眠ってはいけない。 目を覚ませ、瞼を開け。何度繰り返しても意識と肉体が解離したように思い通りにならない。 どれほどの時間気を失っていたのか。 腹の奥、焼けるような熱と違和感。しまった、と思ったときには何もかもが遅かった。 目を開いてるはずなのに視界は何も見えない。声を上げようとしてもくぐもった声が漏れるばかりで、何か猿轡のようなものを噛まされてると分かった。腕は縛り上げられ、足は……。 「っ、ぅ……ッ!」 「なんだ? 急に威勢がよくなったな」 聞こえてきたのは知らない男の声だった。そして思い出す、気を失う直前に自分を囲んでいた連中を。 足だけは自由だったが、何者かに掴まれてるようだ。瞬間、下腹部に言葉にし難いほどの強烈な感覚が走る。 指か、なんなのか分からない。それでも、体内に何かが挿入されている。それに気付き、俺は咄嗟に目の前にいるであろう連中を蹴ろうとするが、膝の裏を掴まれてしまう。 そのまま腹にくっつくほど足を持ち上げられ、息を飲んだ。 「っ、ふ、ぅ゛」 「おい、大人しくしろ。……せっかくの商品なんだからな、売値を下げるような真似させんじゃねえよ」 ――商品。確かに今そう言った。 男は言いながら、何かを塗り込むように中をぐるりと撫でるのだ。満遍なく指の腹で丹念に擦られれば、触れられた箇所が酷く熱くなる。そして次第に堪らないほどの痒みが込み上げ、下腹部に力が入った。 メイジのやつの変態魔法とも違う、今すぐ指で中を掻き回したくなるほどの痒みに堪らず腰が震え、全身にぶわりと汗が滲んだ。 「大抵のやつはこの薬を粘膜に直接塗り込んでやればすぐに欲しがるんだよ。体内、肛門周辺と性器、胸――性感帯に塗りたくって数日放置すりゃ大抵のやつは自分から触ってくれと泣いて懇願するようになる」 あんたはどれくらい保つだろうな、と男は笑って指を抜いた。瞬間、ほんの少し、少しだけ、指を抜かれたそのとき、体内が物足りなくなるのを感じてしまい血の気が引いた。 そんなわけがない、一緒にするな。そう言いたいのに、痒みを耐えようとすればするほど腰が浮き、肛門に力が入る。それを見て周囲の数人の人間の笑い声が聞こえてくる。 「もう限界か? まだだ、次はここだ。……ここにもたっぷり塗り込んでやるからな」 「っ、ふ、ぅ……ッ! う゛……ッ!!」 「暴れても無駄だ。光栄なことにお前にはもう買い手がついてるんだからな」 男の声など頭に入ってこない。熱が増し、粘膜全体の熱はじぐじぐと増すばかりで気が狂いそうなほどだった。手首の拘束を外そうとするが、外れない。 「無駄な抵抗はやめろ。体力が減るだけだぞ」 そう言って、既に勃起していた性器の先端にとろりとなにかを垂らされる。熱を持った体に馴染んでいくその蜜のような液体は男が先程俺の体内に塗り込んだものと同じ物だろう。 待ってくれ、という言葉を吐くこともできないまま、そのまま男に性器を握り込まれる。瞬間、びくんと腰が大きく痙攣した。堪らず足をバタつかせるが、それを無視して男は蜜を塗り込むように義務的に性器を摩擦するのだ。 尿道口の窪みも、カリの溝も、裏筋から睾丸の裏までたっぷりと液体を塗り込むように触られれば先程同様すぐに焼け付くような痛みと痒みが込み上げてくる。内部と外部から、強烈なほどの痒みに腰が震えた。 触ってくれなんて死んでも言うものか。そう思うのに、少し指が掠めるだけでその痒みが軽くなる。それを求めてしまいそうになってる自分に気付き、青褪めた。 「……具合はよさそうだな。次はここだ」 そう、男の手は脇腹からゆっくりと胸へと這い上がってくる。そのまま脇から胸筋を撫でるように触れ、たっぷりと液体を絡めた指先でまずは乳輪へとそれを塗り込まれていく。 「っ、ぅ゛……ッ、ぅ、ふ……ッ!」 ガクガクと腰が震え、開いた尿道口から蜜が流れ込み、尿道口にまで熱で焼けそうになる。 玉のように噴き出した汗が流れ落ちる。ゆっくりと焦らすように、そしてたっぷりと乳輪に薬を塗り込んだあと、既に硬く尖っていた中心部の凝りに男の指が触れた。 瞬間、頭の中が真っ白になる。気持ちいい、なんて思いたくもない。 悪戯に乳首を潰され、そのままぐりぐりと陥没したそこに薬を塗り込まれた。中と性器、胸の三点に襲いかかる拷問のようなもどかしさに思考を掻き回される。開いた口から溢れる唾液を飲み込む余裕もできなかった。 片方の胸も同様に薬を塗り込まれ、そして男の手が離れる。 「お前はこの状態のまま三日三晩我慢してもらう。妙なことは考えるなよ」 まさか、本当にこのままなのか。 これ以上なにもされないことに安堵よりも恐怖が過り、咄嗟に思考を振り払った。男は俺の両足を開脚させたまま拘束すれば、そのまま他の仲間たちを引き連れて外へ出ていったようだ。 一人残された部屋の中、必死に拘束を外そうとするがびくともしない。 この状態で三日だと?冗談ではない。 なんとしてでも逃げなければ。そう思うのに、全身の疼きに神経が集中し、思考がままならない。掻きたい、扱きたい。限界まで勃起した性器が苦しくて、せめて刺激を与えられるならと思って腰を動かそうとすれば手足の枷ががちゃりと音を立てる。