刑事課の朝。
午前九時、刑事課は活気に満ちていた。
デスクの電話が鳴り響き、慌ただしい人々の声とキーボードを叩く音が部屋へ響く。
そんな喧騒の中、一人の男が部屋の入り口に姿を現した。
男の名は村岡。
彼が刑事課の扉をくぐると、張り詰めていた空気は和らぎどこか温かいものへと変わる。
「村岡さん、おはようございます!」
新米の刑事たちが、一斉に明るい声で挨拶をする。
その挨拶はただの形式的なものだけでなく、村岡が来てくれたことへの嬉しさが込められていた。
村岡は彼らの挨拶に笑顔で穏やかに応じる。
村岡はまだ30手前だというのに、その人柄と実力で刑事課の誰もが認める頼れるエースだった。
がっしりとした体格に清潔感のある短髪、爽やかな顔立ちに、時折見せる人懐っこい笑顔で、同僚の女性刑事たちからは異性としての人気も高い。
そして男性陣からは、その人柄や実績から「村岡さんみたいになりたい」と慕われるほどだった。
合コンに行けば連絡先を聞かれない日はなく、当然のようにモテる男として知られていた。
しかし彼自身がそういった色恋沙汰にうつつを抜かすことはなく、仕事に真摯に取り組む姿がさらに彼への評価を高めていた。
「村岡さん、昨日のフットサルお疲れっした!村岡さんのおかげでなんとか決勝行けそうです!」
「いやいや、進藤の動きがあってこそだよ。久しぶりにちゃんと運動ができて楽しかったよ。そういえば先週の合コンで良い子がいたって言ってたけど、どうなったんだよ」
新米刑事の進藤の言葉に村岡は謙遜しながらも、気遣いの言葉を返す。
そのやり取りはまるで、気心の知れた学校の先輩後輩のようだった。
村岡はプライベートでも部下や後輩との交流を大切にしていた。
仕事終わりには飲みに行ったり、休日には社内のイベントを楽しんだり。
そのため、部下たちは村岡を「上司」としてだけでなく「兄」のように慕っていた。
「村岡さん、この前の事件の報告書、これで大丈夫でしょうか?」
女性刑事の山下が不安そうな表情で、分厚いファイルを持って近づいてきた。
山下も村岡に憧れているうちの一人だ。
村岡はファイルを受け取ると、パラパラとページをめくって確認していく。
その眼差しは真剣だが、表情はあくまで相手を緊張させないように穏やかだ。
「うん、よくまとめられている。ただこの部分を、もう少し被害者の心情に寄り添った表現に変えてみるのも良いかもな。形式的な報告書も大事だが、俺らの仕事は人の心を扱うことだから。あとは、ここのフォントをもう少しだけ大きくすると読みやすくなるな」
村岡の的確なアドバイスに、山下の表情がパッと明るくなる。
「ありがとうございます!すぐに直してきます!」
彼女は村岡と話せたことと書類仕事が片付く喜びで、弾むような足取りで自分のデスクへと戻っていった。
村岡は常に部下たちの成長を願い、彼らが良い刑事になるよう惜しみなく力を貸していた。
そんな村岡だからこそ、彼の取調べの記録については伝説的なものとなっていた。
『どんなに口の固い容疑者も、村岡の手にかかれば必ず自白する』
その手腕は、村岡の取り調べに落ちない人間はいないとまで言われるほどで、刑事課内では畏敬の念を持って語り継がれていた。
村岡は自分のデスクへと座ってコーヒーを一口飲むと、引き出しを開けて中から黒い小袋を取り出した。
その小袋の中にはなぜか、艶めかしい光沢を放つ黒革の手袋が収められている。
その薄手の革でできた明らかに防寒用ではない革手袋は、村岡にとっては単なる装飾品ではなかった。
この手袋こそが、村岡の内なる性格を切り替えるスイッチなのだ。
村岡は刑事としての表の顔と、裏の顔を持っていた。
普段の彼はまさに絵に描いたような「善良な刑事」だ。
仲間思いで部下からの人望も厚く、被害者のことを第一に考え、誰よりも人のために働いている。
しかしあの手袋を嵌めると、内側に隠された冷酷で非情で目的のためには手段を選ばない、村岡の裏の顔が現れるのだ。
村岡はデスクに座りながら、パソコンの画面に表示された資料に目を通す。
今朝、村岡に割り当てられた新たな案件。
それは、ある高級宝飾店での窃盗事件の容疑者、佐々木健太の取り調べだった。
資料によれば佐々木は三十代前半のフリーター。
盗まれたのは、ショーケースに飾られていた多数の宝石達。
