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【全体公開版】デリヘルお得意様の大富豪から異常に愛される不幸体質鰐獣人

 牙ヶ蔵 鰐之介(ががくら わにのすけ)はエレベーターの中で不安そうに目線をさまよわせていた。

 ガラス張りの室内から眼下で流れていく夜景は無数の明かりが瞬く水面のようでいて、暗色から照り返す自分の顔が心配そうにのぞき込む。

 平時であれば黙っているだけでも強面と評されそうな彼は今、心細そうに眦を下げている。盛り上がった肉体は威圧感を醸し、まさに肉壁というにふさわしいのだが、実のところ格闘技など習っているわけではない。ただ、時間をつぶすのにお金がかからないから、家でトレーニングが趣味になっているというだけの話だ。

 牙並ぶ口唇から重い溜息を一つ。

 本当にいいのかと、夜景から自分が問いただしてくる。

 別に鰐之介とて、これから向かう先が嫌というわけではない。

 お金を稼ぐためにしている仕事としては効率が破格によく、確かに体を売ることに抵抗がないわけではないが、慣れてしまえば我慢できるものだ。

 しかも、それが自分をごひいきにしてくれるお得意様ならなおのこと。

 ならばなぜ、こんなにも足取りが重いのか。

 軽い音と共に、エレベーターが到着の合図を投げる。夜景から視線を戻し、開いていくドアを見据えた。

「大丈夫……大丈夫だから……」

 自分に言い聞かせて鋭い歯で噛みしめる。

 表情は明るく、笑顔で。フロア一帯がすでに相手の家なのだ、このドアが開いた瞬間から自分の仕事は始まる。

 今日の指名はなんだったか。確か、新婚の旦那だった気がするなと、ワニの頭の中でプランを再確認する。

 そのために職場からエプロンなどを借りようとしたが、先方が用意するからと彼は手ぶらだ。お金持ちなのだから、一晩の遊びに使う額など気にもしないのだろう。

 短パン半袖というラフな格好が全くの場違いに感じられる絢爛な場所で、鰐之介を待ち構えるのはあふれんばかりの輝き。

 光源が強いというわけではなく、ただただ世界そのものが眩い。

 それはあつらえられた調度品や窓からのぞく下界の光も含め、鰐之介では到底手が出せない高貴な眩さだ。

 傷一つつけただけでワニの稼ぎは蒸発する。それが恐ろしく、足を踏み入れることさえためらわれる天上の世界。

「やあ待ってたよ。今日も来てくれてありがとう」

 そんな目も眩むような世界の中心にいるヒョウの男は、鰐之介に向けて優しく微笑んだ。

 ――――白いタキシードの姿で。

「す、水善鉢(すいぜんばち)さん、いつもご指名ありがとうございます。でも、その、格好は一体……?」

「僕のことは斑(まだら)と呼んでほしいと言っているだろう。今から夫婦になるんだからさ」

「えっと、はい、今日は新婚の設定だって聞いてますが……」

 鰐之介の疑問に斑は嬉しそうに口角を緩めて、ごつごつと角ばった緑色の手を取った。

 その甲に恭しく口をつける動作も様になっており、鰐之介はどうしていいのかわからず曖昧に微笑み返すだけ。

 ワニよりも頭一つほど小さなヒョウだが、その身なりは引き締まった美丈夫と言える。どちらが女性にもてるのかと問われれば、十中八九ヒョウに軍配が上がるだろう。

 これはいつもの不幸なのではないだろうか。ひょっとして、これから自分は予想もしないことにまきこまれるかもしれない。

 諦観と逃避が入った思考にかまうことなく、ヒョウは手を引っ張ってくるではないか。

「うん、新婚だからね。初めからしようと思って」

「はあ……?」

「だから、呼んでおいたよ、神父」

 何で?

 危うく口をついて出そうになった疑問をすんでのところで飲み込んで、鰐之介は考えるのをやめた。

 思考の停止は得意だった。そうすれば、どうして、なんて泣かなくてよくなるから。

 どんなに考えたって、不幸というものは説明できやしない。

 来るときは来る、それが鰐之介がこれまでの人生で得た教訓だった。

 だから今回も、鰐之介は思考を停止して斑の言うことに従うことにする。

 そもそもお得意様のご機嫌を損ねるのはよくないし、それに。

 斑だって、いつ鰐之介の『不幸』になるのかわからないのだから。

****

 牙ヶ蔵 鰐之介が自分のことを不幸だと思い始めたのは、まだ小さなころだった。

 まず両親が死んだ。原因は不審火だった。

 あの瞬間のことは今でも覚えている。赤く燃える視界に、自分を逃がそうとしてくれた両親。事故か事件かわからない曖昧な猛火によって、彼の不幸は決定づけられたのだ。

 それから、彼の行く先々には不幸がついて回った。

 引き取ってくれた親戚はすべからく不幸に見舞われ、交通事故かリストラか、命があればいい方で、ひどいときには消息不明までいた。

 彼自身ももちろん例外ではなく、事故で死にかけたことは数知れず、なぜか他人の痴話げんかに巻き込まれて刃物を向けられたことまである。

 そんな彼は次第にやれ疫病神、やれ不幸の象徴だなど、行く先々で心無い言葉を浴びせかけられ続け、親戚や施設をたらいまわしにされた。ようやく働ける年になったと思えばすぐにでも追い出され、こうして一人身として社会に翻弄されていた。

 だが、彼とて生きていかねばいけないのだ。だから高卒の資格を取って大学に入り、人並みな生活をしたい。慎ましやかでもいいから、安穏と暮らしていきたい。

 それが彼の持つ小さな願いだった。

 そのための資金として、彼はデリヘルに手を出した。なにせ、彼がかかわった店は絶対不幸に見舞われるはずだから、人が固定のお店で働くのは好まない。どこかに拠点を持つということをしたくはなかった。

