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「桐島」の設定とか③(もし彼が軍人でなかったら)

もし桐島が軍人でなかったら、こういう人生を歩んでいた設定となります。

桐島紘一は見ての通り軍人ですが、幼少期は身体が弱く、幼い頃の桐島少年は虚弱体質で、彼にとっては文芸活動が唯一の楽しみでありました。

桐島が虚弱体質を「もし」克服できていなかったら、以下のような人生となります。

この記事には所々抜かしている部分があるので、違和感を感じられる箇所があるかもしれませんが、本編とは別の『キリシマ外伝』で全貌が明らかになる予定です。(桐島紘一の経歴と微妙に違う、桐島の具体的な経歴が決まっているにも関わらず、彼の年齢に20代半ば~後半とある程度の幅を持たせたいのは、他との関係性による)

キリシマコウイチの父親は、軍人だった。母親は高貴な血筋を引くお嬢様。

キリシマの父親は昔の苗字を語らない。彼の父は、キリシマ家に婿入りをしたのだ。

当時の入婿は肩身が狭い思いをした。ましてや彼は市井の出の軍人である。叩き上げの陸軍少尉。経験豊富ではあるが、基本的にそれ以上の階級に至ることができないキリシマの父は、養家内での立場が低かった。周囲からの侮蔑や嘲りに耐え続けたキリシマの父親の心は、静かに、確実に狂っていった。そしてその狂気は、己の息子へと向けられた。

キリシマは軍人に憧れたのではない。

ただ父を超える高級将校であるべしと、幼少から教育を受け続けてきたのだ。幼い子供に強いるには、あまりに過酷すぎる軍人教育。当然ながら、幼少のキリシマは父親に反発した。

しかし、キリシマが父親の言いつけに従わなければ、彼は父親に容赦なく罵声を浴びせられ、赦しを乞いて咽び泣くまで木刀で身体を強打された。その体罰を経験して以降、父親の機嫌を損ねることを嫌ったキリシマは、無心で勉学に励むようになった。

その甲斐もあり、1926年4月に入学した旧制学習院初等科では、キリシマは常に学年首席の成績を維持し続けた。

——よくやった。それでこそ、私の息子だ。

キリシマが初めての試験で満点を得たとき、厳格な彼の父親は、いつになく相好を崩し、キリシマの頭をくしゃくしゃに撫でて、彼を褒め称えた。偶々、虫の居所が良かっただけかもしれない。

しかし、父親に褒められた経験がなかったキリシマは、これまでの頑張りが僅かにでも報われたような気がして、とても嬉しかった。

だが、その日を境に、キリシマの父親の指導は、今まで以上に厳しさを増すことになる。

今の地位に甘んじるな。更に上を目指せ。お前は帝国の未来を背負う将校になるのだ。キリシマが成果を上げれば上げるほどに、父親が息子に期待する理想も高くなった。日に日に強さを増す父親からの束縛。キリシマは、全容の見えない山の頂を目指して、休みなく登らされているような心地だった。

次第にキリシマの心には、瓶の底に溜まる澱のように、父親への不満と苛立ちが積もっていった。そしてある日、過酷な軍人教育に嫌気が差したキリシマは、遂に己の父親に、真っ向切って反抗した。

——私は、軍人になどなりたくない!

己に理不尽を強いる父親が掲げる理想など、誰が叶えたいと思うだろうか。キリシマはこの時、己の軍人としての未来を否定した。だが、それがいけなかった。他ならぬ彼が、父親の理想を拒絶しては、いけなかったのだ。キリシマは、父親の狂気と逆鱗に触れてしまった。キリシマの叫びを聞いた父親の怒り様は凄まじかった。逆上した父親は、彼の身体を幾度となく木刀で打ち据えた。全身に広がる青痣。いくつもの骨に罅が入った。彼は泣いて許しを乞いたが、父親の怒りは収まらなかった。その場から動けなくなるまで少年を散々に打ちのめした父親は、彼を自家用車の後部座席に無理やり押し込めて、邸宅近くの河川敷まで運んだ。車を降りた父親は、彼の身体を抱き上げた。聡明なキリシマは、父親の意図を瞬時に理解して、必死に謝罪を繰り返した。もう二度とあんなことは言いません。だからどうか、許してください、と。しかし父親は全く聞く耳を持たず、泣き喚く彼を、無慈悲に川の中へと投げ込んだ。時期は真冬。水温は零下にも迫るほど冷たかった。キリシマは、極寒の水中でもがき苦しんだ。しかし、激痛に苛まれる身体は満足に動かせず、体温は急速に奪われていった。そして、キリシマは溺れた。生命は助かった。