残念ながら監視カメラの死角を突く巧妙な手口が使われており、指紋などの決定的な証拠は残されていなかった。
しかし、防犯カメラに映っていた不審な人物の服装と、佐々木の自宅から押収された服が酷似していたため、任意同行に至ったという。
佐々木はそこから取調を受けているが、一貫して「やってない」と否認を続けていた。
「佐々木健太か…」
村岡は資料に挟まれた佐々木の顔写真を見つめる。
怯えたような戸惑ったような表情で、いかにも事件とは無縁そうな平凡な男の顔だった。
しかし村岡にとって、それは関係ない。
彼の仕事は真実を暴くことではなく、容疑者を「自白」させることなのだから。
その時、村岡のスマートフォンの着信音が鳴った。
『村岡さん、佐々木の取り調べの準備できました。いつでもどうぞ』
そう表示されたスマートフォンをデスクに置き、再び黒革の手袋が収められた小袋に目をやった。
村岡の心臓が、高揚感で微かに高鳴り始める。
「あぁ、楽しみだ」
そう言って不敵に笑うと、村岡はその小袋を手にして取調室へと向かった。
取調室へと向かう廊下を歩きながら、村岡は佐々木健太の背景を再度頭の中で整理した。
佐々木には前科がなく、事件当日のアリバイも友人の証言によって一応は裏付けられている。
しかし、友人の証言と言うのは証拠にしては弱く、彼が所有していた服が防犯カメラの映像と酷似していたという事実は、それを覆すには十分だった。
しかし状況証拠だけで有罪が確定するほど、事件は単純ではない。
ここでふと、佐々木の顔写真が村岡の脳裏に浮かんだ。
なんで自分がここにいるのか理解できないような、困惑と絶望が混じり合った表情。
「まぁ、多分冤罪だろうなぁ」
誰にも聞こえないぐらいの大きさで、村岡は独り言を言う。
それを言う村岡の顔には、普段の穏やかな村岡からは想像もできない程に歪んだ笑顔が浮かんでいた。
取調室の前に着く前にいつもの表情に戻った村岡は、扉の向こうから聞こえる佐々木のすすり泣くような声に気付く。
「村岡さん」
後輩の刑事である高橋が、緊張したような顔でいつの間にか隣に立っていた。
「すみません…佐々木がかなり憔悴していまして、自分だとどうしても何も聞き出せず…ずっと『やってない』と繰り返すばかりで」
高橋の言葉に村岡は静かに頷く。
「そうか。いきなりのことで佐々木も状況の理解ができてないのかもな。ありがとう高橋。後は俺に任せてくれ」
村岡は優しい声で高橋に語りかけると、高橋は少し安心したような表情になり、村岡へと報告を続けた。
「ありがとうございます。ただ、どうしてもあの佐々木が犯罪を犯すようなイメージが湧かないと言いますか…普段は真面目にバイトして、コツコツ貯金してるような奴だって友人たちも口を揃えていて」
高橋の言葉に村岡は何も言わず、ただ苦笑するような表情を浮かべるだけだった。
村岡は取調室の扉の前に立つと、高橋に視線を向けて言う。
「高橋、悪いが少し席を外してくれないか?この手の案件は容疑者と一対一になった方が話が早い」
高橋は少し戸惑ったような表情を見せたが、すぐに理解を示したように頷いた。
先輩である村岡の言葉には逆らえないというのもあるが、彼の取調べの手腕は周知の事実。
村岡がそう言うのであれば、何か考えがあるのだろうと高橋は素直に信じたのだ。
「分かりました。何かあればすぐに呼んでください」
高橋はそう言って、取調室の隣にある記録室へと入っていく。
これで取調室には、村岡と佐々木健太の二人だけになる。
取り調べ室のドアを開けると、そこには村岡の予想通り椅子に座りうなだれる佐々木の姿があった。
佐々木は顔を真っ赤にして、小刻みに震えている。
その目からはとめどなく涙があふれ、彼の憔悴ぶりを物語っていた。
佐々木は顔を上げ、扉から入ってきた村岡の姿を捉えると、彼の怯えきった表情に微かな希望のようなものが浮かんだ。
先ほどの高橋から聞いていた村岡の人物像はとても素晴らしく、村岡の表面上の優し気な笑顔を見て、この人なら自分の無実を証明してくれるかもしれないと期待したのだ。
しかし村岡はそんな佐々木を見ながら、ゆっくりとポケットから黒革の手袋を取り出した。
「君が佐々木か」
村岡はそう言って佐々木を見ながら笑顔のを浮かべ、ゆっくりと取り出した黒革の手袋を右手に嵌めていく。