あまりにも滑稽な格好だと分かっていたが、このままでは逃げる云々の前に気がおかしくなりそうだった。抜けば収まる。わかってても、相手にもこちらの考えは手に取るように読まれてるらしい。枷は手足が性感帯に触れられないような絶妙な位置に固定され、触れられようで触れられない距離にただ余計焦らされ、苛立ちが募った。 とうとう得たい快感すらも得られず、俺は無駄な体力だけを消費してしまう。 いっそのこと気絶した方がましとすら思えた。 過敏なまでに逆立った神経は微かな振動すら反応してしまうほどで、そんな状態のままどれほど放置されただろうか。体と思考が解離していくような恐怖の中、自分を見失わないように握り締めた掌に爪を立てるその痛みだけが己を現実へと繋ぎ止めることができた。 どれほど時間が経ったのだろうか。ほんの数分すらも何時間に感じてしまう。 「ふ……ぅ……ッ」 額から汗が流れる。 そのとき、遠くから足音が近付いてくる。大股気味なその足音に体が跳ねた。誰か来たのだ。そう、足音の方に神経を向けたときだった。 扉が開き、一人分の足音が部屋の中に響いた。 そして暗闇の中、何者かに前髪を掴まれ顔を無理矢理上げさせられる。 「っ、ん゛……ぅ……ッ!」 「は……ッ、三日も放置なんて可哀想だよな。安心しろよ、俺が可愛がってやるからな」 「……ッ」 知らない男の声だ。荒い鼻息が唇に吹き掛かり血の気が引いた。頬をべろりと舐められ、全身が泡立つ。 普段ならば不快感しかないのに、その舌の感触に背筋が震えるのだ。 「ふ……ッ、ぅ……ッ!」 触るな。そう言いたいのに体を動かすことすら出来ない。薬を塗り込まれ、まだ乾いてすらいない肛門の周りを撫でられるだけで熱は更に増す。 擽るように硬い指で揉まれれば、自分の意思とは関係なしに口を開こうとするのだ。 「お前には随分とお世話になったからな、ほら、これが欲しいんだろ?」 尻たぶを揉むように更に肛門を割られ、開いたそこに宛がわれる膨張した男性器に思わず息が漏れる。 男の言葉の意味など今は頭に入らなかった。 嫌だ、汚いものを押し付けるな。そう思うのに、焦らすように亀頭を捲れ上がったそこに擦りつけられるだけで腰が揺れてしまいそうになる。猿轡の奥、くぐもった声が漏れた。 「っ、は……そうしてると可愛いじゃねえか……ッ」 腰を捕まえられ、そのままぐっと腰を押し付けられた瞬間熱く疼いていたそこに甘い電流が走る。 「ぅ゛ッ、ふ、う゛ッ、ぅう……ッ!!」 難なく入ってくる男のブツに、嫌悪感よりも先に最も触れてほしかった場所への刺激に頭の中が真っ白になるのだ。それ以上にあまりにも強すぎる刺激に堪えきれず逃げ出しそうになる体を太い腕で抱き止められる。そして、太く張った嵩でわざと肉壁を引っ掛けるように穿つ男。 不快感、快感、寒気、熱。すべてが噛み合わない。まるで神経を直接弄られてるような強烈な快感に思考は乱され、ひたすら犯される。 薬は男にも効いたのだろう、男の抽挿は次第に感覚が短くなっていき、夥しい量の先走りが分泌され更に音を立て奥へと穿っていくのだ。 「っ、ふ、ぅ……ッ! ぅ、ぐ、う……ッ!!」 「っ、は……ッ! くそ、ガキのくせに……ッ」 ゴツゴツと奥を抉られる度に体が仰け反り、涎が垂れる。 譫言のような男の言葉すらも刺激でしかない。自分が射精してるのかすらも分からない。ただ永続的な快感の波に飲まれ、抵抗なすべく犯されるしかない。 気持ちいいはずがない、誰かもわからない相手に犯されてもっとと思う方がどうかしてる。そう思うのに最奥を突き上げられるだけで腰が痙攣し、獣じみた声が漏れた。男も射精が近いのだろう、そのまま夢中になって俺の太腿を掴み、腰を打ち付けてくる。 猿轡に歯を立て、必死に堪えようとしたときだった。 それは突然起きた。――いや、ただ行為に神経をすべて奪われて俺が気付けなかっただけなのかもしれない。 何かが壊れるような音とともに、俺を犯していた男が悲鳴を上げた。そして次の瞬間、焼けるような熱が全身に吹き掛かる。 一瞬、何が起きたのか分からなかった。いきなり性器がぬかれたと思ったとき、何かが落ちるような音とともに全身の拘束が外れた。そして、全身を抱き締められるのだ。瞬間、鼻孔を掠めるのは懐かしい匂い。 「っ、い、ろあす……?」 それは脊髄反射だった。 その名前を口にしたとき、俺を抱きしめていた腕がびくりと震えた。そして、拍子に緩んでいた目隠しが落ちていく。 ――まず、視界に入ったのは淡い瞳だ。 「っ、スレイヴ……」 恐怖で引きつったやつの顔が更に強張る。そして、イロアスは俺を抱き締めたのだ。 何が起きたのか分からなかった。けれど、この抱き締められてる感覚は厳格ではない。ならば。と色を取り戻した視界の中、俺は気付いた。 部屋の中に転がる見覚えのない男を。血の海の中、下半身を露出したまま動かない死体を。そして、真っ赤に染まっていたイロアスを。抜かれた剣を。 「っ、お、まえ……まさか」 殺したのか、と言いかけたときだった。部屋の外から短い悲鳴が聞こえた。連中の仲間か、部屋の中の残状に気付き、慌てて臨戦態勢に入る男にイロアスは立ち上がる。 