 それに、大学費用を貯めたい彼としては、稼ぎがいいというのはとても魅力的なことだった。自分の体だけでそれが賄えるならと、恋人すらできたことのない彼だが一念発起してここまでやってきた。

 デリヘルは本番がないと聞いていたし、それならまだ……と思っていたのもある。

 その結果が、なぜか純白のタキシードになった。

「あの、斑さん……おれのためにわざわざこのスーツ買ったんですか」

「ん、ああそうだね。気にしなくてもいいよ、安物だからね」

 なんて言われて値段を聞くことを鰐之介はしなかった。聞いてしまえば恐ろしくてすぐにでも脱ぎたくなってしまうだろうから。

 二人して正装に身を包み、神父の仰々しい言葉を聞き流した後、鰐之介はそのままベッドに押し倒された。

 しわになるのではと戦々恐々としたが、どうせ一夜限りの衣装だったことを思い出し、また考えるのをやめる。

 斑は鰐之介の分厚さを確かめるように何度も撫で、服越しにその筋肉を堪能していた。

 体を動かしていれば気がまぎれることもあり、運動はワニの数少ない趣味の一つだ。道具をそろえるお金はないが、身一つで出来るのがいい。

「相変わらずいい体をしている。そういえば、君の好きなプロテインも置いておいたよ。帰りに持っていくといい」

「ありがとうございます……毎回毎回、お世話になって」

「いいさ。君が喜んでくれるなら、僕は協力を惜しまないよ」

 身一つで出来るのがいい、と思っていた鰐之介だが、ここ最近は斑の好意によって運動の質が向上していた。

 プロテインなどの消耗品はもちろん、会員制のジムへの紹介など。おかげでワニの肉体はより一層ボリューミーになっている。持っている服が入らなくなってきているのだが、それはさすがに言っていない。

 おかげで指名も増えて万々歳であり、さらに斑の羽振りがいいこともあって鰐之介の懐は着実に潤ってきていた。

 順調に行っているように見える。だが、いつ何が起こるかわからない。

 鰐之介はいつか来る不幸におびえながら、シーツの海に身を任せていた。

 そっと、ヒョウの口が首筋に埋まる。舌が伸ばされるとざらりとした感覚がくすぐったく、鰐之介は巨体を身じろぎさせた。

「んぅ……」

「かわいいよ、ワニスケ」

 鰐之介の源氏名をささやいて、斑はゆっくりと脱がせていく。緑を纏う外側と薄いクリーム色をした内側をさらけ出しつつ、フォーマルの残滓をかぶせた淫靡な肉体を作り上げる。

 俯瞰してみても肉厚さが際立った剛健な肉体を前に、斑が目を細めた。

 シャツをはだけさせた途端に色気があふれて、瑞々しい肉体が食ろうてほしいと震えだす。硬いだけではなく柔らかくもある筋肉の塊を、指先でつついては欲情があおられる。

 つーっと筋肉の凹凸をなぞると、雄々しい口から上ずった声がまろび出る。そして恥ずかしそうに眼を潤ませる鰐之介を、斑はうっとりと眺めていた。

「すい、ぜんばしさん……」

「斑でいいと言ってるだろう。それにしても……まいったなぁ」

 ワニという種族柄ごつごつした皮膚と隆起した肉体の相性はすさまじく、その雄性は極上の料理と言っても差し支えないほど。さらに潤ませて焦がれるような視線を最高のソースにして、今の鰐之介は斑をたぶらかす魔性に満ちている。

 

 ヒョウは巨大な肉体をまたぎ、緑の鼻面へと顔を近づけた。

 覆うには全く面積が足りない体格差であり、まるで肉布団のようだ。しかしここで寝てしまえば何のために呼んだのかわからなくなる、斑は完全に倒れそうになる体を何とか支え、軽くキスをした。

「本当は新婚ということで、何か料理でも作ってもらおうと思ったんだけど。前聞いた話、君は家事全般ができるんだよね」

「そうですね、独り暮らしですので。でも、すいぜ……斑さんが期待するほどのものは難しいとは思うんですけど……」

「そこでお願いしたい料理があってね。でも、ちょっと我慢ができなくなってしまった。ここで一回してもいいかな? もちろん、本番はなしでいいから」

 デリヘルは本番がないと表立っているものの、別に本番をする人もいるし、鰐之介とて経験がないわけではない。

 だけど、一線は超えまいとする斑に、いいよとは言えないでいた。嫌いなわけではないし、求められたらおそらくしてしまうのだろうが。それでも、斑から言わない限り鰐之介にするつもりはなかった。

「えっと、はい、大丈夫だと思います。斑さんからはいつも延長分も含めていただいてますので」

「……そういう意味ではないのだけど」

 ならどういう意味なのか。鰐之介は首を傾げた。

 時間についてでなければ、性行為についての同意ということなのだろうか。そういう目的で来ている以上、断るはずがないだろうに。

 ……とそこまで考えて、今の自分は新婚なのだということに気が付いた。だから自分はロールプレイが苦手なんだと思いいたると同時に、勢いよく首を振る。

「あ! はい! 全然大丈夫です! まだらさ、えっと、あなたの頼みですから!」

「待った、もう一回それで呼んでみてくれないか」

「え、あなた?」

「もう一回だ」

「あなた」

 呼ぶたびにヒョウの顔がどんどんと険しくなっていく。

 ひょっとして自分は何か地雷を踏んでしまったのではないか。鰐之介の背筋が冷えていくのを感じる。

 せっかくお得意様になってもらったのに、嫌われてしまったかもしれない。それどころか、折檻とかされてしまったらどうしよう。

 不幸に慣れ切った思考回路は最悪の想像を簡単にはじき出し、ワニの相貌が不安にゆがむ。

 だが、その妄想は覆いかぶさってきた斑によって打ち切られることになる。

「申し訳ない。ちょっと……抑えられそうもなくなってしまった」

「え、え、なんでですか?!」

「今日は朝までを覚悟してほしい。もちろんお金は払うが、時間は大丈夫かな?」

「時間は、問題ないですけど……明日も特に予定もないですし。その、何か、おれ、気に障ることでもしました……?」

「ああいや、そんなことはないんだ。最近忙しいからちょっと溜まっていてね。それだけなんだ、うん」

 取り繕った大人の顔からにじみ出る、隠し切れない欲望が鰐之介に降り注ぐ。端正な顔には欲情が浮かび、雄を思わせる。

 鰐之介はこの仕事が長いわけではないが、それでも、今から自分が食われるのだということは感じ取れる。それにこういうことは度々あって、この依頼人は鰐之介にはわからない何かで燃え上がるのだ。

