「なあ、齋藤。嫌な時は嫌って言えよ」 「……はい」 「お前はいつもそうだ。……俺を喜ばそうとして自分のことを蔑ろにする傾向があるからな。それは、危険だ」 「……はい」 「……齋藤」 「俺は……先輩なら、なにされてもいいので」 何でもしてください。という言葉を口にすることはできなかった。それよりも先に裕斗に口を塞がれたからだ。 宝物みたいに大切に扱われ、骨の内側から貪られていく感覚は俺にとってもう忘れ難いものになっていた。 下手な安定剤よりも満たしてくれる。裕斗が俺のことを思ってくれている事実が嬉しくて、苦しくて、その度に何も考えられないくらいぐちゃぐちゃにしてほしくて――そんな不毛なやり取りを繰り返していた。 こんなこと、いつまでやるのか。俺はこのまま裕斗が居なければ息をすることもできないのか。 そんな不安も全て酸素と一緒に奪われて、塗り替えてほしい。 第三者から見た俺たちの関係は不純そのものだろう。 性欲を自制することもできない。それでも、どうだってよかった。もう。裕斗がいたら、俺は他の人になんて思われようが笑われようが嫌われようが――。 裕斗の部屋に居座り出してからどれ程経過しただろう。 裕斗の計らいにより特別に別室で授業を受けさせてもらうようになり、裕斗の部屋とカウンセリングルームを行き来する生活が続いていたある日。 裕斗の部屋のインターホンが鳴った。丁度裕斗が不在時のときだった。それからすぐ、スマホに着信も。 ――志木村だ。 慌てて立ち上がり、俺は裕斗の部屋の扉を開く。 「すみません、少し遅れてしまいましたね」 「いえ、大丈夫です……俺は」 「そうですか。ならよかったですけど。……ああそうだ、齋藤君。お腹減ってませんか? 来る途中スコーンの美味しそうな匂いがしたんで買ってきたんですよ」 そう鼻歌混じり、扉を施錠した志木村は俺の横をすり抜けてリビングへと歩いていく。俺は慌ててその後を追いかけた。 裕斗が居ない間、俺が暇しないようにと裕斗は志木村を俺につけてくれた。 と、いうよりも立候補したのは珍しいことに志木村の方だったが。 『齋藤君が授業に出れなかった間の勉強、僕が見ますよ』 そう志木村が言い出した時、俺は耳を疑った。だって志木村が積極的にそういったことをしてくれるようなタイプと思ってなかったし、少なくとも志木村に疎まれてるのではないかと思っていたからだ。 そんな志木村の申し出に「じゃあ頼むぞ、志木村」と裕斗はすぐにそれを受け入れた。少しも迷う素振りを見せなかったことにも驚いたが、それ程裕斗は志木村のことを信頼してるのだろう。 俺は最初緊張した。不安だってあった。 けど、志木村は俺の不安とは裏腹に真っ当に勉強を見てくれた。俺が詰まってるところは一緒に見てくれて、自ら答えを出せるまで見守ってくれる。 かといってずっと真面目な話をしてるわけでもなく、時折途中で脱線したり休憩がてら映画を見たりもした。 今日のようにお土産を持ってきてくれたりも。 「……このスコーン、美味しいですね」 「お口に合ったのならなによりです。裕斗さん、今日は遅くなるみたいなのでゆっくりしましょう。あの人が帰ってくると騒々しくなりますからね」 そう笑いながら俺の前に暖かいお茶を用意してくれる志木村。本当は志木村が客人の立場であるのに、俺はしてもらいっぱなしだ。 それも無理もない。志木村はよく俺のことを見ていて、何でもかんでも俺の先回りをしてくるのだ。 だからこそ裕斗先輩にも信頼されてるのだろう。 スコーンを齧り、お茶を飲む。少しだけ休憩するという話だったのに、それだけで俺の緊張は緩んでしまったようだ。 暖かく熱を取り戻した体に心地の良い睡魔が襲いかかってきた。 うつらうつらとし、かくんと首が揺れたところでハッとする。そして、志木村がテーブルに肘をついてこちらをじっと見ていたことにも。 「……っ、す、すみません……俺……っ!」 「ふふ、お腹がいっぱいになって眠たくなったんですか? いいですよ、そのまま横になっても。