――知憲のことは忘れろ。 ――お前はあいつに洗脳されてる。 ――お前のそれは恋愛感情なんてものではない。お前の恐怖心を、他人を思いやる気持ちを、それを誤認させて自分の思い通りに操ってるだけだ。 ――本当にお前がしたいことはなんだ? ――……本当に望んでることは? 「望んでる、こと……」 頭の中、ずっと巡っていた。裕斗の言葉が、裕斗の声が。 芳川会長に対する感情は俺のものだ、俺だけのものなのに――裕斗の言葉を聞いたその日からその考えすらががらがらと音を立てて崩れていくのだ。 その瞬間から世界は反転する。 ◆ ◆ ◆ 「齋藤、荷物はこれだけか?」 「……はい」 「はは、なんか夜逃げみたいだな」 「……裕斗君、それあんまり笑えないよ」 深夜の校舎裏、少ない荷物を抱えてやってきた駐車場には既に阿佐美がいた。その後ろには阿佐美の車だろうか、黒塗りの車が停まっている。 そもそも阿佐美が車の免許持っている事実にも驚いたし、車の免許ってそもそも十八歳以上じゃないと取得できないんじゃないかという疑問もあった。 それでも、そもそも阿佐美と裕斗が知り合いな時点で恐らく阿佐美にも色々あるのだろう。俺は深く追求しなかった。 阿佐美の用意した車の後部座席に俺と裕斗は乗り込んだ。 「伊織はなんて?」 「なにも」 「なにも? あの伊織が? ……少しくらい妬くくらいはすると思ってたんだけどな」 「惜しんではいたけどね、その代わりは用意してあるから」 人通りの少ない深夜の街を走り出す車内。 阿賀松の話題が出ただけで自然と緊張したが、それが裕斗にまで伝わったのだろう。膝の上に置いていた手を裕斗に手を握られる。まるで大丈夫だ、と言ってくれるような包み込む熱にほんの少し安心していく。 「代わり……代わりか」 「だから、二人は何も心配しなくていいよ」 「あいつにもお礼言っとかないとな」 「それはやめておいた方がいいと思う。……伊織、今ピリついてるから。だから今回も見送りは行かないって言ってた」 「だよな、あいつの期待裏切ることになったんだもんな」 「裕斗君のことは気にしてないよ。『あいつはいつもそうだよな、勝手なことばっかしやがって』って言ってたけど」 「今の、あいつにそっくりだな」 ハンドルを握ったまま、阿佐美は「……そうかな」とだけ返した。 阿賀松は裕斗を生徒会長にしたかった、というのは聞いていた。その上で自分の意思に背く相手を許す阿賀松には驚く。 それ以上に阿賀松は裕斗の身を案じたのか。どちらにせよ、その選択を選んだ阿賀松の意図は今となっては俺には分からない。 俺は、裕斗と逃げることを選んだ。 裕斗は逃げるとは言わなかった、お前には必要な選択の一つだと言うのだ。 けれど、間違えなく俺は逃げたのだ――あの人から、芳川知憲という人間から。 理解しようとして、受け入れようとして、歩み寄ろうとして、諦めた。 「齋藤、眠くなったら寝てていいんだからな」 「……はい」 寝れるはずなんてなかった。追ってきた芳川に殺されるのではないか、そんな幻影まで見るほどだ。 けれど、実際はそれすらも自分の願望ではないのか。あの人が俺のことを必死に探すビジョンが浮かばない。数日経てば忘れられるような存在ではないのか。 必死になっていたのは俺だけで、会長にとっては有象無象の一人ではないのか。 ……やめよう。そう思うのに、悪い思考ばかりが頭に浮かんでは膿んでいく。 無音の車内。裕斗の手がぎゅっと強くなる。思わず裕斗の方を見たとき、裕斗と目が合った。 「あいつのことを考えてるのか?」 「……っ、……」 「手、震えてる。気付いてるか」 優しい声だったが、それでも咎められてるように聞こえるのは後ろめたい気持ちがあるからだろう。 ごめんなさい、と口にすれば、触れ合っていた肩とは反対側の肩に手を回される。驚いていると、そのまま抱き寄せられた。 「謝るな。別にそれは悪いことじゃない、お前は被害者なんだからな」 ちくりと胸が痛む。