 タキシードを脱がせる時間すら惜しいと言わんばかりにヒョウの手が股間に伸び、色気づいた手つきでまさぐってくる。

 自然と立ち上がってくる一物はお高い布を押し上げ、窮屈そうにテントを作った。

「……んはぁ」

 熱っぽい吐息が漏れると、空いた口にヒョウの舌がねじ込まれる。味もしない唾液を甘露のように貪るこのヒョウの口づけはいつも激しく、優しい。

 斑が手を伸ばしたことを察した鰐之介は、分厚い巨体を少し浮かせて抱きしめやすいようにした。他の客に対してはまだ要求をうまく読み込めない新人だが、斑に対してはなんとなくでわかるようになっている。

 回数の多さもあるが、鰐之介は斑のことが嫌いではなかった。

 いつも優しくしてくれる上に、お土産と言っていろんなものを持たせてくれる。

 その理由についてはさっぱりわからないものの、恩恵にあずかっているのは事実だ。

 デリヘルなんて仕事ができているのも、斑が優しく手ほどきしてくれたからというのも大きかった。

 だから、嫌われたくなかった。

 そして、自分のせいで不幸になってほしくなかった。

 この優しさに甘えてしまうと、いつか不幸になる。そもそも客と売り子の間柄だ。線引きはしっかりしなければならない。

 根が真面目なこともあり、鰐之介はこれ以上考えることをやめる。

 思考の停止は得意だ。だってそうすれば、どうして、なんて泣くこともないのだから。

****

 その言葉を聞いたのは、もう昼に差し掛かったころだったと思う。

 ベッドの上で斑をいかしてから今度は裸エプロンで夜食を作り、キッチンで揺れ踊る張りのある臀部に我慢できなくなった斑に襲われて第2ラウンド。鰐之介の巨体でも易々と足を伸ばせるバスルームでもう一回。最後に白んできた空を見ながらソファで身を寄せ合うように抜き合って、と、実に堕落的な夜を過ごした二人。

 精も根も搾り取られた鰐之介が依頼主である斑のベッドで日が高くなるまで寝ていてもしょうがないことだろう。

 自然光で満たされた部屋で目を覚ました鰐之介を、コーヒーの香りが出迎えてくれた。焦がしたような匂いの中には確かな甘みがある。コーヒーというには色彩が豊かすぎる気もするが、確かにこれは豆を炒った香りだ。

 のそりと上背を起こし、すでに世界は日中を謳歌していると知る。依頼主がいないことに気付いた鰐之介は、匂いの元をたどるべくすべらかなシーツから身を離した。

 

 リビングでは大きな窓から燦々と日光が降り注いでおり、ワニの新緑がどの観葉植物よりも鮮やかに照り返す。下界の喧騒から解き放たれた天上の世界は、こんな日の高い時間にあっても静まり返っているではないか。

 いつ見てもモデルルームのような部屋だと鰐之介が思うと同時に、今の自分は一糸まとわぬ姿であることにも思い足り、景観を汚してしまったような気分になる。

「おや、起きたのかい。まだ少しくらい寝ていても良かったのに」

「もう大丈夫ですよ。それに、あまりに長居しても申し訳ないですし」

 家主はすでにワイシャツとスラックスを着こなしており、芳醇な液体を陶器のカップに注いでいるところだった。

 昼食の準備をしていたのだろう。キッチンカウンターからはコーヒーだけではなくパンの焼ける香ばしい匂いまでしてくる。

「苦いのは平気かい?」

「え、問題なく飲めますけど」

 自分用に注いだであろうカップをカウンターに乗せて、どうぞと差し出してくる。

 お尻の素肌が直接椅子に触れることに戸惑いを覚えつつも、斑から特に何も言わないためにおずおずと座る鰐之介。カウンター用の小さな椅子では尻肉の半分以上はみ出してしまい、壊れないか不安になってくる。

「ありがとうございます」

 お礼を言って、カップに口をつける。美味しい。

「美味しい……!」

 素直に口から出てしまった。苦いだけではなく甘みなども混ざった複雑な味わいが、コクや深みとなって舌の上で踊るのだ。かと思えばしつこいわけではなく、喉へと溶けるように流れ落ちていく。

 これまでの人生において、鰐之介が飲んだコーヒーの中で一番おいしいと断言できる。

 思わず一気飲みしてしまった鰐之介を、斑は嬉しそうに見つめていた。

「気に言ってもらえたようでよかったよ。僕も好きなんだ、それ」

 美丈夫の笑顔は花が咲くように明るく、部屋の雰囲気すら彩度を上げたようだ。

 鰐之介はお代わりを注いでくれるヒョウの顔を見ながら、そんなことを思った。

「そろそろランチが届くころだから、良かったら食べていってくれ」

「ええぇ! いや、そんなに甘えるわけには……!」

「そうかい……いやね、君が食べるだろうなと思ってたくさん頼んでしまったんだ。僕はそんなに食べる方ではないし、人助けだと思ってね」

「う、ううぅ。わかりました」

 なんだかうまくしてやられたような気もするが、昼食代が浮くのなら悪くはない。さんざん搾り取られた鰐之介の胃袋は空っぽであり、大人二人前以上を平らげないと満足できそうになかったからだ。

