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シニンノカゲ:3章part3

3. 逆さま 退魔師ならきっと誰だって藤留聖美になりたい。 山岡双夜になりたい。 最強になりたい。 だけど、それは例えば鳥になって空を自由に飛び回りたいというくらい無理な願いだ。 先の呪詛事件や厄久野島での戦争で命を削って戦った退魔師たちは、才のある者が、血の滲むような努力をして、さらに強い運にも恵まれて──ようやく到達できる領域にいる。 最強というのは、その領域のさらに頂点ということになる。 最強など、水羽には到底、到達できない領域の話である。 水羽だって努力はしたし、今もしているつもりだ。それでも、やはり手の届かない世界というのは、ある。 最強を目指すのはとっくに諦めている。 最強じゃなくたって、やれることはあると最近はそんな当たり前のことに気づき始めている。 誰かを助けることは、最強じゃなくたって、特別強くなくたって出来るのだ。 水羽の担当する地域では、怪奇な事件がそんなに頻繁に起きているわけではないが、それでも何か起きれば水羽はその事件が小さくても大きくても構わず請け負うことにしていた。 今回もそう。 今回の事件が大きいのか小さいのか、その全貌がまるで分からないが、最後まで責任を持つつもりだ。 きっと最後の手段だったであろうが、自分を頼ってくれた彼女の期待は裏切れない。これ以上──。 件の旧校舎は、思っていたよりもずっと──"普通"だった。 何かとても禍々しい気配がするとか、怪異の息遣いが聞こえるとかそういうことはない。 時刻は19時前。 冬のこの時間にはもう薄闇が広がっており、怪異の世界への門が開いていてもおかしくはない。 旧校舎の玄関のドアの鍵は開いていた。 羅那たちによると、ここの鍵はいつも施錠されているというのだが。 誰かが開けたのか。 新たに行方不明となったという女子生徒と関係があるのか。 それとも、この校舎に潜む何者かが手招きをしているのかも知れない。 水羽が羅那と二人で旧校舎に入っている間、五人の少女たちは旧校舎そばの木々の陰に潜んで待機してもらうことになった。 必要ならばその時に初めて旧校舎に入れた方が安全だからだ。 銀色の取手を握り、ガラス張りのドアを引く。思っていたより、重い。 中に入って、背後の玄関ドアがゆっくりと閉まり、闇の世界に閉じ込められても──なんら異様な気配は感じない。 ──なるほど。そういう感じのところね。 水羽は頷く。 何も分からないけれど。 「ちょっと確認するね」 水羽はポケットから緒のついた小さな鈴を取り出した。 りん、と鈴を鳴らす。 囁くような鈴の音が旧校舎の闇に広がっていく。 水羽は目を閉じ、息を殺し、旧校舎の全ての壁に跳ね返るその鈴の音に乱れがないかを確かめる。 ──なに? しばらくの間、乱れることなく響き続けていた鈴の音にほんの僅か、乱れが生じた。 これは、怪異か。 しかし、怪異の気配なはない。 小動物というわけでもないだろう。 何かいるのか、それとも障害物でもあったか。 いずれにしても、警戒は必要だ。 「よし。いこっか」 水羽は鈴をしまった。 水羽はまず羅那に愛維を攫ったという赤電話の残骸があるはずの場所へ案内してもらった。 だが、羅那に案内してもらった場所には、砕けた電話とやらは見当たらなかった。 「やっぱり…この校舎…変なんだ…」 羅那は、恐らく赤電話の残骸があるはずだったのだろう階段の下あたりを見つめてぼつりと言った。 ──あの旧校舎自体が変なんです。見取り図と、実際の構造が違うというか…。 昨日、羅那はそんなことを言っていた。 曰く付きの場所自体に異変が起きるのはそう珍しいことでは無い。 でも、それにしてはこの校舎なら禍々しい気配とかそういうのは本当に感じない。 「じゃあその…くね子さんだっけ。その怪異が出たところ行ってみようか…」 水羽が言うと、羅那はこくりと頷いた。 「くね子さんが怪異が出たのは三階の教室です。でも…」 羅那はスマートフォンに保存してあるこの校舎の見取り図を見せた。 