俺はある日突然身体が小さくなってしまった。
それはもう突然だった。親友の総悟のアパートで吞んでいた時に急に身体が縮みだして。目線が低くなって服がどんどんぶかぶかになって、しまいには服に埋もれて動けなくなった。幸いにも俺が服だけになったことに気づいた総悟が助けてくれたからよかったものの、もし道端で小さくなっていたらと思うとぞっとする。いや、でも服をめくられたときに見えた総悟は、悪いが本当に怖かった。なんてったって飛行船みたいにでっかい総悟の顔が上からのぞき込んでいたんだから。
「……哲司……大丈夫か?」
「ひっ!」
上から降ってくるその声すら体を震わせるほどに大きくて、俺は裸のまま逃げ出してしまった。逃げられるわけないのにな。俺は必死で走っていたけど、総悟にとってはアリが動いているのとさほど変わらなかったんだろう。逃げる先に総悟のごつごつした手が壁のように降りてきて、そのまま手の中に握りこまれてしまった。ジェットコースターのような浮遊感とともに持ち上げられたときはもうパニックになっていて、握りつぶされると本気で思ったぐらいだ。
「いやだ! いやだーー! 離せえーー!」
「哲司、おちつけ。大丈夫。大丈夫だから」
暴れようとする俺を片手で抑え込みながらも、総悟は優しくなだめ続けてくれた。そうして俺は何とか気持ちを落ち着かせることができたが、俺が小さくなったという状況は変わらないままだった。急に小さくなるなんて聞いたことない。総悟も病院に行っても何もわからないだろうし、研究材料にされるかも……と怖いことをつぶやくので俺はガクガクと震えてしまった。すると総悟がすっと、俺の脚より太い指で頭をなでてきた。
「……俺が哲司の世話してやるよ」
両親がもう帰らぬ人となった俺からすれば、総悟は俺が頼れる唯一の人間だ。後から考えればそうするしかなかったが、俺はその時とても悩んだ。だって総悟にずっと迷惑をかけ続けることになるのだ。少し考えさせてほしいといって、その日はローテーブルの床でティッシュの布団にくるまって寝た。寝られないかと思ったけど、意外に眠れた。次の日起きて、夢じゃなかったことに気落ちしながら、俺は総悟の提案を受け入れたのだ。
***
部屋の外からドン、ドン、ドンと、大きな足音が近づいてくる。足音でわかる。この重くて間隔の大きい足音は、総悟だ。鍵をガチャガチャと開ける音、扉が開く音が続いて、総悟の「ただいまー!」という声が、見えない玄関先から響いてくる。帰ってきたなと、布切れを丸めたソファから立ち上がる。少しばかり玄関先の方角に近づくが、サイドテーブルから落ちたら危ないので少しだけだ。ズシ、ズシ、と総悟が近づいてくる音がする。1Kのキッチンと部屋を隔てる、高層ビルのように大きなドアが開いて、ぶわっと空気がかき回されて、かなり離れているはずの俺のところまで風が届いた。そして開いたドアの向こうにいる、今の俺にとっては本当に高層ビルのようにでかい総悟が俺の方を見てゆっくりと近寄ってくる。
「ただいま~」
ゆっくりとは言ったが、それは総悟にとって、という意味だ。今の俺が全力で走っても数分かかりそうな距離を、総悟はたった数歩で詰めてくる。ドアの向こうにいた時から見上げていた顔は近づいてくるにつれどんどん上へと上がっていき、俺の首の角度もきつくなっていく。総悟が最後の一歩を踏み下ろすと地面が大きく揺れ、サイドテーブルはまるごと総悟の上半身の作り出す影で覆われて周りが薄暗くなった。続いてぶわっと汗の匂いを纏った風が俺を襲い、反射的に腕で顔をかばう。仕事終わりの汗の匂いだ。腕を解いて目の前を向くとそこにあるのは総悟の顔ではなく、視界いっぱいの黒い布のカーテンだ。もちろんそれはカーテンなどではなく、スーツを着ている総悟のスラックスである。このサイドテーブルぐらいの高さだと、脚の長い総悟ではちょうど股間を超えるぐらいの高さになる。
(やっぱ、でっけえな……)
本人はあまり自覚がないようだが中身も大き目な総悟の股間部分はスラックスの生地を押し上げてゆるく前にせり出している。その上に俺の肩幅より太いベルトがあり、一日中仕事をしてよれているワイシャツが見えてくる。一度揺れるネクタイにぶち当たって倒れてから、総悟は帰ると玄関でまずネクタイを外すのが日課になっていた。意外と筋肉質な身体は胸元あたりでシャツに影を作り、さらにその上から、総悟の顔が俺をじっと見下ろしていた。ゆるりと浮かべている笑みに天井の照明が逆光になって陰をつくる。毎回のことだけれど、ドキリとする瞬間だ。
床が少し揺れて、総悟がゆっくりとしゃがみだす。もちろん総悟にとってのゆっくりだから、俺にとってはものすごい速度。まるでビルが倒れてくるかのように総悟の身体が下がっていき、巻き込まれた空気が総悟の匂いとともに俺に吹き降ろされる。腰、腹、胸と降りていき、ちょうどシャツの第一ボタンがテーブルの位置と同じになるぐらいで総悟がしゃがむのをやめる。もう少し下がればあごがテーブルにつく状況。それでも、俺は総悟を見上げないと目を合わせることができない。口ですら目線より上だ。ここまで総悟の顔が近づくと、総悟の鼻息はもちろん、肌の熱や皮脂の匂いまで届いてくる。総悟が俺を見下ろしたまま、パカリと口を開けた。俺なんて一飲みにしてしまえそうな巨大な穴が開く。
「ただいま」
総悟は囁くように小さな声でつぶやいたんだろうが、俺にとっては身体を震わせるような大きな音。生臭い息に包まれながら、精一杯大きな声で「おかえり!」と叫ぶ。聞こえて満足したのか、総悟は小さく口角をあげると、静かに目を閉じた。これが、合図だ。
「っと……」
ゆっくりと総悟に近づく。総悟の顔はそれこそ大仏のように大きい。止まってくれてはいるが、やっぱり少しは動いているので下手にぶつかるとこっちが吹っ飛ばされてしまう。慎重に近づいて、両腕を広げて手が届くぐらいの距離までくる。ここまでくるともう目の前はほとんど唇で、でもまだ少し上だ。……今日はちょっと高いのか、届かない。
(ええい!)