「待てッ、やめろ!」 咄嗟にイロアスにしがみついて止めようとするが、薬が回った体は思うように動けなかった。俺が止めるよりも早く、躊躇なく手にした剣で男の首を切り落とすイロアスに頭の中が真っ白になる。 勇者はどんなことがあろうとも人を殺めてはならない。人を助けるべき存在ではならないとならないからだ。 それなのに、こいつは。 「……スレイヴ……遅くなって、悪かった」 転がる死体の山、血溜まりを踏み鳴らしながらあいつはただ悲しそうにこちらを振り返った。 懐かしい匂いも何もかも、充満する死臭と血の匂いに飲まれていた。 一瞬の出来事だった。何が起こったのか理解もしたくなかった。濃厚な血の匂い、呼吸をする度に肺が、喉が、焼けるようにヒリつく。 あいつは――イロアスはゆっくりとこちらを振り返る。全身に返り血を浴び、それを拭おうともせず俺へと駆け寄るのだ。 「っ、スレイヴ……」 伸びてくるその手を咄嗟に振り払えば、目の前のイロアスの表情から熱が抜け落ちていくのだ。 そして、次に表れるのは困惑の色だった。 何故、そう言いたげにこちらを見るイロアス。あまりにも変わらない、むしろ戸惑ってすらいる。こいつは何故俺が止めたのか、それを理解していない。それどころか。 「っ……なんで……殺した」 「なんでだと? お前、自分が何されたか分かってるのか?」 「殺す必要はなかった、お前がしなくても、俺は……っ」 俺は堪えられたし、自分で逃げることもできはずだった。そう言いかけて、言葉に詰まる。 目の前のイロアスがあまりにも冷たい目をしていたからだ。あの夜――追放を命じたときと同じ表情だ。その目に見据えられ、思わずぞっとした。 「俺は……なんだよ、お前、何されてたのか分かってるのか?」 「っ、お前だって、しただろ……ッ! これくらいいつもと変わらな……」 変わらない。そう言いかけた矢先のことだった。 一歩、また一歩近付いてくるイロアスから離れようとしたとき、背中が壁にぶつかった。行き止まりだ。 「俺を、あの下衆共と同じだって言うのか?」 「っ、触るな……っ!」 イロアス、と声に出せば、やつの肩がびくりと跳ねた。 ほんの一瞬、まるで親に叱られた子供のような顔をするイロアスだったがそれも束の間。すぐに拒絶されたと分かるとその目の色が変わる。 戦闘とは違う、ただの殺しだ。血を浴びたからか、イロアスが殺気立ってるのが空気から伝わってくる。――こいつは、冷静ではない。正気とは思えない。 「お前は自分の立場分かってんのか……ッ、お前がやったことはあいつらと同じだ、人殺しだ……ッ!」 悪人相手のクエスト依頼もある。けれど、精々捕縛して役人に受け渡すまでだ。 いくら罪人とはいえど、人の命を奪う権限はない。人を救うことが使命である勇者となればそれは当然のことであり、それが出来るイロアスだからこそ勇者に選ばれた。なのに。 「死んで当然のやつが死んだだけだ。……それの何が問題だ?」 吐き捨てられるその言葉に、頭を殴られたような衝撃を覚えた。 咄嗟に掴みかかれば、やつは避けようともせずそれを受け入れる。 そして、代わりに信じられないものでも見るような目で俺を見下ろすのだ。何故お前がそんな顔をするのか、まるで俺には理解できなかった。 「……っ、本気で言ってんのか、お前」 「スレイヴ……お前はあいつらを庇うのか? ……俺が殺人鬼だって言うのか?」 「っ、……お前は勇者だ、お前がしたことはそこらのチンピラの喧嘩で済む問題じゃない」 「――だからなんだ」 「っ、イロアス……」 お前は、そんなことを言うやつじゃないだろ。 そんなやつじゃなかっただろ。そんな言葉すら投げかけることも馬鹿馬鹿しくすらあった。 こいつが本気でそう言ってるのか疑いたかった。それなのに、こいつは嘘をついてるように見えないのだ。本気で言ってるのだ。本気で、人を殺めたことに対して胸を痛めていない。 そんなイロアスを軽蔑するよりも俺は今までこいつの本心に気付けなかった自分が腹立たしく、それ以上にショックを受けていた。 とにかく、どうすればいいのか考える。 死体を隠すのは無理ではないが、こいつの様子からしてここまで来るまでに既に何人か殺してきたのだろう。夥しい返り血の量に目を逸したとき、伸びてきた手に肩を掴まれる。 「ゃ、めろ、ッ、触るな……ッ! 「っ、なんで……怒ってるのか?スレイヴ……」 「……っ」 「お前は……俺に助けられたくなかったのか? ……俺がしたのは、余計なことだったのか?」 ただでさえ気が触れそうな状況の中、目の前のイロアスに言葉が出てこなかった。 ずっと、産まれた頃から一緒に育ってきたはずなのに、俺はこいつのことを何一つ理解できていなかったのだ。 「……ッ、お前は……」 お前は、そんなやつじゃなかっただろ。 そう言いたかったのに、喉から言葉が出てこなかった。何を言ったところで肝心な部分が決定的に食い違ってるとわかったからだ。 そんな中、扉の外からかつり、かつり、と靴音が聞こえてくる。『まだ残党がいたのか』と身構えたが、開いたままの扉から現れたのはメイジだった。 