「今いるところが、たぶん…中央の棟です。くね子さんに遭遇したのは、この中央の棟の一番上の教室でした。でも…見取り図が正しいならこの棟に生徒たちが普段使う教室ってないんです」 「なるほど…じゃあそこにも辿り着けないかも…だね」 何が"なるほど"だ。 何もわかっていないくせに。 水羽は自分の口癖が嫌になってきた。 羅那はそうでもないかも知れませんと言ってマフラーを触った。 「くね子さんに遭遇したのは…確かに普通の教室だったんですけど…他の教室とはちょっと違ったんです。教室の前方に設けられた倉庫みたいなちょっとした部屋があって…そこにくね子さんはいました」 「倉庫…か」 「で、見取り図を見てみると倉庫みたいな小部屋がある教室ってこの…"三年四組"の教室だけなんですよ。この教室は東側の棟の最上階です。最初に来た時はこの中央の棟の最上階だったんですけど…多分本来はこの見取り図の通りの配置のはずです」 「なるほ…どね。じゃあ、その三年四組の教室を目指せばくね子さんの手掛かりが掴めるかもだね」 「はい。また…"配置"が変わってるかも知れないですけど」 羅那は自身なさげに言って、少し俯いた。 廊下を少し歩いて角を曲がり、渡り廊下を進む。 この旧校舎から怪異の気配は相変わらずしないのだが、闇だけは妙に深い。 比較的、窓の多いこの渡り廊下でさえ月明かりを拒絶するような濃い闇で満ちている。 旧校舎には、水羽と羅那の二人だけの足音が静かに響いている。 「くね子さんって誰なんでしょうか」 闇の中、羅那が呟くように言った。 「うーん…普通に考えたら…ここの生徒だよね」 「ですよね。姫咲学園には"七不思議"があったっていいますから…それに関連してるのかと思ったんですけど」 羅那はそこで黙って顎を触った。 七不思議。噂によると、失踪した姫咲学園の生徒たちの中には、その七不思議を調査していた者もいたとかいう話だ。 「でも、だとしたら変です」 羅那は何か思い至ったように顔を上げた。 「そう言えば、くね子さんって"制服"を着てたんです」 「制服…かぁ」 「はい。私たちの制服とは違うやつです。だから多分…ここ…姫咲学園の制服だと思うんですよ」 羅那の声に徐々に張りが出てくる。 こういう話をするのは得意なのだろう。 「だとしたらやっぱり変なんです。だって、もしくね子さんがここの生徒だったなら…くね子さんは元々人間で、それで何かがあって怪異になったことになりますよね」 羅那は同意を求めるように水羽を見た。 水羽は頷いた。 「だね。人の死なくして怪異は生まれないし…基本的には」 例外もある──らしい。 「ですよね…。それなら、姫崎学園でくね子さんが生まれるきっかけになった事件なりがあってもおかしくない…ですよね」 「そうだね。怪異になるってことは相当な恨みがあるんだろうし…それ相応の事件とか事故があって然るべし…というか」 「でも、調べた限り姫咲学園に関する事件事故は例の集団失踪事件以外に何も見つからないんです」 「なるほど。それって…変だね」 水羽はつい、羅那と同じような口調でそう言ってしまった。 姫咲学園で死亡事故や事件が起きていないなら、くね子とは、何者だ。 「ですよね」 羅那は水羽が同意したことに喜んだのか、びしっと水羽を指差した。 「もしかして…"逆"なのかな」 羅那は、水羽には分からないことを独り言のように呟いた。 「逆って──」 水羽がそう言おうとした時だった。 水羽の目に、それは飛び込んできた。 渡り廊下を抜けてすぐ、東棟の三階へと続く階段の傍の壁──そこに貼られた姿見。 人一人は余裕で写るほど大きな姿見だ。 その姿見からどうしても、目が離せない。 「水羽さん…どうかしたんですか?」 羅那が白い息を吐きながら、小声で言った。 水羽は羅那の問いかけにも答えず、ただのその姿見を見つめていた。 何かが変だ。 そうだ。 「ねぇ羅那ちゃんこの姿見──」 この旧校舎の闇がいくら深いとはいえ、完全なる闇ではない。 光というのは、どこかにある。 月明かりとか。 