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過去作再録 「ユウキとコテツ 1」



 パソコン用にあつらえた黄色の眼鏡をかけ、髪をピンでとめた青年、「安達あだち コウ」が、カーテンを閉め切った一人きりの自室で机に向かっていた。

 

 マグカップの紅茶をすすりつつ、自前のパソコンのキーボードを叩き、本日の報告書をまとめていく。

 

 報告とは、この学園で知りえた情報について。この学園に生徒として潜伏し、スパイ活動を行っているコウがこの学園の内情をまとめた情報は、定期的な通信の他、この毎夜の報告書によって、自分をここにやった組織の下へと送られる。

 この学園で、自分のこの役割がバレればもれなく粛清の憂き目に遭うだろう。その中身を絶対に他人に見られてはならない緊迫感さえ抜きにすれば、その日の成果をまとめる日報のようなものだった。


 とはいえ。毎日報告できるようなわかりやすい情報や事件などがそう都合よく見つかる筈もなく。「特になし」が通用しないのは数日前にそれを試みて、通信の相手から冷ややかな怒りを買ったので理解済みだった。

 ……少し考えた結果。今日の命題は、昼休憩に友人である「前原 アラト」となんとなく話していた内容に決めた。


 報告書としての体裁を保持する都合、「所属生徒からの情報収集」だとか銘打ってそれっぽくまとめなければならないだろうが、実際にしていた会話の内容は他愛ない話だ。その報告に出てくる生徒は二人とも顔を知っているし、それも織り交ぜていけば、何とかネタ切れはごまかせるだろう。


 きっかけは、昼飯の折にふと他の生徒の、この学園のチャンピオンにまつわる話を聞いたからだった。


 敵意、というほどではなくとも、アラトが感情を昂らせて意識し、しかしその理由ははぐらかしている存在。俗にいう学園の「頭」と呼ばれているこのチャンピオンは上級年にいる。話を流す様に誤魔化したアラトとの会話で次に回ってきた話題は、……では、この紛争学園の「下級年」で、とどのつまり、最強の生徒は誰か? だった。


 アラトは屈託なく俺だと自信満々に言い張ったが、それでもそんな話題になった時、真っ先に上がる名前が一つ。


 

「梓川あずかわ ユウキ」


 同じ下級生ながら他の追随を許さず、圧倒的な勝率を誇る生徒。元来の才覚もあるのだろうが、当人も日々鍛錬を重ねてストイックに取り組んでおり、それは試合の結果にも如実に反映されている。

 

 いわずもがな、下級年の中では断トツに勝ち星を稼いでおり、特例として中級年、上級年の生徒と試合を組まれることも多々あった。初戦ではアラトも自分もものの見事に破れており、その実力は実体験済みだ。

 ユウキとはクラスが違うものの、その後いろいろあって友人となり、アラトと三人で行動することも多くなった。仲良くなってこそ話を聞く機会も増えたが、人を近づけないような雰囲気と言葉数の少なさから、やや周囲からの誤解を招きやすい節があるようだ。



「……今日、ユウキの試合の日だったな」


 一人きりの部屋でコウはぽつりと呟くと……、そんなユウキの顔、そして同時に、本日ユウキが挑むその試合の相手を頭に思い浮かべていた。

 

 紛争学園で試合が行われるパターンには、おおまかにわけて二通りある。ひとつは、学園から定期的に強制される試合。もう一つは、なんらかの事情があって生徒同士の自主性による試合。

 

 今回は、形式上は前者だが、その裏では此度のユウキの対戦相手、「明石あかし コテツ」からの、ユウキへの挑戦があったとも言われている。二人の間にどういう経緯があったかはわからない。特別嫌い合っている印象はなかったが、互いに実力者として噂立ってはいたし、単にその実力を試してみたいという所だろうか。

 

 

(アラトは、顔を見合わせれば揉めてたけど……ユウキとも絡みがあったのは意外だったな)


 「明石 コテツ」。関西から特別待遇にて紛争学園に招かれた特待生。いわゆる紛争学園における「経験者枠」の一人だ。

 

 中学から格闘技をはじめ、僅か二年で地下格闘技界隈で著名なチャンピオンになったその実力を買われ、自分達とは違う特別待遇にて関西地方から来た特待生。言わずもがな相応の実力者であり、ことリングで戦う選手としては、自分たち紛争学園の生徒に輪をかけて一流のプロであるといえる。

 

 元来性格がかみ合わないのか、コテツは転入早々にアラトと揉め事を起こし、売り言葉に買い言葉で試合が組まれ、そしてアラトを見事に下している。だが、単に喧嘩っ早いかと言えばそうでなく、コテツ自身は少々強引ながら気さくで明るい性格をしている。

 

 今までにだって数度遊びにも出かけた。とはいえ、アラトとの相性はすっかり犬猿の仲になってしまったが……。

 

 ……ともかく、コテツの実力を知ってか、普段の学園生活上で色々目を付けられることはあれど、他の生徒の試合の申し込みをあまり快諾しないユウキにしては珍しく、前向きな回答をしたと本人から聞いていた。

 性格的な問題で衝突したアラトとはまた違った、同じ総合格闘技を基本のスタイルに持つ者同士で火花を散らす意識があったのかもしれない。


 それを聞いたアラトも躍起になって、絶対に負けるな、とユウキに何度も念を押していたっけか。一方違う場所でコテツも、ユウキの戦績を知ったその上で、負ける気はしないと強気に息まいていた。

 

「…………」


 アラトやユウキ、そして、コテツも。ただのスパイ活動で、しかもこんな熾烈な試合を行う学園で、これほどに友人と呼べる存在ができるなんて思いもよらなかった。

 

 ……だが、自分はあいつらに何一つ知られぬまま、この学園の見えざる敵として暗躍し、この学園を危機に陥れようと本来身を置く組織へと情報を渡している。友人、だなんて、後ろめたさなく呼べるような綺麗な関係は築けそうにない。その中には、彼ら個人の内容も含まれてあるのだから。

