正直に言おう、俺は花鶏が苦手だ。 あの声で準一さん、と呼ばれると妙な感覚に陥る。というかそもそも何を考えてるのかわからないのだ。 最初はまだ良かった。ただ変わった人だと思えたからだ。 なのに。 「おはようございます、準一さん」 「おわっ!!」 自室の中、やることもなく窓の外を眺めて朝日が昇るのを観察していたときだ。いきなりふうっと耳元に息を吹きかけられ、飛び上がりそうになった。 顔を見ずともその無駄に艶めかしい声で誰だか分かってしまう。 「あ、花鶏さん……脅かさないでくださいよ。てか、部屋に入るならノックしてくださいって」 「おや、申し訳ございません。一応何度かコンコンと叩いて準一さんをお呼びしたのですが反応がなかったので、また死にかけているのではないかと心配して。つい」 「え……」 それは確かに気付かなかった。と戸惑えば、花鶏は「こんな感じで」とめちゃくちゃ小さく壁をコンコンと叩く。それは聞こえなくても仕方ない。 「もう少し大きくお願いします」 「ふふ、分かりました。次回からは気をつけましょう、準一さんに嫌われたくはございませんので」 どの口で言ってるのだろうか。言いながら隣にすす……っと寄ってくる花鶏から慌てて離れる。 「おや、何故距離を取るのですか」 「あ……花鶏さんが近付いてくるからですよ、なんですか」 「なんですか、と言われましても……人肌が恋しくなりまして」 ――出た。 普段の花鶏ならば別にいい。お世話になってるし、変な人だし、いきなり背後に立ってるときは死ぬほどビビるけどだ。 明らかにこう、変なスイッチが入っている花鶏のことは苦手だった。年中無休で発情してるわけではないだろうし、人前では妙なことはしてこないのに、ある日花鶏と一線を超えたことをきっかけに二人きりになるとたまに花鶏の様子がおかしくなるのだ。 ――こんな風に。 「応接室に行ったらいいじゃないですか。……他の奴らがいますよ。なんなら、俺も一緒に行くんで……」 「嫌ですね、そうやってまた私を避けようとしていませんか?」 「そりゃ……するに決まってるじゃないですか」 思わず本音も飛び出す。 花鶏は対して傷つくわけでもなく、「悲しいですねえ」と肩を竦めて笑うのだ。 「別にもう変なことはしませんよ。犬の首輪をつけて弄んだり……」 「い、言わなくていいですから……っ!」 「おや、相変わらず恥ずかしがり屋さんですねえ準一さんは」 「……分かっててやってるでしょう、アンタ」 思わず花鶏を睨めば、花鶏は楽しそうに目を細める。「すみません、少し虐めすぎましたか」なんて悪びれもせずに。 「けど、嘘ではありません。……人肌恋しくなったのも本当ですし、準一さんが嫌だと仰るのなら強引な真似はしません。ええ、準一さんに誓って」 「………………」 「ふむ……信用がありませんね」 「人肌恋しいって、そういうこと以外のなにがあるんですか」 思わず反論すれば、「ああそういうことでしたか」と花鶏はぱっと微笑んだ。 「人のぬくもりを感じるだけで、私のような精神体は十分なのですよ。……それに、他の方々は“人のぬくもり”から掛け離れた冷血な方が多いので」 確かにそれはそうだと思わず納得してしまう。 ……悲しいが、反論ができない。 「だったら、なんですか? おしゃべりをしたらいいんですか? 一緒に」 「ええ、そうですね」 「だったら尚更応接室に……」 行ったらいいじゃないですか、と言いかけたとき、「駄目です」と先に釘を刺されてしまった。 「邪魔が入っては困りますので」 「……お話するだけですよね」 「ええ、準一さんのぬくもりを感じながら」 言いながら、するりと伸びてきた花鶏の手に腕を絡め取られ、ぎょっとする。 「おい」と思わず振り払いそうになるが、この男、力が強い。 「ぬくもりって直接的すぎないか……っ?!」 「貴方も精神力を安定させるとき、他者からこうして触れ合って力の受け渡しをするではありませんか。それと同じです」 「あ、ああ……なるほど」 思わず納得してしまう俺に、花鶏はにっこりと微笑むのだ。 「分かって下さりましたか? 