裕斗の一言一言に自分を否定されるような感覚になっていくが、恐らく裕斗の言葉は正しいのだろう。 何が正常な感覚なのか俺には分からない。どれが自分の本心なのか分からない。なんで俺は裕斗の手を取ったのか、ただ雰囲気に流されただけではないのか。ずっと、この車に乗り込んでからもずっとまだふわふわとしたような浮ついた気持ちのままだった。 阿佐美もなにも言わない。ぽんぽんと優しく叩かれる肩に、少しずつ不安な気持ちが沈んでいく。 様々な感情が混ざり合い、凪いていくのだ。 「……休んでもいいんだぞ、齋藤。もう、頑張らなくてもいい。我慢もしなくていい」 気張る必要なんてないんだ。そう、裕斗は続ける。 裕斗の声は不思議だ。俺が求めていた言葉を全てくれる。あの頃の芳川会長のように、俺を甘やかしていくのだ。 これでは駄目だ、なに一つ変われない。そう分かってても、裕斗にもたれかかってしまう。甘えてしまう。 「……はい」 せめて、今だけは。 そう自分に言い聞かせ、俺は目を瞑る。これから見るのは恐らく悪夢だろう。 それでもいい、寧ろそれくらいでなければ釣り合いは取れない。 俺に罰を与えてほしかった、あの人から逃げ出した俺に罰を。 ◇ ◇ ◇ 齋藤が眠ったのを確認する。 学園を出ると決めてからずっと険しかった齋藤の表情が、眠るときだけは安らぐのだ。その事実が可哀想に思えてしまう。 恐る恐る握り返された手は離れないまま、俺は握り締めた。 最初はどうなることかと思ったが、詩織がいてくれて本当に助かった。 あいつは齋藤を連れ出すことに肯定的で、「今晩の内に実行すべきだ」と念押しもしてきた。 鉄は熱いうちに、というわけではないが、俺もその詩織の意見には同意した。 このままでは後に引けなくなるのではないかと思ったのだ。 「それにしても、悪いな。何から何まで」 「別に、裕斗君に振り回されるのは今に始まったことじゃないからね。……それより、本当病院に行かなくてよかったの?」 「……ああ、大丈夫だよ。これくらいなら掠り傷だって」 「刃傷を掠り傷っていうの、裕斗君くらいだと思うよ」 詩織はずっと変わらない。初めて伊織たちと会った頃からずっと、伊織のイエスマンかと思えば自我をきちんと持っている。その上で伊織に付き従っているのだから仲がいいと思う。 それでも今回、伊織ではなく詩織だけに相談したのはこいつが齋藤に対して思うことがあったと分かったからだ。口には出さないが、表情すら隠そうとしているが、肌で分かる。 詩織が齋藤に対して俺と同じ感情を抱いているということは。 「なあ、詩織」 「……ん?」 「本当は伊織には言ってないんだろ」 そう口にすれば、詩織はほんの少し間を置いていた。 そして、「どうしてそう思ったの?」と静かに続けるのだ。外ではぱらぱらと小雨が降り出したようだ。 雨音が響く車内、湿り気を孕んだ空気には血の匂いが滲んでる。それが自分の傷口からだとわかった。 「お前のことだから。ああ、別に責めてるわけじゃないけどな」 「……半分正解だよ」 「半分? もう半分は?」 「あいつには裕斗君のことは言ったよ。けど、ゆうき君のことは言ってない」 「なんで言わなかったんだ」 「言う必要はないと思ったから」 「それに、君たち二人で駆け落ちってなるとまた話が変わってくるからね」俺が聞かなかったら言わなかったつもりなのだろう。俺たちを安心させて、自分は伊織に嘘を吐いてるという十字架を背負ったまま一人学園に戻るつもりだったのか。 「それ聞いたあいつが嫉妬するって?」 「するよ、間違いなく。君たちが自分を選ばなかったことが許せないだろうから」 「く……ははっ! ……いてて、まあ、そうだな。……伊織はそうだな」 笑った拍子に鈍く痛む腹部を抑える。熱を帯びているように痺れるが、嫌な感じはない。寧ろ、目が覚めるような思いだった。 「なあ、詩織。お前もどうだ?」 そう口にした瞬間、車内の空気が変わるのがわかった。雨音が大きくなる。