世界が違わないように、書き直す。 「お前、血が出て」 「いいから」 集中する。目の前に立つ人が、伊代君でなければ僕はもっと上手に世界を紡げる筈なのに。咳込み、血反吐が出た。それでも書く。物事が正しくあるべく為に。 「おい!」 もう少し、というのは声にならなかった。読点まで書き終え、適用する。伊代君がはっとした顔をし、慌てて鞄から無造作に詰められたパンツやズボンを取り出し始めた。 「何で下半身丸出しなのにお前なにも言わないんだよ!鴨野!!」 鴨野、と僕は頭の中で反芻をする。僕は自分の名前を『書記』してしまっただろうか。答えは否。している筈がない。伊代君が僕の名前を呼んだ、それだけが事実として分かった。 僕は僥倖に感謝し、目を閉じる。伊代君が僕を揺り動かす感覚だけが最後に残り、あとは真っ暗闇の中だった。 2.Fragment A(and his story 10 years ago) ● この話をする時に、私はいつも、話をどこから始めれば良いのかと途方にくれるんだけれど。 鴨野君の話から始めようか。今から10年ほど前の話だね。 小さなアパートの一室で、彼は倒れていたんだ。まだ7歳だった。 よく聞く話かもしれないけれどね、『修正者』の書記狩りというものを知ってる?まあ有り体に言えば逆恨みというやつだよ。鴨野君はそれに巻き込まれた訳だ。 鴨野君のお父さんが『書記』だった。多分ね。なかなか腕利きだったような気がするし、私も何度か会ったことがあるんじゃないかな。それが災いしたんだね。『修正者』が徒党を組むのは珍しいことだけれど、書記狩りのような場面では十分起こり得る。 多分、と言ったけれどそれは『修正』が為された範囲が多すぎて最早誰も鴨野君のお父さんのことを正しく思い出せなくなっていたからなんだ。もちろん私も。彼の奥さん、つまりは鴨野君のお母さんは普通の人だっただろうから、もっとひどい。誰も彼女の存在を思い出せる人はいないし、彼女が今どこで何をしているのか分かる人もいない。お父さんはね、鴨野君を保護してから一週間後に見つかったよ。都心の公園でね、裸でぼうっと座っていた。『修正者』たちが彼の過去と未来を奪っていったのは明らかだった。彼らの報復は執拗で徹底的なんだ。彼は然るべき施設で今も療養と保護をしてもらっている。 何の話だっけか。ああ、鴨野君だね。 鴨野君は無事だった。本当にただ倒れているだけで、疲れて眠っているのと変わりない様子だったんだ。私はね正直、もう彼はダメになってしまったのではないかと思った。それが一番、『書記』である父親の精神を傷つける行為であることは容易に想像できたから。 彼は無事だった。それが彼の不幸の始まりだった。 『書記』たる力の全てを、父親から委譲された子ども。それが鴨野君なんだ。倒れた時に握り締めていたのは父親直筆の委任状。そうして鴨野君を護り通した。前代未聞だったし、『書記』の中でも自らの能力をそのまま委任するという荒業をやってのけたのは彼の父親だけだった。まず委任する側の力量が、それに委任される側のキャパシティがないとまず失敗する。鴨野君にはそれだけの潜在能力が備わっていた。 伊代君、君はその時のことをすっかり忘れてしまっているね?でも、君がこうして生活ができているのは鴨野君のおかげなんだよ。 ♯ 出来るだけ遠くへ、と父さんは言った。 僕はその紙が大切なものだと知っていたから、それだけは失くさないように手に握り締める。潜伏先のアパートを出て、食料品だけでも買い足そうと思った。見知らぬ街。見知らぬ人。父さんが迎えに来てくれると思うことだけが僕を支えていた。でもその希望はあっさりと潰える。いるはずの無い幼馴染の姿が、視界に入ったから。 