坊野が風呂から上がると、居間から顔を出したのはこの島に来て初めて見かける中年男性であった。 「どうも、ご挨拶が遅れまして。 家内から話は聞いています。志津子の亭主の、山代隆宏です」 山代家の家長は、日に焼けた肌と身長はそれほど高くないもののがっしりとした体つきに、いかにも海の男といった風貌をしていた。 垂れ目気味の大きな瞳が、志津子とは対照的に大らかそうな印象を与える。 「こちらこそ、この度は本当に有難う御座います。 坊野透と申します。今日から三日間、お世話になります」 そう言って頭を下げた坊野に、「いやいや、大したお構いもできませんが、自分の家だと思って楽にしてください」と気さくに隆宏は笑顔を見せた。 その笑みのまま「そうだ。一つだけ、お願いなんですがね」と続ける。 「夜の10時を過ぎたら、外には出ないでください」 坊野は、その言葉に面食らい一瞬反応が遅れた。 学生時代の合宿などでは22時が消灯だとか、早く寝ろだとか言われるし、 旅館によってはその時間帯から廊下など夜用のライトに切り替わったりもするが、 個人宅でそのような規則があることに違和感を覚えた。 いや、寝ろとは言われていない。 外に出るなと言うのだ。 何故だろう。 そこまでを数秒間で思考し、先程風呂場で聞いた奇妙な音と匂いを思い出す。 何故だか、聞いてはいけないような気がして、 坊野は「わかりました」とだけ頷いた。 その後、一家の人と共に食事をし、部屋に戻った坊野は、 今日見聞きしたことを書き留めていく。 そして、移動の疲れもあってすぐに布団に入り眠りについた。 フッと目が覚めると部屋はまだ真っ暗だった。 いつもより早い時間に眠りについた為に、妙な時間に起きてしまった。 坊野はそう思った。 枕元に置いていたスマホを手に取って時間を確認すると、「2:45」と出ていた。 まだ十分に眠れるな、とスマホの電源を落として枕元に置き直す。 一瞬明るくなった部屋はまた元の暗闇に戻った。 坊野が目を閉じ、再び眠りに落ちるのを待っていると シュルと、軽い音が襖の向こうから微かに聞こえた。 その音を拾って、坊野はまた目を開く。 真夜中だが、この家の誰かが起きているのだろうか。 などと考えていると、シュル、キシキシ、シュル、と一定の間隔で音が聞こえ、 それが段々とこちらに近付いて来ているのが分かった。 坊野は廊下を歩く時にキシキシと鳴る床の音以外の、シュルと聞こえる音が衣擦れのものだと気付いた。 坊野自身は普段着にしないものの、上司である佐々木長官はいつも着物姿である。 袖が擦れたとき特有の上質な布の音と似ていることに気付いたのだ。 だけど、この音は誰のものだ? 家の人は誰も着物を着ていなかった。 寝巻が浴衣なのだろうか。 いや、この音は――廊下を布が擦る音だ。 そんな裾の長い着物を、一体誰が着て歩いているんだ? そこまで思い至った時、ふと音が止んでいることに気付き――そして、坊野は息を止めた。 "部屋の前に居る" 坊野は極力音を立てないように、布団から出るとスマホの横に置いていた数珠を腕に着けて立ち上がった。 夜目が利いてきたので、部屋の電気はつけないまま襖の近くまで足元に注意しながら歩き、ぐっと息を殺す。 やはり何かの気配を感じる。 襖を開けて確認するべきか…坊野が迷っていると 「答えよ」と、幼げな声が襖の向こうから聞こえる。 幼い声なのに、どこか威厳のある響きだった。 そして、その声が、今日島で会った誰のものでも無いことを改めて認識した。 やはり、この向こうにいるのは怪異なのだろう。 だが、人語を発している。知能のある怪異である可能性が高い。 「げんじのものか」 幼い声は、そう問いを投げかけてきた。 『扉問答』という怪異がある。 扉を一種の結界、境界と見立てる。その境界を越えるには、扉の向こうの者の許可が要る。 なので、問答によってその"許可"を引き出す、という怪異だ。 大体は、名を呼ばれて返事をしたり、「入っていいか」「開けてくれ」といった応答に応えた場合がトリガーとなる場合が多い。 だが、この怪異からの問いかけは扉問答ではないような気がした。 それは、長年怪異の研究をしてきた八百白館の人間としての経験から来る勘のようなものであった。 