村岡が自分の手の大きさジャストで特注した、最高級の革で作られている深みのある漆黒は、窓から差し込む光を反射して艶めいていた。
村岡はまず右手の指を揃え、人差し指からゆっくりと革の入り口へと差し込んでいく。
指が一本、また一本と手袋の奥へと滑り込んでいくたびに、キュッ、キュッと革独特の鳴る。
全ての指が手袋の先端に到達すると村岡はゆっくりと拳を握りしめ、ピッチリと吸い付く革がぎゅっと軋んだ。
薄手で村岡の手に吸い付くような革手袋は、長く伸びた指の先までピッチりと嵌められている。
そして次に左手。
同じようにゆっくりと手袋をはめていく。
黒い革が村岡の手のわずかな凹凸さえも捉え、右手同様に指先まで完璧にフィットする。
そして手袋が彼の両手にぴったりと吸い付くようにフィットした瞬間、村岡の顔から先ほどまでの温厚な笑みが完全に消え去った。
先ほどまでと打って変わって冷たい目線になり、口元は微かに弧を描いているがそれは笑みとは程遠く、獲物を見つめる捕食者のような表情だった。
それはまるで革手袋を嵌めることで人格のオンオフが切り替わったかのように、顔の造形は同じなのに明らかに元の人物とは印象がかけ離れている。
村岡はこの革の手袋を嵌めることで普段の温厚な人物とは真逆の、目的のためなら手段を厭わない冷酷な人格へと変わるのだ。
村岡は自分の指先を眺めながら指をゆっくりと曲げ伸ばすと、ギュッ、ギュッと革が擦れる低い音が響く。
「よし」
指の関節が手袋越しにも分かる程にフィットした革手袋を見ながら、村岡の低い声が口から漏れた。
「佐々木健太さん」
村岡の声は、先ほどまでの穏やかな響きを完全に失っていた。
その声はとても冷たく、そして有無を言わせぬ圧力を帯びていた。
「お前が犯人だという証拠は掴んでいる。さっさと全てを話すんだ」
村岡は佐々木の正面に立つと、黒革の手袋をはめたその手テーブルへと置く。
その冷たい目と突き放すような言葉で、佐々木の顔から希望の色が急速に失われていき、震える声で囁くように言った。
「ち、違います!!俺は、俺はやってない……っ」
しかし村岡の耳にはその言葉は届いていないかのように、佐々木の言葉を遮るようにさらに低い声で言う。
「そんなことはどうでも良いんだよ。お前はただ自白だけしてくれれば良い」
村岡の表情一つ変えずに佐々木へ言うその声には、一切の容赦がなかった。
村岡はまずゆっくりと佐々木へと近づくと、小さく震える佐々木の手足をその座っている椅子へと手錠によって拘束を行う。
その手錠は輪の間が鎖で繋がっているものではなく、二つの輪がくっつき錠が嵌った時には手首を合わせてガッチリと拘束するもの。
その錠を慣れた手つきで椅子と手を一緒に嵌めることで、佐々木の手は後ろ手に椅子へと拘束されてしまう。
「なっ!!」
佐々木が驚きの声を上げたときには既に村岡の手は足のほうへと移動し、右足、左足と順に椅子へと拘束していく。
こうして出来上がったのは、椅子へと手足が拘束された佐々木の姿。
佐々木はその予期せぬ行動にさらに怯え、自分がなんでこんな目に合っているのか理解もできず声にも出せないでいた。
そもそもこの部屋は外へ声が漏れにくくなっており、ある程度大声を出したところで外へは小声で話しているようにしか聞こえない。
「まずは、身軽になってもらおうか」
村岡はそう呟くと佐々木の足元に手を伸ばし、乱暴に履いていた靴と靴下を剥ぎ取った。
空気に晒された佐々木の足が、今から何をされるのかと怯えるように僅かに震える。
そんな佐々木の様子を楽し気に見ながら、村岡は黒革の手袋をはめた右手で佐々木の左足の甲へと触れた。
人肌とは違う革のひんやりとした感触が足に直接伝わり、その人間の温もりを感じない冷たさにゾクリとする。
「お前がやったんだろ?」
村岡の低く冷たい声とともに、佐々木の足の甲に触れていた手袋をはめた指がゆっくりと足の裏の窪みへと滑り込んでいく。
足裏へのその滑る革の感触に佐々木の体がビクッと跳ね上がり、顔が驚愕と恐怖に歪んだ。
「ひぃっっ!!」
しかしそんな佐々木の様子に村岡は一切の表情を変えることなく、佐々木の足裏を黒革の手袋をはめた指を立て、そのままこちょこちょと動かし始めたのだ。
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