 斑がどれだけ頼んだかはわからないが、八分目くらいにはなるだろう。

 などと考えているワニの前に、綺麗に焼けたトーストが差し出された。そういえばパンの香ばしい匂いもしていたなと思い出し、首をかしげる。

「あれ、じゃあそのパンはなんですか?」

「ん、これかい。君は空腹だろうし、つなぎにはなるかと思ってね」

 あ、これはものすごく食べると理解されている。鰐之介はそう確信し、お礼と共にパンを平らげた。とても美味だった。

 ただ焼いただけにもかかわらず、中がもちもちとしており、自然な甘みが口から心までを癒してくれるようだ。

「おいひい……」

「うんうん、いい食べっぷりだね。僕はワニスケみたいに口が大きくないから、見ていて気持ちがいいよ」

「食い意地が張ってるもので……」

「ならお昼も大丈夫かな。たくさん頼んだつもりだけど、足りなかったらごめんよ。足りなかったらまたすぐに持ってこさせるから」

「そこまでは大丈夫です! 本当に! おごってもらえるだけで充分です!」

「実は運んできてもらうのはうちの新商品でね。コメントは多ければ多いほどいいんだ。だから気にしないで」

 呼び出した回数も多いため、鰐之介の遠慮癖もしっかり見抜いている。的確に退路を断つ手腕は、さすが一代で会社を大きくした敏腕社長と言える。

 そこまで言われては断ることもできず。もっとよこせと腹の虫がなったこともあり、恥ずかしそうに鰐之介は頷くのであった。

 水善鉢 斑は外食産業を営む会社の社長であり、ここ最近は配達に力を入れている新進気鋭の経営者だ。

 いつでもプロの作り立てを。をスローガンにレストランの経営はもちろん、手抜きレシピを教える動画配信アカウントの運営、シェフの派遣サービスまで。食のクオリティ向上にまい進してきた社長でもある。

 そして斑本人もプロ顔負けの料理の技術を誇るのだが、なぜか鰐之介が作ったものを食べたがるのだ。

 

「さて、まずはお会計を済ませてしまおうか。昨日は長く付き合ってくれてありがとう。おかげで僕も楽しめたよ」

「それはよかったです。いつも御贔屓にしてくれて、ありがと、う……ござ……」

 とか言いつつ出された札束は明らかに色がついている。二晩働いても稼げない額だ。思わず絶句した鰐之介がさすがにそんなには受け取れないと固辞するも、気が付いたらお土産のプロテインらともども押し付けられる形になってしまった。

 根が小心者というか、正直者なワニだ。しかも不幸を自覚しているため、何か落とし穴があるのではと猜疑が囁いて止まらない。

 今が幸せな分、その揺り戻しが怖い。明日にでも死んでしまうのではないか。そう考えずにはいられないのだ。

 自然と落ち込んでしまうワニに、斑も困ったように眉を下げた。

「すまない、おせっかいが過ぎたかな。そこまで困らせるつもりはなかったんだが……」

「いえ、いえ! 斑さんにはいつも感謝してます! 本当です! でも、こんなにもらっても、おれには何もできないので……」

「もう十分もらってるんだがねぇ。僕が払ってもいいと思ったから払ってるんだよ。うーん、それなら、そうだ」

 ふわりとヒョウの口角が上がる。いいことを思いつきましたと言わんばかりの楽しそうな顔に、ああ、この人はこんな顔もできるんだなとワニは新鮮に感じた。

 ふわりとコーヒーの匂いを纏うヒョウが提案するのは、鰐之介にとって予想外のことで。なんでこんな提案をするのか心底わからないのだが。

「なら、君の今日を僕にくれないだろうか」

 斑はとても、とても嬉しそうに言うのだ。

「それは、まだ延長するということでしょうか?」

「そうだね。それならいいだろ? 確か今日は何も予定がないと聞いていたし、僕も空けてある」

 つまり今日は一日中搾り取られるのかと思いつつ、それならこのお金に対する罪悪感も薄らぐはずだ。鰐之介は下腹部が熱を持ち始めたことを意識して、斑に見えない位置で足をもじもじとさせる。

 このヒョウは見た目以上に性豪で、そして少しSっ気がある。果たして明日まで耐えられるのか、少し自信がない鰐之介であった。

「もちろん、君が嫌なら無理強いはしないが」

「大丈夫ですよ。お世話になってる斑さんのお願いですから」

「本当かい! よかった! それじゃあ少し準備をするから待っていてくれないか」

「あ、じゃあ僕も洗ったりした方がいいと思うので、シャワーをお借りしても?」

「構わないよ。君のためにワニ用のソープを用意してある。好きに使ってくれ。なにせ初めてのデートだからね、なんだったら一度帰ってもいいよ」

「え?」

「え?」

 今斑はデートと言わなかったか。聞き間違いだろうか。

 てっきりこの部屋で一日ずっと搾り取られることを想像していた鰐之介は呆気にとられた顔をして、もう一度確認を。

「……デートですか?」

「そうだよ。君の今日一日の予定は、僕とデートすることさ!」

 聞き間違いではなかった。どうしてそんなことになったんだと問いたい。

「え、えええっ! お、おれとですか!」

「他に誰がいるんだい」

「え、でも、おれなんかとデートしたって、そんな、楽しくないですよきっと」

 むしろ不幸にしてしまうかもしれない。それがとても恐ろしい。

「嫌なのかい?」

「……っ!」

 嫌かどうかと聞かれたなら、首を横に振るしかない。このワニはいつだって正直だから。

「でも、何が起こるかわかりませんよ。車が突っ込んでくるかもしれないし、看板が落ちてくるかも……食中毒だって……」

「君が何をそんなにおびえているのかわからないが、そうだね、君はいつだって何かに怯えている」

「……っ」

 自分の不幸体質について、鰐之介は話していない。

 そんなことを話す間柄でもなかったし、何より嫌われてしまうことが怖かったから。

 でも、ここまで来たら言わないといけない。鰐之介が小さな決意を灯らせて顔を上げると、ほほえみを絶やさない斑と目が合った。

 嫌われてしまうことは怖い。でも、自分のせいで他の人が不幸になるのはもっと嫌だから。

「あの、おれは不幸なんです。自分だけじゃなくて、周りも不幸になるんです。だから、好いてくれるのは嬉しいのですけど、デートとかしたかったら他の人とした方がいいと思います」

