■ 熱気の中、多くの人間の欲望が絡まりあっている。 湿度を高めていく週末の夜、真央はひとり歓楽街を歩いている。声をかけてくる男は多いが、彼らはことごとく無視され、屈辱を誤魔化すための苦笑い、あるいは未練がましい舌打ちを残して真央から離れていった。 マーブル柄のブラトップ、ダメージ加工が施されたマイクロミニ丈のデニムスカート、黒いエナメルのサイハイブーツ。38歳の熟女が着るには、過激すぎる服装だろう。それらは、熟れに熟れた肉体をきつく締め上げ、威圧的なまでの豊満さを強調し尽くしている。 派手な金髪だけではなく、顔に施されているメイクもまた年齢には似つかわしくない若者風のものだ。つけまつ毛、アイライナー、アイシャドウによって過剰なまでに大きく演出された両目。完璧な形を描く眉毛は、いったんすべてを剃り落としてペンシルで描いたもの。パールピンクの唇が厚塗りされた唇は、女性器を連想するほど淫らに艶めいている。 そうした服装や化粧は、本来ならば理知的に映るはずの人妻を、ひどく下品で低能な女に変えていた。男たちが声をかけたくなるのも無理はない。今の真央はどこからどう見ても、男のことしか頭にない好色な熟女――「ドスケベなおばさん」以外の何者でもない。 本当ならば、こんな格好をすることに恥ずかしさを覚えるべきなのだろう。 初めてこうした格好で外を歩いた時には、確かに羞恥を感じていた。しかし、今ではもう恥ずかしいと思う気持ちはなくなっている。無理もない。この1ヶ月あまり、真央はほとんど毎日、年甲斐のない、破廉恥な服装で夜の街に繰り出しているのだ。のみならず、そこで男に声をかけ、彼らをホテルへと連れ込み、性交渉を行っている。羞恥心が鈍麻しないわけがない。 すべては「30人の逆ナンに成功すれば、3ヶ月の期間短縮」という、裕貴から提示された条件を達成するために、嫌々ながらやっていることだ。嫌々ながら――でなければいけないのに、真央は逆ナンとそれに続く性行為に暗い喜びを覚えてしまっている。性的な快感以上に彼女の心を満たすのは倫理や良識から離れる解放感だった。 自分から好みの男に声をかけ、その男と交わる。性行為に際しても、されるがままになるのではなく、自分のしたいように動く。――これまでは「はしたない」と断じて来た主体性を発揮するたび、胸が高鳴った。禁断の愉悦は羞恥をさらに鈍らせ、真央の行動をさらに大胆なものにしていった。 こうすれば、もっと男たちが興奮するのではないか。ああすれば、もっと男たちが簡単についてくるのではないか。最初は雑誌やサイトに書いてあるがまま、動画で言われているがままだったファッションは、次第に真央の意図を交え、他の誰でもなく彼女を引き立たせるものへと最適化されていった。 変化の成否は、真央を見た男たちの反応が教えてくれた。まともな職業についているとは思えない風貌の男たちすら意図の通りに色めき立つのを見ていると、自分が強くなったような気がした。いや、実際に強くなったのだろう。強さとは腕力のことだけを指すわけではない。権力や財力だって強さと見なされる。ならば、魅力だって強さではないか。自分は魅力で男たちを殴りつけているのだ、と考えると痛快だった。そして、何より、そんなふうに感じる自分に驚きを覚えた。 行きずりの男たちと刹那的な関係を築く日々も、しかし、もう終わりだ。 真央のスマートフォンには、これまで逆ナンで知り合った男たちと事後に撮影した画像が収められている。その数、合計29枚。そして、今日――最終期限である7月末日まで3日を残す日のこの夜、真央は最後となる30人目の男を選ぼうとしている。 ■ 名残惜しい。 そんなふうに感じている自分を、真央は叱りつける。 確かに喜びを覚えることもあった。それは否定できない。しかし、そんな喜びは許されるものではない。彼女の喜びは平穏な生活に根ざすものでなければいけないはずだ。爛れた日々がもたらすものであってはいけない。真央は繰り返し自分にそう言い聞かせ、果てることなくこみあげる未練から意識をそらしている。 