ほんの数秒で判断し、次いで質問の意味を推し量った。 げんじのものか、とは何のことだ。 「げんじ」といえば、真っ先に頭の中で「源氏」と漢字変換できた。 つまり「源氏の者か」と聞かれているのだろうか。 だとすると、一体いつの時代の話だ…と思いながらも 坊野は「違います」と答えた。 自分の先祖が武士家系だったとは聞いていない。 だから確証はないものの、否と答えた。 何より、この場ではそう答えるのが"正解"だと自身の直感が告げていた。 怪異の次の動きを警戒して、坊野は襖から数歩後退る。 数拍の間の後、シュルリと衣擦れの音をさせて段々と足音が遠のくのを聞いた。 音が完全に止んだのは、1分にも満たない時間だったろうが、 坊野には長い時に感じられ、はぁーっと内に溜まった息を吐き出した。 坊野はすっかり暗い部屋にも視界が慣れ、 光源の無いなか、スタスタと足早に布団まで戻るとスマホのメモ機能を立ち上げ、 "源氏の者かとは何か?"とだけ忘れないよう入力し、画面を閉じると 数珠を身に着けたまま布団に入る。 自分に起きた奇異な出来事が、夢なのかそうでないのか確認するために、 いつからかこのようなメモ癖がついてしまっていた。 秋分の祭り、島外の人間をもてなす山代家、正門を使わない住人、 生臭い魚の匂い、何かが跳ねるような音、 夜中の外出禁止、衣擦れの音、夜間の訪問、幼い声、源氏 ――頭の中で情報を整理しようと今日あった出来事を反芻する内に、 坊野の意識は再び深い眠りへと沈んでいった。 ● 6時に設定していた目覚ましアラームが鳴るより先に目が覚めると、布団から出て大きく伸びをした。 昨日自分が入力した文字がメモに残されているのを見て、深夜のことが夢ではないと確認をする。 あれからは、特に何も起こらなかったな。 安堵しながら数珠を腕から外し、身支度を整える。 洗面所に行こうと部屋を出ると、朝から活気のある賑やかさを身に浴びた。 台所からは志津子と娘の和気藹々とした声が聞こえ、話の内容から料理を作っているのだろうと推測出来た。 挨拶するのは顔を洗ってからにしようかと考えていると、後ろから声を掛けられ振り返る。 昨日会った時とは違い、白い作務衣を身に纏った家主の隆宏が「おはようございます。よく眠れましたか?」と朗らかな笑顔で挨拶をした。 坊野は昨夜の異変をおくびにも出さず、「ええ、お蔭様でぐっすりと」と笑顔で返す。 そして、隆宏の姿を見て「もう祭りの準備ですか?」と尋ねた。 「ええ、蔵の中にある物を出してきて、お山の上でお清めをします。 行事自体は明日の夜ですが、島の人間がお祭り騒ぎをするのは今夜なので、 家内達はその準備をしている所です」 「そのお清めの儀式、僕も付いて行って構わないでしょうか」 「ええ、もちろん。坊野さんはその為に来られたんでしょうし」 それから出発の時間を聞き、台所の志津子達に挨拶をした後に、 洗面所で手早く顔を洗い、朝食を済ませた。 ● 「昨日もここに登られていたんですか?」 隆宏の後ろについて歩きながら、坊野はそう尋ねた。 確か志津子が、隆宏がまだ山から戻っていないといったことを昨日言っていた記憶があり、そのことに触れた。 標高はさほど高くないが傾斜のきつい山だった。 だが、隆宏も坊野も息を切らす様子なくペースを保って歩く。 「ええ、お清め場所がタヌキや猪に荒らされていないか確認に行ってました」 「行事以外でこのお山は入られないのですか?」 「祠を綺麗に保つために、月一くらいで登っています。 その時は家内と一緒に登ることもありますね」 祠があるとすると、何かしらの神事なのだろうかと坊野は考えた。 記録に残っている限りでは、そのような内容は見受けられなかったのだが。 と、そこまで思考して、いや違うなと改める。 ノートの茶色いシミで滲んだ文字にはこうあった。 『一年の■■■■様がお渡り■■■をお許しください』 なんとか様、という存在がこの祭りの鍵となっているのか。 「隆宏さん、今更なんですが、このお祭りはどなたを祀っているものなんでしょうか」 坊野の質問に、隆宏は一瞬間を置いたように感じた。 「ウミワコ様ですよ。