こちらに背中を向けたまま、バックミラーから様子を見てるのかもしれない。 「……裕斗君って、すごいよね。本当に」 「そうか? 俺は思ったことを言っただけだぞ」 「それがすごいって言ってるんだよ。……俺に、あいつを一人にしろって言ってるんだもん」 「ああ、そうだな」 「俺は、あいつを一人にできない」 詩織の言葉も想像通りだった。 きっとこう言うだろうなという言葉がそのまま帰ってきて「まあそうだろうな」と言葉が漏れる。 「一人にしない、じゃなくて“できない”だもんな」 「裕斗君のそういうハッキリ言うところ、良いところであり悪いところだね」 「けど、お前は怒らないんだな。あいつみたいに」 「怒らないよ。本当のことだから怒る必要もないし……それに、疲れる」 「疲れることは苦手なんだ」そう言いながらもこんな面倒なことに手を貸してくれるあたり、優しいやつなのだと知っていた。 「自己矛盾を抱えたまま生きることの方がつかれるだろう。俺には無理だ。……お前も、こいつも、なんでそこまで自分を追い込むんだろうな」 「俺には分かるよ、ゆうき君の気持ちも。そうすることでしか保てないんだ」 「君だったらきっと、そんな状況に陥る前に環境改善できるんだろうけど皆が皆そうじゃない」雨はいつの間にかに叩きつけるような強雨になっていた。 「難儀な性格だよな、本当」 「けど、俺の場合は悪いことばかりじゃない。……伊織といることは苦痛じゃないし、俺が望んでることだから」 「……ああ、そうだな」 齋藤と詩織の違いはそこだろう。 詩織には嘘も迷いもない。ここまで片割れに思ってもらえている伊織も愛され者だろうな、とこの場にはいない親友の顔を思い出す。 「暫くホテル暮らしになるんだよね」 「ああ、そうだな。実家には連絡するよ、変に心配させたくないからな」 「そのことだけど、やめたほうがいいと思う」 「……どういう意味だ?」 「そのままだよ、君の弟のことが気になる」 「亮太が?」 「……あいつはゆうき君に執心してるからね、君が思ってるよりもずっとだ。もし下手に連絡して居場所が特定されて、しかもゆうき君と一緒だって知られたら……」 「俺とあいつは血の繋がった兄弟だぞ? いくらなんでも、なにかあるわけないだろ」 「君は分かっていない。……血の繋がった兄弟だからこそだよ」 詩織の語り口はあくまで淡々としていた。 俺が亮太に刺されるとでも言うつもりなのか。それこそ現実味がない。 いくら好きな子を取られたからといってそんな凶行に走るのか? 「これは、俺の最後のお節介だと受け取ってくれて構わない。暫く身を隠してた方がいい。……亮太の動向はこっちでも見ておくから」 「……お前がそこまで言うなら聞いておくよ。そうだな、俺にはお前ほど人の気持ちに機敏にはなれないからな」 「裕斗君は敏い方だと思うよ。ただ、世の中には自分の想像の範疇を越える人間がごろごろいるということを覚えた方がいい」 「……せめて、君たちには幸せになってほしいから」まるで今生の別れみたいなことを言い出す詩織に、なんとなく予感した。 「なあ、また俺たち会えるんだろ? 何年後でもいい、お前や伊織にも」 尋ねれば、「そうだね」と詩織は曖昧に笑うだけだった。 いつの間にかにあれほどの雨は止んでいた。通り雨だったのだろうか、朝が近付いて赤く染まった空の下。詩織は近くのホテルの前に車を停めた。 「着いたよ。……ゆうき君には悪いけど、起きてもらおうか」 「いや、このまま背負っていく」 「……大丈夫?」 「ああ、お前もすぐ戻らないとまずいんだろ?」 幸い荷物はそんなにない。傷の痛みも気にならない。片手に齋藤、片手に荷物でいけるだろう。 「……任せっぱなしになってごめんね、裕斗君」 「いや、こっちこそ世話になった。お前も元気でな」 「裕斗君も元気でね。……ゆうき君のこと、よろしくね」 「ああ」 車を降り、荷物と齋藤を抱えたまま俺は詩織の車を見送った。 ――もうじき夜が明ける。 朝焼けの空にはほんのりと虹がかかっていた。