「こりゃまた……随分と派手な真似をしたな」 「メイジ……ッ」 「…………」 驚くわけでもなく、いつもの軽薄な調子で口にするメイジに血の気が引いた。誰が見てもイロアスがこの惨事を引き起こした人間だと一目瞭然だ。ただの殴り合いの喧嘩とは訳が違う。 無言のまま押し黙るイロアスに、俺は最悪なところを見られたと思った。 けれど、やつの反応は予想してなかったものだった。 「勇者サマ、用が済んだなら早めに引き上げた方がいい。後片付けは俺がしておこう」 「後片付けだと? お前、何言って……」 「この街じゃ人が死ぬことなんざ日常茶飯事みたいなものだ。なに、『賊と手を組んだ冒険者グループが仲間割れした末に壊滅』なんて目新しさもない」 「……隠蔽するつもりか?」 「なんだ、スレイヴちゃんは勇者サマを騎士団にでも突き出すつもりか?」 メイジの言葉に頭から背筋まで冷たいものが流れ落ちていくのが分かった。己のしたことの報いは受けるべきだ。そう思うのに。 「勇者サマが勇者サマでいられなくなれば、俺達の冒険もスレイヴちゃんの復讐の旅もここで終了だな」 まあ俺はそれでも別に構わないが、と続けながらメイジは血溜まりの上の死体の前に立つ。呪文を唱える素振りすらなかった。微かにその手が動いたと思った次の瞬間、男の死体と首は灰になって霧散する。床の上に広がっていた血溜まりはみるみるうちに蒸発し、瞬きをした次の瞬間には消え去っていた。 ……形跡も、なにもかも。人が死んだというのに。 その様子を見て、吐き気が込み上げる。頭の奥で大きな鐘を鳴らされているようだった。ぐわんぐわんと揺れる頭。立ってることができず、堪らず蹲った。 「――ッ、……」 「……っ、スレイヴ? おい、大丈夫か?」 イロアスの声が響く。情けないところなど見られたくなかった。けれど。焼けるように胸の奥が熱い。火の海、血溜まり、悲鳴すら聞こえない村で、家族のような存在だった者たちが消えていく。 違うと頭で分かっててもフラッシュバックし、動悸は収まる気配もなくドクドクと鼓動を打ち続ける。スレイヴ、と名前を呼ばれたとき、背中になにかが触れる。瞬間、触れられた箇所から熱が広がるのが分かった。 視界が狭まる。呼吸が更に浅くなり、やがて芽の前が真っ黒になった。 ――メイジに眠らされたのだと分かった。……この感覚には身に覚えがあったからだ。 眠りたくない。目を背けてはならない。隠蔽なんてしてはいけない。 これでは――無秩序な魔物と同じだ。 最悪な気分とは裏腹に眠りは深く、穏やかな朝を迎える。 目が覚めたら牢獄に捕らわれていても不思議ではない。そう思ったが、俺が眠らされていたのは最早見慣れた宿屋のベッドの上だった。 「……スレイヴ?」 そして、聞こえてきた声に一気に目が覚めた。 イロアスがいた。一睡もしていないのか、その顔は青い。けれど俺と目が合うなりイロアスは慌てて駆け寄るのだ。――全てが夢ならば、と思った。けれど夢ではあり得ない。あのときの薬の感触もまだ僅かにだが違和感として残っている。 「……待ってろ、メイジを呼んでくる」 「その必要はないぞ」 そうイロアスが口にしたとき。部屋の扉が開いたと思えば、まるで俺が眠りから覚めるのを分かっていたかのようなタイミングでメイジは現れた。 「具合はどうだ?」 「良いわけないだろ」 「元気そうで結構」 そうメイジは笑う。こいつらがここにいるということは、メイジの後始末は無事済んだということだ。そう思うとただ薄暗い気持ちになった。 「腹は減ってないか?」 「……少し、一人にさせてくれ」 「スレイヴ……」 二人の顔を見ることも出来なかった。 言いたいことは山ほどあるのに、眠らされる直前のメイジの言葉が頭に凝りのようにこびりついては離れなかった。 ――勇者サマが勇者サマでいられなくなれば、俺達の冒険もスレイヴちゃんの復讐の旅もここで終了だな。 「勇者サマ、行くぞ」と先に部屋を出ていく面倒だから維持の背中に向かってイロアスは「分かった」とだけ返事をする。そして、そのまま心配そうな顔でこちらを見てくるのだ。 「具合、また悪くなったらすぐに呼ぶんだぞ。飯も、いつでも食べれるように用意してもらってるから」 「…………」 気を遣ってるつもりなのかとも思ったが、こいつは元々こういうやつだ。……こういう、さり気ない気遣いもできるやつだからこそ余計胸の中の違和感は大きくなっていくばかりだった。 まるで何もなかったようにいつもと変わらず振る舞うイロアスとメイジ。――おかしいのは俺なのか? 出ていく二人に背中を向け、壁に背中を預けた。 あの日をきっかけになにかが変わることはなかった。 イロアスも、メイジも、他のやつらもなにもなかったように日々が過ぎていく。 スラムでの出来事も特に騒がれることはなかった。街から出れば魔物たちがいる、常に危険と隣り合わせであり日常的に人間が死ぬ世界だとしても、それでも胸の奥にできた凝りは日に日に肥大し、胸の内に突っ掛かる。 結局この街も出て、次の都市へと移動することになった。俺は……ただそれに着いていく。 道中の馬車の中、他愛ない会話をしてる他の連中に混ざって愛想笑いを浮かべるイロアスを盗み見た。 