海の神様です」 「ウミワコ様……」 聞いたことの無い名称だった。 いや、確かここに来た時に正蔵が言っていた名前が、ウミワコ様だったと、 記憶の底に沈んでいた名前とカチリと合う感覚を得る。 山頂に近付くにつれ、傾斜が厳しくなりゴツゴツとした剥き出しの岩壁の間を抜けるようにして歩くこととなった。 以前、鎌倉を調査した時に歩いた切通を思い出す。 まるで天然の要塞だ。 ――鎌倉…源氏が幕府を開いた場所だな。 いや、これは自分の勝手な連想だから、ここで源氏の名が出るのは偶然か。 「着きましたよ、お疲れ様です。 それにしても、坊野さん体力あるんですね。 ここまでほとんど休憩なしで行けるなんて…」 「登山が趣味なんです」 嘘だった。 趣味でも何でもない。 調査で山登りをすることも多々あったので、自然と足腰が鍛えられたに過ぎない。 スラスラと出まかせが口から出るようになったことに罪悪感を覚えつつ、山頂の景色を見渡す。 開けた場所には特に何か建造物があるわけでもなく、周囲は木々に囲まれて見晴らしがよい景色でもなかった。 「祠はこっちです」 そう言って歩き出した隆宏の背に続くと、それほど穴の大きくない洞穴が目の前に現れた。 正面から見て左手には五輪塔が立っていたが、かなり古いものなのか 苔むして石も劣化しており字が読めない状態になっている。 坊野の視線に気づき「この島に移り住んだ山代家の先祖を供養したものだと聞いています」と説明をした。 「ご先祖様の…」 この五輪塔の様子から見ても、かなり長い歴を持つ家系のようだ。 隆宏に渡された懐中電灯を手に足下を照らしながら、暗い洞窟内を慎重に歩く。 ここ最近雨は降っていなかったはずだが、どこからかピチャン、ピチャンという水音が聞こえてきた。 細長い洞窟の先に、小さな祠があった。 額がない為、祠に祀られているものの名前が分からないが、ウミワコ様の祠なのだろうか。 鬼板の部分に、桐と揚羽蝶の紋が施されていた。 桐は天皇家と縁のある建物に使用されることが多い。 揚羽蝶といえば、平家だ。 ワコとは和子――身分の高い男の子を指す言い方だった。 身分の高い子供、そして天皇家、平家、海。 海に沈んだ幼少の帝――安徳天皇の名が、坊野の頭に浮かんだ。 そのとき、また、ピチャンという水の音がした。 水音に意識を現実に戻すと、隆宏は黙々と作業を始めていた。 祠の前に茣蓙を敷き、護摩道具一式を広げていく。 広げ終わると、祠の扉に手をかけ、丁寧に開いていく。 隆宏の後ろから覗き込むように身を屈めた坊野の目には、中が空洞になっているのが確認できた。 「なにも、ない…?」 思わず口に出した言葉に、隆宏は小さく笑って「そう思われるでしょう。よく見てください」と身体を横にずらした。 祠の中、正確には底が岩の地面になっており、中央が浅く窪んでいる。 その窪みに水が溜まっていた。 よく見るために顔を近づけると、微かに磯の匂いがする。 「これ、海水ですか?」 「ええ、そうです。この御水が、ウミワコ様と繋がっていると言われているんです」 「山頂なのにどうやって海の水が…」 「どこかで海と繋がっているんだと思います。潮が満ちると水が溜まって、逆に潮が引くと乾くんですよ」 隆宏は護摩道具である器にその祠の水を取っていく。 「この御水に浸けて、行事に使う道具をお清めしているんです」 一般的に見る金属ではなく木製の器だったのは、海水で錆びさせない為ということだろう。 作業を終え、隆宏はまた元のように扉を閉めて戻すと、ゆっくり立ち上がった。 「今日はこれで終わり。明日、ここで護摩を焚き、火を船に移します」 今度は坊野が先頭に立ち洞窟を歩いた。 出口が見え光が差し込んだ時、眩しさに思わず目を細める。 「坊野さん」 背後から声を掛けられ、目元に手を翳しながら「はい」と振り返った。 「祭りが終わるまでは何か起こるかもしれませんが、あまり気にしないようにしてください」 隆宏が立つところまでは光が届いておらず、その表情は陰になって分からなかった。 「何か…とは」 「祭りは特別な日なので、昔から色々あるんですが」 陰になったまま、隆宏はこう続けた。 「それがここでは当たり前のことですから」 (後編に続く)