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ミームとしての百合

百合ってなんだろう?

女の子同士の恋愛?友情?日常?それらすべてをひっくるめたものなのか?

女の子が女の子を好きになったらそれはもう百合と言えるのだろうか?

百合を百合たらしめているものって一体何なのだろう?

…百合を愛する人間ならば、殊更、自分自身で百合作品を生み出す側の人間であれば『百合』というジャンルについて一度は深く考えるものだろう。

一言に百合といってもその定義はあやふやで、女の子同士の軽度な身体的ないし価値観の接触があれば百合と呼称する『広義としての百合』もあれば、より観念的で儚く切なげなタッチで描かれる少女の感情の機微を至上とする『狭義としての百合』もある。

そのどちらにも属さない定義づけもあれば、定義しないことこそが百合になりうる場合もある。

つまるところ百合というジャンルに正解はなく、また不正解もない。

発信する側によって、また受け取る側によってすべての作品は百合にもそれ以外にもなりうる。

作者が「百合だ」といえばその作品は百合であることを許されるし、読者が「百合ではない」と言えばたちまち百合ではないなにかになる。

そのように確固たる定義づけがされていないからこそ、現代でいうところの『百合』は広く受け入れられ始めているのかもしれない。

今、百合ブームが来ている。

…というよりも百合というジャンルがニッチではなくなり始めたといった方がいいかもしれない。

あくまで数値的エビデンスを伴わない私自身の体感に基づいた見識でしかないのだが、2010年代以降…特にここ数年、SNSにとどまらず書籍やアニメなど、所謂2次元という枠組みの中で百合作品を見る機会が増えてきたように思う。

それは私の主観による偏重した百合贔屓の範疇を超えるほどに、目に見えて百合作品が増えていると思うのだ。

私の推測では間違いなくこの流れは、SNS時代の新しい価値観構築の一例なのではないかと考えている。

インフルエンサーによる模倣子(ミーム)の拡散と芽吹きだ。

なにをいっているのかわからないと思うのでわかりやすく言うと、有名絵描きがツイッターにあげたイラストの影響で文化が変わるというのが私の伝えたいことである。

何をいまさら当たり前のことをと思う人もいれば、そんなバカなことを言うもんじゃないよと反感意見を持つ人もいるかもしれない。

文化について語るうえで、ここで一度私たちの趣味嗜好、つまりは『好き』の感情がどのようにして形作られるものであるか理解する必要がある。

私は百合が好きだ。

今では何の疑いもなくそう言えるが、決して私も最初から百合が好きだったわけではない。

思い返せば10年近く前、まだ高校生だった私の人生を変えたといっても過言ではない出会いがあった。

それは『ゆるゆり』というアニメとの出会いだ。

おそらく私たち世代(20代中盤)のオタクであれば誰もが耳にしたことがあるタイトルだと思う。

タイトルの通りゆるい百合を題材にした作品ではあるが、当時の私にとってゆるゆりとの出会いはあまりに衝撃的だった。

だって、女の子が女の子のことを好きになるのだ。

友情としての『好き』だったり恋愛としての『好き』だったりその『好き』は多岐にわたるが、ゆるゆりに出てくる女の子たちはみんな魅力的で、キラキラしていて、それでいてとっても幸せそうなのだ。

『幸せの最上級は結婚して子供を産むことであり、それは男と女とでしか成し得ない』と思っていた当時の私の価値観を根底から覆すほどに、ゆるゆりの世界には幸せが満ち溢れていた。

それから紆余曲折あって様々な作品との出会いと別れを繰り返し私はどんどん百合の世界にのめり込んでいくことになるのだが、自分語りはここまでにしておこう。

閑話休題(言ってみたかっただけ)。

ゆるゆりとの出会いによって新たな『好き』を獲得した私のように、人生において大きく価値観が変動するような作品に出合った経験をしたことのある人は多いように思う。

後天的に『好き』を獲得する機会があるのならば、先天的に持っている『好き』とはなんなのだろう。

生まれたばかりの赤ちゃんも、物の好き嫌いはある。

きっともとより人間には生まれたときから持っている『好き』の感情があるのだろう…と考えてしまいがちだが私は『好き』という感情は全て後天的なものであると声を大にして言いたい。

