地下から出たのは初めてだった。 縁の指紋認証でロック解除した扉の先には階段があった。それを縁に抱えられるようにして上がった先にはシックな石の廊下といくつかの扉が並んでいた。 俺たち以外の人の存在を感じさせない静まり返ったその施設の中、縁は迷いなく近くの扉に入った。 そこにあったのはリビングだ。扉を開いた瞬間香る食べ物の匂いに宛てられる。そして、明らかに大人数分の料理が大きめのテーブルの上に広がっていた。 「はぁ……本当夢みたいだ。君とクリスマスを一緒に過ごせるなんて」 たくさんの料理が並ぶ食卓に、奇妙なことか俺と縁は向かい合って座っていた。 「本当は街のイルミネーションでも見せてやろうと思ったんだけど外は吹雪だし、そんな中わざわざ見に行くほどのものでもないしね。代わりと言ったらなんだけど君のことを思って美味しいご飯をたくさん用意したからこれを二人で食べよう。お代わりは自由だよ、齋藤君が好きそうなものばかりを用意したんだ」 「……ありがとう、ございます」 「どうしたの?元気なさそうだけど、もしかしてまだお腹痛いの治ってないの?」 尋ねられ、俺は先日まで苛まれていた腹部の痛みを思い出す。あの原因は縁に強烈な下剤を飲まされた後遺症だった。思い出しただけで具合が悪くなる。 だからだろうか、美味しそうな料理を見ても食欲が唆られないのは。また得体のしれないものが入ってるのではないかと勘繰ってしまう。 「……いえ、大丈夫です」 「そう?固形物、食べれそうにないならミキサーにかけて全部ジュースにしてあげるけど」 想像しただけで吐き気を催すようなことをさらっと口にする縁に慌てて首を横に振れば、縁は楽しげに笑った。 「はは、そうだよね。まだ君には立派な歯も顎もついてるんだからそんな年寄りみたいな食事ばっかしてたら本当に駄目になっちゃうよ」 「……はい」 「ミネストローネに南瓜のグラタン、チキンのグリル焼きに白身魚のソテー。それからケーキも用意してみたいんだ。やっぱりクリスマスといえばビュッシュ・ド・ノエルだよね。ケーキを作るのは初めてだから緊張したんだけど思いの外上手く行ったよ」 ……手作り、なのか。全部。そう考えると、随分と手が込んでいる。 縁が料理を得意としてることは知っていたが、ここまでとは……それにクリスマスという理由でわざわざこんなことをするような男だと俄信じられなかった。 「お腹、減ったんじゃない?お腹壊したせいで2日間何も食べてないもんね。たくさん用意したからいっぱい食べてよ」 「っ……」 「大丈夫だよ、この前みたいに下剤も利尿剤も入れてないから。だって今日はせっかくの聖夜だしね、俺だけじゃなくて君にも喜んでもらいたかったんだ」 やはり、俺の警戒を呼んでいたらしい。にこやかな笑みを浮かべたまま「ほら、早く食べなよ。冷えたら味が落ちるだろ」と縁は急かしてくる。 ……クリスマス、そうか、もうそんなに経っているのか。 つい最近まで夏だった気がしていただけに、季節を既にいくつか飛ばしてるという現実を突き付けられ生きた心地がしなかった。そんななか食欲が湧くはずがない。 ……けれど、この男の言うことを聞かなければまた何をされるかわからない。 「……いただきます」 「うん、あ、そのグラタンの容器熱いから火傷しないようにね」 手元に用意されていたのはスプーンとナイフ、そしてフォークに目を向ける。 これを使って刺される可能性を考えなかったのだろうか。思いながらも、俺はスプーンを手に取る。 まだ煮え滾るグラタンを一口掬い、そのまま口へと運んだ。 ……正直、美味しかった。 この男の手料理が美味しいと感じるのが嫌なほど、美味しかったのだ。濃すぎない、優しい味付けは俺の好みだった。 「どう?」 「……美味しいです」 「そう、良かった。あ、飲み物何がいい?色々用意したんだけど……でもクリスマスならやっぱり赤ワインかな」 言いながらもテキパキと用意する縁。ワインボトルを開いた縁は慣れた手付きでそれをワイングラスへと注ぎ、「どうぞ」と俺のそばに置いた。 芳醇な葡萄の薫りは俺には強すぎる。