恐ろしいほど、いつも通りだ。あの日のことも、全部なかったかのように穏やかな顔をしたイロアスを見てるとただ胸の奥がざわついた。 不意にあいつがこちらの視線に気付いたのか、視線を向けてくる。俺は連中に背中を向けるようにして手にしていた布袋を抱え、背中を向けた。そのまま眠ったフリをする。 ――今は、誰とも話したくなかった。 次の目的地である都市に着いたときには数日が経過していた。既に勇者御一行がやってくるという連絡があったらしい、門をくぐるなりその都市の市長だという男に案内され、滞在先になる宿屋へと案内される。 以前の民宿のような建物とは打って変わって豪奢な屋敷だった。ロビーからして広い。人がいなくなった屋敷を宿泊施設として改築し、金を持ってる旅人相手に部屋を貸してるという。勇者御一行ということで宿泊代は無料だという。 シーフははしゃいでいた。ナイトも落ち着いている。メイジは……いつも通り何考えてるのかわからない。 ただ一人、イロアスは料金を支払うと行っていたが市長はそれを受け入れなかった。その代わり頼みたいことが、と切り出す市長にああ、と思った。……こういうことは珍しい話でもなかった。 「この街外れの森に凶悪な魔物の住処がありまして、どうやら夜な夜な人間に擬態しては民を攫っているようなのです。この国の騎士団も使い物にならない、どうか勇者様のお力をお借りしたく存じます」 「へえ、その割に栄えてるようだけどな。食い物も美味そうだし」 「おい、シーフ。……申し訳ございません、市長」 「いえ、ええ、お褒めに預かり光栄です。ですが、それは見掛けだけです。……住民たちは皆日が落ちると次は自分の番ではないかと戦々恐々しております」 そうがっくりと肩を落とす市長。 「どうするんだ、勇者サマ」とメイジはイロアスに流し目を送る。その視線を受け取るわけでもなく、イロアスは「分かりました」と頷く。 「……俺たちにできることは協力します」 この流れも、いつものことだ。目に光を浮かべた市長がありがとうございます、ありがとうございますとイロアスの手を取る。そんな光景をただ見ていた。 それから俺達はそれぞれの部屋へと案内される。見た目だけではなく、その客室の広さや内装も立派なものだった。俺はただ居心地が悪かった。柔らかすぎるベッドマットの感触も、甘い匂いも鼻につく。 ……それに、あの市長。なんとなく嫌な感じだった。どこにでも居そうな男ではあるが、何かが気に食わない。 そこまで考えて、思考を振り払った。 今日一日は長い旅の移動もあって疲れてるだろうと自由時間になる。窓の外から街の様子を眺める。シーフの言うとおり、皆活気溢れてる。 それにしても、人間に擬態する魔物か。なんだか嫌な感じだった。この街にきたときから言葉にできない居心地の悪さを感じていた。 イロアスとのこともあったから余計過敏になってるのかもしれない。 気分転換に部屋の外へと出ようとするが、イロアスと鉢合わせになるのも嫌だった。……それに、疲労が抜けていない。 ぼふりとベッドに飛び込み、そのまま丸くなった。そしてそのまま眠りにつく。思っていたよりも限界が近かったようだ、すぐに深い眠りへと落ちた。 「スレイヴ殿、食事の用意ができたようだ」 どれほど経った頃だろうか。部屋へとやってきたナイトによって起こされ、俺は起き上がる。食堂へと向かえば、既に他の奴らは席についてそれぞれ好きなものを食べていた。その中にイロアスの姿を見つける。徐に目が合い、咄嗟に視線を外した。 避けられてると思われても仕方ない。まだ、自分の中では整理がついていない。どんな顔をしてあいつと向かい合えばいいのかわからなかった。 好きなものを頼めば用意してくれるようだが、どんだけ美味しそうなメニューにも食欲はそそられなかった。 結局飲み物とだけ頼んだ。そして人を避け、すぐに食堂を出る。 階段を上がり、客室へと戻ろうとしたときだった。後方から足音が聞こえてきた。振り返れば、そこにはイロアスがいた。……追いかけてきたのだろう。 無視してそのまま自室の扉を開こうとすれば、「スレイヴ、待ってくれ」と呼び止められる。無視して部屋へ飛び込むこともできた、それでもそうしなかったのはあいつが不安そうな顔をしていたからだ。傷ついた子供のような顔をして名前を呼ばれ、それを無視できることもできない。 「……なんだよ」 「お前、全然食べてないだろ。そのままでは倒れる、せめてなにか食べないと」 「……いい、問題ない」 「スレイヴ……ッ」 「っ、触るな……ッ!」 肩を掴まれそうになり、いつの日かの記憶と重なる。咄嗟に伸びてきた手を振り払い、はっとした。 イロアスの目が、すっと細められる。見たことのない、いや、見たことはある。けれど、この目をこうして向けられたことは無かった――冷たい目だ。振り払ったばかりの手は再び俺の肩を掴んだ。 「っおい、離せ……!」 「……俺のせいか?」 「俺がいるから嫌なのか?……俺の顔を見ると、食欲すらも沸かないってことか?」微かにその声は震えているようだった。 掴んでくる手を振り払おうとするも、イロアスの指は食い込んで離れない。