ふわりと、懐かしい匂いがする。あの時と変わらない煙草の煙の匂い。 ああ、確かに俺たちは何も変わってない。目の前の栫井があの頃の学生服の栫井とダブって見えた。 それもほんの一瞬のこと、ぬるりと熱い舌が触れるのを感じて、咄嗟に俺は身を捩って離れようとする。 「栫井……やめろって、こんな場所で……っ」 いつどこで誰が聞き耳立ててるかもわからない。 個室の扉だって、いつ開けられるかもわからないこの状況下で妙な真似をするのは避けたかった。 けれど、俺が言い終わるよりも先に後頭部を掴んだ栫井に再度深く唇を塞がれる。 「ん、んん……っ!」 甘い。アルコールと煙草が混ざったような変な味に、頭の奥が熱くなってクラクラしてきた。 栫井は、こういうやつだった。俺の意見をまるっと無視して強引な真似をしてくるやつ。わかってたはずなのに、知ってたのに。 俺は無意識の内に思い出したくないものを記憶から消し去り、綺麗な思い出だけを残していたのかもしれない。 俺が抵抗を諦めたとき、栫井の唇がやっと離れる。 「こんな場所じゃなけりゃいいのか」 唇を舐める栫井に至近距離で見詰められ、今度は目を逸すことができなくなる。顔が焼けるように熱い。唇なんて溶けそうなくらいで、俺は、何を答えることもできずただ呆気に取られていた。 「……出るぞ」 「待っ……ちょっと、栫井」 「……今度はなんだよ」 「あの、俺、そういう……つもりなら……悪いけど帰るから……っ」 火照った顔を抑えながら、なるべく栫井から距離を取りつつ俺はそう反論する。そうだ。俺はこんな関係をまた続けたくて声をかけたわけではない。 「会計……あの、お金は出すから」 帰るね、と財布を取り出して自分の飲み代を出そうとしたときだ。栫井はそのまま俺の財布を取り上げた。 「あっ、え、栫井!か、返してよ!」 「返してほしいんなら黙ってついてこいよ」 「な……」 なんて無茶苦茶なことを。 言うな否や人の財布を手にした栫井は上着を羽織り、そのまま精算へと向かう。 流石に冷静になった俺は慌ててそのあとを追いかけた。けれど、立ち上がった瞬間立ちくらみのような酔いを覚える。追いつけない。カウンターで精算してた栫井は俺を見て、そのまま腕を引かれる。 ちらっと見た感じ俺の財布から金を出したわけではなさそうだけど……どういうつもりなんだ。まるで栫井の考えがわからない。 「歩けるか」 「……大丈夫」 「大丈夫って顔じゃねーだろ」 「……栫井が、ちゃんと財布返してくれたら……」 「返すっつってんだろ」 俺がついてきたら、だろ。 逆らって栫井の機嫌を損ねたらそこらへんの川に捨てられ兼ねない。俺はそれ以上は何も言えず、栫井に引っ張られながら店を出た。 ひんやりとした冷たい空気が熱を帯びた体には気持ちいい。すっかり日が落ちている。 「栫井……ねえ、栫井ってば……どこに、行くの」 「ホテル」 「……は?」 「お前も来るんだよ」 じゃねえとこれ、どうなるか知らねーぞ。 と、無言の圧力で脅される。 ……少しは優しくなったと思ったがそんなことはない。口数が多くなっただけで中身はあの頃の栫井と同じだ。 抵抗しようとすればできたはずだ。どうせ所持金も大したことはない。財布も最悪買い換えればいい話だ。大事な身分証とかカード類は全部財布とは別のところに閉まってるし、逃げればいい話だとわかってた。 それでもそうできなかったのは、何故だろうか。そのときの俺の頭には、目の前の栫井から逃げるという選択肢がなかった。 【 迷妄 二話 】 栫井と再会したのが昨日だ。 そして今日、目が覚めた俺は隣で誰かが眠ってるその気配に気づき、飛び起きた。 「……ッ、う……」 ……瞬間、主に頭と下腹部に痛みが走る。体内からどろりと何かが溢れる感触が走り、血の気が引いた。身に覚えがあるその感覚に、恐る恐る隣を見た俺は息を飲む。 背中をこちらに向け、丸くなるように眠っていたその男は……間違いない、栫井だ。 ……栫井と駅で偶然ばったり会って、食事に行かないかって誘って……それから、どうしてこんなことになってるのだ。 思い出そうとすれば、それを邪魔するかのように激しい激痛と吐き気に襲われる。……完全に二日酔いだ。 何、やってんだ俺……。 酒飲んでからの記憶がすっぽり抜け落ちてるのだが、何があったのか体に聞かずとも一目瞭然である。自己嫌悪に苛まれるが、落ち込んでる暇もない。 今、何時だ。慌てて枕元のデジタルクロックを確認すれば、どうやら早朝だ。 今日は一限からだ、始発で家に帰れば着替える余裕もあるだろう。遅刻せずに済む、と安堵するのもつかの間。 隣ですーすー寝息立てていた栫井が起きる俺に気付いたのか、ゆっくりと体をこちらに向ける。 「……何、やってんだよ」 そして、眩しそうに目を細め、こちらを睨む栫井。 掠れたその声に少しだけギクリとして、俺は栫井の方を直視できずに慌ててベッドから降りようとする。が、栫井に引っ張られて引きずり込まれた。 「っ、か、こい……」 「…………帰ろうとしただろ、お前」 「……っそりゃ、当たり前だろ……今日は普通に学校あるし……」 「そんな体で講義に出んのかよ」 するりと伸びてきた手に腰を抱き寄せられ、項に唇を押し付けられる。 人を抱きまくらか何かのように抱き締める栫井に全身が震える。頭の片隅に昨夜の記憶のような断片的な映像が過ったが、慌てて俺はそれを振り払い、栫井の腕を剥がした。 「……出るよ」 「サボれば?……一日くらい良いだろ」 「せっかく通えることになったのにサボらないよ!……って、ちょっ……栫井……っ」 ごそごそと布団の中で下腹部を弄られ、ぎょっとする。そこで自分が全裸のままだと気付いた。栫井は服を着てるのに、なんでだ。……いや!思い出せなくていい、その方がいい。 「栫井、栫井にだって……その、仕事とか……あるだろ……同居人さんも心配するだろうし……!」 「しねえよ、今更。……つーか、部屋一週間くらい帰ってねえし」 「な、にやってんの……本当……っ」 「仕事は出たいときに出りゃいいって言われてっから」 「……っ栫井……!」 「……要するに、なんの問題もねえって話」 栫井がよくても俺には大アリだ。 腰に押し付けられたやつのモノが大きくなり始めてるのを感じ、青褪める。 「駄目だって、栫井……っ」 「お前、昨日そのまま気絶して寝たままだろ。……体、洗ってやるよ」 「い……い、いいよ、自分でやるから……!」 「風呂入れてくるから待ってろ」 「……っ、ちょっと……」 何を言い出すかと思いきや。人の意見は総無視してさっさとベッドから降りたかと思えば、栫井はシャワールームへと向かう。 今のうちに逃げなきゃ、と思うが、部屋の中、俺の服どころかカバンも見当たらない。 ……栫井のやつ、どこかに隠したな。 最初から俺の行動も全部見透かされてたみたいで憂鬱だが、正直逃げ出そうとしたところでこの体の状態ではすぐ捕まるのが関の山のような気がしてならない。そして案の定すぐに栫井は戻ってくる。 「なんだ、逃げなかったのか」 「……服と鞄、見当たらなかったから」 「全裸で逃げればいいだろ。……お前ならそれくらいするかと思ったけど」 「…………」 確かに、あの頃の俺だったらしかねないな。 けれど、今は今だ。いくら変わってないとはいえ、死にものぐるいで命すら捨てていいと思ってたあの頃とは状況が違う。 ……それに相手は栫井だ。 だからこそ、なんて言ったら「甘い」と栫井にまた文句言われそうだったので何も言えなくなる。 何も言わず、動かない俺に栫井は小さく溜息だけつき、そして隣に腰を下ろす。軋むスプリング、隣に掛かる体重に少しだけ身じろいだとき、「なあ」と栫井に呼ばれた。 「お前、今付き合ってるやつとかいねえの」 「……何、急に……」 「だから、付き合ってるやつだよ」 そう、こちらを尻目にそんなことを聞いてくる栫井になんなんだと辟易する。 