第二部
事務所へ移動させられた智恵は、そばにあった椅子へ突き飛ばされた。必然的に、その男を見上げる形になる。
「俺が誰か、覚えてねぇか?」男はそう問うた。
誰かと言われても、心当たりなど無い。だがその男がマスクを取ると、その顔に智恵は絶句した。
「うぅぁ・・!(あなた・・!)」智恵は、驚きのあまり絶句した。
「久しぶりですね・・以前、あなたの下で働いていた俺ですよ。覚えていますか?・・・あなたが俺にしてきた仕打ちを、今思い返してください。ぞっとするような長時間労働を強いられ続け、命を削って働き続けた日々を、俺は送ってきたんです。そんな俺に、あんたは最後に何をした?
そう、あれは俺が数日、会社に泊まり込みで働いた後だったなぁ・・。寝不足で、身体もボロボロ。そんなイカれた状態じゃ、ミスの一つや二つくらい出るもんだろ?そういうときには、心配や労いの言葉をかけるべきだろ?だがお前は、そのミスを理由に、俺をクビにしやがったよなぁ!!―ようやく身体も動くようになった今、きっちりとそのお返しをしに来たんだ!」男はそう吐き捨てた。
男は智恵の腕の縄を解くとすぐ、両手のひじから先を、何重にもダクトテープを巻いて固定した。そして両手とも、握り拳の状態でテープを巻き付けられ、完全に銀色の塊へと変えられた。智恵は苛立ちから泣き声を上げたが、男は一向にかまわず、続けざまに亀甲縛りを身体へ施した。困惑する智恵をよそに、男は拘束を完成させ、さらにそれを椅子へ巻き付けて、力いっぱい締め上げた。智恵の肺から、空気が絞り出された。
足の拘束も、さらにロープとテープが追加され、一層絶望的な強度になった。拘束はそれで終わらない。噛ませ猿轡の上にも、さらに20周以上テープが巻きつけられた。
「うぅう・・・」智恵は、やや諦めの声色で、小さく呻いた。
そして一仕事終えた男は、惨めな智恵をほくそ笑みながら眺めていた。
しかし、男の本当の目的は、智恵を緊縛することだけではなかった。智恵をそのままに、男は事務所の引き出しを片っ端から開け始めた。何かを探しているようだ。
「うううぅ!! うぅうん!!」―若き部局長は、猿轡の下から懇願した。
この地位に辿り着くまで、新卒で入社以来、プライベートも何もかも犠牲にして働き続けてきた。情報漏洩などしてしまえば、積み上げてきたすべての実績が地に落ちる。智恵はそれを何よりも恐れた。―自分自身が命の危機にあることも忘れて。
智恵は努めて、機密文書が保管されている場所から目を背け続けた。しかし悲しいかな、そんな努力も、かつてここに努めていた経験がある男からすれば、無意味なことであった。
「番号を教えろよ」―男はある大きな金庫の前に立ち、低く脅すような声で智恵に尋ねた。
屈めば人一人は入れるほどの大きさであり、黒々とした金属で作られ、見るからに頑丈そうな見た目をしている。
智恵はただ、男を睨みつけた。
"何も言うわけがないでしょう"と、その視線が訴えている。
「あんたは自分がどういう立場にあるか、わかってないようだ」と男はため息をついた。
男は引き出しから紙を束ねるクリップをひとつ、手に取った。
その行為の意図が分からず、智恵は猿轡の下で、困惑の表情を浮かべた。
男は智恵に歩み寄ると、その顔を乱暴に掴み、そのクリップで智恵の鼻を閉じた。
「うぅうんん!!!!」その痛みと、呼吸を封じられたことに、智恵は狼狽した。
くぐもった金切り声を上げ、椅子に拘束された身体を激しく揺らした。
―1分経つか経たないかで、男は鼻のクリップを取った。智恵は完全にぐったりし、大きく息を吸ったり吐いたり、力なくそれを繰り返して。
「番号だ」男は再び、底冷えのするような声色で問うた。
智恵は荒い呼吸を繰り返しながら、ある作戦を思案していた。この金庫に、立て続けに誤った番号を三度打ち込むと、守衛が駆けつけるようになっているはずだ。そうすれば、この状況を脱することができる・・。智恵は自分を信じ、作戦を実行した。
「うぉん・・すぁん・・いぃ・・」智恵は巻き付けられたテープの下で、意図的に間違った番号をつぶやいた。
当然、鍵は開かない。男は苛立ちを隠さず、怒り狂った顔を智恵に向けた。
最初は再び智恵の鼻をクリップで閉じた。しかし怒りは収まらず、その上からさらに数枚のテープを貼り付けて、完全に呼吸を奪ってしまった。
「俺は遊びに来たんじゃねぇんだよ。それともあれか?死ぬまでこうしてやろうか?」男は藻搔く智恵に詰め寄った。
智恵は首を振り乱し、この地獄から逃れようとした。しかしこの状況が好転することなど、もはやあり得なかった。
―1分後、智恵の心は完全に折れた。抵抗する意思も失せ、今度は正しい暗証番号を、ついに告げるのであった。
「すぁん・・・・・・・ぬぃ・・・・・・・・うぅ・・・・・・」
そして、全ての番号が打ち込まれた。
―閉ざされた智恵の未来とは対照的に、金庫はすげもなく開くのであった。
Writing: https://www.deviantart.com/idamselhunter