しかし、視力が大きく低下した。免疫力も低下して、病気がちな身体になった。幼少のキリシマは、健康な身体と平常の視力を失った。この逆上した父親の暴走は、世間では川遊びに興じる少年が起こした事故ということにされた。キリシマは、この恐ろしい出来事を境に、父への不満と軍人への嫌悪を、完全に心の奥底に封じ込んだ。そして、“軍人は己の憧れ”だという虚飾で、自らの心の上辺を塗り固めた。そうしなければ、彼の精神は負荷に耐えられなかったのだ。己は父親の夢を叶えるための道具であり、それに不満を覚えてはいけない。悪感情を表に出せば、次こそ父親に殺されてしまう。死の恐怖に怯えたキリシマは、父親の傀儡人形になることでしか、己の命を繋ぎ止める方法を見出せなかったのだ。やがて身体の傷が癒えた彼は、なにかの箍が外れたように、これまで以上に勉学に打ち込む様になった。この時から、キリシマの運命は静かに狂い始めていた。

——お前は、軍人にはなれない。

1933年4月、キリシマは旧制学習院中等科に入学する。翌1934年、満13歳となった彼は、陸軍幼年学校への受験資格を手に入れた。陸軍幼年学校への入学は、父親が渇望する陸軍高級将校への第一歩。試験を受けないという選択肢はなかった。だが、初日の身体検査の時点で、彼は不合格とされた。その理由は、視力の低さと身体の虚弱さ。従軍に耐えうる体力があると、彼は判断されなかった。筆記試験を受験する権利さえ、キリシマは得ることができなかった。これを知った父親は怒り狂った。身体検査を担当した軍医に対してではない。肉体の虚弱さを克服できなかった息子に、お前はなんと情けない男なのか、と激憤を向けたのだ。

その原因を作り出したのは、自らであるにも関わらず。

キリシマは、その次年の陸軍幼年学校入試までの期間、父親からの理不尽な罵倒と暴力を受け続けた。強靭な肉体を得るためだと称して、父親は彼に毎日百回以上の木刀の素振りを課し、脚が動かなくなるまで邸宅の庭を走らせた。彼は父親に逆らわず、ただ淡々と従うだけだった。そして翌年、キリシマは満14歳となり、再び陸軍幼年学校への受験資格を手に入れる。陸軍幼年学校への入学が許される機会は、これが最後。試験の数ヶ月前から、父親の軍人教育にも一層の熱が入った。寝る暇も惜しみ、鍛錬と試験勉強に時間を費やす日々が続いた。仏門に入った修験者でさえ、これほどの苦難の道を歩みはしないだろう。その苦行に一年間も耐え続けた肉体は、未だ常人には及ばないが、それでも昨年よりは遥かに逞しく成長していた。旧制中学でも首席を維持し続ける学力は衰えず、キリシマの父親をして、筆記さえ受けられれば合格は確かなものだろうと思わせた。

そして来たる試験当日、キリシマは、再び残酷な現実を突きつけられる。

キリシマは、再び身体検査で弾かれることになった。視力の低さは、度を強めた眼鏡を掛けることで基準を突破した。しかし、一年を掛けて克服を目指した身体の虚弱さは、軍医の目から見て、未だ従軍に耐えられるほどの基準には至っていなかった。視力に劣り、体力に劣る。キリシマは、またも筆記試験を受ける以前に、不合格の憂き目に遭った。この報を聞いたキリシマの父親は、慟哭した。何故に私は、このような運命を辿らねばならないのかと。父親は激憤に身を任せて、手当たり次第に屋敷内の家具を破壊し、木刀で息子の身体を幾度も打ち据えたが、沈んだ気分は晴れなかった。生気が抜け落ちたキリシマの父親は、しばらくの間、幽鬼のように無気力な有り様を晒した。しかし、陸軍予科士官学校という次なる目標を定めることで、父親は立ち直った。次こそは、必ず成し遂げなければならない。父親は、更なる狂気に身を落とした。

そうしてキリシマは、1937年9月に陸軍予科士官学校の入試に臨むまで、再び地獄の日々を歩むことになる。書物以外のあらゆる娯楽を禁じられ、青春を自己鍛錬と勉学に費やした。