そんなことを聞いてどうするんだと疑問を覚えると同時に、なんとなくその目が昨夜の熱を帯びてるような気がして妙に落ち着かなくなった。 ……駄目だ、これ以上は。これ以上、栫井と関わってはいけない。頭の奥でもう一人の俺が声をあげる。 そんなこと、最初からわかっていたはずだ。けれど、わかってて近づいてしまったのは俺だ。 踏み違えるな、一線を引け。口の中で呟きながら、俺はゆっくりと口を開いた。 「……いるよ」 栫井の目が、見開かれるのがわかった。 きっと栫井は俺が付き合ってる相手がいないと思ってたのだろう。その反応ですぐに分かったし、実際俺はあれから誰ともそういう関係になった相手はいなかった。 何度か告白紛いのことを受けたこともあったが、それどころではなかった俺は勉強を優先させて全て断ってきたのだ。 けれど、それを栫井に言ってしまえば今度こそ踏み違えるのがわかったからこそ、俺は敢えて嘘を吐いたのだ。 「……ふーん、男……じゃねえよな。ここ、ずっと使ってなさそうだったし」 いきなり腰を抱かれたかと思いきや、無遠慮に尻を鷲掴みにされてぎょっとする。 「栫井」と、その腕を離そうとするが、ぐにぐにと割れ目に伸ばされた指は離れない。 それどころか、精液が残ってたそこに遠慮なく指を捩じ込まれ、息を飲む。腫れてるのか、指先が掠めるだけで体の奥が一気に熱を持ち始めた。 「女か?」 「っ、そ……だよ……もっ、抜い……」 「……お前、そんな体で女とちゃんとできんのかよ」 「……っ、そんなの、栫井に関係ないだろ……」 余計なお世話だ。 怒りと恥ずかしさで顔が熱くなる。 つい声を上げれば、栫井は不愉快そうに顔を顰めた。そして舌打ちをしたと同時に、指が引き抜かれる。関節が中で掠めただけで焼けるような刺激が走った。奥歯を噛み締め、声を漏らしそうになるのを堪える。 「……ムカつく」 「何言って……」 嘘を吐いた罪悪感はあったが、こうでもしないとずるずると引きずり込まれそうになるのがわかっていた。けれど何故だろうか、余計体に触れる手に力が加わったような気がしてならない。 「っ、いい加減、離し……っ、んん……っ」 顎を掴まれ、乱暴に唇を塞がれる。離れようとするが、後頭部を撫でるように髪に指を絡められ、一層深く唇を重ねられた。 「っ、ふ……ぅ……んん……っ」 駄目なのに、逃げなきゃいけないと思うのに、逃げられない。甘んじてしまう。このままではお互いにだめだと思うのに、こういう風に触られると思考がまともに動かなくなるのだ。 それは、あの頃と変わっていない。 伏し目がちにこちらを見ていた栫井の目はそんな俺の挙動一つ一つを観察するようにただじっと見ていて。 腰が溶けそうだ。引っ込めようとした舌ごと絡め取られ、舐られ、咥内を舐められればそれだけでグズグズになってしまう。 「……っ、か、こ……い……」 「俺は、別に構わないけど」 「……へ」 「あんたが誰と付き合ってようが、どうでもいいって言ってんだよ」 「ッ、な、に言って……」 「……まだわかんねえのかよ。……鈍くさいところも変わんねえのな」 わかる、流石にここまでされたらわかる。けど分かりたくないしそれは認められないってのが大きかった。けれど、栫井に倫理や道徳なんて言葉は通用しない。 「連絡先、教えろよ」 「っ、栫井……」 「……お前だって俺に会いたかったんだろ。まさか、これっきりとか言わねえよな」 「……っ……」 ……その言い方は、ズルい。それじゃあ、まるで栫井も俺に会いたかったって言ってるようなものじゃないか。……あの頃は全然そういうこと言ってくれなかったくせに。 どっから取り出したのかひとの携帯を持ち出し、俺の手に握らせる栫井。勝手に触ってたのか、素直に言い出してくる辺りロック解除のパスワードがわからなかったらしい。 「……俺も、栫井に会いたかったし、会えたの嬉しかったよ。