逃げるな、そう言うつもりなのだろう。 「っ、ああ、そうだよ……人殺しといて、お前がどうして平気な面してるのかが俺には理解できない……ッ」 逃げることができないのなら、直接言うしかない。 腹に溜まった言葉を吐き出せば、イロアスの目が更に細められる。そして。 「お前、まだそんなこと気にしてたのか?」 ……夢だったらそれが一番いい、あの日見たことは全部幻影ならば。それなら俺もまだ堪えられた。けれど、こいつは。あのときと同じ目をしていた。 「ああ、そうか。……そうだよな、スレイヴ。……お前は優しいやつだ、だけど……だからってあんなゴミみたいなやつらのことをお前が気にする必要はないだろ」 「……ご、み……?」 「それに人殺しだと? 冗談はよしてくれ、俺はしかるべき対処をしただけだ」 「あのままのさぼらせていたらどうなる?お前だけじゃない、あいつらの手口からして常習犯だ。あのまま放っておけっていうのか?」冷たい声だった。優しい笑顔もなにもない、イロアスの口から吐き出される冷淡な言葉にただ背筋が冷たくなっていく。 「お前、本気で言ってるのか?」 「俺は間違ったことをしたとは思っていない。――今でも思う、殺してもまだ足りないくらいだと」 なにが、どこで間違えたのか。 イロアスは……幼い頃から一緒にいたイロアスは、優しくて、お節介で、真面目で……誰よりも賢かった。少なくともそんな言葉を他人に向かって吐き出すようなやつではなかった。 「……イロアス、お前おかしいぞ。俺の知ってるイロアスは……ッ」 そんなやつではなかったはずだ。そう言い終わるよりも先に、固められた拳が顔のすぐ横、壁に叩きつけられる。びり、と鼓膜が揺れ、凄まじい衝撃に思わず息を飲んだ。 「俺がおかしいのか?」 「ッ、ああそうだよ、お前はそんなやつじゃなかった」 「お前に何が分かるッ!!」 初めて聞いた、こいつがこんな風に怒りを顕にするのを。だから、一瞬怖じ気づいてしまった。反応に遅れる俺に、あいつは両肩を掴んでくるのだ。がっしりと掴まれる肩。乱れた前髪の下、あいつの目がこちらを真っ直ぐに覗き込んでくる。見開かれた目に、思わず息を飲んだ。 「違う、スレイヴ……俺はずっとこうだ。ずっと、ずっと……それなのに、俺を見ようとしてなかったのはお前の方だろう、スレイヴ」 そして、その口元に浮かぶのは自嘲気味な笑みだった。引きつった歪な口元、それなのにその目は揺れている。怒りか、悲しみか、様々な感情が入り混じった瞳はただ俺を映していた。 「……っ、は、お前の中の勇者は人殺しなんてしないんだろうな、そうだな……本当に、お前は優しいよな」 「イロアス」 「俺はできる」 「お前を苦しめるやつは誰であろうと許すつもりはない」正気ではないということはイロアスの目を見て分かっていた。それでも、食い込む指、食い入るように見つめるその目から逸らすことができなかった。 お前のせいだ。そうイロアスに言葉の刃を突き付けられているようだった。 目の前の男が、自分の知っているイロアスと同一人物だとは思えなかった。 「失望したか? ……なあ、スレイヴ」 顎を掴まれ、顔を無理やり上げさせられる。目の前には見たことのない表情のイロアスがいた。 怯えるような、違う、これは――。 「俺を突き飛ばして協会にでも逃げ込むか? 俺を殺人者だと騎士団に売り込みたけりゃ売り込めばいい。……俺は、止めない」 「俺は、お前以外どうだっていい。お前以外のやつが死のうが何も感じない。けれど、もしスレイヴ、お前になにかあったら俺は」俺は。とその唇が動く。乱れた前髪の下、ただ真っ直ぐにこちらを見据えるその目から視線が逸らせなかった。 イロアスは、俺の前で弱音を吐くようなやつではなかった。依然とし佇み、俺の背中を支えてくれる。そんなイロアスの口から吐き出されるその言葉は呪詛のようにすら聞こえた。 「俺は、耐えられない」 喉の奥、絞り出すようなその声に。縋りつくように胸元に顔を埋めるイロアスに。俺は何も答えられなかった。 イロアスの言葉がただの気休めや冗談ではないと知ってしまった今、そして、イロアスは分かっているのだ。俺の考えることも、全部。だから……。 「スレイヴ、お前は俺のことをおかしいと思うのか?」 スレイヴ、と唇を触れられそうになり、咄嗟にその手を振り払う。渇いた音が響く。イロアスの目はただじっと俺を見ていた。ほんの一瞬、その瞳の奥が揺れたのが見えたとき。 「……ッ、……イロアス……」 「そうか、スレイヴ……お前は、そうだよな」 そう悲しそうに、寂しそうにイロアスが微笑んだ。今にも泣き出しそうな表情に、思わず自分の手を見詰めたときだった。 顎を掴んでいたイロアスの指先に力が籠もる。震える手のひら、抜けていく熱。目の前にイロアスの顔があったことに気付いたときには遅かった。 「ッ、い、ろあ……ん、ぅ……ッ!」 イロアス、と名前を呼ぶよりも先に唇を塞がれる。壁を背に、覆い被さってくるイロアスに深く唇を重ねられる。乱暴な動作、それなのに、触れる唇は震えていた。 イロアスを振り払おうとするが、今度は手首を取られ、頭上に押し付けられる。