「海でも見に行くか」 ホテルの部屋、その窓から外を見下ろしたまま知憲さんはそうぽつりと口にした。 つまらなさそうに、さして興味もなさそうに。 九月下旬、じわりと蒸すような夜。薄く開いた窓から吹き込む生暖かい風が心地よかった。 俺は知憲さんが行きたいというのならどこにだってついていくつもりだった。 だから、考えるよりも先に「行きたいです」という言葉が口から飛び出たのだろう。 【海淵】 自転車を飛ばせば海に辿り着くことができ、少し遠出をすれば山もあるようなこの狭い寂れた街の居心地は俺たちにとって心地がよかった。 ゆるやかに進む時間、風とともに吹き込む潮の匂い。 夕暮れ時になると知憲さんは自室の窓から覗く夕陽を眺めていた。水平線のその先に浮かぶ夕陽が落ちていくのをただ、じっと。その横顔を見るのが俺は密かに好きだった。 海が好きというわけではないのだろう。実際、この街で暮らすようになってから知憲さんが海を見たいと言い出したのは今回が初めてだった。 深夜、ホテルを抜け出した俺たちは徒歩で海沿いまでやってきていた。 散歩にしては少し遠い距離だ。街灯は少なく人気もない。俺たち二人分の足音と虫の声、そして遠くから波の音が聞こえるだけだ。 道中に会話はない。それでも、こうして知憲さんと並んで歩けることだけで俺にとっては十分だった。 「う、わ……」 あまりの暗さに躓きそうになったところを知憲さんに支えられる。「気をつけろよ」と注意され、俺は「すみません」と慌てて頭を下げた。 なんだか、いつの日かの記憶が蘇る。真っ暗な通路の中、先を歩く知憲さんに引かれる手。あのときとはまるで状況も違うはずなのに学園での記憶が蘇った。 いや、違わないのか。あのときと同じように、俺たちは前を向くことしかできない。 「知憲さん」 「やはり、潮風は冷たいな」 傷口が冷えると痛みもあるはずだ。体を冷まさないようにと念の為用意していた知憲さんの上着を渡そうとして「不要だ」と断られる。 そして、埠頭までやってきた知憲さんはそこでようやく足を止めた。 柵も手すりもない、少しでも足を滑らせてしまえば真っ暗な海の中に落ちそうになるほどの海水との距離の近さに心臓が高鳴る。危ない、と止めたくなる気持ちが喉から溢れ出しそうになった時、こちらを振り返った知憲さんは「齋藤君」と俺を呼ぶ。 お前もこっちにこい、ということなのだろう。一応は足元を照らす照明はあるものの、あまりにもその明かりは心細い。俺は足元に気をつけながら知憲さんの元へ駆け寄る。 「……ここ、真っ暗ですね」 「ああ、そうだな」 そう、暗闇の先を見据えたまま知憲さんは俺の手を掴んだ。手袋越しの硬い感触に、ようやく心音が落ち着いていくようだった。 無意識の内にその手を握り返す手に力が籠ってしまっていたようだ。「寒いのか」と静かに尋ねられ、「少しだけ」と応えれば知憲さんは無言で俺が抱えていた上着を取り上げた。 「着たらいい」 「いえ、でもこれは知憲さんの……」 「俺は不要だといったはずだ。……隣で震えられてたらこっちも気になる」 「す、すみません……お借りします」 知憲さんは何も言わず、俺の肩にその上着を掛けてくれる。 風に吹かれたりでもしないように慌ててその肩にかかった上着を掴み、握りしめればほんのりと上半身が温かくなったような気がした。 知憲さんの手が離れそうになり、ついその指を追いかけそうになった時、前を向いていた知憲さんの視線がこちれへと向けられた。そして、言葉の代わりに指先だけを絡めとられる。 潮風に吹かれた波が飛沫を上げ、埠頭にたたきつけられている様を見詰める。視界が暗闇に慣れてきたようだ。透き通った海水の奥、海底で揺らぐ影がまるで人の顔のようにも見えた。 夜の海で溺れたら助かる可能性は低いと聞いたことがあったが、今ならばその理由がよくわかった。そんな気がした。 潮の匂いは強くなる。 「あまり海を覗き込むなよ」 不意に、知憲さんに手を引かれる。指摘され、自分が思いの外埠頭の端にまで近づいていたことに気付いた。 完全に無意識だった。