 

 だが、それをしないわけにもいかない。底知れぬ罪悪感に、それでも任務と向き合わなければならないコウは重い嘆息を吐いた。

そうこうしているうちに、報告書が完成。職員室からくすねたユウキの戦績や登録情報を、少しの躊躇いの後に添付して、送信する。

 後は、今日行われる、ユウキの試合。そのデータを追加して送るだけだ。コウは紅茶をすすると、すこしこってしまった肩を回した。




 それを浴び続けたものの神経の鋭敏化など、さまざまな効果を含んだ特殊なライトの照り付ける、学園の地下にあるリング。

 

 今宵試合を行う二人の選手のスタンバイは既に完了していた。後は試合の口火を切るゴングの音を待つばかりだ。



「いやぁ、やっぱしっかり鍛えとるんやな~。服の上からやとあんまわからんから、正直舐めとったわ」


 赤コーナー側に立つ片方の選手。明石 コテツはロープに背を預け、全く緊張を感じさせない悠々とした態度でユウキを見やり、口笛を一吹きした。

 

 これから試合を行う手前、互いにトランクス一枚で鍛え上げた体を晒している。試合の直前だがそれを観察して軽口を叩くなど、その空気にしっかり慣れ切っている様子だ。

 

 それを尻目にしてもユウキは何も言わず、肩や膝などの関節を念入りに回し、静かに開始の時を待っていた。

 

「……なんで、俺を指名した?」


 けらけらと笑っているコテツを睨み、ふと、ユウキは静かに尋ねる。

 

 目の前の男、コテツが突如としてユウキの目の前に現れたのは、一昨日の放課後の事だった。


 授業を終えていつものようにトレーニングルームへ向かう道すがら。コテツは唐突に現れたかと思えば慣れ慣れしく肩に手を回してきて、小バカにしたように身長の差を笑われ、どういうわけか試合を挑まれた。

 

 ユウキはくだらないと吐き捨ててその場を後にしたが、昨日に試合を行う旨の書類が部屋に投函され、そして本日にはこうして対戦相手として顔をつき合わせることとなった。

 例えこの学園でなくたって、正式な試合を組まれれば誰が相手でも同じだ。勝ちを意識し、全力を尽くすのみ。だから他の生徒の噂などには別段興味はなかった。

 

 が、コウたちに聞いて、その生徒、明石 コテツが、学園が特別に承知した「特待生」であることは知っていた。

 

 その実力を買われて外部からスカウトされた、特別扱いの生徒。まさか、試合の相手まで指名できる特権が与えられているとは思わなかったが。ユウキの問いに、コテツは目を丸め、誤魔化すように手を横に振った。

 

「あぁ、もしかして「強いやつとやりたいから」とかって挑まれたとか思ってる? ちゃうちゃう、悪いけど俺にはそんな向上心ないわ。ただの天才やから。

……ていうか。やっぱゆーくん。クールなふりして、結局は自分が一番強いとか思ってるんやろ?」


「……バカにしてんのか?」


「ははっ、怒った? やっぱ殴り合う相手とは、多少バチバチしてるくらいがちょうどええわ」


 真剣に話す気があるのかないのか。……話しづらい相手だ。ロープに両腕を預けて揺らしながら笑うコテツに、その掴みどころのない態度を不服そうに見て、ユウキは眉間にしわを寄せた。

 

「質問に答えろよ」


「いやぁ。改めて話すような、大した理由なんかないんやけど。だってここ、勝ったら堂々と倒した相手をヤれるんやろ?」


「……どういう意味だ?」


 それは、その通りだ。このリングのライトには、その下で戦う生徒の神経を強化し、身体能力を向上させる作用がある一方、長時間浴びれば性欲を昂らせ刺激する、一種の興奮作用もある。

 それも相まって、負ければ強制的に勝者の慰めモノになる。勝ったものもそうしなければならない。それがこの学園の公然の規則だ。

 

 不愉快そうに質問を重ねるユウキに、その会話のぺースを握っていくかのよう、コテツは歯を剥いて意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「俺。ここに来る前、ガキの頃から地下リングでちっと遊んでたんやけどさ。そん時も負かした相手お持ち帰りした時あってんな? 試合の後、しかも負かしたやつ相手やと、なんか燃えんねんなぁ~。

 でさ、試合も出来ておまけに性処理もできるとか、普通に考えたら最高やん? だから、わざわざ飛行機乗って、ここからのスカウトに乗ったとこもあったし?」

 

 敢えて遠回しに言ってくるのが分かり、何を言いたいのに察しをつける。気楽な口調でもどこか物々しく話すコテツにユウキはひたすら顔をしかめていたが、コテツは依然あっけらかんとして口を開き続けた。

 

「どうせ犯すんやったら、俺好みの別嬪ちゃんで、多少乱暴しても抵抗されへんような小柄な奴がええかなって。俺、待てとかしたないし」


 つまりは、そういうことなのだろう。ヘラヘラとした勝利宣言だ。ユウキは一段と目を細めて睨み付けた。

 

「もう勝てるつもりか? ……戦う前からそんなこと考えてる奴に、俺は絶対に負けない」


「へぇ。んじゃ、俺あっという間にやられてまうかもなぁ。でも、もっと下品なスラングとか使って煽ってくれてもええんやで? その方が盛り上がるやろ?」


 まぁ、金持ってる観客はおらんけど。ユウキの苛立ちを隠さない態度すら面白そうにして、コテツは肩をすかして笑った。


「でも可哀そうにな~。俺とじゃタッパが違いすぎると思うけど。ま、俺も昔はガキの体で意地になって大人とやりあっとったけど。向こうもなんだかんだ手加減してくれたやろうし。