息苦しくて、それ以上にイロアスの熱にどうにかなりそうだった。 怒りと恐怖、困惑と動揺が入り交じる。 「……ッ、は……ッ」 「イロアス、お前……ッ、んッ、ふ……!」 「……っ、……」 離れようとして、掴まれて、更に深く喉の奥まで挿入される舌に捕らわれる。粘膜同士が擦れ合い、咥内いっぱいに響くその音に堪えられず必死に顔を反らして逃れようとするが、その都度顎を掴まれ更に深く口付けをされるのだ。 ヤケクソにでもなったのか、唇がほんの少し離れた瞬間、その隙を狙って咄嗟にイロアスの胸を押し返す。 「……ッ、スレイヴ」 「こ、んな……ことして、なんの……ッ、意味があるんだ……ぉ、まえは……ッ、……」 お前は、何がしたいんだ。 俺を守りたい、俺になにかがあるのは堪えられない。そう嘆く口で人を追い詰める。目の前の男が考えることが何一つ理解できない。黒い霧に覆われたように、イロアスの本心が見えないのだ。 後退る。壁があろうが、どうでもいい、部屋の扉まで逃げ込まれればよかった。 ――それなのに。 「……そんなの、俺が分かるわけないだろ」 イロアスは、笑っていた。悲しそうに、吐き出しそうな声で唸る。なにもかもが噛み合わない。目の前で部屋の扉が開かれる。イロアスがその手で開いたのだ。何故、と考えるよりも先にそのままイロアスに部屋の中へと引っ張りこまれる。 そのままベッドまで引きずられ、逃げようとするが腰に回された腕は外れることなく、とうとうベッドの上へと押し倒された。 咄嗟に体勢を直し、起き上がろうとする上にイロアスが乗り上げてくる。 そして伸びてきた手に肩を掴まれ、再びベッドへと押し倒されるのだ。今度は身動ぎすることすら許されない。 「スレイヴ、俺は……お前のことを……大切にしたい、ずっと、お前がいてくれたらそれで……よかった」 肩を掴む指に力が入る。覆い被さってくるイロアスの表情は読めない。けれど、その指は冷たく、肩に食い込んでいく。 「けど、今はお前が……憎い。……おかしいよな、こんなの、俺は……お前のこと大切にしたいのに、お前に嫌いだって言われると……怖くて、ど……ッ、どうすればいいのか……分からなくなる」 「お前、めちゃくちゃだ。逃げたきゃ逃げろって言ったのは――」 「ああ、俺だよ。……俺だ。俺なんだ、全部……俺が言ったんだ」 けど、とイロアスの目がこちらを見る。赤く充血した目だ。 「スレイヴ……俺は……ッ」 服の裾を掴まれ、乱暴に脱がされそうになる。抵抗する暇もなかった。大きく剥き出しになる無防備な上半身、イロアスは声を震わせ、そして俺の胸に顔を埋める。髪が皮膚を掠めた。こそばゆいなんてものではない。心臓を探るように耳を押し当て、ぴったりと隙間なく抱き着いてくるイロアス。 「俺は、どうしたらいい? ……お前は、どうしたら俺のことを捨てないでくれるんだ?」 子供のようなたどたどしい言葉だった。 深く、肺から絞り出すように吐き出すイロアスのその体は微かに震えていた。 捨てないでくれ、とイロアスは言う。上擦った声で、子供のように縋りつくのだ。 そして、いつの日か自分がイロアスに頭を下げた日の夜を思い出した。今思えば、全ておかしくなったのもあの日――イロアスが俺を捨てようとしてからだ。 それなのに、今は立場が違う。しがみつくのはこいつで、捨てようとしているのは……俺、なのか? 「俺は、人が死ぬところはもう見たくない。お前が、人を殺すのも」 俺とお前はなにもかもが違う。何も知らない、ただすれ違った人間が数秒後目の前で殺されても俺には耐えられない。それが悪人だろうと、許容出来ない線引きがあった。 魔王軍――アイツらと同じにはなりたくなかった、なってほしくなかった。イロアスには。 そう告げれば、イロアスの肩が震える。泣きじゃくるような、ぐしゃぐしゃの笑顔だった。 「お前は……本当酷いやつだな」 肺の奥から絞り出すような声だった。 もうとっくに手遅れだと分かっていた。それでも、その気持ちは変わらない。 イロアスの本心が聞けて戸惑ったし嫌悪感がなかったわけではない。それでも、その泣き顔は幼い頃となんら変わっていないのだ。 「スレ……」 その腕を掴む。幼い頃は痩せていたのに、今は違う。いつの間にかに体格も身長もなにもかも追い越されていた。その腕を引っ張り、その背中に腕を回した。 瞬間、腕の中のイロアスの体が硬直する。怯えたように重なり合った上半身が震えるのだ。 「っ、スレイヴ……ッ?」 幼い頃は特に何も感じなかった。寒いからと言う理由でくっつき合うこともあった。けれど、今の俺達にはその行為には別の意味合いが含まれるようになる。……だから、しなかった。触れ合うことも避け、逃げてきた。こいつ自身から目を逸してきた。 「俺は、お前のこと全然知らなかった。お前に嫌いなものがあるってのも……知らなかった、ずっと一緒にいたのにな」 隠し事されるのが嫌だった、というのとは違う。俺は、イロアスのことを何でも打ち明けられる家族のような存在だと思っていた。……あの日でその関係は変わったけど、それでも、過ごしてきた時間は何も変わらない。 けど、イロアスはそうではなかった。