 鰐之介なりの決意とけじめを込めて話したつもりだが、対する態度は何も変わらず。

 むしろ、良かったとでも言いたげな態度はワニには理解不能だ。

「それだけ?」

「え、ですけど……はい……」

「なら何も問題ないね。今日はよろしく頼むよ」

「え、でも、話聞いてました。おれと一緒に居ないほうがいいんですって」

「大丈夫大丈夫。そのくらい織り込み済みだから」

「……え?」

 斑に話したことなどなかったのだが、いつの間に情報が漏れていたのだろうか。

「でも、でも……おれのせいで斑さんがひどい目に合うのは……」

「ああ、僕のことを心配してくれてるんだね。君はいつでもそうだ。なに心配いらないさ。僕はとても幸運だからね」

 笑いながらそこまで言い切る人を、鰐之介は知らない。思わず言葉に詰まった緑の口に、先ほどのコーヒーの残り香が漂った。

 ふわりと、温かくて優しい味。じんわりと広がっていく熱が、もう辞退を許さなかった。

「じゃなきゃ一代でここまで会社を大きくできないだろ? 僕は幸運なのさ。それもとびっきりのね。だから心配しなくていいよ。君と僕でちょうどいいくらいかもしれないし」

 空になったカップに褐色の液体が注がれる。

「断言しよう」

 広がる水面に映るワニの顔が、驚愕を張り付けたままゆらりと揺蕩って。

 斑は安心させるように微笑むのだ。

 

「今日が君にとって世界で一番幸せな日になる!」

****

「幸せな日……」

 帰路を歩きながら、鰐之介はつぶやいた。

 結局プロテインなどの荷物が多いことから、一度家に戻ることにした彼を日光が照り付ける。

 両手に抱える荷物はプロテインだけではなく先ほど気に入ったコーヒー豆や、新商品のテスターにという建前でプロテインバーまでもらってしまった。

 あの人はひょっとして自分を肥えさせようとしているのではないかとたまに思うのだが、もらうものすべてが美味しいのでつい受け取ってしまうのだ。

 斑の家から離れるほど喧騒は鳴りを潜め、言ってしまえばさびれた住宅街が鰐之介の拠点だった。開発が途中で止まったためか、忘れ去られた空き地が点在している。でも、このさびれた雰囲気が鰐之介は好きだった。明るいところよりずっと、なじむ気がして。

「デート、どうしよう……」

 つい勢いで了承してしまったが、何をしていいのかわからなかった。そもそもバルクアップした肉体にあう服を最近買ってない。どの服もちょっと小さいんだよなぁと、改めて余所行きの物がない事を憂う。

 今更買う時間もないし、どうしたものかと頭を悩ませて歩いていると、賑やかな声が響いてきた。

 場違いに感じてふと目線を向けると、空き地で子供たちが遊んでいた。ここなら交通量もそれほど多くないし、遊ぶにはうってつけということでたまに見る光景であった。

 どうやらサッカーをしているようで、やいのやいのと楽しそうな声に鰐之介も嬉しくなる。遊びすらデジタル化した現代でも、実際に遊ぶ楽しさが損なわれているわけでないのだと改めて感じる。

 

 心がほっこりして、さあ帰ろうと目線を帰路へと戻した時。

 大きな衝撃が鰐之介を襲った。

「いだっ!」

 反射的に顔を向けると先ほどのサッカーボールが転がっていた。

 どうやらこれがぶつかってきたようだ。

 さらに目線を上げるとおびえた様子の子どもたちが、なんと声をかけていいものかわからずうろたえているではないか。それもそうだろう、なにせボールをぶつけてしまったのは誰の目から見てもわかるほど隆々とした肉体を持つ強面のワニなのだ。一喝するだけで泣かせることすら可能な狂暴な面を前に、素直に謝罪するのは難しい。