 どう? 負けてやる気はないけど、手加減してほしい?」

 

 わざとらしく額に手をかざし、背丈を比べてくるそぶりを見せられる。ユウキはそれを睨み付け、唸るように言葉を放つ。

 

「……同じ年のくせにガキ扱いか? 出来るもんならしてみろよ。その鼻先、潰してやるから」


 もうこれ以上何を言っても無駄だろう。ユウキは固く握った拳を突き付けた。それを目の当たりに、コテツは静かに目を閉じ、鼻を鳴らす。


「そんでもお前……ゆーくん、ここで下級年最強なんやろ?」


「……勝手に言われてるだけだ。名乗った覚えはない。あと、次ゆーくんとか言ったら殴るから」


「ははっ。なんでなん? 可愛えやん、ゆーくん。俺もテツちゃんとか呼んでええで?」


「……さっきから、よくしゃべる奴だな。……そろそろ始まる、覚悟しろよ」


「はは、よう言われる。最初はこれでも青臭く緊張しとってんけどなぁ~」


 不穏な空気が醸し出され始める会話の応酬の後、部屋のブザーが鳴らされた。間もなく試合が始まる。ユウキが拳を構えて身構え始めるのに、コテツもようやく、首の骨を鳴らしながらロープから背を離した。

 

「そんでも、そのカワイイ顔と体で同期最強とか。どういう風にかかってくんのか、ちょっと楽しみではあるけどな~」


 互いに睨み合い、キャンバスの中央に歩み寄りながら、ふとしてコテツが言う。それが最後となり、いよいよゴングが鳴らされた。


 ゴングの後、キャンバスの中央に躍り出て、先に仕掛けたのはユウキだった。


 散々小馬鹿にされてきた分もある。一瞬の間にコテツとの距離を詰め、その頬を打ち抜かんと拳をふるう。それを予測していたようにコテツは颯爽と腕を構えてガードした。


「お。ゆーくん、いきなり激しいなぁ」


「…………」


「さっきもいうたけど、怒った相手とやんの嫌いやないで。すかした面で、相手のこと見てないヤツの方が気に食わんし?」


 繰り出した拳を素早く引き、その後もユウキは無言で次々と攻め立てていった。立てた腕で拳をいなし、コテツは余裕の表情でユウキの拳を次々とさばいていく。


「ホラホラ。それが本気か~、ゆーくん?」


「っ……、なめるなっ!」


 リーチの差だけではない。完全に見切られている。その焦りも相まって、ユウキは語気を荒らし、拳の速度を速めていく。


「ホラホラ、届かへんで~」


「…………」


 その腹立たしい笑みめがけて襲い掛かるも、一向にコテツの頬をえぐることはなかった。試合慣れしている分、相手の手足の軌道を読むのは随分と得手らしい。

 

 ユウキのストレートを防御した後……、コテツはその陰で拳を構えた。


「オラッ!」


ボゴッ!


「っ!?」


 ユウキの責めの間を縫うように、コテツの拳がユウキの頬を叩く。コテツからの初めての攻撃。そして初めて攻撃を当てたのがコテツになってしまった。

 

 牽制に過ぎないジャブだったが威力は強く、響く痛みにユウキは顔をしかめた。


 だが、牽制の後には……、視界がダメージに揺れる刹那の間に、やはりコテツは腕を弓なりに引いていた。ユウキは目を見開き、同時に腹筋に力を込める。

 

「へっ……、下っ腹が空いとんでっ!!」


ボゴォォッ!


「が、っ……!」


 頬に喰らった拳で体勢を崩したその一瞬。勢い鋭く放たれたコテツの拳が、腕でのガードの間に遭わなかった腹筋を貫いた。力ませた腹筋をものともせずにダメージが広がっていく。

 

 腹部を襲うとてつもない衝撃に、ユウキは目を見張った。内臓まで轟くような一撃。アラトに負けぬ劣らぬの剛腕は見かけだけではないらしく、決して何度も受けられるようなパワーではなかった。


「ふっ、決まったな。……なんちて」


 コテツは冗談めかして舌を出し、ユウキの腹から拳を引き抜く。


 拳が抜かれた後も痛みは重く響き、ユウキは二歩ほど後ずさって、倒れるまではいかなくとも背を丸め、膝に手をついた。


 それを目の当たりに、コテツは小気味がいいように大口を開いて笑った。


「くはは、やっぱ俺の圧勝や!! こんなちっこいのが同期で最強説とか、冗談や思とってん!」


「…………」


 何の噂を聞いたのかは知らない。ただ、嘲笑うようなコテツの声が頭の上からかかってくる。陰湿さを感じない明瞭な声色だからこそ、余計に引っかかった。

 

 試合の真っ最中で怯んでいるのに警戒した追撃が一向に来ないということは、その言葉からも分かる通り、よほど見くびられているらしい。

 自身の前髪の影で、ユウキの瞳孔が密かに開く。ダメージを抜くようにそっと息を吸った。


「……さぁて、確認出来たら、あとはゆっくり料理したるからな。試合もその後も楽しみにしてきたんやから、簡単に降参すんなよ?」


「…………」


 拳を打ち合わせ、ようやく追撃に出るつもりなのだろう。たった数秒、だがそれが命取りになるのが格闘技の試合だ。

 

 コテツが前まで迫り、拳を握る。ユウキは背を丸めたまま、横に逸らすよう顔を上げた。


 口元に滴った汗を腕でぬぐい、強烈な一撃と嘲笑を見舞ってくれた相手を睨み付ける。怒りで何かが弾け、今一度確実に潰す敵と見定めたような、冷たく輝く瞳。

 悠々と歩み寄ろうとしたコテツは、その眼光と、確かな雰囲気の変化を感じて立ち止った。

 