……けど、こういうことはもう……」 「……もう?」 「っ、も、う……っ、やめ、……っぁ、栫井……っ」 肌を滑る栫井の手に悪戯に胸を弄られ、思わず腰を引く。 じゃれ合いなんてもんじゃない、生々しいその指の動きに堪えられず、栫井、と掠れた声で制したとき、栫井は「はいはい」と面倒くさそうに口を開いた。 「じゃあお前がさっさと連絡先教えてくれるんだったら、今日のところはもう帰してやるよ」 「……っ」 今日は、ってなんだ。次もあるかのようなその言葉に、心臓が跳ね上がる。 「……断ったら、どうするの」 「帰すわけねーだろ。このまま俺の部屋に連れて帰る」 「……っ、な……」 冗談だよな、と縋り付くように顔を覗き込むが、やつの目は据わっていた。笑えない、あまりにも笑えない冗談だ。一人暮らしの部屋に連れて行かれるのも嫌だが、それはもっと最悪だ。 「正直俺はどうでもいいんだけど」 「……わかったよ」 連れて帰られるよりは連絡先の方が遥かにマシだ。 ……最悪、連絡があっても無理に応えなければいいはずだ。俺は渋々栫井に連絡先を教えた。 喜んでるのかホッとしてるのか、それとも遅えよと思ってるのか、栫井は「……ん」とだけ答えるのだ。 「……それじゃ、約束は守ったよ。俺はそろそろ帰るから……」 「せっかく風呂、沸かしてるんだから入れよ」 「え」 「……お前、まさかこのまま電車に乗るつもりかよ」 腰を撫でられ、反応しかけていた下腹部を撫でられ、思わず息を飲む。 確かに、言われてみれば汗を流したい。けれど、栫井の言葉の裏に別の意図が見えたような気がして、言い淀む。 「……そんなに遠くないし、大丈夫だと……」 「お前が大丈夫でも、周りはいい迷惑になんだろうが」 「っ、……でも……」 「いいから来い」 俺の抵抗も虚しく、ベッドから引きずり出されたかと思うと抱きかかえられて風呂場へと連れて行かれる。 それからは、想像通りだった。 洗うどころか朝っぱらから栫井に抱かれ、余計汚されることになり、結局一限目の講義には間に合わなくなる。 ◆ ◆ ◆ 「はぁ……」 朝から無茶をしたせいで歩く度に下腹部似鈍痛が響き、正直こうして歩くだけでもかなりキツかった。 栫井のことだ、わざとこんな後に響くような抱き方をしたに違いない。 ホテルから出るとき、タクシーで送るだとか言われたけど本当に大学まで送り届けられる気がしなかったのでそれを断ったら栫井は驚いていた。多分俺が従うと思ったに違いない。 ……栫井は、どういうつもりなのだろうか。 いや、栫井が考えてることならわかるはずだ。 要するに、なんか……こう……浮気、みたいな……体の関係みたいな……こういうのってすごく不純な気がする。 それに栫井なら呼べばすぐに来てくれるような子いくらでもいると思うんだけど。 ……なんで、俺なんだ。 今日の講義を終え、気怠い体を無理矢理体を動かして駅へと向かう。 周りはどこへ寄り道するだとか次の連休はどう過ごすかの話で盛り上がっていた。 入学してから何度か声をかけられたが、志摩たちのことが気がかかりでそれらを断って探索を優先させていたため今はあまり声をかけられなくなった。 そんで、せっかく会えた栫井とはあんなことになってしまって会いづらくなるし、俺は何してんだろうか。 駅のホーム、立ってるのも辛くてベンチに腰を下ろして電車が来るのを待ってた。 そういや、昨日栫井はどこかへ行く予定だったのだろうか。もしそうだとしたら結局俺が誘ったせいで予定変更したってことだよな。 だとしたら悪い……気もしたが、ホテルへと連れて行ったのは栫井だ。俺が誘ったわけじゃないはずだから罪悪感を覚えるのも変な話だ。 「……はぁ」 やめよう、これ以上栫井のことを考えるのは。それに、鬼のような呼び出しが入るかと思いきや栫井からまだ連絡はきてないし。 ……結局、栫井のこと全然聞けなかったままだ。 仕事のことも、恋人のことも、あれからどうしてたのかも。