「伊代君」 「お、鴨野じゃん」 にこにこと人懐っこい笑顔で手を振る伊代君。その背後に佇む、骸骨のような男。僕にはそれが『修正者』であることが分かった。言葉にはしがたいけれど、強いて言うならば直感のような確信があった。 『修正者』は『書記』の周辺を巻き添えにして報復をする。父さんの言葉が頭を過った。 「鴨野、どこ行くの?」 怖い。伊代君は既に『修正』されていることは間違いなかった。他者の人生がどうなろうと、『修正者』はどうでも良いのだ。 「おい」 男が口を開くと、驚いたことに彼はそのままズボンをずるりとしたまで下ろした。人通りもある公衆の面前で、惜しげもなく陰茎を晒す。僕は慌てて周囲を見渡したが、誰もそれに気が付いていないようだった。僕が、僕だけがその異変に気が付いている。伊代君は骸骨に向き直ると、そのままぶらりと垂れ下がったモノに舌を這わせ始めた。 「どうだよ、こういうのが一番キツいだろ?」 男が下卑た笑い声をあげた。伊代君は楽しそうに男のチンコをしゃぶっている。僕は。 僕は恐怖に震えているだけだった。 奥歯をかたかたと鳴らし、堪え切れない涙を流しているだけだった。 「伊代君」 「なに、鴨野?」 涎を拭いながら、伊代君は振り返った。人は溢れているけれども、誰も助けてはくれない。 伊代君を助けられるのは、僕しかいないんだ。 「逃げよう!」 彼の手を引いて、僕は走り出す。人ごみを掻き分けて、子どもの手足を目一杯動かして。アパートに転がり込むと、すぐに錠を掛けた。伊代君は荒い呼吸で「何だよ」と言った。 「誰、あれ」 「叔父さんだよ」 そんなはずがない、とは言わなかった。それは言っても無駄なことだ。僕がするべきことは相手の『修正』がどんなパターンでどのように為されるのかを知ることだった。 「さっきのは」 「ああ、チンコしゃぶるの楽しいじゃん?家でやるっしょ?父ちゃんのとか」 やらない。やるはずがない。 「俺が頑張るとチンコがびくびく震えてせーしがびゅっびゅって飛ぶんだぜ」 「もういい」 息が。こんなにも呼吸が苦しいことが、今まであっただろうか。 「……泣いてんのかよ、どうした?俺なんか悪いこと言ったか?」 「大丈夫」 玄関の近くで足音が聞こえる。伊代君を護らなきゃ。これ以上、君を傷つける訳にはいかない。 ● 本当だよ。君が覚えてないのも無理はないけどね。 鴨野君が君を守った。倒れている彼の傍で、君は泣いていたんだ。「どうしよう、鴨野が倒れちゃった」って。 それが10年前の話。鴨野君と君の話だ。 追ってきた『修正者』、つまりは君を『修正』した男はアパートの目の前で見つかったよ。そいつはね、当時の事件で最も酷いことになった一人かもしれない。何が何だか分からない?分からない方が良い。『書記』というものはただの比喩的な名称じゃないんだ。つまりは自分のイメージを文字に書き起こすことで他者のいる世界に穏当に作用しようと試みる、まあテクニカルなことは説明しても分からないだろうけれど、とにかく『書く』という行為が一番安全なんだ。鴨野君はその有り余る力を、直接、何も媒介せずに、『修正者』へぶつけたことになる。 男は前頭葉が無くなっていた。 どうしてかって?それはね、誰にも分からないよ。鴨野君でもね。きちんと言葉にしたわけではないから、彼のイメージに最も近いことがごく現実的な形をとって世の中に作用したにすぎない。例えば、鴨野君がその男に「二度と笑って欲しくない」と思ったとして。そのイメージが叶うべく世界が改変されて、男の前頭葉がそっくりそのまま消えてしまったのかもしれない。前頭葉が感情を司る部分であることは知ってる?それとも、一昔前に犯罪者の前頭葉を切除する手術が流行したことは?前頭葉が無くても、人は不思議なことに生きていけるらしい。もちろんその男もね。