「……ゆーくん、顔怖いで? もしかして今からが本番とか?」


 コテツが肩を回しながら尋ねるものの、返事はなかった。ただ、空気が先ほどより張り詰めていく。ユウキはコテツをじっと睨み付けて視線を離さず、やがて丸めていた上体を立たせ、静かに拳を構えた。


「……ふぅん。けど、雰囲気いくら出したって……、んなもんにビビるか、コラッ!」


 キャンバスの上で軽快なステップを刻み、笑みを浮かべて吠えるコテツが拳を固め、その頬を狙う。今度は牽制でも何でもなく、もろに受ければ意識を刈り取るかのような角度からのストレート。


 ユウキは態勢を若干低めて、構えた腕同士の密度を上げ、その攻撃の接近を静かに見つめていた。


「悪いけど、ちゃっちゃ倒して、楽しませてもらうで!!」


 リーチの差は十分。距離にさえ注意すればカウンターなどありえない。例えその一発で終わらずとも後は一方的に嬲り殺しだ。


 今までに踏んできた試合の感覚からその確保すべき距離を予測し、そして己の勝利を確信したコテツは、それ以上何も疑わずにユウキへと拳を振りぬいた。


 ドガッ!!


「っ!?」


 頬に拳がはじける。ライトで飛散した汗と唾液の滴が宙で輝く。


 だが、次の瞬間に殴られたのは、仕掛けた側のコテツの方だった。


 カウンターが綺麗に決まり、強烈な角度で拳が頬にねじ込まれたコテツはあらぬ方向を向かされ、その衝撃で後ずさった。

 予想外の一撃、そのダメージは意識さえも揺らす。そのまま倒れるかに思えた寸前、ロープを掴んで体制のぐらつきに耐える。かろうじてゆっくりと立ち上がり、頬をさする。

 

 分かったのは、綺麗に殴られたことだけだ。何故、殴りかかった筈の自分が……。

 

「っ……!? ……お前……!」


「やはり、見かけ通りタフなんだな、お前」


 ユウキはそれだけ告げると、再び拳を構える。コテツはひたすら驚愕していたが、そのユウキの見たことのない、……おそらくしっかりとこだわられたような独特の構え方や腕の位置をみて、被弾した反撃の理由を理解する。


 やはり、奴は特別なことはしていない。ただ……。


「……なんやねん、結構パンチ早いやないけ」


 つまりは、そういうことなのだろう。腕が伸びるわけがない。単純に、早いのだ。

 

 踏込もパンチもこちらより格段に。しかも威力もある。もう少し入り込んでいれば脳を揺らされそのままKOもあり得たかもしれない。

 ユウキは両拳を高く構えていた。空手に近い独特の構え方なのだろうか。その構え方から、自身の経験からではありえない筈の距離感からもろにカウンターを受けてしまった。


「……どうした? さっさと終わらせるんじゃなかったのか?」


「……あれ、キレて本気出させてもうた? ちょっと待ってぇや。計算違いもええとやから」


「人を見かけで判断するからだ。……せいぜい後悔しろ」


 ユウキが低い声で唸るのに、コテツは口元だけで笑みを浮かべつつも、首元に垂れた冷や汗をぬぐえないかった。


 多少拳が早かろうが、威力が強かろうが、戦略が修正できる程度なら問題はない。

 

 だが、ユウキの今の反撃の速度は完全に予想外だ。コテツの自信は根拠のないものではなく、前もって相手の試合を見て情報を収集し、その上に構築された戦略の上にある。ここに来る前にもそうしてきた、格闘技で勝ちにこだわり、金を稼ぐ選手なら誰だって人事を尽くすだろう。

 

 足を使ってよく動く奴だとは思っていた。だが、ここまで早いとは。自分の反応と比べて実際に戦ってみなければわからない、いわゆる所見殺しという奴だ。

 

(こんなん、実際に受けてみなわからんやつやん。初見やと何人も倒してるんやろな……)


 やれやれといった様子でコテツが息を吐くが、ユウキは首を揺らし、ついに動いた。

 

 何かを考えている様子だが、それを待ってやる理由はない。奴のように見くびって余裕を持つことも、遠慮することもしない。ただ、倒すまで続ける。短い息を吐き、ユウキはコテツへと迫った。



「っ!」


 対策の絶賛再考中だったが仕方ない。あの速度で接近されれば危険だ。瞬時にコテツは蹴りを放って迎撃した。だが、ユウキは命中すれすれの瞬時に身を反らし、それを躱した。


(クソっ、ここで避けるとか、どんな反射神経しとんねんっ!)


 予測させるような大ぶりなモーションはなかった筈。だが、完璧に反応されてしまった。やはり、何もかも早い。焦燥で瞳を揺らすコテツの前まで迫り、ユウキは勢いよくキャンバスを蹴った。


 ドボォッ!


「が……っ……!」


 突き上げるように飛び膝蹴りを放ち、コテツの腹部へとユウキの膝がめり込んだ。


「がっ……、くっ……うらぁ!!」


「っ」


 コテツは腹を抱えつつも、すかさずにユウキの膝を掴み、手繰り寄せるようにしてその足を捉えた。

 

「へっ……捕まえたぞ、オラッ!」


 腹に突き刺さるような衝撃を耐えながらも、捕まえたその足を引こうとする。だが、それより先、全身を捻ったユウキの反対側の足がすでに振りかぶられていた。


「が……っ!」


 首を一閃するように、鋭い蹴りが横頭へと振りぬかれる。唐突に見舞われた衝撃にコテツは目を見開いて呻き、空中でユウキの足から手が離れる。両足が浮いている中でも、ユウキは身を翻す様にして態勢を整え、手をついて回転するようにキャンバスへと着地した。


 それとほぼ同時に、ユウキは体勢を崩したコテツへと再び迫った。


 ドボォッ!