それに空っぽの胃にいきなりアルコールを注ぐのは自殺行為としか思えなかった。俺はそれを一瞥して、料理を先に食べることにした。 「先輩は……食べないんですか」 「君のために作ったんだから俺が食べちゃったら意味ないじゃん。……って言いたいところだけど、君一人じゃ流石に食べきれないだろうから少しもらおうかな」 そう言って最初から用意してたらしいナイフとフォークでケーキを切り分ける縁。 今このナイフを使えばこの男に致命傷を与えることができるだろうか。 どういうつもりなのか、未だに俺はこの男の真意が掴めないでいた。 ほかほかといい匂いをさせる料理たちを恨めしく思いながら、俺はこみ上げる殺意を押し殺すので精一杯だった。 早まるな、まだここではない。そう言い聞かせながら、今度はソテーに口をつける。憎たらしいほど美味しかった。 この犯罪者とのディナーを楽しめと言われて楽しめるほど俺のメンタルはできていない。 「こうやって食事するの、なんだか久しぶりだね」 どういうつもりなのか、何を企んでいるのか。やつの一挙一動が気になって気がきでならない。そんなことを考えてるうちに、どうやら俺の手が止まっていたらしい。 「……ああ、ほら、フォークが震えてるよ。地下が寒くて手、悴んじゃったかな」 いきなり伸びてきた手に手を握られる。熱いほどの体温が触れられた箇所から流れ込んできて、背筋に甘い感覚が走った。 ……また、だ。これでは本当に犬だ。こんな場であるにも関わらず反応してしまう自分の体がおぞましい。 そして、わかってて触れてくるこの男自身にもだ。 「可哀想に。こんなに冷たくなっちゃって。一応死なない程度に暖房は入れてたんだけど流石に低体温になるみたいだね」 「……」 「あ、ごめんごめん。手を握ったままじゃ食べられなかったね」 「……機嫌、良いですね」 「ああ、わかった?……俺、クリスマス好きなんだよ」 「……そうですか」 「その目、似合わないなって思ってるだろ」 「あまりイメージないんで」 「それは心外だな。俺、毎年クリスマスが近付くとちゃんとツリー用意してるんだよ。ほら、そこのツリーも君に見せたくて飾り付けしたんだから」 そう、リビングに飾られているツリーを指差す。 様々なモニュメントがご丁寧に飾られたそれを見て、改めて俺はこの部屋を見渡した。 生活感がないくせにところどころに散りばめられたクリスマス用の飾り付けを見つけ、なんとも言い難い気持ちになる。 逆に嘘くさいと思えるほどの徹底ぶりに勘繰らずにはいられなかった。 「どう?なかなかじゃない?」 「……そうですね」 「本当にそう思ってる?」 何気ないその一言に何も言い返せなかった。 本当はどうだってよかった。ツリーも、クリスマスも、この料理だってそうだ。 何を言ったところで縁のお気に召すような返答はできないだろう。何も言わないでいると、縁はふっと笑った。柔らかい笑顔。「本当に君は嘘がつけないね」と、仕方ないなと呆れるように。 「本当はね、クリスマスなんてどうでもいいんだ」 「……」 「君があまりにも退屈そうだから少しは気を紛らせたらと思ってさ。俺なりに考えたんだけど……君もあまりクリスマスが好きじゃないみたいだね」 「別に、嫌いというわけじゃ……」 「そう?じゃあ俺が嫌いなのかな」 自覚はしてるらしい。自虐的な言葉を口にする縁だが反省してるわけでも悔いてるわけでもないだろう。単純な気紛れだ。 俺という玩具の反応を見て楽しんでるだけの一種のプレイか。本当に悪趣味だと思う。俺は手元のスープを一掬いする。……本当に悪趣味だ。いっそこれが毒だった方がまだましだ。 「でもいいんだ、俺は君が俺の手料理を食べてくれてるってことが嬉しいんだ」 「……」 「君が持ってるそのスプーンで俺の目を抉り取ることもできるだろうに、それもしないでね」 「……っ」 「その顔、もしかして考えてる最中だったりした?」 「……方人さんは、」 そう、されたいんですか。 縁の言葉だけを聞くとまるでこの男は俺に殺されたがってるようにすら聞こえることがあるのだ。 