……そのくせやることはしっかりやるんだな、と内心毒づいてる内に電車がやってくる。俺は慌てて立ち上がり、それに乗り込んだ。 いつもなら最寄り駅に降りたらマンションへと帰る前に近くにある飲食店に入って食事するのだけど、今はもうそんな気が起きなくて真っ直ぐ帰宅することにする。 冷蔵庫になにか買い置きあったっけ、なんて思いながらもマンション前までやってきた俺は凍り付いた。 マンションエントランス前。 細身のコートを着たひょろりとした陰を見つけ、青褪める。 壁を背に煙草を吸っていた栫井は、俺が棒立ちになってるのを見て煙草の火を揉み消した。 「遅えよ」 そして一言。 いつからここに、なんでここに。そう固まる俺のことなんて気にせず、俺の肩を掴んだ栫井は「寒い、早く入れろ」なんて言い出す。 「ちょ、ちょっと……待って、なんでここに……」 「保険証に住所書かれてんだろ」 「み、見たのか……?!勝手に……!!」 「因みに学生証も見た」 顎が外れそうだった。 なんなんだ、こいつ。なんて非常識なんだ。いくら人が酔い潰れてたからってそんな真似。 「……だって、連絡先だけじゃお前逃げるだろ」 「っ、だからってこんな真似……」 「いいから早く開けろよ、こっちはずっと待ってたんだよ。お前が帰ってくんの」 「……っ栫井、仕事は」 「今日は夜からだから」 「…………」 なら、ずっと居座り続けるわけじゃないのか。ホッとするが、どちらにせよ栫井の力技には簡単に許せるわけではない。 けれど、「まだ?」と睨まれれば、逆らえなくなる。 ……だめだな、俺も。大概栫井に甘い。 それに、もう全部バレてしまってるのなら隠しても無駄なような気がした。 「……わかったよ。……けど、こうやって押しかけられるの……困る。せめて一言連絡くれよ。俺が寄り道してすぐ帰ってこなかったらどうするんだよ」 「お前寄り道するキャラじゃねーだろ」 「っ、それは……偏見だよ」 「それに、連絡したら逃げるだろ」 「…………」 それはわかってるのか。わかっててこうやって先回りしてくるんだから恐ろしいよ。 「それに、たまたま通りかかっただけだから……少し待って来なかったら帰るところだったし」 なんとなく、叱られた子供みたいな言い訳をすると思った。鍵を使ってエントランスへ続く扉を開く。 「とにかく、待ち伏せは他の人にも迷惑だから……」 「じゃあ、大学に迎えにいきゃいいのか」 「そ、れも困る……」 「……ああ、そうか、女がいるんだったな。そりゃ困るだろうな。……仮にも寝た相手なのに鉢合わせになったら」 「……っ」 口から出た出任せであったが、想像してゾッとした。何より、まるで悪びれた様子もなくそんなことを薄笑いしながら言う栫井に恐怖を覚えたのだ。 ……こいつなら本気でやりかねない。そう思わせるものがあった。 エレベーターに乗り込み、フロアを選択する。栫井がいるというだけで緊張するのに、今からこの男を自分の部屋に上げるということが危険な気がしてならない。けれど、今更後悔したところで後の祭りだ。 結論から言えば、俺の予想は的中した。 玄関の扉を開いた瞬間体を押し込まれ、続いて栫井が入ってくる。何事かと思った矢先、壁に体を押し付けられ、キスをされた。早急な栫井に驚いたが、予感してなかったわけではない。 片手で閉められる扉。電気もまだつけてない玄関で獣じみたキスをされ、そしてなし崩しになる。 「素敵な部屋だな」だとか「良い景色だ」とか「この家具の趣味いいな」だとか。そんなこと言ってもらえるとは露ほど期待してなかったけれど、だ。 まるでこれではわざわざ抱かれるために栫井を招き入れたみたいだ、そんなことを考えざるを得なかった。 「シャワー借りる」 それはもう決定事項なんだな。散々人を無茶苦茶にしておいて一人だけスッキリしたような顔をした栫井はそう言って勝手に風呂へと向かった。 ……そういや、仕事があるって言ってたな。 そんなことをまだ覚醒しきってない頭でぼんやりと考えながら、玄関口からベッドの上へと移動させられていた俺はゆっくりと体を起こす。 全身が軋む。一日で何回イカされてんだ、俺。 腹の上に溜まった精液をティッシュで拭い、捨てた。気持ちとは裏腹に頭がスッキリしてるのが嫌だった。 ズキズキと痛む肩。よく見れば血で赤くなっててぎょっとする。……あいつ、噛みやがったな。 前々からこういうことをするやつと知っていたが、久しぶりだったせいで忘れていた。 シャワーの音を聞きながら、俺は部屋に置きっぱなしになっていた栫井の鞄を見つける。どっかのブランド物なのだろう、高そうな革のビジネスバッグ。 慌てて目を逸らしたが、俺の心の中に悪魔みたいな声が響く。お前だって荷物を見られたんだから見返してやれ。そうもう一人の俺が囁くのだ。 ……いや、そんなことしちゃだめだ。そう頭を横に振るが、正直、栫井は俺に自分のことをなんも話しちゃくれない。気にならないといえば嘘になる。 ……少しだけ、少しだけなら……バレないか。何も盗むわけではない。乾いた喉に唾を流し込む。 俺は風呂の方を一瞥する。栫井はまだ上がる気配はない。体を動かし、俺はそっと栫井の鞄に近付いた。そして、息を飲み、そっと中身を覗いた。 栫井の鞄の中は質素なものだった。俺みたいにごちゃごちゃ入ってるわけでもない、最低限の財布と文庫本と定期ケース、それと携帯端末とBluetoothのイヤホン。 ……本当に最低限って感じだな……。 流石に財布の中まで見るのは気が引けて、そのまま鞄から手を離そうとしたときだ。鞄の中の携帯端末が着信する。 いきなり震えだすそれにギョッとして、咄嗟に手に取った俺は底に表示された名前を見て凍りつく。 『芳川知憲』 そう表示された名前に、全身から血の気が引いた。忘れかけていた記憶が蓋を開ける。同時に当時の恐怖が蘇る。 どうして、会長から。驚きのあまり、手に持っていた端末を落としてしまう。 そのとき、 「……何やってんの」 「ッ!!か、こい……」 「この前の仕返しのつもりか?」 会長からの電話に気を取られていたお陰で、シャワーの音が止んでいたことに気付けなかったようだ。 無表情で佇む髪も濡れたままの栫井の目に、俺は何も言い返せなかった。 「……っ、ごめん、電話が……鳴ってたから……」 「……電話?」 「その、会長……から」 「…………」 咄嗟に誤魔化したつもりだったが、会長の名前を口に出した瞬間、栫井に携帯を奪われた。履歴を確認したのだろう。栫井は俺に背中を向けたまますぐに電話を掛け直す。そのまま居間から出る栫井の背中を追い掛けてどういうことかと問い詰める気にもなれなかった。 閉め切られた扉の向こうから栫井が会長と話してる声が聞こえる。微かに聞こえてくるその声は俺といるときなんかよりも優しくて、まるで別人だと思う。 俺は、何も考えられなかった。 会長と栫井が親族関係に当たることは知っていたが、それでも、会長がいる。この電話の向こうに。そう思うだけで、脈が焼けるように熱くなって、汗が溢れ出した。 会長との電話を終えた栫井はすぐに戻ってくる。 「……っ、ぁ……」 「今度は盗み聞きはしなかったんだな」 「…………ごめん」 何に対しての謝罪か、最早わからなかった。けれど、なんだかとても見てはいけないものを見てしまったようなそんな罪悪感を覚える。 栫井は変わらない。怒ってるようにも見えない。ただ、無表情が、その沈黙が怖くて。 「……お前、聞いたよな。誰と住んでんのって」 「え……あ……うん……」 「会長……知憲君と住んでんだよ。今。……つっても、殆ど俺のが居候みたいなもんだし、家事とかその辺は業者に見てもらってるけど」 「………………え」 栫井の口からでたその衝撃的な言葉に今度こそ頭を殴られたようなショックを受けた。 