「ぐ……うぅ……!!」


 苦しげに細めたコテツの目がなびく勇気の髪を捉える。同時に、その腹部に尋常でない衝撃が付き走った。


 垂直に突き出された拳がコテツの腹筋を潰し、深くまでめりこんでいく。ユウキはすぐに拳を引きと、ほぼ同時に反対の拳を突き出した。

 

 ドボッ! グボッ! ドガッ! ドボォッ!


「がっ……! ぶっ……、っぁ……がっ……!」


 無防備にさらされた腹筋へと、ユウキは連続で拳を繰り出していく。反射的な防御すら許さない程の速度で交互の拳による突きを繰り出し、鍛えられたコテツの強固な腹筋を貫き、穿っていく。

 

 呼吸さえままならない激しい連撃に悶え、唾液の滴が宙に弾ける。


 ゴッ! ドボッ! ドガッ! グボッ! ドガッ! ドボォッ!


 ドゴッ! ドボッ! ドガッ! グボッ!


「ぐっ……っ、ぅあ……、ぐぁ……っ!」


 おおよそ、数十発。凄まじい威力が腹や胸に連続で襲い掛かり、コテツは体を揺らしながら後退し、いつしかコーナーまで追いやられていった。


 コテツの背がコーナーについた。それと同時に、ユウキは息を吐き、拳を引いて腰を落とした。

 

 連撃への反応すら間に合わっていない様子のコテツを、ユウキの冷静な瞳が睨む。


 グボォォォッ!


「が……ぁ……!!」


とどめの一撃、そういわんばかりに、垂直に突き出された渾身の拳がコテツの腹を射抜いた。


指の腹までがコテツの中へと埋まり、腹筋を陥没させてコーナーに串刺しにする。前から後ろへ通っていくような衝撃をくらって、コテツは口を大きく吐いて体が仰け反った後、力なく首を下向けた。



「はぁ、はぁ……」


 一方的に続けた熾烈な連撃の後、繰り出した側のユウキ自身も少し息を荒らし、一歩後ずさった。


 あたかも空手の稽古が終わったように、拳の位置を整え、息を整える。一呼吸の間に三発、いつも通りにそれを意識し、結果凄まじい速度で責め立てていく。これだけ打ちこめばダメージは決して軽くないはずだ。

 もう大した軽口どころか、まともな反撃もないだろう。この後も試合のペースを握り続け、最後まで追い詰めていく。


「……結局、口だけだったな」


 コーナーの前。辛うじて意識はとんでいなかったのか、肩で息をして俯いているコテツをそれでも油断のない目で睨み続け、ユウキは拳を固めた。



「……なーんてな」


「っ……!?」


「……っと、もう終わりか? ゆーくん」


 追い詰めた、そのはずのコテツからそんな声が聞こえて、ユウキは目を見開いた。


 力なくうな垂れて、コーナーに背を預けていたコテツが、顔を上げ、散々に殴り潰されたであろう腹をさすりながら前へと歩み出てくる。

 

 だが、コテツの呼吸とともに脈動する腹筋は、既に幾分かそのハリを取り戻していた。

 想像していたようなダメージの気配を殆ど覗かせずに。いくら驚いたとしても今は試合中だ。ユウキは驚愕しつつも相手の動きの機微に警戒しつつ、しっかりと身構える。


「いっつー……、今の、マジ利いたわ~。もうちょいやられたら負けてたかもな~」


「……そんな風には見えないけどな」


 相手が相手なら決着はもうついているだろう。それほど思い切り叩き込んだはずだ。その顔色を覗き見て、ユウキは冷静な声色で言った。


 ダメージがない、わけではないだろう。だが、あれだけ打ち込んでここまで平然としているのは想定外だった。ヘラヘラしていてもしっかり体は頑丈に作りこまれており、とりわけスタミナはずば抜けているということか。


 あれだけ毛嫌いして戦い方はまるで違っていても、肉体のステータス自体はやはりアラトと似ている。であれば、思いもよらぬ反撃を食らう恐れは試合の最後まで健在だろうし、やはり最後まで気は抜けない。

 

「えー? いや、悔しいから顔に出してへんだけでホンマに結構利いてるで? モノホンの試合で弱ったとこ見せたら、相手付け上がらせるだけやしなぁ。

……でも、今のでマジ後悔したわ、正直、ゆーくんの事バカにしとったけど……」


「だったら、いい加減ゆーくんをやめろ。そのどてっ腹にもう百発ぶち込むぞ」


 ……ならばこちらも、相手が倒れるまで打ち込むだけだ。ユウキはいつでも応戦できるよう体勢を作り、相手の動きをしっかりと見定めた。

 

「いやぁ、これ以上やられたらマジ死ぬって。つーか、もうさせへんけどな?」


 そして、ユウキがキャンバスを蹴る。ダメージが抜けきる前に追撃しようとした、その直前、コテツの構えが変わったのが見えて、ユウキは寸前で踏みとどまった。

 

 今迄のように殴り合う前から一転、腕の力を抜いた様子で、拳を開いている。ユウキは一瞬目を見張り、すぐに目を細めてそれを睨み付けた。

 

(……なんだ、あの構え……?)


「ゆーくん、打撃は俺よりうまいんやな。しゃあない、認めたるわ。あんなもん真剣に付き合ってたら身が持たへん」


「……あっさり認めるんだな。前畑はムキになって打ち合ってきたが」


 ……相変わらずその意図、そして今ではその身構え方の目的すら掴めないコテツの言葉に、コテツがアラトとよくケンカしている事を思い出して、比べるようにユウキは吐き捨てた。

 

 実際、先の攻勢は流れるように続けられたらよかったものの、芯まで響く重い一撃を連発できるコテツに反撃されれば危うい状況は変わらない。もし、コテツに同じように連発で殴り返されれば、今のコテツのように余裕で会話ができるかどうかわからない。

 

 そんなコテツが、立っての殴り合いを捨てるという。ユウキは訝しそうにその顔を睨み続けた。


「そりゃまぁ。俺らがやってんのはボクシングやないからな。んなもんより結果や。プライドなんか一円にもならんし、勝てたらどうでもええから」


 言葉の通りなのだろう。間違いない。打撃を捨てるつもりだ。そして、こちらにもそれを強いるように身構えている。


「まぁ、あのサル以下の下等生物のアホにはでけへん芸当やろうけど……、ルールを最大限活かして、相手のやり方見てこっちが合わせんのが、俺のやり方やから」


(あれほどの立ち技を持っていて、グラウンドにも自信があるのか……?)