俺に抵抗をするなという口で凶器を手渡してくる、そんな巨大な矛盾を抱えてるような気がしてならない。 「ん?どうかした?」 「……何もないです」 「途中まで言いかけてやめるのよくないよ」 暖かくて美味しい食事が喉を通る。何を考えてるのか分からない。そしてそんなことを考える俺を見てこの男はただ笑うのだ。 「そうだ、君にプレゼントがあったんだ」 「……プレゼント?」 「うん、そう。これなんだけど……君が欲しいだろうと思って買ってきちゃった」 なんて、言いながら長方形の箱を取り出す縁。 青地の包装紙に濃紺のリボンで彩られたそのプレゼントを受け取れば、手に微かに重みを覚えた。 「開けてみてよ」 そう促されるがまま、覚束ない指先でリボンを解く。なんとなく、嫌な予感はしていた。というよりもこの男が用意するプレゼントなんてろくなものではないだろうとわかっていたからだ。 ざわつく心臓を落ち着かせながら箱を開けた俺は、中に嵌め込まれたそれを見て息を飲む。 滑らかな曲線を描き、鈍く銀色に光るそれがなんなのかすぐにわかった。 箱の中に入っていたのはアンティークナイフだった。持ち手の部分に繊細な彫刻が施されたそれはそこらへんのナイフと違うことはすぐにわかった。 俺は、暫く箱を手にしたまま動けなかった。 目の前の男の意図がわからなかったからだ。目を見開いたまま顔を上げれば、頬杖をついていた縁が「ああ、それね」と人差し指でナイフを指さした。 「ペーパーナイフだから殺傷力はそれほどないよ。まあ、喉を突けば死ぬかもしれないけど」 「ど……して……」 「ん?嬉しくない?君が欲しがりそうなもので探してきたのに」 言いながらも赤みがかった瞳はこちらを見据える。見られている。観察されている。きっと、縁は俺を試しているのだろう。そして、今も。 「っ、……俺は」 いりません、と箱を閉めてそれを突き返そうとしたとき。立ち上がった縁に手を掴まれ、やんわりと止められる。 「取っときなよ、齋藤君」 「……っ、どういうつもりなんですか……」 「どうもこうもないさ。君には必要になるかもしれないならね」 いつ、どのタイミングで。 そう言いたいのに、縁が答えてくれないのは肌で感じた。 これで、俺にあんたを殺せって言ってるのか。 混乱する思考の中。けれど、忘れかけてた心臓を焼き付けるほどの熱がこみ上げ、脈を刻むのを感じた。 ◆ ◆ ◆ クリスマスのことを考える。縁が何を考えてあのプレゼントを渡してくれたのかを。 冷たい部屋の中、縁から貰ったプレゼントはベッドの側に置いたままになっていた。 これがあれば凶器になる。一振りとは行かずとも何度も突き立てれば縁の言うとおり致命傷にはなるはずだ。 あの日、一緒に食事をしてから縁は俺を部屋まで送ってくれた。一人ではまともに歩けないのだから当たり前なのだが、それでもナイフを持った俺に無防備に首元を晒す縁の神経を疑わずにはいられなくて。 ……だけど俺はそれを使うことはできなかった。 返り討ちの可能性も考えたし、それ以上に、俺は怖気づいていた。チャンスだと思っていた。けれど、張本人がお膳立てしたそれに乗っていいのか不安になったのだ。 縁はあれから顔を出さない。 食事は予め部屋に用意されていたシリアルを食べて空腹を凌いでいた。一週間は経っていないはずだが、これほど長い間縁が顔を出さないのも珍しかった。 一日二日ならば食べずとも平気なのだが、縁の手料理をたらふく食べさせられたあとだ。……余計空腹と味気なさが際立って気が滅入る。 それを誤魔化すようにベッドに寝ていた。時折目覚めては、やることもないので縁から貰ったナイフを手にとって眺めていた。丸みを帯びた先端。紙用だとしても横に走らせれば切れ味は鋭いようだ。試し切りした指先に一文字の傷が出来、赤い血が玉のように溢れ出した。 これで縁を殺す。首に刃を宛て、思いっきり引く。そうすれば、肉は切れるだろう。 想像する。齋藤君、と想像の中の縁は俺の手を掴んで笑うのだ。これじゃ死ねないよ。と、嬉しそうに。 そこまで考えて、飛び起きる。 どうやらナイフを手にしたまま眠っていたらしい。