だって、俺が知ってる栫井と芳川会長は……少なくとも会長は栫井のことを恨んでるようだった。そんな会長が栫井と同棲って。 俺が知らない間になにがあったんだとか、言いたいことは色々あった。 けれどありすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃになって、辛うじて口から出せた言葉は「そうだったんだ」と言うなんとも間抜けな返事だった。 恋人でも家族でもない相手との同棲――それが何を意味するのか俺にはわからない、けれど栫井の電話の対応を見てると、少なからず上手く行ってないわけではなさそうだ。 「っ、栫井は……こんなところに来てていいの?」 「……は?」 「だって、その……会長が……待ってるんじゃ……」 口にするのも、怖かった。何を恐れてるのかわからない。けれど、俺のせいで二人の仲にまた亀裂が入ったらと思うと気が気でなくて、無意識に声が震える。 そんな俺を見て、栫井は呆れたように笑う。 いつもの冷たいものではない、優しい……そしてどこか諦めたようなその笑顔に、息が止まる。 「……お前、なんか勘違いしてるだろ」 「……へ」 「あの人は俺のこと待ってもない。……それに、戸籍上は同棲だけど、俺が寝泊まりしてるのは近くのホテルだし、あそこにはたまに顔出すだけだ」 「な、んで……」 「帰る場所が必要だろ、誰にでも」 「…………っ」 芳川会長の帰る場所が栫井の家。それが何を意味するのか気付いたとき、目の前が暗くなっていくのがわかった。 会長のことを裏切ったのも、俺だ。生徒会長という座に固執した会長に歯向かったのも、俺だ。 俺が転校したあと、あの学園でなにがあった?矢面に立たされたのは誰だ?責任を取らされたのは誰だ?少なくとも、俺のせいで何かを失った人間がいる。 その事実を突きつけられ、俺は、器官が見えないなにかに締め付けられるのを覚えた。罪悪感なんて比ではないそのどす黒いなにかに首を締められる。 「……はぁ、だから言わなかったんだよ。……言っておくけど、あの人が勘当されたのはお前のせいじゃねえから」 「っ、でも……」 「お前は悪くねえよ。……責任取らなきゃいけなかったのは俺だ」 責任、という言葉を口にしたとき、栫井の顔が歪むのを見逃さなかった。 栫井は、教えてくれた。あの学園にいたとき、会長が入院していた。そのときの脳の損傷が記憶障害となって今も尚残ってること。 そして、退院した会長をそのまま引き取ったということ。 同棲ということになってるが、実際に住んでるのは会長と会長の面倒を見てくれる世話人だという。 面倒見きれないという親族の反対を押し退け、ただ一人栫井が会長の側にいることを選んだ。自分が心の底から排除したかった男が唯一自分の側にいてくれたのだと知ったら、あの頃の会長はどう思うのだろうか。皮肉なものだと思う。 大変だったね、とかそんな言葉を投げかけるのもできなかった。だって、当の栫井は全然嫌そうではないのだ。 寧ろ、「昔の知憲君が戻ってきたみたいで変な感じだ」とどこか嬉しそうに目を細めるのだ。 俺は、何も言えなくなる。可哀想だとかそんなことを部外者の俺が口を挟むのも変な気がしたのだ。 栫井が幸せなら、それでいいのかもしれない。そう思えた。 「……けど、それじゃ、尚更ここにいる場合じゃないだろ……」 「言ってんだろ。……あの人に必要なのは俺じゃねえって。……それに」 煙草を咥えたまま、栫井は灰皿代わりになるようなものを探す。俺は煙草を吸わないのでそんなものはない。ので、俺は殻のペットボトルの容器を渡した。それを受け取った栫井はそこに灰を落とす。 「それに、正直顔を合わせづらい」 「なんだよ、それ……」 「……何も知らねえ顔であの人といるのは、キツイんだよ。普通に接してくれるのが嬉しい反面、全部忘れられてんの、お前にわかるかよ」 「そ、れは……」 栫井がこんな風に吐露してくれるのは嬉しかったが、限界まで切羽詰まってたのかもしれない。