それはさながら、生き地獄の如き辛苦に塗れた灰色の時間だった。遠き異国の地に逃れることができたのなら、一体どれほど幸せであろうか。

キリシマは想像を膨らませる。ありもしない虚構に思いを馳せることだけが、あらゆる娯楽を禁じられたキリシマに許された、唯一の娯楽だった。やがてキリシマが、膨らんだ虚構を現実に落とし込むべく筆を取るようになったのは、必然であったのかもしれない。父親や使用人たちの目を盗んで、キリシマは己が考えた物語を、羊皮紙に書き綴った。筆を走らせ、白紙の上に新しい世界を展開する。

例えばそれは、気力と才覚にあふれる少年が、学友とともに陸軍幼年学校に入学し、厳しくも賑やかな学生生活を送る物語であったり、士官学校を卒業した精悍な青年が、帝国軍人として華々しいキャリアを積み上げていく物語であったりした。

キリシマは、帝国軍人としての理想の姿を、己が描く物語の主人公に押し付けることで、父親からの抑圧を和らげていたのだ。そうして人目を忍び、物語を記す僅かな間だけ、キリシマは己に強いられる理不尽を忘れることができた。文筆に親しむ以外に、彼の心が安らぐ時間はなかった。だが、教育と称した父親からの暴力が苛烈になるごとに、彼が文章を書く頻度は次第に減っていき、いつしか彼が筆を取ることはなくなった。キリシマは、ささやかな趣味を支えにして心を生かすよりも、己の感情を殺すことを選んだのだ。肉親から振るわれる罵倒の数々は、磨耗したキリシマの心を幾度となく引き裂き、血も涙も枯れ果てるまで彼の精神を斬り刻んだ。感情を押し殺し、父親の希望を叶えるだけの人形になることで、キリシマは理不尽極まる日々を凌ぎ切った。

己が軍人になりさえすれば、この地獄は終わる。ただそれだけを信じて、キリシマは陸軍予科士官学校を受験した。

——合格だ。

前回の陸軍幼年学校の受験から約二年。鍛錬を重ねたキリシマの肉体は成長し、同学年の男子を遥かに上回る体軀と体力を得るに至った。キリシマは、あれほど苦しめられた身体検査を安易と突破した。筆記試験は満点に近い出来。キリシマの合格は疑いようもなかった。1937年11月、キリシマのもとに採用予定通知が届いた。少年は、遂に陸軍将校への道を歩むことになったのだ。

しかし、その吉報を知らせるべき父親は、大陸で勃発した中華との全面戦争に駆り出され、キリシマが合格を知る数週間前には、支那へと渡っていた。陸軍予科士官学校に合格し、父親からの束縛も脱した。キリシマは、これより新たな人生を始めることができるのだと、漸く肩の荷を下ろすことができた。

だが、運命がキリシマに微笑むことはなかった。彼は身体検査の間際に、たちの悪い風邪を患った。止まらぬ咳と高熱。彼を診た軍医は、その症状の酷さに、彼が肺病に罹患したと判断した。

それは誤診だった。しかし学校側は、肺病と診断された人間を採用するわけにはいかない。キリシマは、陸軍予科士官学校への入学を、その直前になって取り消された。凶報はそれだけではなかった。それから間を置かずして、父親が戦死したとの報が入ったのだ。陸士への道を絶たれた上に、それを目指さなければならなかった理由まで失った。軍人になるために、望まぬ鍛錬を強いられてきた。そのすべてが、たった数日のうちに水泡に帰した。

キリシマの心の大部分を占めていた何かが、ごっそりと抜け落ちたような気分だった。

——これまでの私の人生は、いったい何だったのだろうか。

キリシマは、かつてないほどの虚無感に苛まれた。父親からの束縛から脱して、自らの人生を歩むことができるようになったにもかかわらず、彼は未来に目を向けることができなかった。

三度に渡り将校への道を閉ざされた経験が、キリシマの心に拭い切れない劣等感を刻み、新たな道に踏み出すための勇気を奪い去ったのだ。それから少年は、新しく何かを成そうとするたびに、死んだはずの父親の姿を幻視した。それは、キリシマの臆病な心が生み出した父親の幻影。少年を長らく虐げてきた父親は、その死後も息子の行動を縛り続けた。