人肌の恋しい意味を」 「ま、まあ……言い方はアレですけど、つまり力を譲れと……?」 「――まあ、その解釈で問題ありませんよ」 なんだ今の嫌な間は。 「取り敢えず、座ってお喋りしませんか」 「は、……はあ」 花鶏に誘導されてる気がしてならないが、もしまた妙な真似をされそうになれば逃げればいい話だ。 あの頃からは多少なりとも俺もこの身体や力には慣れてきた。そう警戒しながらも、俺は花鶏に手を引かれるがまま床に座らせられた。 「準一さんが暮らしていた世界の話を聞かせてください。貴方が生前どのように過ごしていのか、興味があります」 「まあ、それくらいなら……」 隣に腰を掛けてくる花鶏は俺の言葉に微笑んだ。嬉しそうだ。 まあ、過度なスキンシップがなければ悪い人ではない――はずなのだ。 そして俺は花鶏に急かされるまま、他愛のない話をした。聞いてて面白い話でもないが、花鶏はずっとにこにこと笑いながら俺の話を聞いてくれるものだからさっきまでの警戒心はどこかへ行き、すっかりよくなった気分は更に俺の口を軽くさせるのだ。 「それで、仲吉のやつが……」 「ふふ」 「……? なんですか?」 「いえ、先程からよく仲吉さんが出てくるなと思いまして。……本当に仲がよろしいんですね」 指摘をされ、ハッとした。悲しいことに生きていたときの俺の世界というのなかなり小規模であり、常に仲吉という男が存在していた。 自分でも重々理解していたが、それをこうやって第三者に指摘されると恥ずかしくなってくる。 「お……俺には、友達と呼べるやつはあいつくらいしかいなかったので」 「素敵なご友人と巡り会えたのですね」 「……花鶏さんって、褒めるの上手いですよね」 「褒める、というよりも本心からそう思っただけですよ。私には、貴方がたのような関係の相手はいなかったので」 笑顔のまま応える花鶏につられて顔をあげる。目があい、花鶏はふふ、と小さく笑った。 「それは、意外……でした」 「意外?」 「南波さんとかは違うんですか、結構仲良さそうな感じはしましたけど……」 友達、というよりも悪友や腐れ縁に近いのかもしれないが。 一緒にいて長いんですよね、と花鶏に尋ねれば、花鶏は「貴方にはそう見えたのですか?」と目を丸くした。 「え」 「それ、南波に同じことを言ってみたらきっと面白いことになりますよ」 「ってことは……」 「友人――ましてや貴方と仲吉さんほどの絆が私たちにあると貴方が感じたならばそうなのかもしれませんね」 そうはぐらかすように応える花鶏。 楽しげなその様子からして自分が的はずれなことを言ってしまったのだと理解した。これは南波には黙っていよう。 なんて思った時。腕に触れていた花鶏の手がするりと手の甲に重ねられる。 びくりと顔を上げれば、花鶏は指を絡めてきたのだ。 「花鶏さん、この手は」 「人肌を感じてます」 「……もうそろそろ、大分元気になったんじゃないですか?」 少なくともこんな会話してる間、ずっと花鶏に触れられていたのだ。そろそろ俺だって干からびてしまうかもしれない。 そう花鶏の手を避けようとしたとき、そのままそっと腕を引かれ「まだです」と花鶏がもたれかかって来る。 「って、花鶏さん、重……っ」 「重いなんてそんなこと言わないでください。……私は重さは感じないはずですよ」 幽霊ですので、と微笑む花鶏はそのまま猫のように身体を寄せてくるのだ。最早抱き着いてくる、というよりも俺を下敷きにしようとしてるといった方が適切なのかもしれない。 だとしたら俺が花鶏ぐらいの体格の男の重さを想像してしまって負荷がかかってるのか、なんて考えてる内にあっという間に床の上に押し倒されそうになり、思わず「おい」と口から出てしまう。 しかし花鶏はそのまま人を抱き枕にするように抱き締め、動かない。 「……花鶏さん?」 「私が思うに、人がこうして肌を触れ合わせようとするのは自分の存在を受け入れてもらいたいからだと思うのです」 また何か言い出した。 俺の上に乗っかってきた花鶏はそのままこちらを覗き込む。