 だからこその切り替えなのだろう。でなければ、元気にしゃべれるとはいえあれだけ打ち込んだダメージを背負って、無謀な賭けに出てくるとは思えない。

 こちらが立ち技一辺倒だと考えているか、よほどグラウンドにも自信があるのか。はたまたその両方か。


「空手とかやってたやつとやるときはこれに限るなぁ? 逆もしかりやけど」


(何でもありの、地下格闘技……、生粋のオールラウンダーというわけか)


 間違いない。打撃と同じか、それ以上の実力を持っているはず。でなければ、体格の有利を十分認識していながらそれに持ち込もうとするはずがない。

 

「ほら、けぇへんのやったら俺からいくで!」


「っ!」


 ……しまった! 図らずも反応が遅れたユウキがそう自覚した瞬間。体勢を低めにしてキャンバスを蹴ったコテツに腰を掴まれ、そのまま前のめりに体重を押し付けられる。

 

「っ……!!」


 体重差をそのまま受け止めるような形でタックルをもらってしまった。このまま倒されればもれなくコテツの思惑通りになる。ユウキは必死に逃れようと腕を使い、体を逸らしたが、コテツは無駄のない流れでユウキの逃げようとする手を次々と封じていき、上から体重を押し付けていく。

 

 ならばとコテツの背中を何度も拳や肘で叩くが、コテツは全く止まらなかった。


「ぐっ……!」


 やはり、自分から切り替えてきただけあって、攻め方に隙が無い。あれだけの拳を持ちながらここまでグラウンドにも適応できるとは。


 とにかく、まずい。ユウキは何とかコテツの肩を掴んで引きはがそうとするが、させじとコテツは身動きを封じるように密着させていった。互いの汗がはじけ、それで艶やかに浸され、激しい駆動で隆起しきった互いの筋肉が滑らかに軋みあう。

 

 伸し掛かられる苦しさを堪え、覆いかぶさってくるコテツの肩の上から首を這い出して、ユウキはその横腹めがけて拳を叩き付ける。だが、まともに肘を引く距離すらなく、大したダメージにはならなかった。


「いたっ、いたいって~……、うっし、捕まえた♪」


「……ぐっ……」


 目まぐるしくもみ合ううちに、とうとう完全にコテツに有利な位置を取られた。コテツは鼻歌交じりに腕を巻き込んでユウキの首の後ろから手を回す。しっかり固定し、腕の筋肉を力強く振り絞ると、途端に短く呻くユウキの顔がコテツを向き、その右腕の自由も奪った。

 

 そして、ユウキの左の手首も掴んで、キャンバスに押し付ける。鋭く睨むユウキの鼻先にて、その動きを自分の体で完封したコテツはにやりと満足げに笑った。

 

「ふはっ。んなビビらんでもええやん。なに、たくましい男前に捕まって惚れてもうた?」


「くそっ……!」


 コテツの悪戯な笑みが目の前にある。その鼻っ柱を殴る為にも、軽口に付き合っている暇はない。

その手から逃れようとするも、しっかり捕まっているうちは単純な腕力の差が明確となる。しかも体勢の悪さから、どれだけ押し返そうとしても、しなやかな筋肉で覆われたコテツの腕や体はびくともしなかった。


「んじゃ、これ以上殴られたないから、とりまその腕から頂こかな?」


「何……?」


 コテツは涼しい顔で言い放つ。ユウキが訝しむようにその顔を睨み付けた直後、コテツは密着したユウキの体の上をすべるようにして自身を横倒しにし、捕えていたユウキの右腕を腕に抱え、素早くホールドした。


「一年最強言われてるゆーくんと最後まで真っ正面から殴り合うんもおもろそうやけど……、負けるん悔しいし、確実にいかせてもらうわ。まずは弱ってもらおか?」


 散々に殴られて利き腕は把握済み。ユウキの動きを封じたまま、狙いを定めたその腕の関節を攻める準備をあっという間に完成させる。


 コテツが力を込めた途端、拷問のような責め苦が始まり、捕らわれていたいたユウキの腕がぎしりと軋み始める。


「がぁ……っぁ……!!」


 打撃とは別種の苦痛に、ユウキの口の端から悲鳴がこぼれ始める。たまらず頭を起こそうとしたユウキの額を押しやるように膝を当て、キャンバスに貼り付けにし続ける。

 

 熱気の揺蕩うリングの上、汗だくのユウキの体に冷ややかな汗が流れ始める。コテツはユウキの腕を捕まえつつ、上機嫌そうに口を開いた。

 

「ボコスカ殴り合うんも燃えるけど。あんまり技術に差が出てくるとこっちが痛いだけやし。それ考えたら関節技ってええよなぁ。相手一方的に痛めつけて、ギブさせたら勝ちなんやから」


「ぐぅ……うあ……っ!!」


 言葉の折に、より一層力を込める。ユウキの肘の関節がさらにあらぬ方向へと向くことを強要され、その痛みにユウキの顔は苦悶で歪んだ。

 

「もう何発も喰らってるし、知ってるんやで……。んな体勢からでも、見かけによらず重いパンチ打つんやろ?」


「くっ……! は、なせ……っ!」


「はなせ、いわれて放すアホはおらんやろ……、うらっ!」


「がぁぁ……っ! う……ぁ……!」


 また、力を込めるコテツの腕の筋肉が血管が目立つほどに隆起し、ユウキの腕の角度が変わる。

 