溜息が落ちる胸元――Jカップの乳房が前より小さく見えるのは、ブラジャーの保持がなく、自重で甘く垂れているからだ。補正を行った乳房よりも、ありのまま崩れたもののほうに、男たちは興奮する。それも、この1ヶ月で学んだ不要な知識だった。それを活かせているかどうかは、I字の谷間に吸い込まれる男たちの視線から明らかだろう。 とにかく、早く誰かに声をかけなくては。最初に逆ナンを経験させられた時とまったく同じ迷いが真央を蝕んでいる。あの時は誰にも声をかけたくはなかった。しかし、今回は、次から次へと目移りしているがゆえに生まれている迷いだ。 歩きながら男を選んでいるのだが、焦れば焦るほど、誰に声をかければいいのかわからなくなる。これではまるで、逆ナンで男を食い荒らす日々がおわるのを拒んでいるようではないか。その考えが、また真央を焦らせる。スマートフォンで時刻を確認すると、もう日付が変わってしまっていた。 「ああ……もう……っ」 苛立ちの声が周囲を歩く男女を驚かせる。 結局、それから30分ばかりあてどなく歩き回った挙げ句、立ち飲みスタイルのバーに入り、そこで目についた男に声をかけた。男は20代半ば、背が高く、筋肉質で、顔立ちは以前よく見ていた韓国ドラマの俳優によく似ている。その男を選んだというよりは、悩むのに疲れたと言ったほうがいい。 「いきなりごめんなさい。私ね、あなたのこと、気に入っちゃったみたいなの♡ よかったら、これから、ふたりきりになれるところに行かない?」 最初の頃のぎこちなさが嘘のような滑らかな声がけ。男の欲望を瞬時に限界まで膨らませる妖艶な微笑み。媚び媚びの上目遣い。ダメ押しに、髪をかきあげつつ強調される胸の谷間。声をかけられた男は端正な顔立ちをたちまち崩し、店の外へといざなわれた。 最後の――最後になるはずの逆ナンは、笑ってしまうほど簡単に成功した。 ホテルに着いた後は、当然、部屋でセックスを始める。 男の動きは女性経験の豊富さを感じさせる巧みなものだった。彼に動かせるだけではなく、真央も積極的に動く。男と真央――ふたりの肉体が心地よくぶつかり合い、大きなうねりを形作っていく。夫と行う愛の交歓とはまったく違う種類の性行為。こんなことをしていると知ったら、夫や息子は自分を軽蔑するだろう。しかし、いいのだ。彼らがこの事実を知ることはない。彼らどころか、裕貴だって知り得ない。知っているのは、ホテルを出れば二度と会うことのない男だけだ。だからこそ、真央は安心して欲望を剥き出しにした姿をさらすことができる。 しかし、そんな楽しみもこれが最後。最後にしなければいけない。そう考えると快感は純度を高め、真央は幾度も絶頂に達していた。男は3度目の射精をもって、セックスはおわった。 ツーショットの撮影後、それぞれ別にシャワーを浴びて、真央たちはホテルを出た。笑顔で別れた後、彼女は余人に見られないよう、近くの建物の壁にもたれて写真の枚数を確認する。1……2……3……と唇が声なく動く。どの男も、惚れ惚れするような容貌と頑強な体の持ち主だった、と真央は改めて思い返した。ただし、顔の撮影を拒否し、体の一部分だけが画像に写っている者も何人かいる。28……29……そして30。間違いなく30枚あるのを確かめると、大きな息が腹奥から溢れた。 真央はやり遂げたのだ。これで望まぬ逆ナンを強いられる日々はおわりを迎える。それだけではなく、裕貴に従わなければいけない期間が3ヶ月も短縮されるのだ。 喜びに満ちているべき心は、しかし、喜びとは正反対の感情に焼けていた。 ■ 夜を深め、湿度を高めた街を歩く真央の足取りは早い。というよりも、荒い。歩を進めるたび、乳と尻がぶるんぶるんと振動して惜しげもなく肉感を振りまいた。 もう終わったのだ、と真央は自分に言い聞かせている。 あれが最後のひとり。裕貴の提示した条件は達成した。これ以上、男と寝る必要はない。だというのに、まだ終わりにしたくないと思ってしまう自分がいる。