俺に対して、俺が嫌うのではないかと必死に隠して取り繕っていた――そう考えるとただ、悔しかった。何に対する悔しさなのかも分からない。 「……っ、俺だって、お前のことは大切だ」 「スレ……」 「っ、クソ、……俺は……お前を……」 自分の気持ちを言葉にするのは苦手だった。グチャグチャ絡み合った心を一つ一つ紐解いていく。言葉を探す。最適解などない、だから自分の気持ちを言語化して紡しかなかった。 イロアスの背中に回した腕に力を入れる。真正面、翳ったやつの顔を覗き込む。乱れた前髪の下、怯えた子供のように答えを待つその目がただ俺を捉えた。 「捨てれるわけないだろ」 そもそもだ、俺もイロアスのことを理解できていなかった。――そしてイロアスも、俺のことを理解していない。 考えなかったわけではない。けれど、俺がイロアスと一緒にいたのは魔王討伐するためだけじゃない。そうじゃないんだ。 「スレイヴ……」 「お前のこと、見損なったし理解できない。……お前の本心、何一つ分からなかったからだ」 「……っ、……」 「けど、俺がお前の立場だったら……――」 俺はどうしてだろうか。イロアスが殺されると思えばただ背筋が冷たくなり、なにも考えられなくなるほど血が熱くなる。冷静でいられる自信はなかった。 「俺も、そうする」 唯一の家族で相棒、ずっと一緒に育ってきた半身のような存在だ。 イロアスが負けるなど思わない、けれど、もしの話だ。手加減などする余裕がないほど必死になるだろう、事故であろうが故意であろうが躊躇などないだろう。 背中に回した腕に力が籠もる。ゆっくりと見開かれたイロアスの目。 「お前も、お前だ。俺のことを全然理解してない、なんで……そうやって全部一人で抱え込んで、俺に話してくれなかったんだ」 「……っ、それは、スレイヴが……」 「俺は……っ、お前に、信用されてないことの方がよっぽど悔しかった」 思わず声が震えた。それでも、伝えなければならない。一緒にいればなんでも勝手に分かってくれると俺は勝手に信じ込んでいた、こいつと同じだ。だから、こいつは壁を作ったんだ。その結果がこれだ、俺達にはずっと当たり前だと思っていた肝心なものが抜けていたのだ。 「っ……大事に思ってるのはお前だけじゃないんだよ、イロアス」 ひりつくように喉が熱くなり、目の奥にも熱が溜まっていくようだった。 イロアスのしたことは許せない。けれど、だからと言って骨の髄まで憎むことなどできるわけがなかった。 わざわざ口にせずとも伝わってると思っていた。それが、蓋を開ければこれだ。こいつはいつか俺に捨てられるとずっとビクビクしていたのだ。 この関係に、こいつに甘えていたのは俺だ。だからこそ、ちゃんと伝えなければと思った。 ほんの数秒、それでも長い時間のように思えた。 「……っ、……」 イロアスは俺を見ていた。沈黙。何かを言おうとしては言葉が出てこず、唇をぱくぱくと動かす。そして、そのまま俺の体を押し返すのだ。 逃げようとするやつを「イロアス」と捕まえる。手のひらの下、掴んだイロアスの腕がびくりと反応する。 「っ、イロアス、逃げるなよ……ッ」 「……っ、……スレイヴ……」 そう向き直れば乱れた前髪の下、こちらを見据えるやつの瞳が揺れた。 まるで子供の頃と変わっていない縋るような目。そこに反射して映る自分の顔を見て、ああ、と思った。 ――俺も、何一つ変われていない。 「俺は……」 なにをどうしたら正解だったのか、未だ分からない。それでも、もっと別の選択肢があったはずだ。 「俺は……っ」 お前を。 言い掛けて、伸びてきた手によって身体を引き剥がされる。突き放すように強い力だった。 「……っ、やめろ」 イロアスの口から絞り出されたその言葉には、はっきりとした拒絶が現れていた。 「やめろ……っ、スレイヴ」 ――何故、どうしてイロアスのやつがこんな顔をしているのかが俺には分からなかった。 苦しそうに歪んだその表情は今にも泣きそうで、肩を掴むその手は微かに震えてる。 「イ、ロアス……?」 「違う……」 「っ、違うって、なにが……」 「……っ、……」 俺は、お前のことを少しも理解できなかった。それでも、その本心を聞いて……改めようと思った。それなのに、何故こいつはこんな反応をするんだ。 戸惑う内に、イロアスは俺を突き放して部屋から出ていこうとするのだ。「おい」と手を伸ばそうとするが、イロアスはまるで逃げるようにその手を振り払う。 そして、今度は引き止める間もなく部屋を後にした。 ただ一人部屋の中に残された俺はその背中を見送ることしかできなかった。 あいつのことが分かった気になったと思えば、また分からなくなる。到底許せることではない、それでもあいつの立場になれば見えてくるものも変わってくるのだと思った。 「……なんなんだよ」 俺はまだ、あいつのことが分からなかった。 唇を拭い、扉を閉めた俺はそのまま寝台へと寝転んだ。 もやもやとした気持ちを抱えたままそのまま目を瞑る。あんな風に気持ちを吐露されたあとだ、神経が昂ったまま寝れるはずがなく、ただ無意味に時間だけが過ぎていく。 結局、寝付けたのは夜が深くなってからだった。