「オラッ。こう見えても元プロやし加減は分かるけど、ちゃっちゃとギブせんと腕折れんぞ~」


「ぐ、そっ……!」


 このままでは利き腕を殺される。脱臼や骨折などすれば、この試合、間違いなく負ける。

 

 ユウキは意を決したように苦しげに目を開くと、比較的自由な腰へと力を込めた。


「な……っ!?」


 勢いよく持ち上がった下半身から伸びたユウキの足首が、コテツの顎先に引っかかる。コテツがそれに反応した直後、その足を引き延ばした。

 

 コテツの顔が振りぬかれるように離れ、腕の拘束が緩む。その機を逃さず、ユウキは右腕を引き抜き、今度は逆にコテツの体を上から抑え込んだ。

 

「なめるなよ……!」

「……これ以上、予想外な動き見せされたら、立ち直られへんかも……」


 ここまで体が柔らかく、そして腹筋のみで下半身全てを持ち上げられるとは。コテツはユウキの腕を掴みつつ、再び上に回ろうと力を込めた。再び立ち技に転がり込むよりは、力でさえ押し勝てれば再び優位をとれると踏んで、強引に逃れようとはしなかった。


 だが、勝気な笑みを崩さないコテツの耳元で、ユウキは冷ややかに言い放つ。


「そんなに寝技で比べたいなら……、お前に付き合ってやる」


「……へ……?」


 ユウキのその言葉で、呆気にとられたコテツを上から押し倒す。先ほどやられた様に体を密着させ、お返しとばかりにコテツの右腕をとった。


 捕えた太い腕を肩の付け根から絞り上げる。途端にコテツは激しい呻き声を上げた。

 

「いでででででっ!」


 今までやられた分を返すかのように……、力を込めて関節を極めていく。コテツは大口を開けて悲鳴を上げつつ、予想だにしないこの状況にひたすら目を丸めていた。


「なっ!? お、お前……なんで……?」


「……誰が立ち技しかできないと言った」


「……言ってないけど、そんな雰囲気出してなかった?」


 腕の使い方などを近くで観察して、その動きを空手を基にしているオリジナルなのは分かっていた、だが、寝技ですらもその速度は健在とは。というか、寝技も対策済みだったとは。

 

「いだだだぁっ! ぐっ、そぉ覚えとけよお前コラッ! いっ……!ゴメンゴメン、マジ折れるって!」


 ……いや、格闘技に対する勉強熱心さはその負けず嫌いからだろう。対抗心からかコテツの意趣返しをして、ユウキは淡々と腕を絞り続ける。コテツは襲われる痛みに呻く一方で、呆れたように眉を傾けた。


「? ……痛く、ねぇのか……!」


 腕の可動部分を不可逆な方向に捻じ曲げているのだ。痛くない筈はない。だが、痛みを口に出して吠える程度には、存外に余裕な様子のコテツに不可解さを覚え、ユウキは尋ねた。

 

「いだだっ……めっさ痛いわボケっ! 叫んで我慢してるだけじゃコラ! ゆーくんが極めきれてないから全然耐えれるけどな~!!」

「何……?」


「……ふはっ、寝技言うても、本とかで学んだにわか知識やろ?」


 コテツのセリフにカチンときて、ユウキは黙々と腕を極め続ける。それだけコテツの呻きは痛々しくひき伸びた。

 だが、やや図星でもあった。寝技に対する対策は身に着けてきたつもりだが、今までの試合ではあまり試したことはなく、こうした戦略を仕掛けられることもなかった。


 ……実際の総合格闘技の試合に出続けて来たコイツには、それが見抜かれている。コテツは痛みに顔をゆがめつつも、口元に微かに笑みを浮かべてさえいた。

 

「っふ……! ホラな、その体勢で技かけ続けんのもしんどいやろ? 力が抜けたら最後やから、覚えとけよ……!」


 痛みを堪えて、しかし笑うコテツに、ユウキはその顔を睨み付ける。


「…………」


 ……だが、ユウキは重たい息を吐くと、固めていたコテツの腕を解放した。

 

 されどその四肢はしっかりと縛るように体重を乗せ、キャンバスに押し付けたままで自由を奪う体勢は維持し続ける。


「……えっ? マジで解いてくれんの? せやったら、重いしどいてほしいんやけど。ついでに負けてくれたら感激やし」


「うるせぇ、どくわけないだろ……」


「んなこといって、俺から離れたくないんとちゃうの? いやぁ、試合相手もファンにしちゃうとかなんか悪いなぁ~」


 辛うじて動く手首から先を何とか伸ばし、ユウキの横腹をポンポンと叩く。

 

 そんな手、振り払ってやりたかったが、両の手はコテツの両腕を封じるのに使っており、顎でさえもコテツの肩に乗せ、そこから体重をかけている。それが叶う余力はなかったし、コテツもそれを十分承知の上だろう。

 

 自身の俯く顔のすぐ真横に、仰向けのコテツの顔がある。互いの上昇した体温を密着した部分から感じ合い、ユウキはコテツの動きを全身を使って封じたまま、ふと、小さく口を開く。


「……立たねぇのかよ。このまま、寝技の掛け合いを続けるつもりか?」


 コテツの頭のすぐ横、耳元でそっと囁く。コテツが首をかしげると、揺れた髪から甘いリンスの匂いが鼻をくすぐった。

 

 何を言っているのか分からなかったのかも知れない。それをさせまいとして封じているのはこちらなのだから。


 だが、だからこそ疑問だった。コテツはグラウンドで致命的な技を取られないよう警戒はしているが、だが、再び立ち上がろうとはしていない。押し倒しているコテツから殆ど抵抗の力を感じず、自分にされるがままにされている。ユウキにはそれが不思議だった。