自分の手に握られたままになってるそれを見て、もし寝返りを打ったときのことを考えたらぞっとした。 ……それにしても、今何日だ。 最後にあったとき縁はクリスマスといっていた。ならばもう大晦日か、或いは年を越してるかもしれない。 あれから縁とは会っていない。 会っていなければ抱かれることもないし、殴られることもないので全身の痛みや不調も一周回って大分回復していた。 「……」 あの男、どういうつもりだ。 今まで嫌ってほど毎日顔合わせていただけに余計落ち着かない。シリアルも底が尽き始めている。このまま俺は餓死するのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、身体を起こした。 シャワーを浴びる。この部屋にきてからシャワーを浴びるか寝るか、戻ってきた縁とセックスするくらいしかしていない気がする。 いつものようにシャワー浴びたあと、張った浴槽に浸かって考え事をしていたとき。 遠くでかすかな物音を聞いた。 縁が帰ってきたのだろうか。 そう思いながら出しっぱなしになっていたお湯を止めた。気づかないふりしてこのまま無視してやろうかと思ったが、できなかった。浴槽から出た俺は乾いたタオルを手に取り、慌てて水気を取る。そして服に着替え、まだ濡れた身体を引きずるように部屋へと戻ったとき、扉が開いた。 「……ああ、よかった。まだ生きてたんだね」 縁方人はそう言って、笑った。 久しぶりに見る縁の顔は、なんだかいつもと違って見えた。なにが違うのかわからなかったが、顔に差す陰だったり、引きつり気味笑顔だったり、そんなものが色々組み合わさって少しだけ、疲弊してるように見えた。 「方人さん」と、そう名前を呼べば、縁は「うん」と微笑んだ。そして、一歩、また一歩と俺に近付いてくる。 次に違和感を覚えたのはその歩き方だ。 右足を引きずるように歩く縁。以前松葉杖を持っていたときよりもそれは酷くなってるように見えた。 そして、やつが近付く度に濃厚になるその鉄のような匂い。それに気づいたときには、俺はやつに抱き締められていた。 「齋藤君」 コート越し、強く抱き締められる。熱い縁の掌に後頭部を撫で付けられ、唇を重ねられた。ぬるりと滑る舌からも鉄の味がして、俺は思わず縁を見た。 色が白い方だとは思っていたが、今日の顔色は真っ白だった。 「……齋藤君、齋藤君……齋藤君、齋藤君……っ」 うわ言のように何度も俺の名前を口にし、唇を重ねる。熱い舌と交わる吐息。久しぶりの縁の体温に、あっという間に身体が順応する。違和感を覚えながらも無抵抗のままそれを受け入れた。縁がそれを望んでるような気がしたからだ。 「キス、嫌がらないんだね」 「……方人さんが、嫌がるなっていうので」 「それでもいつもなら眉間に皺が入ってるよ」 そう、愛おしそうに頬を撫でる指先が俺の眉間をそっと揉む。そのまま唇を啄まれ、額を擦り合わされた。縁が近い。それだけで、自分の体までも熱くなっていくのがわかった。 「ナイフ……気に入ってくれたんだね。ベッドに置きっぱなしになってるよ」 「見てただけです」 「一人で遊んでたんじゃないの?」 「……遊ぶものなんて……」 「俺がいない間、寂しくなかった?随分と放置してしまって悪かったって思ってるんだよ。一応。毎日抱くって約束してたのにね」 「……――」 寂しくなんか、なかった。 そう言ってやりたかったけど、やめた。殴られるだろうってのもあったが、今は、会話する余裕がなかった。腰を撫でる縁の手に、全身が痺れる。空腹なんか気にならなかった。寧ろ、飢えていたのは。 「っ、まさと、さん……」 性急な行為にも慣れた。下着の中、伸ばされた手に臀部を揉まれ、息を飲む。「君からもキスして」と甘い声で強請られれば、逆らえなかった。 キスというものがなんなのかわからない。昔は愛し合うもの同士がする神聖な行為だと思っていた。 けれど今はただ唇と唇を触れ合わせるだけの行為となってしまった。それでも、薄皮越しに流れる体温は最も本来の熱に近く感じることができる。本当に繋がっているような錯覚を覚えてしまうのだ。 