山々の木々が美しく色づく十一月。
一時期は冬に向かって冷え込んでいましたが、私の住む地方では小春日和が続き秋の装いでは日中は汗ばむこともある程でした。
季節の変わり目から、地域によって様々な気候である月かと思いますが、
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
今月の頁をめくるは、最近思うようになった「時間の流れ」について。
時代的な意味での時間の流れではなく、
体感としての時の流れについてお話します。
私は長らく関西でひとり暮らしをしていたが、ちょうど去年の暮れ辺りに地元に戻って在宅の仕事をするようになった。
それから少しして、感染拡大や移動自粛などの規制が始まったので、ちょうど良いタイミングで戻ってくることができた。
私はこの「ちょうど良い」を「おかげ」と言っている。
この話については、また機会があればお話したい。
地元より都会であった関西から故郷へのUターン、通勤の日々から在宅への切り替え。
この変化は私にとって大きかった。
それまで加速し続けていた時間が緩やかになり、これまで本当に目まぐるしい時間を送っていたんだなぁと実感した。
あの日々も楽しかったけれど、今は体力が追い付かないなぁなんて弱音を吐いてしまう。
旅行は好きだが、基本的に家が好きなので
引き籠っていろと言われれば、いつまででも引き籠れてしまう人間だ。
だから、ずっと家にいて仕事や趣味のことをしていたら、一気に体が不調になった。
通勤時間程度の移動も大切な運動だったようで、それがなくなって体が「今の状態を続けると危険だぞ!」と知らせてきたのだ。
酷い肩凝りや胃の不調からくる頭痛に悩まされ、私は出来る限り毎日散歩をするという習慣を始めた。
激しい運動やスポーツは得意ではないが、歩くことは好きだ。
これは関西に来た時に慣れた行動で、実は田舎の人間より都会の人間の方が歩く。
田舎の人は、目的地までが遠いので車を使うのが日常化していて、ちょっとの距離でも車を使うように感じる。
都会の人は、公共交通機関が発達しているので、一駅換算で生活距離を認識していることが多く「一駅二駅なら歩こうか」となる場合があるから、歩くことに抵抗感がない。
…と、これまでの生活から勝手に分析した。
特に私の住んでいた場所は、碁盤の目で整備された街並みなので、「この通りからここまでは歩ける」というイメージが住民に根付いている気がする。
そんなこんなで、散歩を日常の中に取り入れたのだが、これはとても良い。
自分のリズムで歩いていると、頭の中が整理されていくような感じがする。
パソコンの前に座っていると中々出てこない案が、ぽんぽんと閃いてくる。
目的地に向かうためではなく、「さんぽ」自体を目的として歩いていると、「足早に」歩くのではなく、マイペースになれるのがとても心地よかった。
歩いていると、季節の変化も目に見えて分かりやすい。
日々のスケジュール、生活圏内に流れる時間の緩やかさ、歩く速度。
これが自分にとって居心地の良いリズムになってくると、それまで見向きもしなかったことの大切さに気付く機会が増えた。
その一つが手紙だ。
友人に手紙を書く習慣を持つ人が何人かいる。
必ず年賀状を出してくれて、旅行先からハガキを貰ったこともある。
遠方に引っ越した友人は、季節の手紙を送ってくれたこともあった。
関西にいた頃の私は、どちらかというとその手紙に対して義務感で返事をしていた。
こう書くと薄情な人間に思われてしまうかもしれない。
だが、何事もメールやLINEや他のSNSでスピーディかつお手軽に連絡が取れてしまうのが当たり前になってからは、手紙やはがきのストックを持つことは無くなってきた。
手紙を貰った時はとても嬉しくて、気に掛けてくれたんだなぁと心が温まる。
だけど、返事を…と考えた時に、色々と先を考えてしまうのだ。
例えば…この子は伝統的なことが好き。せっかくだから古紙を扱っている文房具屋さんでレターセットを買おう。
あそこは仕事場からも家からも離れているから、休みの日に行こう。
それから郵便局で切手を買って、手紙を書いて…と、あれこれ考えてばかり。
貰ったときは確かに嬉しいのに、返事の段階となると義務感が生まれてしまう。
ある時、手紙を返すより先に実際に遊ぶことになった時に「まだ手紙書けてなくて…」と謝ると、
「私が出したいだけだから、気にしなくていいよ」と言われた。