「また殴りあいにもっていったら、スタミナ残ってるお前の方が有利だろ……」


 打撃の打ち合いを嫌って、寝技に切り替えてきたのは向こうだ。だが、試合の経過でスタミナに差が出てきたことを悟ったとしたなら、話は違ってくるだろう。

 

 ……ずれた体勢から技をかけ続け、極まり方が未熟だったことや限界が近かったことを見抜かれたのは、悔しくも図星だった。だからこそ、コテツが立ち上がろうとしないのがわからない。

 

 致命的な寝技をかけられ、ギブアップしてしまえば、どれだけスタミナが残っていようとも負けになる。それは互いに変わらないが、それではコテツは温存したスタミナを活かしきれず、全て棒に振ることになる。

 

 殴り倒せるだけの自信があるなら、再び切り替えるのも得策だろう。さっさとグラウンドに持ち込んできたコテツがそれを考えない筈はない。

 

 それならそれで、全力を尽くすのみだが。


「まだ、俺の事を舐めてるのか……?」


「……さぁて、なっ!」


 ユウキが少し目を落として呟いた、その瞬間……。

 

 コテツは勢いよく頭を揺らし、ユウキの横頭に衝突させた。痛みは一瞬、頭突きと言えるほどダメージはない。だが、その衝撃で体が痺れるような感覚が走り、腕の力が抜けた。

 

 一瞬の硬直を逃れられない頭への衝撃だが、覚悟していた方が立ち直りも早いのだろう。コテツはその刹那の隙をつき、覆いかぶさるユウキの肩を掴み、そのまま横倒れになるようにして、上下を交代する。

 

 気が付いた時には、目の前がコテツの影に覆われている。眼を見開くユウキを眼下に見下ろし、コテツは舌なめずりした。

 

「くはは、油断したなぁ。話すんやったらもっとしっかり腕に力込めとかんとなぁ?」


「くっ……!」


 体勢は劣勢。ユウキはそれでも、すかさず肩を抑え込もうとしたコテツと指を絡め、再び体制を奪い合う力比べに受けて立つ。


「こ、の……っ!」


「っ。諦め、悪いなぁ……オラっ!」


 全力を込めて押し合うようにして、互いの意地を挫かんと押し合いになった。敵対心が高じて力が籠められるたび、二人の腹筋や胸筋が硬く隆起して溝を作り、上半身の筋肉が限界まで張り詰める。


 だが、互いに歯を食いしばって力を押し付け合う中……、次第にユウキの方が押しやられ、やがてキャンバスへと手の甲を押さえつけられることになった。

 

「はぁ、はぁ……。へへっ、ちょっと体勢と相手が悪かったなぁ、ゆーくん?」


「く、そ……!」


 やはり、コイツの腕力から力づくで逃れるのは厳しい。ユウキは息を荒らして吐き捨てると、コテツはふと先ほどの問いを思い出したように口を開いた。


「……いや。ゆーくんがここまで寝技出来るとか思わんかったし……、でも、今更殴り合いに逃げんのもなんかなー、って」


「…………っ」


「まぁ、俺がそれをせえへんのはなんぼか理由あるけど。ゆーくんの打撃が怖いんは相変わらずやし、お互い痛めた肩でどうなるかわからんし……」


 右腕を極められたのはお互い様だ。確かに、本気で殴ることはできないかもしれないし、パンチを撃てば打つほど、関節の痛みはひどくなるのかもしれない。


 唇を尖らせてコテツは言うと、もがいて脱出しようとするユウキの腕をとって押し込み、その首に上から腕を回した。

 

「自分から寝技の喧嘩吹っかけといて、んなみっともないことできるかってな。喧嘩の返品とかんな事ばれたら、ジムのオヤジ共に天井から吊るされるわ」


「……勝つために手段を選ばないんじゃなかったのか? 適当な事ばかり、いいやがって……」


 ユウキの言葉にコテツは歯を剥いて笑うと、ユウキの首をその剛腕の中に捕えた。首から下、暴れもがくユウキの体を遊ばせておくように体の位置をずらす。

 そして、迫る圧迫感がユウキを襲う。熱気のほとばしる筋肉に喉元を圧され、次第に締められる力が強くなってくる感触。

 


「…………!?」


「安心しろって、もうそのカワイイお顔殴ったりせぇへんから。レスリングなんざ知らんけど。……そろそろ疲れたし、終わりにしよか」


 ギシッ……、ギシッ……!


「ぐ……あっ……」


 上方向から首に圧がかかり、同時に締め上げられる。

 

 呼吸路をふさがれて息もままならず、ユウキは自身の絞り上げてくる剛腕に指を立て、苦しげに目を細めた。


「かっ……はっ……!!」


「はは、苦しかったらギブしてもええんやで? まぁギブするまで放す気ないけど、な!」


 もがくユウキを見て景気よく笑うと、コテツが一段と腕に力を込める。ただでさえ堅牢な筋肉で覆われたそれは更に太く固く膨れ上がり、より強くユウキの喉元を圧迫した。


 いくら首から下をじたばたさせても、コテツには触れられずまるで抵抗の意味をなさなかった。次第にユウキの目が虚ろになっていく。

 

「お、そろそろおねむの時間か~? 結局ギブせぇへんかったな、強情なやっちゃ」


 間もなくして落ちるだろう。その動きは既に完封した。これ以上何を仕掛ける必要もない。未だ押し込む様に力を込めながら、コテツが肩をすくめて言う。

 

 その声すらも、苦悶し続けるユウキの耳にはかすれたように聞こえてくる。呼吸ができず意識は遠のいていく。

おぼろげな意識の中で感じるのは、自身の敗北の予感。


 ユウキは静かに目を閉じた後……、コテツの後頭部から震える手を伸ばした。



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