私たちの監視下にあるけれども、彼はおそらくもう何もできないだろう。 …………怖いかい?でもそうやって彼は君のことを守ったんだ。君もそれを知るべきだと思う。 3.Dreamers ♯ いつも見る夢がある。 深い闇の中で、落ちていく夢だ。地面に叩きつけられることも無く、ごおっという風音だけを道連れに僕は落ちている。ああ、と僕は目を閉じた。慣れたもので、このままじっとしていればこの夢は終わる。 「鴨野」 耳に届く名に、僕は瞬時、覚醒する。彼の声だ。 がばり、と布団を跳ね飛ばして起きた。思った通り、統括の部屋である。 「あー、もう起きちゃったの」 のんびりした声で、書類の山の向こうから声が聞こえる。桐生統括書記官がぼさぼさの頭でひょっこり顔を出した。年中ジャージで在宅勤務をモットーとしている彼は、僕の師匠にあたる人物だ。実力は折り紙付きなのだが、如何せんめんどくさがりなので未だに統括という役職に落ち着いている。 「まだ寝てていいよ。今日はなんかごめんねー、板橋があんなに頑張って罠張ってるって思わなかったよー」 悪びれもせず、統括は言った。 「新しくヤバい奴も来ちゃったしさー。もう大変だよね、私のところだけは避けて欲しい」 「その件ですが」 「あ、大丈夫大丈夫ー。対策用に何通か書類書いといたから。これで数日はもつでしょ」 統括が手を打って数日。軽口は叩くが嘘は言わない人だ。由々しい事態、と言っても問題では無い。 「次のミッションはー……転校の手続き取っといてよかったね。明日から高校生だッ!鴨野君は地域に潜入、『修正者』を見つけ次第、私に『報告』して。学ランは新しいの用意してあるから、袖が千切れてるの着て行かないように」 あと佐久田君にお礼を言っといてね、と統括は付け加えた。僕は深い溜息をついて、部屋を後にする。 佐久田先輩はいつも通り、階下の書記室の自分のデスクに座って書類を書いていた。強面をさらにしかめっ面にしている。 「おう、お疲れ」 目も上げずに先輩は僕に呼び掛けた。僕も向かいのデスクに座って今日の書類を整理する。 「今日はすみませんでした」 「今日『も』すみませんでした、な」 俺はお前の脱出ポットじゃねえんだから、と先輩は続ける。倒れた僕を回収してくれたのも、伊代君に簡単な『注釈』をつけて家に帰してくれたのも佐久田先輩だ。チーム桐生は桐生統括以下僕と佐久田先輩の3名しかいない。そして、桐生統括は引きこもりなので家から出ない。必然的に佐久田先輩が僕を回収しにくる他ない。 「お前がまだちっちゃい頃ならおんぶして帰ってこれたけどよ、もう高校生なんだからどうしたもんかって」 佐久田先輩の体格ならば僕なんか手荷物くらいに扱えそうなものだが、いつも僕を回収した後はこう言う。 「今日はお前をお姫様だっこして持って帰ってきてやったからな。統括、写メ撮ってた」 「なっ?!」 「あの人、次の会議でばら撒くぞー『ふふふ、鴨野君も凄腕とはいえまだまだ高校生だよねー』とか言って」 先輩は統括の物まねが絶妙に上手い。 「嫌だ……」 「次からは歩いて帰って来いよ」 ほんの少しだけ、先輩の口角が持ち上がる。笑顔が下手くそな人だ。佐久田先輩はそれでも、僕にとって少し年齢の離れた兄のような人である。 「伊代君なんですけど」 「うん」 「あの、僕の名前を、呼んだんです」 信じがたい、といった表情で先輩は僕を見る。 「一応、今日の記憶も『注釈』で消しておいたけれど、それは注意が必要かもしれないな」 「……はい」 統括にも書類では報告してあるが、前例も少ない上に勘違いであるかもしれない。伊代君に何かしらの耐性がついてしまっていたとしたら、それは『修正者』に狙われるきっかけになりかねない。