眠るのが苦手だった。夢を見るのが嫌いだった。何事もなく平和な朝を迎える度に地獄の底へと叩き起こされるようだったから。 夢を見ない程度の浅い眠りにつく癖がついていた。 それなのに、こいつのせいだ。この男が『一緒に眠りたい』などと抜かしたせいで。 会長、と耳元で声がして体を揺すられる。目の前には元凶がいた。普段は顔を見ようともしないくせに、今は不安そうな顔でこちらをしっかりと見つめている。 ――最悪だ。 彼よりは早く目を覚ますつもりなのに寝入ってしまった。汗で肌に張り付いたシャツが冷たくて気持ち悪い。体を起こし、目元を遮る。眼鏡を探そうとして、彼の方からそれを差し出してきた。 「会長……大丈夫ですか? 魘されてるみたいでしたけど」 「……ああ、悪い。起こしたか?」 「いえ、そういうわけではないんですが……」 「ならいいが……まだアラームが鳴るには早い時間帯だな」 「は、はい……すみません、起こさない方が良かったですか?」 「…………いや、助かったよ」 このまま二度寝する気分にもなれない。シャワーでも浴びて頭を冷やした方がよさそうだ。 そうそのままベッドから立ち上がる。 齋藤佑樹を自分の部屋へと置いてどれほど経ったか。 今までは彼をベッドで眠らせ、自分はソファーで眠ることが殆どだった。そのせいもあってこんなに熟睡してしまったのだろう。本当に、最悪だ。 「あの、会長」 「……どうした? 眠れないのか?」 「あ……は、はい、目が覚めてしまって……」 「なら何か温かいものでも淹れてこよう。ココアは好きか? それともホットミルクがいいか?」 「い、いえ、お構いなく……」 「……」 何かを欲しがるような目でこちらを見るくせに、こちらの要求に対しては妙に言葉を濁す。甘え方も知らない子供のようだと思う。自分から言わずとも周りから与えられてきた子供。 だからだろう、彼を見ていると胸の奥底が波立つ。 「なら暫く好きにするといい」 「あの、どこへ……?」 「風呂だ」 「……っ! す、すみません、呼び止めてしまって……」 「君も入るか? 目覚めにシャワーはいいぞ。頭も冴える」 世間話のつもりだったが、何かを勘違いしたらしい。普段から生白い彼の頬が赤くなるのを見て自分の言葉が足りなかったことに気付く。 けど、訂正はしなかった。それは俺が決めることではないからだ。 「……い、いえ、大丈夫……です」 「そうか。……なら好きに寛いでいるといい」 「は、はい……」 ベッドの隅っこに腰をかけたまま俯く齋藤君はとうとう最後までこちらを見ることはなかった。 そのまま縮み込んでいる齋藤君を残したまま俺はシャワールームへと繋がる洗面台へと向かった。 もし彼が首を縦に頷いていたとして、自分はどう反応していたのだろうか。 二人仲良く浴槽にでも入るつもりだったのか。 いくら相手を乗せるためとは言え、軽率なことを口にしたと思う。けれど、別にそういう流れになっても不自然ではない。あくまで俺と彼は表向き恋人同士であり、そして少なからず彼は自分に好意を抱いている。そこに性愛が含まれているかは知らないが、彼が抱いて欲しいというのなら――それに応えるだけだ。 鏡から目を逸らし着ていたシャツを脱ぎ捨てる。 俺は彼を抱けるのか、と何度も自問する。浴室のひんやりとした空気に神経が尖っていく。 生憎彼は既にあの男に慣らされている。それに、挿入以外でも誤魔化す方法はある。指、口、舌、道具を使う方法も含めればいくらでも。 「……」 恐らく彼に対して自分からそういった願望を抱くことはないだろう。彼が肉体的な関係を求めていないというのなら自分はそういった意味でも“適任”のはずだ。 ……少なくとも、そうでなければならない。 シャワーヘッドから鉛のように降り注ぐ冷水を浴びながら、皮膚の熱が冷めていくのを感じる。次に浴室から出た時には彼の前で笑えるようにならなければ。 固まった表情筋を抑え、口の中で繰り返す。 ◆ ◆ ◆ 髪を乾かし、そのまま部屋へと戻る。 相変わらずベッドの上で彼は居心地悪そうに縮まっていた。 「あ……会長……」 「ずっとそこにいたのか。テレビでも見てたらよかったのに。言っただろう? 