…全ては言い過ぎたかもしれない。うん。

確かに本能といわれるような領域に趣味の偏向があることは否定できないし、そうじゃなきゃ人間という動物は繁栄できなかっただろうしうんぬんかんぬん…なんてことはどうでもよくて。

ここでいう『好き』とは言語を介して定義づけされる文化的な『好き』に限定して話をすすめていきたい。

そもそも人間は生まれてから膨大な量の情報に出会う。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚と五感を駆使してそれらを脳で処理し、未知のものを既知のものへと変えていく。

動物としての人間が生命を持続させていく上で最も恐怖するものの一つが『未知』だ。

未知の中には自らを害する事物が隠れているかもしれないし、未知の影響によりなんらかの不利益を被ることになるかもしれない。

当然そこに自らの利になるものも隠れているのかもしれないが、リスクを考えれば当然未知を危険なものとして処理する機構が優先される。

人間という動物は未知なるものを遠ざける性質を持っている。

逆に、既知のものはどうだろう。

当然だが、知っているものは安全か危険なものであるかの判別がつく。

それが身近なものであればあるほどより正確に対象物を理解する力は高まり、それらの判断基準も確固たるものになっていく。

既知のものの中にある『安全』はそれだけで価値になり得、またそれに対して『安心』さえも抱くようになる。

既知≒安全≒安心という式が出来上がるわけだ。

知っているもの、慣れているものは安心感へと繋がる。

その安心感はより肯定的な感情『好き』に転化することができる。

つまり既知≒好きの式が成り立つというわけだ。

結局何が言いたかったのかというと、『好き』の正体、おおよそそのほとんどは『知っている』であり、『知っている』はすなわち後天的に獲得した情報の集積=『好き』という感情は全て後天的なものということなのだ。

ここまで読んでくれたあなたならきっともう、私の伝えたかった真意についてわかると思う。

こういう話題に興味なかったらたぶん途中でブラウザバックしちゃうしね。

私たちの生活においてSNSは必要不可欠といっても過言ではないものとなった。

誰しもが信号待ちや電車待ち、はたまたちょっとした業務の空き時間やトイレやお風呂の中でまでツイッターを見ている。

私たちはSNSをよく知っている。

その中で得た情報はすぐさま既知のものとなり、自分自身の記憶に堆積される。

それらSNSで得た情報から私たちの価値観は形成されていき、『好き』が形作られていくのだ。

百合というジャンルが世間に広く受け入れられていることの一つの大きな理由がここにある。

SNSで有名絵描きが発信した尊い百合イラストが広く拡散され広く大衆の目に入る→それに感化された人間が新たな百合作品を生み出す→百合作品がさらに広く拡散されさらに広く大衆の目に入る→以下繰り返し。

というように、百合作品が拡散されることそれ自体が多くの人に高頻度で百合作品を供給することになり、百合を既知のものにする=百合を『好き』にさせる機構を構築しているのだ。

知らず知らず大衆は百合作品を受け取り、百合を好きになっていく。

これはすなわち、視覚情報、聴覚情報、はたまたそれら感覚や言語による文化の継承であり、模倣子(ミーム)そのものである。

ミームとしての百合は日常にあふれている。

手をつなぐ女子高生、サークル帰りの女子大生、昼休憩のOL、はたまた飲食店の女性店員のやりとりなど、解釈により全てが百合となる。

そしてそれらを潜在的に受け取った人々が無意識からより高濃度な百合を生み出していく。

例えばそれは嘘松的ツイートであり、ショートショートであり、小説であり、イラストであり、漫画であり、様々に形を変え百合は継承されていく。

人類はもう、ミームとしての百合からは逃れられない。

一度芽吹いた模倣子は、脈々と受け継がれて、後世でより色濃く姿を変えていくだろう。

全ての人類が『百合好き』になる日も近いかも知れない。

ミームとしての百合

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