 巨漢で凶悪な顔をしたワニであることを自覚している彼は、こういう時にはどうすればいいのか理解している。

 にっこりと、笑えばいいのだ。

「遊ぶのはいいけど、周りには気を付けようね」

「はい……あの、ごめんなさい」仲間の一人が代表してボールを取りに来る。いい子だ。

「別に怪我もしてないから大丈夫。おれは見た目通り頑丈だから」

「でも、あれ……」

 そう言いながら申し訳なさそうに指さすのは、道端に広がるコーヒー豆だった。

 衝撃で腕からこぼれたそれが、袋から飛び出してしまったのか。

 褐色の粒はあの芳醇な匂いもなく、ただ道に転がるそれは羽化する前の卵のようで。決して孵らない寂しさに、あの部屋での出来事が遠のいていくような気がしてしまった。

「あ……」

「ご、ごめんなさい!」

 茫然とした声に身を硬くする子ども。さすがに怒らせてしまっただろうかと思ったが、返ってきたのは優しい声だった。

「いいよ、大丈夫。怪我がなかったんだから、全然不幸じゃないよ」

 このくらいなんだ。いつもの不幸に比べたらずっとましではないか。

 でも、いつもよりずっと心が痛いのはなんでだろう。

「ねえ、今日は周りに注意するって約束できる?」

「約束する……」

「うん、いい子いい子。ならはいこれ、おやつにどうぞ」

 斑からもらったお土産から、プロテインバーを人数分取り出して子供に渡してやる。

 目を白黒させた子を見て、もう一度、にっこりとワニは笑った。

「本当に怒ってないよ。でも、おれとの約束だからね。今日は注意して遊んでね。コーヒーはおれが片づけておくから、もう行っていいよ」

「……うん、ありがとう!」

 ようやく笑顔を取り戻した子どもがお礼と共にボールを抱えて走り去っていく。泣かせないで済んだことにほっと胸をなでおろし、そのまま散らばったコーヒー豆を片付ける。

「あーあ……」

 もったいない。きっと高いんだろうな。

 だけどそれ以上に、斑に申し訳ない気持ちが強い。

 せっかく持たせてくれたのに、飲むことすらできなかったなんて。彼になんて言えばいいのか。

「幸せな日に、なるのかな……」

 やっぱり自分は不幸じゃないか。こんな小さな事ならまだいいが、大きなものが来てしまえばもっとひどい目にあう。

 何度斑の言葉を反芻しても、幸せになれるなんて思えない。

 豆を拾っている間、みじめさが彼を襲う。幸せな日になると断言してくれた斑の言葉が、零れ落ちていったような気がして。もう取り戻せないような気がして。

 照り付ける日光に反して胸中にどんよりした感情を抱えながら豆を拾っていると、ワニに並ぶように影が一つ。

「思うのだが、君はお人よしがすぎないかな」

「……斑さん」

 急に現れたヒョウは怒るでもなく、ただワニを手伝って豆を拾い始めた。

 デートということで気合のいれた服だろうことは鰐之介にもわかる。汚してしまってはいけないから大丈夫だと言っても、斑は気にせず手伝いを続けた。

「見てたんですか」

「途中からね。口を挟む隙がなかったよ、君は子どもの扱いも上手なんだね」

「施設にいたので、下の子の世話は慣れてますから」

「なるほどね、それで餌付けを覚えてきたのか」

「餌付けっていうほどでもないですけど。ごめんなさい、斑さんからもらったお土産、あげちゃいました」

「いいよいいよ。ああやって誰かに施しを受けると、心に残るからね。きっとあの子たちもわかってくれたよ」

「……斑さんにもそういったことあったんですか」

「あるよ。僕にとって、大事な思い出がね」

 それはいったい何なのだろうと気になったが、自分が聞いていい事でもないだろうと思いなおす。豆を拾う斑の横顔が、とても優しい顔をしていたから。

 きっとそれは斑に取ってかけがえのない思い出に違いない。今でこそ順風満帆な生活をしているが、昔はすべてを失ったことがあるとテレビのドキュメンタリーで見たことがあった。鰐之介には想像もつかないことが、この優しい人にもあったのだろう。

 だから鰐之介は話を変えるために、とっさに後ろを指さした。

「でもいいんですか、車そこにとめっぱなしで」

 迎えに来てくれたのか、立派な車が少し後方に止まっている。道をふさいでいるから邪魔になるのではないか。

 そのことを指摘しても、斑はどこ吹く風だ。

「いいんじゃないかな。君を手伝うことの方がずっと大事だから」

「そうですか、申し訳ないです」

「そういうときは、お礼の言葉の方が嬉しいものだよ」

「……ありがとうございます」

「うん、どういたしまして」

 二人で片付ければあっという間だった。道を覆う褐色の粒は綺麗に痕跡を消した。

 それを見届けた斑は車に戻ると、助手席のドアを開けて鰐之介を誘う。

「さあどうぞワニスケ君。せっかくだ、送っていこう。それと、コーヒーはまた新しいものを送ろう」

「えと、ありがとうございます」

 送ってもらえることは嬉しいのだが、またコーヒーをもらうのは気が引ける。

 だけどここで断ってはどちらも断るようになってしまうのではないか。そう考えた結果、曖昧に頷くことしかできなくなってしまった。鰐之介の遠慮癖をしっかりと抑えることに関して、世界で一番上手なのは間違いなく斑だった。

 でかい尻をシートに沈めると、エアコンの涼しい風が体を冷やしてくれる。

 直射日光の下だったことを今更ながら思い出し、自分の汗でシートが汚れてしまっては申し訳ない。だから鰐之介は背中をできるだけ触れないようにしていたが、斑は笑い飛ばしてきた。

「別にいいのに。エアコンもっと強くしようか」

「助かります、さすがにちょっと熱くなってまして」

「そうだね、美味しそうな匂いが漂ってくるよ」

「……それ、汗臭いって言ってます?」

「僕は好きなんだけどね。食材が焼けるときの匂いよりずっと」

 帰ったら絶対シャワーを浴びよう。少し斑を待たせたとしてもしょうがないと鰐之介は決めた。

 エンジン音と共に車輪が動き、車は走り去っていく。

 そして、それを離れて見ていた子どもたちが誰ともなく声を上げる。

「あの二人って付き合ってると思う人!」

「はーい!」

 ませた子どもたちの楽しそうな声が、ちぐはぐな二人の関係性を囃し立てる。

 方や大柄で強面だが優しそうなワニ、片やすらりとして凛々しいヒョウ。

 そんな二人のことを語る子どもたちは、とても楽しそうで。

 ボールがぶつかったあの時に鰐之介が一喝していては得られない平和だった。

****

 少し時間がたって、ようやく鰐之介が斑に合流した時の第一声は、予想以上に困惑が強かった。

「……一つ聞きたいのだが、それは誘っているのかい?」

「いえ、そういうわけじゃ、ないんですけど……」

 だってこれしかましな服がなかったから。しりすぼみになって消えていく言葉はそう言っているようだった。

 短パン半袖シャツを基本とする彼が持つ服の中でも、よれもなく整って見える服をチョイスしたつもりだったのだが。いつもの服よりも前に買っているため、たくましくなっていた肉体には少し窮屈すぎたようだ。