総悟のアゴに手をついて身体を支えて思いっきり背筋を伸ばして――総悟の下唇に小さすぎるキスをした。
***
このキスのきっかけは俺が作った。10cmにも届かないぐらい縮んだ俺は、小さすぎて本当に何もできない。ティッシュを箱から引っ張り出す事さえできないのだ。お菓子の袋も開けられないし、水道の蛇口になんて届きもしない。ビルを素手で登るぐらい無理だ。だから俺は一人じゃ水も食べ物も得られないし、トイレもできない。裸のまま飢えて死ぬしかない。それを総悟は、俺を踏んだり足で蹴飛ばしたりしないように、高さのあるサイドテーブルを片付けて俺の過ごす場所を作ってくれて、俺が着れるサイズの精巧な人形の服をわざわざ買って、毎日俺のために飲み物や料理を用意してくれるのだ。お金も手間もとんでもなくかかってるはずなのに、総悟はいやな顔一つしない。それがだんだんと申し訳なくなって、俺は言ったのだ。「お前のために、何か俺にできることはないか」と。そう言うと総悟は目を見開いて、少し悩んだようにして、言ったのだ。
「……もし、哲司がいやじゃなければ……その、キス、して、くれないか……」
どうやら総悟は俺のことが好きらしかった。恋愛的な意味で。俺が鈍いからかもしれないが、今までそんなそぶりを全く見せなかったので目をぱちくりさせてしまった。それをどうとったのか、慌てた総悟が「いや、忘れて。ごめん…」とか言い出したので反射的にそれを遮るように大声で「いいぞ!」と叫んだ。今度は総悟が目を見開く。
「……い、いいのか?」
「というか、俺本当に世話になりっぱなしだし! お前に何も返せてないしさ」
「そんなの気にしなくて……」
「俺が気にすんの! キスしてほしいんだろ!?」
そうでっかい顔にまくしたてると、総悟は小さくうなずいた。そこからである。行ってきますとお帰りのキスが始まったのは。
***
数秒すると足がぷるぷる震えてきて、総悟の唇から離れる。そうして何歩か下がるとようやく総悟の顔全体が見える。静かに目を開けた総悟は照れたように顔を赤くしている。総悟から頼んできたうえに、毎日やってるんだけどな、これ。それを見られたくないかのように総悟はさっきよりも速いスピードで立ち上がる。俺を上に持ち上げるように吹き上げる風に耐えながら総悟を見上げると、俺が縮む前から変わらない屈託のない笑みで俺を見下ろす。
「腹減ったろ? 飯にするからな」
キッチンに向かう総悟の背中に手を振る。本当にいいやつだ。俺のことが好きだとしても、小さくなった俺なら力ずくで、例えば無理やりキスすることもさせることもできるはずなのに、こうやって衣食住を用意して、俺の意思も大事にしてくれる。
(……あれ?)
なんだか頬が熱いような……いや、違うぞ、これは…………あ、あいつは、親友なんだからな!! キスだって、あいつの希望だからやってるだけだし……!!
下唇にかすかな温かみを感じながら、うっすらと目を開ける。思いっきり下を向いても小さな哲司は鼻の下に隠れてその姿を見ることはできない。キスは嬉しいが、こればっかりは哲司を縮めてしまってちょっと後悔している。
気づいたときには哲司のことが好きだった。明るくて誰にでも優しくて、幼いころからずっと一緒だった哲司。その哲司に彼女ができたと聞いた時と、俺にモノを縮小できる能力があると気づいたのは、ほとんど同じ時期だった気がする。
哲司は明るく、誰にでも優しい男だ。――俺だけのものになって欲しかった。その過程で色んなものを小さくして、哲司から遠ざけてきたけど……いくらやってもきりがなくて、つい、我慢ができなくなってしまった。
今の哲司は、俺がいないと何にもできない。俺が用意しないと飯も食えないし、服も着れない。もちろん俺から離れることもできない。
(あ~~~でも、キスは言ってみてよかったなあ……)
哲司は優しいやつだから、受け入れてくれたんだろう。嫌われてもしょうがなかった。ああ、でも、それでもいいんだ。俺は、哲司と、ずっとずっと一緒にいられるんだから。哲司が唇から離れたのを感じて、俺はまた静かに目を閉じた。
ichiya
2024-02-02 13:38:26 +0000 UTC曹達(ソーダ)
2024-02-01 10:53:07 +0000 UTC