海の底を覗き込もうと前のめりになっていた上体を慌てて起こす。 「……あ」 「なにかあったか」 「い、いえ……その」 なんと応えればいいのか、うまい言葉が見つからなかった。 口ごもる俺をじっと見つめていた知憲さんだったが、その視線はすっと逸らされる。 「……そろそろ戻るか」 「あ、あの、俺」 「別に君のためじゃない。もう十分だ」 なにが、とその言葉の意味を尋ねることはできなかった。 知憲さんは有無を言わずに俺の手を離し、そのまま埠頭から海岸へと歩き出した。俺は置いて行かれないように慌ててその後を追いかけた。 「夜の海に恐れる人間と惹かれる人間、二種類の人間がいるらしい」 砂浜を踏み、そのまま海岸沿いの道路へと出る。遠くなる波の音に何だか呼び止められているような気がしたが、振り返ることはしなかった。 少しでも知憲さんから目を逸らせば今度こそ見失ってしまいそうで怖かったから、余計に。 「――どうやら、君は後者だったようだな」 隣に並んだ時、知憲さんは小さく口にした。月明かりは先ほどよりも大きくなっているようだった。 照らされた知憲さんの横顔が、今ははっきりとその輪郭まで見ることが出来る。 「知憲さんは」 貴方はどうだったんですか。 そう続きを口にするよりも先に、知憲さんは「さあな」とだけ答えるのだ。 海のその先を見つめる知憲さんの横顔がまだ網膜に焼き付いているようだった。 惹かれているというのはまた違う気がする。おそらく、きっと、知憲さんが見ているのは海ではないような気がした。 漠然と、そんなことだけ思った。 宿泊しているホテルまで歩いている内に体は暖かくなり、俺は知憲さんの上着を脱いで再び抱えることにした。 「盆を過ぎて海に入ると、帰ってきた死者に足を掴まれてあの世まで連れて行かれる。と、幼い頃に聞かされたことがあった」 行き同様、会話のない帰路を歩いているときだった。ぽつりと知憲さんは呟いた。 「何度か試そうとしたが、駄目だった。……迷信だ。盆を過ぎるとクラゲが増えるだろ、だから子供が遊泳しないようにと大人たちが脅したのだろうな」 試そうとした、というのがなにを意味するのか俺にはわかった。 誰に会おうと思ったのかも、今なら分かる。 なんと答えればいいのかわからなかった。けれど、知憲さんはおそらく俺の返答など期待しているわけではないのだろう。 だから、代わりに俺は知憲さんの手を取った。離れないように、振り払われても構わない。それでも、手を離すことができなかった。 そんな俺を見下ろし、知憲さんは小さく息を吐く。笑った、のだと分かった。 「――引き止めてるつもりか?」 「体を冷やすのは、よくないので」 「俺よりも震えている君に心配されるとはな」 「それは、……」 それもそうだ、と項垂れたときだった。今度は知憲さんに手を掴まれた。手繋ぎ、というよりも本当に手のひらごとを握り締められるような強さだった。 「もう、今の俺には必要ないものだ」 「知憲さん」 「……合わせる顔など、持ち合わせていない」 立ち止まった知憲さんにつられて足を止めたとき、自嘲気味に口にする知憲さんに堪らず俺は腕を伸ばした。 抱き締める、よりも不格好だった。片腕だけを伸ばして、目の前の知憲さんにしがみつく。 「そんなに寒かったか」 「……っ、ごめんなさい……」 「いや、構わない」 周りに人がいたらという頭もあった。それでも離れ難くて、この人に全てを捨てさせたのは俺なのだと思うと顔を上げることもできなかった。 知憲さんの捨ててきたものの分まで俺がこの人を愛さなければならない。還さなければならない。 背伸びをする体に腕を回される。震える背中を抱き寄せられ、その腕の中に囚われた。 頭上で小さく知憲さんがなにかを呟いたが、遠くから聞こえてきた虫の声に掻き消される。それでも、知憲さんの体温が気持ちよくて、まだこうして知憲さんが生きていて俺と一緒にいる。それだけで俺にとっては十分だった。 潮の匂いが満ちていく。 ――もうじき夜が明ける。 「……もう、とっくに手遅れなのかもしれないな」 おしまい