苛立ちに焦げる血肉が、欲望を剥き出しにする非日常が、いつの間にかそれが当たり前の日常へとスライドしていたことを教えてくれる。1ヶ月あまりの時間、30人の男――その数字は真央が考えていたよりもはるかに大きかったということなのだろう。 「はあっ……」 と吐かれる息は、逆ナンが始まってからいちばん熱を持っている。 こんな状態で帰れば、裕貴に嘲笑されるに違いない。その時に感じる屈辱を想像して、真央の苛立ちにはさらに高まった。しかし、だからといって、男に声をかけるわけにはいかない。それは、裕貴の命令を離れた、真央自身の意思による不貞になってしまう。そんなことは許されない。 (そうよ。絶対に駄目……っ) 夜の街を離れ、しばらく時間が経てば、こんな欲望は一時の気の迷いに過ぎなかったとわかるはずだ。早く裕貴の部屋に戻って、彼に達成を報告しなくては。――そう考えているはずなのに、真央の足取りは鈍り、体温が上昇していく。靄のような夜の空気を熟女の芳香が濃厚に染めていった。 (駄目なのだけれど……駄目だとわかっているけど……) 絶対に許されないからこそ、禁断の果実は甘そうに見える。最後に――本当に最後の最後にもうひとりだけ。それくらい、いいのではないか。許されるべきではないか。そう考えた真央は、ごくりという音を聞く。それは、彼女が生唾を呑みこんだ音だった。 自分がこんなにも浅ましい人間だとは。肺を押し潰しているのは苦しみではなく驚きだ。荒淫の日々が自分を変えてしまったのか。それとも、元々持ち合わせていた欲望があらわになっただけなのか。あるいは――そもそも、人間という生き物がその程度のものなのか。わからない。わかっているのは、これから絶対に越えてはいけない一線を越えようとしているということだ。後悔の予期は、背徳の興奮を煽りこそすれ、真央を止めてはくれない。 (私……最低……っ) 最低だということは理解できている。ということを言い訳にして、真央は一時の気の迷いに完全に身を委ね、必要のない31人目の男を探し始めていた。その顔――煩悶を浮かべていた瞳は獣欲にぎらぎらと輝き、切ない息を漏らしていた唇はひくひくと口角を痙攣させている。 ■ どうしてこんなことになったのか、とその男は呆然としている。 彼は全国チェーンの居酒屋で働くフリーター。今日の勤務はさんざんだった。ヤカラめいた客に絡まれ、脂ぎった中年男に接客態度が悪いとクレームを入れられ、テーブル一面を汚す吐瀉物の掃除だ。店長の「お疲れ様だったね」という同情の一言をもらっただけでは釣り合わない。 転職を検討しながら帰り道を歩いていたところ、ひとりの女に声をかけられた。 「ねえ、これから時間あるかしら……♡」 ネオンサインに染められる金髪のロングヘアー。強烈な印象を残すギャルメイク。ボディコンシャスな服装も過激だが、豊満な肉体の迫力はそれをはるかに上回っている。それなり以上に女にはモテるほうだが、ここまでのレベルの女に逆ナンされたのは初めてだ。 女の年齢は20代後半、と勘違いしたのは、彼女が肌から発散する活気のためだ。しかし、その妖艶な雰囲気はその程度の年齢で持ち得るものではない、と気がついた。おそらくは40少し手前、というところか。これまで付き合ってきた女たちはいずれも同い年か年下――こんな年上の女を異性として認識したことはない。 しかし、彼は考えるよりも早く女の誘いに肯定の返事を返していた。頷いた、というよりは、頷かされた、という思いのほうが強かった。そこから適当なバーに入り、軽く飲みながら言葉をかわす。女はノンアルコールのカクテルを頼んでいた。「飲めないの?」と尋ねると、女は言葉では答えず、苦みを含んだ笑みでそれに答えた。過去に何か酒で大きな失敗したことがあるのかもしれない。 お互い、名前や事情は明かさずに、セックスを楽しみたい、と女は言った。連絡先の交換もしない。継続的なものではなくワンナイトの関係を求めている、ということだ。もちろん、彼に異論はなかった。現在、彼には交際3ヶ月になる恋人がいる。