『注釈』で記憶を消すのと、『修正』で記憶を消すのは原理的に左程変わりはない。オフィシャルか否か、という程度の差だ。要するに、『修正』が効かない人間というのは『修正者』にとって存在するだけで脅威となり得るのだ。 「……因果なことだな…………いや、忘れてくれ」 済まなかった、と佐久田先輩は続ける。彼の目には深い憐憫の色が湛えられていた。 ♭ 「おい静かにしろってー」 淀センの野太い声が教室を揺らがせた。一番声がデカいのはてめえだっつうの。クラスはそれでもほんの少し浮足立っていた。というのも。 「んじゃ、入れ」 がら、と立て付けの悪い引き戸を開けて、学ランの上からでも鍛えていると分かる、小ぶりなマッチョが入ってきた。季節外れの転校生は女っ気のない男子校でも注目の的である。 「鴨野了平と言います、みなさんよろしくお願い致します」 鴨野はにっこりと笑って一礼した。真顔でいると堅そうで近寄り難いが、笑顔になるとこうも人は変わるか、というように親しみやすい。目鼻立ちもはっきりしているから、そのギャップは魅力的に映った。 「あれ、絶対女にモテてるって顔だぜ」 隣の石垣が俺に囁く。だろうな、と適当に相槌を打つがそれよりも俺は『鴨野』という名前の響きが気になっていた。強烈な既視感と何かを思い出さなければならないという焦燥感。それは俺の中で分厚い壁に阻まれて、目的地に辿り着けないでいる。淀センが俺の右斜め前の席を指差し、転校生がそこに座る。軽い冗談と、簡単な質問がこそこそとやりとりされた。部活は?家族は?彼女は?そんなありきたりな質問を重ねても、彼は丁寧に受け答えをする。 「転校が多いし、それだと迷惑になるから部活はやってない」 「父と兄が。父親の仕事でこういう風に転校が多いんだ」 「彼女?出来ないよ……今回も望み薄だね」 軽快で当たり障りが無く、それでいて記憶に残らない。そんな応答。俺はそれを知っている、ような気がする。 「なあ」 俺が声を掛けると、転校生は半身になってこちらを向いた。 「なに?」 「お前、俺とどこかで会ったことない?」 瞬時、間が空く。その後、彼はすぐにまた笑顔になった。 「ナンパされたのかと思った」 「伊代ったら欲求不満だから男でもいいんだって」 石垣が茶々を入れた。あはは、と転校生は声を上げる。 「多分、ないよ……えっと、伊代君?」 「…………そっか」 「でも、これから宜しくな」 彼はまたにっこりと笑って俺と手を繋ぐ。それが、どうしてか、ひどく寂しいことのように思えた。 ♯ 学校の授業は退屈だった。 そもそも、この程度の内容を集団で、こんなにも時間を掛けてなぜ学ばなければならないのか。高校生という生き物は将来役に立ちそうもない知識を詰め込み、将来役に立ちそうもない運動に勤しみ、将来関わり合いのない友人達と束の間つるんで馬鹿をやっている。 勿論、僕はその全てが羨ましい。 退屈を愛しているし、友人も、もし居たとしたらどんなに嬉しいことだろうと思う。 『書記』には退屈な時間は無い。友人も、居れば居るだけ巻き添えにしてしまう可能性がある。最初から身軽であれば、失うものも少なくて済む。だから僕は、他人の人生に爪痕を残さない。そうすれば『修正者』は僕一人だけを直接狙うだろうから。 僕は斜め後ろの伊代君に気を払う。実際、彼とこうして同じクラスに配属されたのは初めてではない。『書記』と接触のあった一般人を『修正者』が放っておくはずがないのだ。その度にこうして僕は彼とクラスメートになる。初めまして、と言う。これから宜しくな、と言う。そして『修正者』から彼を護り、彼の被害をなかったことにする。記憶を消された伊代君は、すっかり僕のことを忘れてしまう。でもそれでいい。 彼とこの退屈を共有できる。彼が僕のことをきちんと覚えていてくれる。