だから、嫌だった。この男を感じたくなかった。 血も流れている同じ人間だと思いたくなかったから、余計。 「っ、……ん、ぅ……」 技巧もなにもない、ただ唇を押し付ける。 気持ちいいことも出来なければ、舌を起用に絡めることもできない。子供じみたキスでも、縁は幸せそうに目を細めるのだ。 「……っは、齋藤君……」 腰を抱かれ、縁と更に密着したとき。違和感は確信へと変わった。じわりと濡れた感触を腹部に感じた。視線を下げ、縁のコートに目を向ける。暗い色だからわかりにくかったが、明らかにそこは濡れていた。いや、染みていたというべきか。 俺はコートを脱がせた。縁は何も言わなかった。ただ、気付いたのだろう。俺が何を考えていたのか。 コートを脱いだその下、縁の着ていたシャツが真っ赤に染まってるのを見て、ああ、と思った。 「これ……なんですか」 言葉が、上手くでなかった。 口から出た言葉は酷く冷たくて、顔が引きつるのがわかった。真っ赤になった腹部、そこには明らかに刺されたような穴が空いていた。 縁はただ静かに俺を見ていた。口元に柔らかい笑みを携えたまま。 「ちょっと犬に噛まれてね」 「噛み痕には見えないんですけど」 「刃物を使う犬だったんだ、最近のペットはすごいよね」 茶化す縁。言いながらもその傷口は完全に閉じたわけではないのだろう。血の色が濃くなるシャツ。 「……先輩」 「これのことはいいだろう。……それよりも、ずっと会いたかった齋藤君に会えたんだ。……ガマンできないの、わかるだろ」 ここ、と握りしめられた手で下腹部を撫でさせられる。勃起した縁は俺の耳を舐め、そのまま肩口に顔を埋めさせるのだ。 「俺に死ぬほど齋藤君を感じさせて」 掠れた声に何かが絡むような音を聞いた。血の匂い。色々言いたいことはあった、文句もあった。何よりも腹立たしかった、この男を傷つけた相手ではなくこの男に対してだ。何を勝手に傷つけられてるのかと、俺以外のやつに、なんでと。 けれど、全部それをぐっと飲み込んだ。そして、代わりにキスをする。それが答えの代わりだった。 可哀想だとは思いたくなかった。痛いだろうと心配なんてしたくなかった。 この男が勝手に傷つけられたのだ、そう思えば胸も痛むはずもない。 寧ろ、他人から負わされた傷で苦しむこの男を見てるほうが腹立った。俺が、俺が負わせたんじゃないこの傷で。 縁の腹部に手を伸ばす。指が触れれば、縁の顔が引きつった。こら、と子供を諭すように笑う縁だが痛みはあるのだろう。 「っ、痛く、ないんですか」 「死ぬほど痛い……っていうより、寒いって感じかな」 「……けど、先輩熱いですけど……」 「そうなの?俺からしてみたら君の方が熱いよ」 顔を舐められ、下着を脱がされる。性急に解される下腹部に、すっかり慣らされていた身体は既に縁を受け入れる体制になっていた。見てて可哀想になるほど勃起したそれを密着した腹で感じた。この男にとっては、死ぬかもしれない致命傷も興奮剤になるのか。そう思うと哀れに思えて仕方ない。悲しむことも、恐怖を感じることもできないのだ、この男は。 「……っ、ぅ……」 「いけないな、指が思うように動かない。ねえ、齋藤君、君が上に乗ってよ」 「お、れが……?」 「そうだよ。……騎乗位くらいわかるだろ?」 死ぬかもしれないって状況にも関わらずに自分の欲を満たすことしか頭にないのだろう、縁には。 縁にとってどうでもいいのだ、生きろうが死のうが。気持ちよければそれでいいのだろう。 馬鹿な男だと思った。けれど、そんな男にこんな状況下で求められることに死ぬほど胸が弾む俺も俺なのかもしれない。鉄の匂いに頭の奥まで痺れるような熱を覚える。 「……わかり、ました……」 俺自身、呆れるほど興奮していた。 恥も外聞もない、どうでもいい。今更この男に見られて困るようなことなんて何もない。お互いの汚い場所ばっか見てきた。これ以上何を見せられれば驚くだろうか、今の俺には想像つかない。 「っ、ぅ、あ゛、ぁ……ッ!ぁあ……ッ!」 「ハァ……ッ、これはすごい絶景だね……」 血が滲む。痙攣する腹部。