それこそ水羽たちの照らすライトとか。 だからこんな闇の中でも鏡というのは大抵、何かを反射している──ものだと思う。 だけどこの姿見は── 「──暗過ぎないかな」 羅那が隣で唾を飲む音が聞こえた。 大きな姿見は、一切何も反射していない。 光を吸っていないその鏡面は、深い黒に染まっている。 指で触れれば、吸い込まれそうなほどに深い闇だ。 スマートフォンのライトで照らしていても、鏡面の黒はその光さえ吸い込んでしまっている。 気づけば水羽は、御札を取り出し、指で挟んでいた。力強く。 これまで培ってきた水羽の勘が、札を構えろとそう言っている。 その警告が正しいことを報せるかのように──どこからか鐘の音が聞こえた。 古い音に思う。 だけど、どこか懐かしいような、そんな気もする。 羅那の方を見ようとするが、鏡面から目が離せない。 この奥に。 何が。 何がいる──? 水羽はしばらくじっと、その暗黒の鏡面を見つめていた。 否。見つめていたつもり──だった。 既に、水羽は見つめられていた。 暗黒の鏡面の向こうに浮かび上がった白い目に。 靴がこつんと床を打つ音がした。羅那が一歩、姿見から離れたのだ。 水羽は息を殺し、この校舎に響く全ての物音を聞き取れるほど、聴力を研ぎ澄ましていた。 その視線はただ真っ直ぐに、暗黒の鏡面に現れた目に向いている。 目を離してはならない。本能がそう言っている。 吹き出す汗が重力に逆らって水羽の脳天に向かって昇っていく。 暗黒に浮かぶ酷く哀しげな三白眼は、こちらをじっと見つめている。 やがて三白眼からじわじわと"白"が暗黒の鏡面の向こうに染みるように広がる。 白は三白眼に顔を、衣服を与えた。 そして残った暗黒は、白に髪と黒目となり、みるみるうちに少女の姿となった。 白いカチューシャをした制服姿の少女が、三白眼でこちらを見つめている。 その姿はまるで、荒れる川面に一瞬だけ映る月のようにとてつもなく儚い。 いつ掻き消えてもおかしくないような──そんな姿だった。 この世のものではないな。 水羽は、ようやくそう思った。 失踪した羅那と同学年の女子生徒だろうか。水羽はその可能性も考えたが、羅那の様子からしてそうではないと判断した。 相手が何者であろうとも、生者の住む世界にいてはならない者だろう。 人の形をしているが、これが真の姿とも限らない。 だが、人の形をしている以上は、会話が出来る可能性もある。 怪異とのやり取りによって退魔に重要な情報が得られることも多々あるのだ。 「貴女は──誰」 水羽はなんとか声を絞り出した。羅那の手前、出来るだけ声を震わせないつもりだったが、声は震えていた。 何度経験しても怪異との遭遇には慣れない。 白いカチューシャの少女は、ゆっくりと首を曲げた。 「分からないの…?」 意思疎通のできない怪異か。 いや。 理解しての反応か。 ならば、自分が何者か覚えていないのか。 「ここは」 暗黒に浮かぶ少女の唇が動き、鼓膜をくすぐるような声がした。 「ここは、とてもとても暗くて、怖いところ。帰ったほうが良い──」 ──帰れるうちに。 少女はそう言った。 足がゆらりと力なく後退しそうになる。 どういうこと?何が言いたいの?ここには、何がいるの?何が──。 それを聞こうにも、何も言えない。 言葉は全て、脳みその中でぐちゃぐちゃになって、口まで出ていかない。 「あの女が来る。あの女が来る──」 少女は冷たい囁き声で繰り返しそう告げると、闇の中に消えた。 水羽はいつの間にか強く拳を握り締めていた。爪の先が手のひらの肉に食い込んでいる。 「水羽さん…今のは…」 羅那が顔を姿見に負けたまま、目だけを水羽に向ける。 「分からない…」 駄目だ。 だめだめだ。 情報を握っていそうな怪異をみすみす逃すなんて。 ──帰れるうちに。 あの少女の言葉が水羽の脳に響く。 会話が出来なかったあの少女の言葉に意味があるのか。 分からない。 だけど、長居するメリットもない。そもそも、そんなつもりはなかった。 早いところ調べて一度、引き上げよう。 水羽はそう言った。 