 はちきれんばかりに引き伸ばされた服は、胸筋はもとより、臀部や乳首すら強調しているように見える。しかもワニ特有のごつごつした皮膚に引っ掛かっていつ破れてもおかしくない。

 さすがに股間は収納式のためわからないが、これで勃起でもしようものなら斑の理性が持たないかもしれない。

「そんなに変ですかね……?」

「変というか、むしろなんとも思わない?」

「ちょっと窮屈かなとは思いますけど」

「ちょっと……?」

 鰐之介は家では基本的にシャツとパンツのみで過ごしているため、服という物にあまり関心がない。節約していることもあり、一つの服を長く着まわして過ごしている。

 そんな生活に慣れてしまっているため、多少窮屈でも気にしない精神性が身についてしまったのか。自分の体がどう見えるか、あまり感じていないらしい。

「いつもぴったりな服ばかりだから、そういう趣味なのかと思っていたが……。それはもう服がかわいそうなのでは」

「うーん、確かに引き伸ばされてます」

「特に胸がね。パン生地でもこんなに伸びないよ。トルコ風アイスもびっくりだよ」

 盛り上がって自己主張激しい胸部は特に服が悲鳴を上げている部分で、動くたびに揺れるのが気の毒に思えてくる。

 と同時に斑にとっては最強に煽情的であるため、嫌でもその肉の感触を思い出してしまうのだ。ましてや乳首も浮かび上がっているのなら、歩く煩悩刺激装置と言っても過言ではない。

 歩くたびにムチィムチィと効果音すら聞こえてきそうなのに、あろうことかこのワニは自分の魅力を全く理解していないらしい。

(なるほど、これはデリヘルにスカウトされるわけだ。今まで痴漢などされたことがないほうが不思議だ……)

「斑さん、どうしました? やっぱり服のセンスがなかったですかね……」

「センスという問題ではないのだが……よし、ならまずは服を買いに行こう。もともと行く予定ではあったが、早く行った方がいいかな。そんなエッチな格好で町を歩いては、男を誘っていると言っているようなものだ」

「そうですかね? ただの普段着だと思うんですけど」

「つまり君はいつもそんな恰好で生活しているというわけだね。うん、服を買おう。それもたくさん。君のエッチな姿を衆目にさらすことに僕は耐えられない」

「……?」

 また鰐之介にはわからない何かでスイッチが入ったのか、斑の目が本気だ。体躯だけなら圧倒しているワニの方がこれには気おされて、プランに異議を唱える気力などありはしなかった。

 

 促されるまま車に乗り、行きついた先はとあるファッションブランド。

 ここなら気に入ってくれるだろうとふんで、斑が選んだお店だ。もともとワニの私服を毎回しっかりチェックしている男だ、彼の好きそうな店を選ぶくらい朝飯前である。

「ここ……ちょっと高いんじゃないですか……もう雰囲気がすでに違うんですけど」

 人通りのなさと門構えの格調高さは、完全にワニとは別世界を意味している。

「そんなことないよ。ファストファッションより少し値段が上ってくらいかな。さあ、何でも買うといい。欲しい物は全部買ってみてもいいかもしれないね」

「え、まさか奢ってくれるつもりでいます? いや、さすがに自分で買いますよ。お金は多少下ろしてきましたし……きっといける、はず」

「心配無用だよ。実はここの社長と仲が良くてね。最近は君のような大柄な男性にフォーカスした展開を計画しているようで、君の立派な体つきを宣伝したらぜひ着てみてほしいと言ってくれたんだ」

「……はあ?」

 それが代金を払わなくていい事と何の関係があるのか。

「だから、ここで買ったら次は撮影会場でモデルデビューしてみようか。服代はその経費ということになってるから」

「はああああぁぁっ??!!」

 開いた口が塞がらないとはまさにこのことか。ワニの大きな口があんぐりと開いて、驚愕を示す。

「モデル! おれがですか!」

「大丈夫、向こうの許可はもらってるし、お試しみたいなものだよ。どちらかというと、ストリートスナップに近いかもしれないね」

「いや、無理無理無理! そんな、おれが、できるわけないですっ!」

「大丈夫大丈夫。ただ下着の着用もあるんだけど、君の立派な体ならそれはそれは映えるだろうとも。それに、君の顔は他のワニと違って優しいし温かみのあるものだ。間隙産業という意味でもいけると思うんだがね」

 遠慮癖をふさぐためにここまでする男、水善鉢 斑。ほとんどは鰐之介のために、そしてわずかな願望として鰐之介のモデルデビューと下着姿が見たいからというのもある男。

「気に入ってもらえれば専属の話も来るかもしれないし、もうデリヘルとかやらなくてよくなるかもね」

「……そうしたら、斑さんとも会えなくなっちゃいますね」

「うぐぅ!!」

「斑さん?!」

 寂しそうにつぶやく内容がクリーンヒットしたのか、ヒョウの美丈夫は胸を抑えてうずくまってしまった。原因など全くわからないので、心臓発作を疑ってしまう。

 普段とは全く違うテンションの上がった斑の行動に、鰐之介はどうしたものかとあわあわするばかり。

「すまない……ちょっとかわいさの破壊力がね……」

「はぁ」さっぱりわからないと首をかしげるところもまた、かわいらしいもの。

「なので遠慮せず好きなものを選ぶといい。そんな窮屈な服ばかりでは、動きづらいだろう」

「そうですね……なら、お言葉に甘えさせていただきます」

 話が通っているのならしょうがない。もともと押しが弱いうえに頼まれごとを断れないワニだから、自分に利があるならと許諾するのは当然の流れだった。

 いくつか服を見繕い、斑の強い申し立てもあってさっそくその場で着替えておく。斑の見立てがいいのもあるだろうが、いかつくボリュームを強調しすぎていた肉体はすぐに違和感のない好青年へと変わっていく。