その瞬間があるだけでも僕は幸せな方なのだ。 4.Chair ※ 淀センこと淀橋明は大きく伸びをしてから体育教官室の扉を開けた。ロッカー兼事務室のそこは、身だしなみを気にする教師たちの制汗剤と、それでは隠し切れない汗の香が満ちている。10数年もそこに居座り続ける彼は勝手知ったる、という様子で自分のロッカーを漁り始める。 「淀センセ」 その時、淀橋は後ろを振り向いて初めて男が座っていることに気がついた。少し汚れた灰色のツナギに、キャップを目深に被っている。エアコンの修理業者が今日来るということになっていたのを彼は思い出した。その中に自分の教え子でも居たのだろうか。『淀セン』と言えば自分の教え子からの愛称であると、彼は知っていた。それが半分だけ教師を馬鹿にした揶揄で半分、それなりの親しみが込められて呼ばれているということも。 「オレのこと分かりますよね?」 言われて、そうだ、と淀橋は納得する。その直後に若手の宇藤が部屋に入ってくる。宇藤はツナギの男を一瞥し、おや、という顔をしたがすぐに元通りになり、特に何かを言う訳でもなく笑顔で淀橋に声を掛けた。 「おはようございます、淀橋先生」 「おう、おはよう」 宇藤は童顔を綻ばせ、やんちゃをした野球部の生徒の愚痴をこぼす。まだ引き締まった体をしている宇藤は、躊躇わずボクサーパンツ一丁になり、いつ洗濯したのかもわからない黒のジャージをロッカーから引っ張り出した。もし学校指定のジャージを着れば、彼自身まだこの高校の野球部員であると言っても通用するかもしれない。顧問が部員に手本を示す、というポリシーから彼も髪形を坊主頭にしているのもそれに一役買っている。 「淀橋先生は次、どこですか?」 汗を少しかいているのか、ぴったりと尻と股間に貼り付いたボクサーパンツを脱ぎ去り、ぼろん、と半分皮を被った陰茎を惜しげもなく曝した。さすがにそこは高校生のような初心なものではなく、学生時代その逞しい身体と滾るような性欲に身を任せて女と遊んだ記憶が黒々と滲んでいる。淀橋はその股間を凝視していた。なぜわざわざ全裸になる必要があるのか。そういった疑問は浮かんだもののついに口から発せられることはなかった。言葉にする前に、掻き消えてしまったからだ。 「次は2年生の柔道だな」 柔道部の顧問である淀橋はそう言って思考を停止させた。ツナギの男が背後でにやり、と笑う。2人の教師はそれに全く気が付かない。 「そうですか。俺は次の時間、『椅子』なんですよ」 「『椅子』ですか?」 ええ、と言いながら宇藤はノーパンのまま黒のジャージに足を通していく。『椅子』という言葉で興奮したのか、半勃ちになった陰茎がジャージにゆるい凹凸を作っていた。ワイシャツを脱ぐとハイネックでノースリーブのアンダーシャツが彼の筋肉を浮かび上がらせる。野球部の朝練に付き合っていたのか、胸元にじんわりと汗染みが広がっていた。 「前から一度やってみたかったんですよ」 躊躇いなく両膝を床に着けると、地面へ垂直に掌を合わせた。丁度、淀橋にケツを突き出すような形で四つん這いになった形である。 「そうか。まあ一度はやってみたいよな」 自分でそう発言してから、淀橋は自分が『椅子』になりたいという欲求を強烈に覚えていることに気が付いた。今すぐにでも、宇藤と変わってしまっても良い。 「でも淀センセは授業に行かなきゃ」 ツナギの男がそう口を開く。そうだ、何で俺はそんな単純なことを忘れていたんだ。そう淀橋は思い直す。早く着替えて行かなければ、とスラックスとワイシャツ、ソックスを脱ぎ散らかしていく。トランクスのゴム紐に手を掛けた時、ぴたり、と動きが止まった。いつも柔道着を着る時は、トランクスをどうしていただろうか。 「履いてなかったじゃないですか」 ツナギの男が言う。