開いた傷口から血が滲もうとも気にせず縁は俺の腰を掴み、下から突き上げてくるのだ。そのたびに内臓が抉られ、自分のものとは思えない悲鳴じみた声が漏れる。赤く汚れたベッドシーツ。玉のような汗を額に滲ませながらも縁は笑っていた。 「っ、ま、さと……さ……っ!」 「うん、どうしたの?そんなにここが気持ちいいんだ?」 「っひ、ぐ……ッ!」 「久し振りだからな……君の中、すっごく熱くて……やばいな、すぐイッちゃいそうだ」 脈が流れる。腕を掴まれ、奥深くを何度も先端で叩き潰される度に頭の中が真っ白になった。縁のものが脈打つ鼓動が全身に染み込む。生きてる、まだ生きてる。この男は生きてるのだ。そんなことを考えながら、快楽を貪る。貪欲に、二度と忘れないように、痕跡を残すように無我夢中で縁にしがみついた。 まともな思考なんてなかった。ここにきてからだ、まともな考え方なんてできなかった。そもそも何がまともなのか俺にはわからなかったし、この男に愛されるようになってそれは余計悪化する。 愛されてる。愛されてるのか、わからない。けれどこの男なりに俺のことを愛してるつもりなのだとは思った。こんな犯罪者に好かれたところで迷惑極まりないが、それでも今の俺にはこの男しかいない。 軋むベッドの上。犯されながら俺はやつの枕元に転がってるナイフを手にとった。 押し当てて、引くだけでいい。それだけで皮膚は裂ける。 俺が手にした銀色のナイフを見て、縁は微かにめを見開いた。 けれどもう遅い。 縁が傷ついたのを見たときから確信していた。俺はもう元には戻れないと。この男を他人により失うことを心の奥底で恐れていると。それならば。 「っ、齋藤く……」 無防備になっていた首筋に刃を押し当て、思いっきり引く。 白いシーツに飛び散る赤。ドクドクと脈打つ心臓の熱に、腹の中に吐き出された熱似俺は焼け付くほどの『生』を感じた。 ◆ ◆ ◆ 汚泥だ。藻掻けば藻掻くほど身体は泥濘へと飲み込まれ、やがて身動きすら取れなくなる。 呼吸すらままならないそこで抵抗をやめればどうなるか。 答えは簡単だ。死が緩やかにやってくるだけだ。 時間の問題だとわかっていたはずだ、それでも長時間泥濘にいた身体はそれに慣れてしまった。息苦しさに、与えられる苦痛に、全身が麻痺していた。それを心地よくすら感じるようになってしまった。 そんな人間が通常通り生きていけるのだろうか。 俺はそう思えなかった。 だから、あのとき俺は――。 「……っう……」 首筋に引っ張るような鋭い痛みを覚え、目を開く。 そしてすぐ首の違和感に気付いた。そっと手を伸ばせば、首筋に何かが巻かれてることに気付いた。包帯だろうか、見えないが、感触からしてその辺りだろう。 「ようやく眠り姫のお目覚めだ」 そのとき、ふいに声が落ちてくる。声のする方へと顔を向ければ、そこには一人がけのソファーに腰を下ろした縁がいた。 見覚えのある部屋の中。ここがまだあの地下だというのはすぐにわかった。 「方人、さん」 「死ねなくて残念だった?でも最初に言ったよね、俺。……あれに殺傷力はないって」 「……」 混濁していた意識はすぐに形を取り戻す。 ああ、俺、あのとき……自分の首を切ろうとしたのだ。 俺の血を被ったときの縁の顔は早々に忘れられないだろう。俺がそんなことをすると思わなかったのだろう。なかなかに傑作だったが、今となってはそんなことどうでもよかった。 「……方人さん、死ななかったんですね」 「残念?」 「……」 「ええ、そこは否定してくれないと俺悲しいな」 えーんと泣き真似をしてみせる縁を無視して服をめくってその腹部を確認する。そこには大袈裟なくらい包帯が巻かれていた。 「激しく動いちゃったからね、傷が完全に治るのに時間が掛かるらしいよ」 「……動けるんですか」 「絶対安静だよ、一応ね。ま、でも動かないと治るものも治らないだろ?」 ……この人は相変わらず自分で自分の体を酷使する人だと思った。それは、俺も同じなのかもしれない。 相変わらずの縁に笑いすら出てこない。呆れ果てる。けれど同時に安堵してる自分がいて信じられない気持ちになった。 