羅那が以前、くね子なる怪異と遭遇した三階の教室へ急いだ。 羅那の記憶を頼りに、くね子がいたという教室の戸を開けた。 だが。 「うーん」 教室の奥を覗き込むようにして、羅那は首を傾げた。 「ここ…じゃないと思います。奥の倉庫みたいな部屋への扉がないので…」 「やっぱり…変わってる?」 やはり校舎の構造が、変わっているのか。 「はい…」 羅那が肩を落とす。 その時、何かがばたばたと落ちる音がした。 目の前の羅那の影が、飛び上がるように肩をすくめ、音のした方へ身体を向いた。 水羽も気付かぬうちに音のした方をライトで照らしていた。 うっすらと埃のつもった床の上にノートが一冊、開いたまま床に落ちていた。 授業に使うごく普通のノートだ。 「こんなのどこから…」 羅那はノートを拾い上げた。 「数学のノート…ですね…」 羅那はノートをぺらぺらとめくり、ほっとしたような顔をしていた。 だが、突然、ページをめくる指が止まった。 顔が、こわばっている。 「どうかした?」 「水羽さん、これ」 羅那はノートを開いたまま水羽に見せた。 ⭐︎旧校舎の七不思議リスト⭐︎ ・女子トイレの巨人 ・赤電話のレニー ・生首水槽 ・くね子さん ・保健室の瓶詰め女 ・鏡の中の女 ・多目的室の猫女 ノートには、落書きのように奇怪なワードが羅列されていた。 ワードのいくつかには、チェックマークがつけられている。 「これは…」 くね子に、赤電話…覚えのあるワードを見つけ、水羽は背中の辺りが寒くなるのを感じた。 鏡の中の少女。 ノートに刻まれたその文字だけが、他の文字と比べてやけに浮き上がって見える。 これはさっきの──。 「水羽さん、つまりこれって…」 羅那がそう言いかけた時、羅那のスマートフォンが震えた。 羅那はスマートフォンを開いて何かに目を通した。 それから── 「やっぱり、逆だったんだ」 そう呟いた。 「逆?」 「逆。逆です」 羅那はもう一度、七不思議が記されているページを開く。 「これ…"旧校舎"の七不思議って書いてありますよね。つまり…このリストは校舎が移転してから書かれたものってことになります」 「そうだね…」 「ってことは、この七不思議は、この旧校舎が現役だった頃にはなかったってことです」 「そうなるね…ってことは、くね子たちって…」 「そうなんです。私、てっきり姫咲学園生徒の失踪事件には"くね子"や"赤電話の怪異"が関わっているんじゃないかなって思っていました。でも違った」 早口で言った羅那はそこで息を吸って、逆だったんです、と続けた。 「これ。サイトの閲覧者から頂いたメールです。実は、少し前から姫咲学園の七不思議に関する情報を募っていたんです」 羅那はスマートフォンのメール画面を見せた。 「これまで届いていたのは、新校舎に移ってから姫咲学園に通っていた方々からの情報でした。でも、今届いたメールは、この旧校舎が現役だった頃に姫咲学園に通っていた方からのものでした。その方によると…元々この旧校舎の七不思議というのは、いわゆる王道の七不思議だったようです。階段の数が増えるとか減るとか、ピアノの音が聞こえるとか…。そこに、くね子も赤電話もいません」 「じゃあ…そのノートに書かれてる通りってことか」 「そうです。一方、新校舎で授業を受けていた卒業生によると…やっぱり、くね子と思われるぐねぐねの幽霊とか、赤電話の怪異と思われる電話の幽霊というのは生徒間では有名だったとか。だから旧校舎に潜入する人もたくさんいたそうです」 「もしかしてそのノートも…」 「はい。多分、潜入した当時の生徒が持ち込んだものだと思います」 あぁ…やっぱり逆でした。 羅那はまた、悔しそうに言った。 「それで…逆って?」 「はい。これで…このノートとメールでくね子や赤電話の怪異が旧校舎が現役だった頃には"存在しなかった"ということが分かったんです。つまり──」 羅那は眉を寄せた。 「私は、行方不明になった姫咲学園の生徒は、七不思議を追って消えてしまったのではないかとそう思ってたんですけど…そうじゃないってことです」 「はぁ…」 そう。