彼女と別れる気はないが、だからといって特別に操をたてる義理もない。一夜限り、と考えると、目の前の女の体がますます魅力的に感じられ、珍しく、性行為が始まる前から勃起した。 旦那に相手をしてもらえず、欲求不満が爆発した人妻が男漁りをしている。そんなところだろう、と彼は見当をつけた。だとしたら、自分に声をかけたのは大正解だ。自慢ではないが、セックスの経験は豊富だ。テクニックにも相当に自信がある。自分の愛撫でこの女が悶え狂う様子を想像して、彼の勃起は硬度を増した。 しかし、今――。 「あんっ♡ あっ♡ ああっ♡ すっご……っっっ♡♡♡」 ベッドに仰向けになった彼の下肢に跨り、女が腰を振っている。その動きは「激しい」という言葉の範疇にすら収まらない。残像が生まれかねないほどの振れ幅と速度――汗ばんだ肌と肌がぶつかるたび、ばちんっ♡と小気味のいい音が連続した。ベッドがばらばらに壊れてしまうのではないか、というほどスプリングが苦しげに軋み鳴いている。 「はぁんっ♡ んんっ♡ んっ♡ んっ♡ んっ♡ んんんっ♡」 女を喘ぎ鳴かせるはずだった彼は、完全に女のなすがままになっていた。技巧ではなく、熟女が炸裂させる狂乱がまだ年若い彼を圧倒していた。男としてこのままでは格好がつかない、何かをしよう、という意思は、生まれるはしから横溢する豊満さに潰されてしまう。汗まみれの女体が躍動する様は、間近にしているだけで窒息死してしまいそうな迫力だった。 「ちょ……さすがにこれは……やばすぎ……っ」 どうにか口にした呻きは、快感のあまりに裏返りかけている。膣に加えこまれた肉棒は硬くなるあまり、心臓の鼓動にあわせて鈍く痛む。どうしてこんなことになったのか。女の――真央の事情を知らない彼にはわかるわけがない。 ■ こんなふうにするつもりはなかったのだ。 この男に声をかけた時には、これまでのようにするつもりだった。妻であり、母であることを、ほんの一時だけ忘れて肉欲に耽る。――その程度に留めるつもりだったのに。 ホテルが近づくにつれ、これが本当に最後なのだ、という実感が膨らみ、部屋に足を踏み入れた瞬間には爆発していた。その結果として、真央はこれまでにはないほどの積極性を発揮して性行為を主導してしまっている。いや、その凶暴なまでの強引さは「主導」ではなく、「支配」という表現を用いなければいけないだろう。 「はあっ……んんっ……おおおっ……おおおおおっ♡ 腰……全っ然……止まらないっ♡」 真央は濡れた声で訴えるが、そもそも腰の動きを止めようとはしていない。腰で腰を殴りつける動きが、男を完全に圧倒している。多少の痛みがないではないが、それすらも興奮を高める糧へと変わってしまう。 裕貴の命令ではなく、真央の意思で行う不貞――最悪な行為だとわかっているのに、胸のときめきがとまらない。胸腔を跳ね回る心臓。全身を灼く血液。吹き出した汗がそこらじゅうに跳ね散る。裕貴に従って声をかけた男たちとの性行為も素晴らしいものだった。しかし、命令を離れて行う性行為がもたらす快楽は、それらをはるかに上回っていた。身動きをするたび、快感の刃で体を斬りつけられているようだ。 この逆ナンをしてよかった、と思わずにいられない。 (ごめんなさい……っ♡ ごめんなさい……っ♡ でも、このひとが最後……絶対に絶対に今回だけだから……っ♡) 夫、息子、そして自身への謝罪を重ねつつ、真央は腰を振り続ける。鼻息は自分でも滑稽に感じるほどに荒い。鏡は見れないが、きっと、目だって血走っているだろう。自分が獣になった気がした。若い男体を貪る牝の肉食獣だ。そのイメージが、真央の腰使いをさらに野蛮なものに変える。ばぢっ♡ばぢっ♡という衝突音に、男の苦しげな呻きが混ざり合う。その協奏は、これまで真央が耳にしてきたどんな音楽よりも美しい。それは脳襞の奥深くをくすぐり、そのまますべてを融解させていくようだ。 ああっ、と真央の喉から歓喜の息遣いが溢れる。 