この男が死ぬときには、俺も死ぬ。 そう思って、自殺しようとした。けれど、現実はどうだ。この男も俺もまだ生きてる。いや、もしかしたらこれは俺の見てる夢であって本当は死んでる可能性もあるわけだ。……やめよう、この際御託はもうどうだっていい。 「先輩」 「だめだろ、名前で呼んでって」 「……縁先輩」 「齋藤君」と、動きかけたその唇に噛み付く。首が痛い。血が出てるかもしれない。けど、どうだっていい。この男が目の前にいるのに、じっとすることができなかった。 ベッドから降りる俺を押し止めるわけでもなく、縁は俺を抱き留めてくれた。痛い、死ぬほど痛い。けれど、痛いからこそ、生きてると実感できる。 「そんなに不安だった?俺が死んだらって思ったら生きていけないくらい?」 口に出さずとも、この男の目にはしっかり写ってたのかもしれない。穏やかな笑みを浮かべたまま、縁は俺の背中を撫でる。子供をあやすような柔らかい声。今更隠す気にもならなかった。実際、俺は俺自身が思ってる以上にこの男に侵食されてしまっていた。 頷けば、縁の頬が赤くなる。「あぁ」と感嘆の声を漏らし、縁は俺を強く抱きしめる。 「先輩、苦し……」 「あぁ、そんな可愛いこと言うなんてずるいなぁ。そっかぁ、そんなに怖かった?大丈夫だよ、もう大丈夫だからね」 「っ、大丈夫って……」 よしよしされて、何度も背中と頭を擦られる。完全な子供扱いだが、それよりもその言葉が引っかかった。俺の目を覗き込んだ縁は、ふっと笑う。 「その年のうちの汚れは年内に禊ぐものだろ?」 また、あの目だ。時折見せる、縁の目。それは慈愛に満ちたものでも暴力的なものでもない、ただ穏やかな目。その目を見ると無性に心がざわつくのだ。 「もう、心配はいらないよ。君はもう世間的には死んだことになってるから」 「そう、ですか」 「驚かないんだね」 薄々気づいていた。というよりは、この男ならしかねないと納得してしまった。 「そんな気はしてましたから」とだけ答えれば、「流石、俺のことよくわかってるね」と縁は俺の頬に口付けた。 「邪魔者もいない、皆、悲しんでたよ。君が死んだことに。……通り魔に運悪く殺された上に焼き殺された可哀想な子だよ。ずっとニュースで君の顔写真と名前が報道されていたんだ。もう皆齋藤君のことを知ってるんだよ、有名人だね」 「……先輩は、嬉しそうですね」 「当たり前じゃん。だって大好きな齋藤君が皆に心配されて、悔やまれて、同情されてるんだよ。嬉しくないわけがないだろ」 「……」 やっぱり、この人は変な人だと思う。 そんな人を仕方ないと思う俺も大概なのかもしれない。 「あぁ、通り魔は現行犯で捕まったから安心してね。事件は一件落着、もう暫くもすればもう誰も君のことを口に出さなくなるしすぐに忘れ去られるだろうから」 「そうすれば、今度こそ本当の意味で齋藤君は俺だけの齋藤君になるんだよ」それってすごいよね、と他人事のように笑う縁。 その通り魔は雇ったのか、とか、誰が死体に火をつけたのか、とか、腹の怪我はそのことに関係してるのか、とか。聞きたいことは色々あるはずなのに、すべてがどうでもよくなっていた。 「……安心しろよ、君を簡単に死なせやしないから」 「…………」 「君が辛くて悲しくてしんどくなって死にたいって思っても、絶対に死なせないよ。……君を殺すのは俺だから」 強く締められる体に、熱に、息を飲む。ああ、と思った。この男も俺と同じことを考えてるのだと思うと、目の前の化物が人間のように見えたのだ。 嬉しいとは思わない、思いたくもない、あんたに殺されるなんてまっぴらゴメンだ。けれど、あんたが他人に殺されるのはもっと許せない。 強欲で貪欲でどうしようもなくて不器用でみっともなくて哀れで明らかに何かを掛け違えているこの男の『好き』はおかしい。 おかしいけど、それを受け入れてる俺もとっくにおかしくなっているのだろう。 END アポリア 〘名〙 (aporia 「道のないこと」の意) ① 哲学で一つの問いに対して、互いに矛盾する二つの結論が出ること。 ② 一般に、解決困難な問題。