警察の介入でも解き明かせなかった集団失踪事件に怪異な七不思議が関与していると考えるのは自然なことだ。 「私が遭遇したくね子や赤電話の怪異が七不思議としてこの旧校舎が現役だった頃にも存在していて、失踪事件にも関わっているとそう思っていました。でも、くね子も赤電話も失踪事件後に現れています」 羅那はノートを閉じ、スマートフォンをしまい、少し俯いた。 「水羽さん、さっきくね子や赤電話の怪異が生まれるには、それ相応の事件や事故がないとおかしいって言ってましたよね。集団失踪事件そのものがその事件や事故なら──」 羅那は顔を上げ、水羽の目を真っ直ぐに見つめる。 「くね子と赤電話の怪異は…行方不明になった"旧校舎時代の姫咲学園の生徒たち"なんじゃないですか…?失踪人数と七不思議の怪異の数は合わないですけど…」 羅那の息が上がっている。 興奮しているのだ。 昨日今日、この件に関わったばかりの水羽には羅那が今どれほど興奮しているのか推し量れない。 羅那が至った"当初とは逆の結論"とやらも、羅那ほどの知識と推察力のある人間ならばある程度は予想できていそうなものだが──羅那は今回の奇妙な事件に余程、飲まれていて冷静に判断出来ていなかったのか。 それとも単にさっき彼女自身が言ったように、七不思議の怪異の数と失踪した生徒たちの数が合わないから考えていなかったのか。 いずれにせよ、羅那の仮説──集団失踪した生徒たちが怪異となっているという説──が本当ならば、ノートに記された他の七不思議の怪異も──ということになるのか。 あの鏡の中の少女も。 「でもどうして集団失踪なんかに───」 水羽が言いかけた時、ポケットにしまってある鈴が僅かに揺れる音がした。 「羅那ちゃん!」 水羽は咄嗟に息を殺し、羅那の口を塞いだ。 気配がする。 何かがいる。 何かが近づいて来ている。 それの発するごく僅かな足音が、息遣いが、空気の乱れが、鈴を揺らした。 羅那は目を剥いたまま、固まっている。 「何かが来る…けどこれは──」 ──怪異ではない。 水羽は確信した。 迫り来る気配には温度がある。 熱を持った血を持たぬ死者ではない。 気配は一つ。羅那の友人たちの一人が入って来たとは考えにくい。 ここで、誰かに見つかるとまずい。 特に虎谷羅那は、今やSNS上でも有名な存在だ。 そんな彼女がもしも校則違反を犯して旧校舎に忍び込んでいたことが明らかになれば、"炎上"する羽目になるだろう。 「羅那ちゃん。いい?とりあえずそこの机と椅子の陰に隠れてて。誰かが入って来たらすぐに私が時間を作るから…その隙にここから逃げて」 「えっ…でも…」 羅那は不安げな目を向ける。自分一人でここから出ることに対する不安ではなく、明らかに水羽を心配する目だ。 ──そりゃあそんな目も向けたくなるよね。 「大丈夫。私…こう見えても退魔師だから」 最強たちと比べたら、へっぽこだけど。 でも今こそ、ちょっとは役に立つ時。 「誰かいるの?」 廊下から声がした。 よく通る女の声だ。 羅那は身を屈め、奥の机と椅子の陰に身を潜めた。 「いたずらじゃないでしょうね?」 威嚇するような女の声がすぐ近くまで迫る。 半開きになっていた戸が開き、女が一人、教室に入って来た。 女の姿を見た時、水羽の額から汗が滲んだ。 ──これはまずい。 水羽は緒を握り、鈴を大きく鳴らした。 教室中の空気を掻き乱し、羅那の気配を消す。 間髪を入れず、札を取り出し、ふっと息を吹く。 札が僅かな火花を散らし、火の粉が鈴に反射し──まばゆい閃光が放たれた。 ちょっと強過ぎたかな。 これでは羅那にも逆効果かも知れない。 そう思ったが、閃光が消えた時、羅那がいた場所にはもう誰もいなかった。 ──流石は、死地を潜り抜けて来ただけはあるね。 水羽は、ふうとため息をつく。 「なんのつもり…?」 女の声が、水羽を現実と向かい合わせた。 羅那がいなくなり、たった一人で"刑事"と対峙せねばならないという厄介な現実と。


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