「んんっ♡ だめっ♡ お……ぉおおっ……♡ お……おぅ……♡ だ……めっ♡ んなの……こんなの……っ」 (楽しすぎて駄目になっちゃう……っ!) みなぎる喜悦のままに、真央は絶頂していた。食いしばられた歯。ぎゅっと閉じられた瞼。背筋をそらした彼女の全身を快感の雷撃が貫く、貫く、貫く。そのたび膣壁が収縮し、男の肉棒を絞り上げた。たまらず、悲鳴に似た音をあげて男が爆ぜる。確かめずともその量と勢いの凄まじさは感じることができた。その凄まじさは、真央への――彼を貪り喰らう牝獣への最高の称賛だ。 射精をおえてぐったりと放心している彼を見下ろしていると、そんな有様にしてしまったことに対する罪悪感がこみあげてくる。しかし、それを真正面から受け止めるのはもっと後だ。今はその時ではない。 逆ナンがこれで最後になったとしても、肉欲に身を委ねる愉悦は真央の精神の髄にまで染み込んでしまっている。それがどのような恐ろしい結果をもたらすかは、真央にはまだわからない。今はただ、何も考えず、刹那の快楽を喰らっていたかった。 「……まだ、できるわよね♡」 新しいコンドームを片手に微笑む真央――その淫靡さに感応して、男の肉棒が、本人の意識とは関係なしにびくびくといなないた。使用済みのそれを外し、新しく装着しなおす真央の手付きは、料理をする時と同様になめらかに動いた。 ■ 「それじゃ、確認させてもらおうかな」 差し出された掌に、真央はスマートフォンをのせた。 アルバムを開いた裕貴はスワイプを繰り返して、真央が体を重ねた男たちを確認していく。この1ヶ月あまり、裕貴はほとんど干渉をしてはこなかった。何か問題は起きていないかと尋ねたり、服飾や遊興のための金銭を渡してくる程度で、それを不気味に思っていた。どんなことを聞かれるのだろう、と身構えていたが、ここに至っても裕貴が何かを聞いてくることはなかった。彼はただ写真を眺め、その枚数だけをカウントしている。 真央が部屋に戻ったのは昼近く。ソファーで眠っていた裕貴を起こした真央は、命令の成果を確認してもらっている。 「確認したよ」 裕貴がスマートフォンを真央に返す。 「それじゃ――」 「約束通り、期限を3ヶ月短くしてやるよ。だから来年の1月までか。寂しいなー」 やった、と快哉を叫ばなければいけないのだろうが、真央の表情に喜色はない。瞳の奥に焦げつく瞳、引き結ばれた唇、筐体を握りしめる手指、こわばった関節……全身が強烈な不満を訴えてしまっている。 頭では受け入れているのに、真央の肉体は、欲望を剥き出す日々の終焉をどうしても呑みこんでくれない。30人もの男と性行為をしただけではなく、さらに1人の「おかわり」までしたのに、真央の肉欲は満たされていない。あれだけ「最後」「本当に最後」「本当の本当に最後」と言い訳をしたというのに、さらなる経験を欲してしまう。必ずしも逆ナンがしたいわけではない。理性を剥ぎ捨て、欲望のままに振る舞うこと――ドスケベババアと揶揄されても仕方がない行動の魅力に、真央は中毒してしまっている。その自覚が彼女を苦しめ、美貌を歪めて影を与えた。 「あれれ。何、その顔。嬉しくないの?」 裕貴が薄笑いを浮かべる。 その態度に尋常ならざる苛立ちを覚えるのは、彼が真央を抑圧する側の人間だからだ。これからまた、あれをしろ、これをしろ、と命じられる日々が始まるのだろう。何も考えなくていいぶん、そちらのほうがずっと楽だと今の真央には思えない。いや、楽ではあるのだろう。しかし、自由の甘美さを知ってしまった今、服従という行為に生理的な嫌悪を覚えずにはいられない。 果たして、自分は家庭に戻った時に、元通り、妻や母に戻れるだろうか、と思う。妻であるという意識、母であるという意識――それらは、よき妻、よき母としての振る舞いを内側から真央に強制するものだ。反射的に湧き上がる嫌悪から、真央は意識をそらす。何を考えているのだ。戻れるに決まっているではないか。というよりも、できなくてはならない。自分は他のなんでもなく、妻であり母なのだから。こんなものは一時の気の迷いに過ぎない。 