そうだっけか。本当に? 「宇藤センセだって、ジャージの下はノーパンですよ」 そうだった。たった今、見ていたところだ。だが、どうしてか手が下がらない。男がふう、と溜息をついた。 「宇藤センセ、宇藤センセがどうしてノーパンなのか淀センセに教えてあげて下さい」 「はい、上様」 椅子の体勢を崩さないまま、宇藤はツナギの男に返事をした。 「男性の睾丸への長時間の圧迫は性機能に悪い影響を与えます。だからパンツは履かない方が健康に良いんですよ、淀橋先生。ザーメンの質ってのは大切ですからね。まあ俺は気持ち良いからっていうのもあるんですけど。ノーパンの開放感といったらたまんないですよ。スラックスだとどうしても目立つから、朝の職員会議の時だけはパンツ履くようにしてるんです。俺も上様に昨日教えて頂いてそうしてるんですけど。だからノーパンで過ごすのって全然おかしくないですよ。むしろ股間を妙に意識して隠しているのが不自然なんじゃないですか。そう思いませんか、淀橋先生」 そう言われると、その話はするりと淀橋の頭の中に入ってくる。妻とこれからもセックスを楽しむためには、性機能の性質は知っておくべきだろう。そして気持ち良い、それでいておかしなことではないという言葉が淀橋を後押しした。 「そうなのか。じゃあ俺も」 真似してみようかな。足首まで落ちたトランクスをぞんざいに振り払うと、ずるりと皮の剥けた陰茎が臍に届かん勢いで反り返っていた。勃起は生理現象であるから、何も恥ずかしいことではない。一切気を向けることなく道着のズボンを履き上衣を羽織ると、手早く黒帯を締め上げた。勃起した陰茎に生地が引っ張られ臀部の生地が引き攣っている。一目で勃起をしていると分かる膨らみは、しかし、淀橋に何の恥じらいももたらさなかった。 「良い格好ですね、二人とも」 褒めるようにツナギの男が言い、どっかりと『椅子』になっている宇藤の背中に腰を下ろした。 「ん゛ん゛ーーーーーーーっ!!」 急に掛けられた負荷を、宇藤は逞しい筋肉に力を分散させて支える。それが『椅子』としての役割を与えられた彼に絶大な充足感を与えていく。顔を真っ赤にし、汗を額から流しながら、その幸福に酔い痴れていた。ぴんと立った爪先が震え、何度も絶頂に達しているのが分かる。ジャージを突き破らんばかりの陰茎からは透明なカウパー液が溢れ、股間をぐっしょりと濡らしていた。 「良い座り心地だよ、宇藤センセ」 そう言いながら男は宇藤の汗だくの坊主頭をわしわしと撫でた。 「はあっ、あっ、あっあっあっ!!あああああああああああああああああッ!!」 宇藤は野太い嬌声を上げる。分厚いジャージを透過した濃厚なザーメンが肉棒を伝いながらどろり、と噴き上がった。リノリウムのゆかにぼたり、と何度も滴り白濁した水たまりを作り出す。女とセックスをするより、一人でオナホを使うより、遥かにそれらを上回る快楽が、彼を何度も刺し貫いていた。涎と鼻水を垂らし、喘ぐ後輩を淀橋は固唾を飲んで見守る。 「淀センセも『椅子』、やってみたいですか?」 男が声を掛ける。 「ああ…………はい…………」 鈍い返事であったが、彼の眼の色が、そうして突出した股間の震えが、それを強く希望しているのが分かる。 「分かりました。じゃあ淀橋センセは3時間目空きでしたよね?その時に、『椅子』ってことで」 「はい、上様」 その男が『上様』であること。最後にそれを書き込まれ、淀橋明は体育教官室を後にした。数時間後、今度は自分が『椅子』になる期待に道着の股間をぐっちょりと湿らせながら。 5.Fragment B(and his story 6 years ago) ● 私?私は別にどうも思わないよ。もうこの仕事も長いし。君みたいに巻き添えにしてしまうような人ももういない。