ああでも、牛さんになっちゃいますかね」 「……っ、ぁ、あの、大丈夫です……俺……」 元々勉強を見にきてくれた志木村の前で居眠りなど失礼以外の何者でもない。慌てて腿を抓って痛みから目を覚まそうとしたとき、「大丈夫ですよ」と志木村は微笑んだ。 「今は僕と君しかいません。ゆっくり休んで下さい。……それに、昨夜もあまり寝れなかったみたいですからね」 「……志木村先輩……っ」 「何で知ってるかって? 君の顔を見てたら分かりますよ。適度な仮眠は作業効率を上げます。君に必要なのは休息ということですよ、齋藤君」 柔らかく、歌うような志木村の声が頭上から落ちてくる。 ダメなのに、その声を聞いていると瞼が鉛のように重くなって、自力で頭を支えることもできなかった。「すみません、俺」とか「志木村先輩」とか何かを言いかけたが、結局ちゃんと言葉にできたかは自分でも分からなかった。 そのまま睡魔に耐えきれず、俺は机に突っ伏して目を閉じる。髪に何かが触れる。志木村に撫でられていると分かったのは落ちてくる声が先ほどよりもより近くなったからだ。 「……おやすみなさい、齋藤君」 ごめんなさい、先輩。腹いっぱいになって眠るなんてそんな真似、子供じゃないというのに。 微睡む意識の中、心地よさと罪悪感に全身を包まれながら俺はそのまま底まで沈んでいった。 次に目を覚ましたのは背中に温かいものを感じたからだ。はっと顔を上げれば、「うおっ」と聞き慣れた声が聞こえてくる。 それから、目の前にはよく見知った顔が。 「ゆ……と、先輩……」 「悪い、起こしたか?」 「あ、い、いえ……俺……」 どうやら裕斗はリビングの机でそのまま眠ってた俺の肩にタオルケットをかけてくれていたようだ。 それを手にしたままハッとした。壁に掛かった時計を確認すれば、既に夜を回っていた。確か、志木村が来た時はまだ昼だったはずだ。 「し、志木村先輩は……っ!」 「ああ、あいつなら俺と入れ違いで帰ったぞ。齋藤お前、おやつを食べたらすやすや寝出して可哀想で起こせなかったってな」 「……っ」 血の気が引いていく。 やってしまった。ちょっと、十分ほど目を瞑ったつもりだったというのにここまで爆睡してしまうなんて。 青ざめる俺に裕斗は笑い、その後少しだけ申し訳なさそうな顔をした。 「……あいつに怒られたよ。もしかして俺、お前を夜ゆっくり休ませられてないんじゃないかって」 「え……ぁ、」 「……そういうこと。正直、なんも言い返せなかった」 顔に熱が集まっていく。 志木村相手にどこまで隠し通せるかとか分からないし、既に俺と裕斗の関係も知られてるとは言えど――こんなの。 「まあ、悪かった。俺のせいだ」 「い、いえ……毎回俺が言い出してるので」 「ん……や、まあ、そういうのがあったとしても、ここは俺が歯止めを利かせるべきだったって話な。それは俺も思うし」 「先輩……」 すみません、と謝罪する声も思わず小さくなってしまう。顔を上げることもできなくなる俺の頭を抱き、そのまま裕斗は額をくっつけてきた。鼻先が擦れる。キスができそうな距離、じっと見つめてくる裕斗に体が震えた。 「ってなわけで、今日はハグで我慢する」 「……っ、……」 背中に回された手はそのままゆっくりと背筋を撫でるように腰へと降りてくる。その手つきはハグで我慢する気の人のするものではないような気がしたが、裕斗に委ねたい気持ちもあった。 けどもだ。 腰まで降りた手にそのまま優しく背筋を摩るように裕斗の腕に抱きしめられる。その腕の中に囚われながら、俺はちらりと裕斗を見上げた。 「……き、キスは……?」 しないんですか、と続けることはできなかった。裕斗は少しだけ考え込んだフリをしたが、すぐに「する」と笑いながら俺の鼻先に唇を押し当てた。 また明日、寝不足にならないように気をつけないとな。 せめて、志木村に会った時に謝罪をしないと。 そんなことを考えてる内に、顔中に落ちてくるキスに溺れそうになりながらも俺は目を瞑った。 【続く】