軍人にはなれず、それ以外の道に進むこともできない。キリシマは父親の呪縛から逃れられず、もがき苦しんだ。

「何者にもなることができない」苦痛の中で、他者への劣等感だけが膨れ上がる。持ち前の学力を活かし、東京帝国大学に進学しても、キリシマの心が晴れることはなかった。

帝国軍人を目指すならば、これくらいはできて当然だ。

夢枕に立つ父親の言葉が、彼の精神をすり減らす。父親の幻覚が片時も離れない日もあった。何を成そうとしても、少年の心は休まらない。ひたすら苦しい時間だけが、無為に過ぎ去った。キリシマもまた、かつての父親と同じように、狂気の中に沈んでいった。だが、懊悩と狂気の中で停止するキリシマを余所に、彼を取り巻く世界は急激な変化を迎えた。

太平洋戦争、開戦。

激化を辿る大戦は、次第に帝国の国力を削いでいった。戦力の不足から、学徒までもが戦地に駆り出された。キリシマは理系に身を置く学生であったために、兵役を除外された。1944年3月の学徒動員令によって、軍需工場に動員されるにとどまった。帝国が連合国の無条件降伏勧告を受け入れたのは、それから1年と少しのことだった。終戦に至るまで、キリシマが軍人になることは、ついぞなかった。誰も彼もが疲弊した戦後の帝国で、キリシマは無気力に日々を過ごした。

それでも、そんなキリシマが一人の少女に会おうというのは、いつも妄想ばかりして空想に逃げていた彼なりの、最初で最後の「蹶起」。

「彼」の終戦までの略歴

1921/01…東京府四谷にて生誕

1923/09…関東大震災が発生。キリシマ邸も損壊するが、家人に死者はなし

1927/04…旧制学習院初等科に入学

1933/03…旧制学習院初等科を卒業

1933/04…旧制学習院中等科に入学

1934/11…陸軍幼年学校に志願するも、身体検査で不合格

1935/12…再び陸軍幼年学校に志願するも、身体検査で不合格

1937/03…旧制学習院中等科を卒業(四修)

1937/04…旧制学習院高等科に入学

1937/09…陸軍予科士官学校に志願。身体検査を無事に通過し、筆記試験を受験

1937/10…父親が支那に派遣される

1937/11…陸軍予科士官学校から採用予定通知が届き、入学候補者となる

1938/??…入学前の最終身体検査にて気管支炎を肺病と誤診され、合格を取り消される

1938/??…父親が戦死したとの報を受け、精神に異常をきたすようになる

1939/04…東京帝国大学に入学

1941/12…東京帝国大学を繰り上げ卒業。卒業後まもなく徴兵検査を受けるが、重度の精神病と診断され、兵役不適格となる。

1942/01…静養を目的に、キリシマ家が所有する横浜市中区山手町の邸宅に移る。

1942/04…日本本土が初の空襲を受ける。山手町の邸宅は無傷。以後、邸宅の地下室で生活を送る

1945/01…B29、21機、横浜市中区・神奈川区などを空襲。キリシマ邸宅は難を逃れる

1945/02…艦載機273機、早朝から夕刻にわたり横浜市鶴見区・神奈川区・中区・磯子区・港北区を銃爆撃。キリシマ邸宅にも数発の銃弾が命中するが、損害は軽微

1945/05…24日未明、B29、250機来襲し、横浜市全域を爆撃する。29日、横浜大空襲。焼夷弾投下総量2570トン、旧市域の市街地壊滅。横浜の中心部は山手地区と山下公園周辺を除いてほとんどが焦土と化した。邸宅は軽微な損害のみだった

1945/06…B29、363機・P51、30機が来襲。横浜市中区本牧から磯子区富岡町方面を爆撃。トンネルに待避した東急湘南線電車を襲撃し、乗客が全滅した。キリシマ邸宅は難を逃れた

1945/07…P51来襲。横浜市内を銃爆撃。キリシマ邸宅に目立った損害はなし

1945/08…広島、長崎に原爆投下。13日、艦載機約200機が早朝から夕刻まで横浜市をはじめ神奈川県下各地を波状攻撃。キリシマ邸宅は難を逃れる。15日、正午、戦争終結の「詔書」が放送される。

……国を憂いた将校が決起する事件もあった。当時旧制学習院中等科にいたキリシマは、いわば地理的にも精神的にも「狙われた人たち」のごく近くにいて、不吉な不安に充たされていた。しかし、その雪の日、少年は取り残され、大人たちに護られて、事件から完全に拒まれていた。拒まれていたことが、かえってその悲劇の客人を、青年将校の挫折と死を、異常に美しく空想させたのかもしれない。

(一部表現は「二・二六事件と私(三島由紀夫)」より)


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