気楽な身分だね。でもそれは、本当は寂しいことなんだ。私のようなおじさんなら耐えられるけれど、佐久田君や鴨野君みたいに若い人にはとても、ね。 その後の鴨野君の話をしようか。 それから鴨野君は、私が引き取った。学校に行かせれば友人ができ、友人ができればまた君のような巻き添えになる人が出る。だから彼は小中高とどこの学校にも通っていない。彼がそれを選んだから。ただ例外が幾つかあった。それは『修正者』の標的が生徒や児童に向いていると判明した時に、丁度都合が良いので私たちは彼を使った。まあ、主に君の保護の為だったんだけれど。 何故、という顔をしてるね。君が一番最初に巻き込まれた事件は――そう、私がさっき君に話した事件は、規模があまりにも大きすぎて、結果があまりにも悲惨過ぎた。だから『修正者』の耳目を集めてしまった。鴨野君の存在は秘匿されたが、君を守った正体不明で強い力を持つ『書記』、つまり鴨野君を誘き寄せるために君は『修正者』に何度も狙われていたんだ。それを護ったのが、鴨野君だ。君のいる学校に転入し、君を狙う『修正者』を見つけて排除していた。君が鴨野君と同じクラスになるのは、これで9回目。その度に君と彼は出会い直して、ほんの一瞬友人になったりして、安全が確保されれば君の記憶を消していた。君の記憶を消すのは、君自身を脅威から護る為と、鴨野君を『修正者』から護る為でもある。君が『修正者』に全てを喋ってしまったら、いかに鴨野君であっても生き延びるのは難しいかもしれないから。 そう、だから掛け値なく、鴨野君の今までは君を護る為だけにあった。 ♯ 中学生になった。僕ではなくて伊代君が。 勉強は桐生統括と佐久田先輩が教えてくれていたから、特に困ることも無い。それよりも『書記』としての訓練で生傷の絶えない身体の方をなんとかしたかった。上手に動けるようになるには、まだ身体の成長が足りない。それまでの時間がひどくもどかしく、僕を苛立たせた。 目の前で呆けている男を一瞥する。強い雨が降っており、僕も男も全身をずぶ濡れにしていた。携帯を取り出し、2つだけ登録している番号の片方に電話を掛ける。 「任務完了しました」 「確認した。状況は」 「保護対象者は『注釈』で気絶、学校の保健室にて一時保護を申請。統括に受理されています。標的には統括の『書記』が適用されています」 「そうか……お疲れさん」 佐久田先輩が何かを言い淀む。「もうやめにしないか」「お前は頑張り過ぎだ」「やっぱり他の『書記』を伊代君にはつけてもらおう」そんな言葉だろうと思った。優しい人だと思う。それらの提案があまり現実的でないからこそ、先輩はその気休めを呑み込んでくれる。『書記』は足りず、僕はまだ中学生と同じ年齢で、伊代君を護るにはこれ以上ないうってつけの人間だった。 「佐久田先輩」 「なんだ」 「僕、怪我してしまって」 手で押さえていた腹部から、血が流れていた。サバイバルナイフが掠めただけだと思っていたが、思ったよりも深々と切られていたようだ。電話の向こうで息を飲む気配がする。 「どれくらいだ」 努めて平静に、それでいて緊迫した声がする。僕はこんな時に、佐久田先輩が僕の先輩で良かったと思う。 「ナイフで切りつけられています。出血がちょっと多いです」 「待ってろ」 バイクの排気音が響く。僕は目を閉じてそこでじっと待っていた。痛覚はもう『注釈』で消しているが、傷を治療する程の『注釈』は専門の佐久田先輩くらいにならないと使えない。もどかしい、と思う。それでいて先輩が来るのをどこか嬉しく思っている自分も居る。 電話ではなく、自分の耳でバイクの音が聞こえる。 「馬鹿野郎」 ごん、と拳骨を一つ、佐久田先輩は僕にくれた。それからぶっきら棒に「怪我を見せろ」と言う。