「どこか旅行先で良い感じの絵ハガキ見つけたら、送って」と付け足された。
大らかな人だなぁと、彼女の人柄に尊敬の念を抱いたものだ。
そんな感じのことを伝えると「LINEとか既読ついたり、せかせかしたのは苦手なだけ」と言われた。
これを聞いたとき、学生時代に受けた心理学の講義のとある内容を思い出した。
昔、手紙が連絡のツールだった頃は、手紙を出して届くまで数日から場合によっては数週間掛かることもあり、そこから返信の手紙が戻ってくるのは自分が出してから一ヶ月以上先になることも普通だったという。
「便りの無いのは良い便り」
ということわざが生まれるくらい、返信がないのだって当たり前、という時代だったのだろう。
相手の元に届いたか、相手が読んだか、そんなタイミングは分からない。
また、返事を書いても届くのがずっと先だから「今」に特化した話題でなくても良い。
これが電話になり、メールになった。
メールは開封通知設定をしなければ相手が開いたかは分からないが、LINEは既読がついてしまう。
既読がついたのなら、「読んだのになんで返事がないんだ?」と相手に思われる確率がぐっと上がる。
いつからか、返事のタイミングを見張られるようになってしまったのだ。
先生はこれを、「便利さの代わりに、人は時間の速度に束縛されることになった」と表現していたと思う。
便利さとは、日常の「無駄」をなくしていくこと。
その為に色々な発明がされて、私達はその恩恵を受けて楽な生活をしている。
洗濯も掃除も料理も、昔に比べるとずっとぐっと楽になったのだろう。
だが、速さを追い求めるということは、自分にもそれが課されるということ。
人は時間を意識し、「早く」「速く」と求めるようになった。
これは便利さと同時に手に入れたもので、人は一度手に入れた文明を簡単に手放すことは出来ない。
(これが心理学のテーマだった)
だから、人は否応なしに加速していく時間に合わせていくことになるだろう、という話だった。
でも私は最近こういう「無駄」だと切り捨ててきたものの中にこそ、大事なものがあるのではないかと思うようになった。
特に、今年に入って日常のリズムがゆったりしたものになってからは、スピード感のあるものが浮き彫りになってきた。
春ぐらいに、リアルの友達とも繋がっていたTwitterのアカウントを削除して、二次創作などオタクの話だけをする今のアカウントに移行した。
その時に、リアルの友達とは別の連絡手段を持っていた為、敢えてフォローしなかった。
寂しくなるかなと思ったが、ふとした時に「元気~?」と連絡が出来る今の距離感がとても心地良いのだと感じるようになった。
というのも、以前はたまに会って遊ぶ時も、互いの近況報告がほぼツイートした内容と重なるので、お互いが「まあ、知ってるよね…」という感じだったのだ。
今は、最近どうしているかは知り得ないので、ふと「元気にしているかな」と思ったときに連絡をするようにした。
以前から手紙をくれていた人達には、思い切ってこちらから手紙を出してみた。
暑中見舞いとか年賀状とかでしか手紙を書いてこなかったので、「特に何でもないんだけど、どうしているかな」という手紙をどう書きだしたものか…と、まだドギマギしながら慣れない自分がいるのだが、徐々に習慣になればいいなぁと思っている。
この時に私が書いた内容も、友達が手紙で返してくれた内容も「今」というポイント的な時間ではなかった。
ざっくりとした近況、会わなくなってからのあれやこれや。
この遣り取りが続いたら、きっと近況も言わなくなり「この前読んだ本、あなたも好きそうだから紹介するね」とかになるんだろうな、とこっそり楽しみにしている。
この「今」に限定しない遣り取りが、とても好きになった。
あの時、忙しい日々を送って私が面倒だと見なしていた「手間」が、今とても大切だと見直している。
元々、古いものが好きだ。
古いもの、とは歴史があるものだ。
ずっと昔からあって、現在まで残ってきたものには、きっと意味がある。
これからはもっと、古いものに気付きたいと思った。
古風であれ、ということではなく、
今を生きながら、昔のものを上手く日常に取り入れていけるようになるのが理想だ。
色々とチャレンジしてみようと思います。
これを書いている今日は、ぐっと気温が冷えてきました。
みなさま、風邪などひかれませんよう、お元気でお過ごしください。