人体は脆弱である。
一日のほとんどをPCの前で座って過ごし、食料品の買い出しと料理以外は動くこともあまりない僕ともなれば、さらに骨折入院の退院直後ということであればなおさらだ。
これまで、やれ筋トレだの、やれジョギングだのと、運動に勤しんでいる人々を見かけるにつけ、正直「なにを無駄なことを」と、内心鼻で笑っていたのが僕である。
というのも、かく言う自分も若い時分はそこそこに運動をたしなみ、いわゆる体育会系の部活で汗を流していたりもしたのだが、今となっては何を隠そうこの有り様だからだ。
どれだけ鍛えて練習しても、そうした成果のようなものは見る影もなく消え去ってしまった。つまり、かつての努力の日々は全て無駄だったとは言わないまでも、少なくとも見かけ上は観測不可能であり、大ざっぱに言えば「大した意味はなかった」、そう言って差し支えないというような何とも世知辛い経験則を得た。そして、その代物が恐れ多くも大多数の他人様にも普遍的に適用されるというような、かなり的外れな妄想に取り憑かれていたということなのだろう。
鍛えていない人体は脆弱だ。
ほんの少しでも運動などしておけばよかったと、それが、松葉杖のお世話になりだした最初期の感想である。
思えば、初めて松葉杖を使ったのは、もう二十年以上前の話。
部活動の一環という名目で腕立て伏せなどの筋トレを強要されていた当時の自分にとって、松葉杖での歩行などは造作もないことであった。もちろんその頃は若かったし、トレーニングの結果として少しばかりは腕力もあったかもしれない。
一方その頃、現在の私ときたら、運動不足も祟って体力は腐り切っており、先述のようなぼっさり具合である。
多少足に障害があるのもあって、バランスの取りづらさがある。が、そういった不自由さより閉口したのが筋力と持久力の無さ。たかだか数kgの食料品をかついで近所のスーパーから帰るだけで両腕がパンパン、汗だくである。
それが、初日の醜態であった。が、するとどうだろう。二度・三度と松葉杖での外出を重ねるにつれて、次第に慣れてくるものである。体重を支える両腕のしんどさが見事に段階的に無くなり、もはや汗すらかかなくなった頃には、鈍感な僕も気づき始めていた。これはただの筋トレであると。
ギプスで固められて使えない右足の筋力の負担を肩代わりして、松葉杖を支える腕・肩などの上半身の筋肉だけが、にわかに全盛期のそれと近づきつつある。弱り続ける右足と反比例するように。
右足が完治するその頃には、上半身だけがゴリラになっている模様。骨折で逆に体が鍛えられるとは、なんとも皮肉なことである。