僕がシャツを捲ると、佐久田先輩はほんの一瞬、その無愛想な顔を歪めて泣きそうになった。 「眠たくなるけど、寝るなよ。持って帰るの大変だから」 『注釈』の書かれた紙にサインをすると、先輩はごく手短に「治れ」と言う。『速記』を使用すれば書いた内容を逐一言葉にせずとも効力を発揮させることが出来る。先輩は『注釈』と『速記』が上手だった。 腹部に温かい感覚が広がると、裂けた傷痕が少しずつ塞がっていく。それと同時に、強烈に瞼が重たくなってきた。 「……寝そうです」 「寝るなよ」 「佐久田先輩」 「……なんだ」 「おやすみなさい」 「おい!」 僕は目を完全に閉じる。身体が重く、指一本だって動かしたくない。佐久田先輩の悪態が、とても遠くで聞こえる。「ったく、世話のかかる……だよ」。いま先輩は僕のことを何て言ったんだろう。そんなことを考えながら、僕はゆっくりと意識を手放した。 6.Alert ♭ 転校生は平たく言えば良いヤツだった。 授業でうつらうつらとしているかと思えば、さらりと問題を解いていたり、突然指名されて困っている石垣をさりげなく助けてくれたり、部活の勧誘を受けて断り切れずに放課後行くことになっていたり。鴨野はそれらをあっさりと快活に引き受けてしまう。そこら辺に彼の人の良さを感じる。 「やはり鴨野はモテモテであった。まあ我が野球部はキャパオーバーなので部活には来てもらえないんだけれども」 石垣が残念そうに付け加えた。運動部に引っ張りだことなった鴨野は部員の困窮度順に見学をするという協定が昼休みあたりに結ばれた。俺の所属する柔道部にも、ラグビー部の見学が終わった後に来てくれることになっている。 「仕方ないな。野球部は大所帯だし」 俺が言うと、石垣は頬を膨らませた。 「やっぱり鴨野も来てくれよー、お前なら良いキャッチャーになれる!今からでも!!」 「無理でしょ流石に……僕は数合わせくらいしか出来ないって」 鴨野は困ったように笑う。携帯のバイブ音が一度、長く響く。素早く鴨野が携帯をポケットから取り出すと、「僕だった」と言った。言葉の軽さとは裏腹に、笑顔ばかりだった彼の表情には明らかに緊張が走っていた。 「じゃ、また後で伊代君」 「おう、場所わかるか?」 「大丈夫」 手を振り駆けて行くその姿に再び俺は既視感を覚えていた。 ♯ 『もうだめだー』 電話に出て開口一番、統括がそう叫んだので僕は階段から転げ落ちそうになった。 『修正反応ですよ。あんなに私が書類書いたのに半日も持たないんだから』 「どこですか」 『君の学校』 空気の温度が変わる。背中にぴったりと刃物を突き付けられているような感覚。 「……気が付きませんでした。申し訳ありません」 『いいよー相手もそれだけ本気なんでしょ……規模も昨日と比べれば大分小さいし。それに、今回の鴨野君は陽動だから。気がつかないフリをしないと。佐久田君が調査してくれてるから、困ったら佐久田君の方を。標的っぽいのを見つけたら僕の方を呼んで』 「了解」 電話を切ると、急に心細くなった。『修正』はもう始まっている。僕が転校してきたその日に、ということだから『修正者』は僕が『書記官』であると見当がついていると見る方が自然だろう。僕に直接何かをするならば、流石に気が付くのではないか。だから僕にはまだ『修正』を感じ取れていない。だが既に、この敷地内でそれは始まっている。 僕は伊代君を守れるだろうか、という心配は任務の度に思う。それ以上に、僕はあのクラスを、自分と関わった人たちをきちんと守れるのだろうか。 既に『修正』は始まっている。その事実が僕の心を重たくしていた。


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