さらりと流れる黒髪の下、長い睫毛に縁取られた二つの目と視線がぶつかり、ドキリとした。 「……それが、これとどういう関係があるんですか」 「貴方ならば優しいのできっと私のことを受け入れてくださるのではないかと」 「…………」 「おや、無視ですか?」 つれないですね、とそっと両頬を手のひらで挟まれ、花鶏の方を向かされる。抵抗することができず、俺は渋々目の前の花鶏を見た。 「花鶏さん、貴方は俺のこと買い被りすぎです。……俺は、そこまで器の大きな人間じゃありません」 「謙虚な方ですね。少なくとも、今こうして私を振り落とすことも部屋から叩き出すこともせず、私の言葉に耳を傾けてくださる。……そういうところが、私のような者を助長させるのですよ。準一さん」 その言い分だとまるで拒否することが正しいみたいではないか。 やはり花鶏がなにを望んで何を求めているのか、いまいちその本心は理解することはできない。 妙な真似をされたら俺も叩き出すつもりではいたが、こうして押し倒され、のし掛かられてる状態ならば別になんとも感じなかった。 どう答えればいいのか困惑していたときだ。 花鶏は小さく笑い、それから上体を軽く伸ばす。近付いてくる鼻先に、一瞬抵抗することを忘れていた。 陰る視界の中。それは軽く、触れるだけのキスだった。 唇はすぐに離れた。反応に遅れ、唖然とする俺に花鶏は微笑む。 それから自ら俺の上から降りたのだ。 「っ、な、……」 「好きですよ、準一さん。いつまでもそのままでいてください」 「……っ、花鶏さん」 「お付き合い、ありがとうございました。今度は夜にでも会いに来ましょう――ちゃんと扉をノックしてね」 やはり侵入した自覚はあったのか。 俺が文句いうよりも先に、花鶏は「それでは」と跡形もなく影に紛れて姿を消すのだ。 ああ、なんだかどっと疲れた。これって花鶏に力を分けただけではないはずだ。 「……はあ」 勘弁してくれ、と床に転がる。それから遅れてじわじわと熱を持ち始める顔を手のひらで覆い隠した。 これならばまだ、無理矢理された方がマシだったのかもしれない。いや、やっぱり嫌だが。 少なくともあの瞬間、確かに花鶏のことを拒むということができなかった自分が確かにいた。それを突き付けられたようで嫌だった。 けど、わかっててもやはりあのときの花鶏を突き放すことはできなかったかもしれない。 あんな話をされてしまえば、余計。 「……」 お人好し、と冷たい目をした藤也の顔が浮かんだ。 ごもっともです、と口の中で呟きながら暫く俺は落ち着くまで床から起き上がることはできなかった。 ◆ ◆ ◆ 「花鶏さん、なんか機嫌よくね?」 「そう見えますか?」 「なんかいいことあったの?」 「いえ、特には――いつも通りですよ」 古びたソファーに腰を下ろし、そう微笑み返す花鶏に幸喜は「ふーん」とさして興味なさそうに呟く。 いつも通り、当たり前に過ごすために不可欠な感情を浴びることがこの身体には必要だった。 死んでから時間が経過すると、感情が乏しくなる。物事への関心、感動するといった部分が機能しなくなり、精神体というよりも無機物に近くなっていくという感覚が花鶏自身にもあった。 そしてそれは目の前の少年の顔をした亡霊も同じだ。欠けた魂の一部分しか持っていない彼は、失った部分を補うことをしない。 だからこそ現実世界で生きている人間との間で大きな齟齬を生み出すのだ。 けれど、花鶏は自分がそうなるまいと考えていた。 「……ふふ」 自分が“人”であるために必要不可欠なものが、あの子にはある。詰まっている。 ――これが、楽しいということでしょうか。 変化のない日々、淘汰するだけの日々がこんなにも楽しく彩りを与えられるなんて。 当時、暇を潰すためだけに読んでいた書物に書かれていた物語の愛や恋という感情を理解することはできなかったが、それでも今ならば分かる。 自分によい影響を与えてくれる。次も会いたいと焦がれてしまう。そんな相手を想い人というのならば、恐らくあの子は……――。 「貴方はどこまで私を受け入れてくれるのでしょうか……――準一さん」 おしまい