 試着室から出てきたワニは、肉体の強調こそ減ったものの、がっしりとした体つきが映えるさわやかさを手に入れていた。元が新緑の鱗を持つ彼だ、袖口からのぞく綺麗な緑が優しい印象を加速させてくれる。

 シンプルな上下にオーバーサイズなジャケットを羽織れば、どこに出しても恥ずかしくない好青年だ。

「どうだい、感想は」

「とても動きやすいです。肩回りとか、こんなに動きやすいんですね」

「それはあの服に比べればね……。君みたいに体の大きな男性にはオーバーサイズこそが普通になってしまうからね。最近はそういう人のためのオーバーサイズもこうやって作っているようなんだ。僕にとってはでかすぎるけど、君はちょうどいいんじゃないかな」

 久しぶりに体格相応の服を着て、鰐之介はご満悦だった。野暮ったいと自覚している見た目が少しマシになった気がする。

「ありがとうございます、斑さん。一人ならきっと、服とかなかったでしょうから……」

 不幸を自認する彼にとって、目当てのサイズがないなどは日常茶飯事で。大きめのサイズをそろえるお店でさえ、好みの服に限ってなかったりする。

 店員に声くらいかければいいのにとは斑にも言われたが、小心者な彼にとってそれはハードルが高いし、探しても見つからないだろうというあきらめもあった。

 また、人に押されて転んでしまって棚を倒すなどのアクシデントもなく、今のところ順調に進んでいる。

 それはひとえに斑のおかげだろう。サイズが無ければ店員に言って取り寄せてもらうことを斑はためらわないし、そもそも人が少ないから押される心配もなく、斑のエスコートによって転んだりすることもない。一回だけ試着中に振り回した尻尾が鏡に当たってしまい、ひびが入ることがあったものの、それも斑が店員をなだめてくれたから大事には至っていない。

 そういうこともあり、鰐之介はとても気分がよかった。

 鏡の前でくるくると回って矯めつ眇めつする鰐之介を、斑は菩薩のような笑みを浮かべていた。本心ではずっと見ていたいところだが、予定がせまっているためしょうがない。

 角ばった手をそっと握って、ワニを導いていく。

「それじゃあ、そろそろ行こうか。ここら辺全部買っていけばいいよね」

 そう言いながら見せつけるのは衣類の山。斑が試着させた服のすべてが積み重なっており、かなりの金額になるのではないだろうか。

「ひえ」

「大丈夫大丈夫。経費だから……まあ予算超えたら僕が払うし」

「何か言いました?」

「ううん。君のモデルデビューが楽しみだなって」

「う、うぅ……できる気がしないのですけど……」

「いつも通りでいいよ。君はそれが一番素敵だから」

 慰めるように尻尾を絡ませるヒョウに、できるだけ頑張りますと消えそうな声で応えるしかできなかった。

「じゃあそれ、送っといてもらえるかな」

 とだけ言い残して、斑は車までエスコートする。送り先などの手続きは鰐之介が試着している間に終えてあったようで、手際よく次なる場所へと向かっていく。

 慣れてきた車内の匂いに安心感を覚えながら、鰐之介が問う。

「そういえば、他の予定はどうなっているんですか?」

「これからかい? まずは撮影をして、その後はプールかな」

「プールですか?」

「そうそう。最近知り合いがリゾートプールをオープンする予定でね。そのプレオープンに招待されてるんだ。デートの開始がちょっと遅かったから、撮影したらもういい時間だし、ナイトプールでもどうかなって」

「ナイトプールってあの、キラキラしてる、あの」

「君がどういう想像を持っているのかは知らないけど、プレオープンだし、人はほとんどいないと思うよ。食事はうちの会社から提供していてね、そこのシェフは僕のおすすめだから、ぜひ君にも食べてほしいんだ」

 なんだかスケールがでかくなってきたな。鰐之介にとって別世界の話は全く現実味がない。

「そして、最後にはとっておきを用意してある」

 ハンドルを握る斑の顔は、昼に見たデートを誘う時と同じ楽しそうな顔で。きっとヒョウにとってはそれが一番のイベントなのだと理解できてしまった。

 そこで自分の体を売ることになるだろうと、鰐之介はぼんやりと考える。

 ここまでしてくれたんだ、彼にとって不満もなく、乞われるままに股を開くつもりでいた。こんなに良くしてもらって、できるお礼と言えばそれくらいしか思いつかない。

 むしろ何度も指名しておいて、まだ挿入まで至っていないことの方が不思議だった。確かにデリヘルは表向きこそ本番なしをうたっているが、そういう話はどこでだって聞くものだ。

 鰐之介すら足を踏み入れた時は覚悟をしたが、いまだに斑から求められたことはない。

 こんなに気に入られているのに、斑はずっと一線は守っている。

 だからきっと、それは今日のために取っておいたのだろう。

(これを渡すのはその時でいいかな……)

 財布と共に持ってきた簡単な荷物の中にしまったそれを渡すタイミングはそこにしかないだろう。気に入ってくれるといいのだが、と鰐之介は少し気をもんだ。

 今はまだ不幸に襲われていない。

 窓から流れる景色を見ながら、ぼんやりと考える。

 小さいことは何度かあったけど、デートの雰囲気を壊すほどでなかった。コーヒー豆をダメにした時だって、斑は笑って許してくれた。

(なんでなんだろう)

 何でこの人はこんなに優しいんだろう。

 その理由をワニはまったく思い至らず、自分に何を求めているのかが理解できないでいた。

 不幸がここから訪れるとしたら、それはきっと、ここから来るのかもしれない。

(ああ、でもそれは……)

 斑が鰐之介の不幸になる。

 そんなことを考えるだけで苦しくなってしまう。窓に反射するヒョウを盗み見て、そうでないようにと祈ってしまう。

 祈りなんて何の役に立たないことなんて、知っているはずなのに。

 それでも、祈らずにはいられないのだ。

(それは、とても嫌だな……)

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