その「一時」がどれほど長く続くのか、真央にはわからない。 「う、嬉しいに決まっているでしょう」 真央は吐き捨てるように問いかけに答える。 「逆ナンなんて、もう懲り懲りよ。二度としたくないわ……っ」 語勢が強いのも、淀みがないのも、それが真央の心の完全な裏返しだからだ。 そんな真央を見て、裕貴の薄笑いが明確な笑いへと変わる。 「それにしては、ずいぶんと楽しんでたみたいだけど? でなきゃ、30人でいいのに、31人も逆ナンしないでしょ」 「なっ――」 どうしてそれを、と絶句する真央。今度は笑いを苦笑いへと変えた裕貴は、自分のスマートフォンを取り上げ、数度のタップを挟んで画面をこちらへ向けた。表示されたマップに線がうねっている。 「これは真央のスマホのGPS情報。これで真央がどこに行ったか、毎日監視してたんだよ。今日はあそこのラブホ行ったんだ、とか。30人目選ぶのにえらい時間かけてんなー、とか。おいおい31人目とラブホに行ったのかよ、とかね」 「違っ。それは……違っ。あれは……数え間違いをしていて……」 急ごしらえの言い訳はまったく説得力を持たず、真央を惨めに見せる役にしか立たない。それがわかるからこそ、言葉尻は弱々しく消え入ってしまう。 「盗聴用のアプリも入れて、逆ナンしてるのか確認もしてたんだよね。何回か誤魔化すのかな、と思ったけど、30回、いや31回か、毎回きちんと逆ナンしててえらいと思った。やればできんじゃん」 「………………っ」 「ていうかさ、最後の、必要もないのにしたエッチ、やばすぎでしょ。男が『もう無理~』って頼んでるのに、『駄目ぇん♡ もっと♡ もっとぉ♡』って絞りまくり。さすがに可哀想になっちゃった」 えーっと、と裕貴が端末を操作すると、無線で接続されている部屋のスピーカーから喘ぎ声が流れ出してくる。『おっ♡ おっほ♡ んっほっ♡』『あーもうだめっ♡』『イくイくイくっ♡ イくイくイくイくイく♡ イっっっ………………ぐぅううう♡♡♡』耳を塞ぎたくなるような獣声は、他でもない、真央の喉から漏れたものだった。 「これ、旦那と息子が聞いたら自殺すんじゃない? ていうか、送って殺そっかな。喪服姿の真央、絶対エッチだよね♡」 「そ、それだけは絶対にやめてっっっ!」 全部知られていた。すべて筒抜けだった。爆発する羞恥はクーラーではとても冷やしきれない。何かにすがりつくように、真央は己の体を抱きしめる。その赤面に浮かぶ表情は底なしの穴に落ち込んでいくようにどこまでも暗い。 「そんな顔しなくていいじゃん。ずいぶん楽しめただろ?」 裕貴はスマートフォンを消灯し、真央の肩に腕を回した。 彼の掌が乳房を鷲掴みにして揉みしだき始めても、真央は何の反応も示せない。 「真央は難しく考えすぎなんだよ。楽しかったらそれでいいじゃん」 そんなふうには考えられない。考えられるわけがない。考えてはいけない――と思うが、この1ヶ月あまりは、今この時だけだから、と言い訳をして、そう考えていたのだ。あらためて、自分は何と恐ろしいことをしてしまったのかと思う。誰にも知られないとしても、あんなことをするべきではなかったのだ――という後悔も、知られてしまった今だからこそ抱いてしまうものなのだろう。3ヶ月の期間短縮と引き換えに、真央は欠くべきではないものを失ってしまったのだ。後悔しても遅い。あまりにも遅すぎる。 「まあ、安心してよ。真央が難しいこと考えなくても済むようになる方法、色々考えてあるからさ」 難しいことを考えられなくする。何を言っているのか。その疑問に、真央は俯けていた顔をあげる。しかし、当然、裕貴の顔に答えが書いてあるわけではない。そこにあるのは不敵で――真央にとっては極めて不快な笑みだけだ。 「真央が難しく考えちゃうのは、真央が頭いいからだと思うんだよね」 だから、と裕貴は言った。 「真央には徹底的に頭悪く――アホになってもらうから♡ 最っ高に可愛いアホ女にしてやるから期待しろ〜?」 (続)
Aoi
2024-01-09 14:38:16 +0000 UTC