自分の部屋と思って過ごしたらいいって」 「は、はい……すみません」 「謝らなくていいとも言ったはずだ」 「すみま……あ……っ」 はっとし、とうとう彼は俯いたまま黙りこくってしまう。恥ずかしそうに目を伏せ、「ごめんなさい」と今にも消え入りそうな声で齋藤君は呟く。 『優しくて頼りになる先輩』でなければならない。そう分かっていても、そう気をつけていても、彼にとっては関係はない。 そのままベッドへと歩み寄り、隣に腰をかけた。太腿同士が当たり、齋藤君は慌てて股を閉じる。 「あ、あの、会長……」 「まだ慣れないか? 俺には」 「……っ、い、いえ、そんなことは……」 「そんな震えた声で言われても説得力はないがな」 威圧的にならないようになるべく軽い口調で返せば、齋藤君は更に項垂れる。最早、自分の膝くらいしか視界に入ってないだろう。 頸から覗く首筋まで赤くなっているのが分かる。そこに残っている誰かさんのつけた噛み跡もだ。 「……」 「俺、誰でも……こうなんです。人と話すのは、緊張して……すみません」 「……そうか、誰にでもか」 分かっていたことだ。彼の人見知りも。 ただ、面白くはない。まるでお前はその他大勢だと言われているようだ。それは俺にとっても好ましくない。 その他大勢の一人では駄目なのだ。 「あ、あの、会長……? ……っ、ぁ……っ!」 膝の上、指先が白くなるほど膝を抱いていた彼の手を握る。面白いくらいにその薄い肩が跳ね、丸くなった目が前髪の下からこちらを見つめた。 「……やっとこっちを見たな。今日二度目だ、俺のことを見たのは」 「か、か、会長……っ」 「慣れないなら俺で慣れていけばいい。……成り行きとは言え、こんな関係になったのも何かの縁だ。俺を利用しろ、齋藤君」 びく、びく、と震えまで手のひら越しに伝わってくる。今にも逃げ出しそうなその手を更に強く握り締めれば、熱が増す。諦めたようにピンと伸びた指先、齋藤君は呼吸を浅く繰り返した。俺の視線から逃れるようにその目があっちこっちへと動き、やがて諦めたようにその目は伏せられる。 「……は、い……お願い、します」 消え入りそうな声。縋り付くような視線の奥、怯えにも似たその色を見つけた瞬間、ドクン、と心臓が一瞬熱を帯びた。 ……おかしい。こんなことあってはならないのに。 口の中が渇いていくのを唾液を流し込んで誤魔化した。 違う、今のは。 「――ああ、俺に任せてくれ」 何かの気の迷いだ。シャワーを浴びたお陰で代謝がよくなっているだけだ。でなければ、こんなやつに。 「あ、あの……会長……手が……」 「すまない。馴れ馴れしかったな。……俺に触れられるのは嫌だったか?」 「い……嫌じゃないです」 ぞわ、と再び心臓の裏側を筆かなにかで擽られたような感覚が過ぎる。誤魔化すようにそのまま背中に手を回す。ガチガチだった体から緊張が抜けていき、そのままこちらへと完全に体を預けてくる齋藤君。 ドクドクと血管の中を血液が、熱が流れていく。思い出したくもない嫌な感覚が蘇る。それを見て見ぬふりをしながら俺はただ彼を慰めた。腕の中で安心したように身を預けてくる彼の求めるまま、優しく声をかけ続ける。 彼の肩越し、もう一人の自分が呆れたような目でこちらを見ているのが分かった。 『自分の物にしろ』 『今ならお前のいうことはなんでも聞くはずだ』 『そのまま丸め込め』 『理性を捨てろ』 黙れ、と口の中で呟く。俺は、次こそ間違えないと決めた。 感情のまま生きる猿どものようにはならない。そのためにここまできたのだ。 一過性の熱などすぐに冷める。 胸にしがみついてくる齋藤君を抱いたまま睨みつければ目障りな幻覚はすぐに消えた。 彼は庇護対象であり、服従させる相手ではない。彼がこうして俺を求める限り、わざわざ俺の方からそれを壊す必要はないのだ。彼が求めない限り――或いは、状況が変わらない限り。 「……? 会長……?」 「……どうした?」 「いえ、……なんでもありません」 そうか、と呟き、そっとその丸い頭を撫でる。指の隙間からするりと落ちる髪を掻き上げ、そっと耳にかけさせれば齋藤君は目を伏せる。 間違えていない。順調に進んでいる。迷うな。 「俺に隠し事をするな、齋藤君。 ――俺は君の味方だ」 彼を手放すな、何があっても。 おしまい