だから、俺と会ったとき簡単に俺の誘いに乗ってくれたのだと今気付いた。 栫井は、きっと誰にもこんな弱音を吐けなかったのだろう。会長と栫井の関係を知ってる人間はそういない。栫井の顔が歪んでいく。 栫井は、会長が大切なのだろう。だからこそ、吐き出すその言葉は憎悪にすら近い。 何故自分に懺悔する機会すら与えてくれないのか。 何故何も知らない顔して自分に優しくしてくれるのか。 今にも吐き出しそうな栫井に、俺には何も言えなかった。 気が付けば、俺は栫井を抱き締めていた。わからなかった、どうすれば自分で自分を苦しめたがろうとするこの男を慰めることができるのかわからなかった。 「……なんの、つもりだよ」 「……分からない」 「分からないって……そりゃねえだろ」 「けど、こうしたくなったから」 ずっと考えることを避けていた退学させられた栫井の立場を想像する。 おまけに理由が理由で、親からは勿論咎められるはずだ。その上会長を引き取るとなると、元々会長とは良好ではなかった栫井の家族がそれを受け入れるとは思わない。 現に、会長を引き取ったのが栫井だとすると、そこに至るまでに相当な金額が発生するのがわかった。金だけではない、権利の問題だとか色々あるだろう。 それを一人栫井が背負うとなると、想像しただけで途方に暮れる。 ――……少なくとも、お前の想像してる方のがマシだろうけどな。 昨日の栫井の言葉が蘇る。 きっと、なんでもしたんだろうなと思う。学生のときから栫井はそうだった。会長のためなら自分が嫌ってるような相手と関わろうとするやつだった。 栫井は俺を抱くとき部屋の照明を消す。それ以外でも薄暗い場所でしか触れない。その理由は薄々気付いていた。栫井に抱かれるとき、不意に腕を掴んだときに気付いた。肘下に無数に走るそこだけ他の皮膚と感触が違う。それが何かしらの裂傷の跡だとすぐにわかった。 栫井の仕事の内容も聞けない。肌寒いとはいえ、他人よりも厚着をし、肌を見せない栫井は俺の前でも滅多に脱がない。それが何を意味するのか、嫌でも分かってしまうのだ。 「なんでお前がそんな顔するんだよ」 「……栫井って、マゾなんじゃないの」 「はッ……そうかもな」 自嘲する栫井。その笑顔に、俺は余計胸が締め付けられるような思いだった。 栫井のことを馬鹿なやつとは思わない、可哀想なやつとも思わない、けれど、そこまで栫井に思われる会長のことは……少し恨めしく思ってしまった。 俺に会いに来るのは息抜きなのか、わからない。抱かれたいとも思わないけど、今戯れに髪に触れてくる栫井の指の感触がさっきまでとは違って感じる。 最初は何考えてるかわからなくて戸惑った。けれど、今は、その指は縋るものを探すようにすら思えるのだ。……勿論、俺の勝手な思い込みだ。 けれど、その上で見つけてくれたのが俺だったらいいななんて思うのも事実で。……俺は本当に、栫井に甘いのかもしれない。 どちらからともなく唇を重ねる。 今度は、栫井から逃げなかった。 ■ ■ ■ つくづく俺たちの関係は不毛だと思う。 恋人でも無ければ、友達と呼ぶには違和感が拭えない。それでも、繋がれる手は離れようとしない。 栫井が俺の部屋の合鍵を持つようになってどれくらい経つのだろうか。 最初はよく栫井が部屋の前で待ってて、それを招き入れるような日々が続いていたがそれも面倒になってとうとう俺は栫井に部屋の合鍵を渡した。 栫井は本当に俺の恋人がいるという嘘を信じてなかったのか、それともいてもいなくてもどうでもいいと思ったのかと思うほど、遠慮なんてなかった。 俺の部屋で眠り、仕事の時間になるともそもそと準備を始める。俺が学校に行ってる間何してるのかと聞いたら寝てるか図書館で時間を潰すと言っていた。 そして、授業が終わるのを見計らって迎えに来るのだ。 最初は女子から「あの人誰なの?」「齋藤君の友達?」「紹介して!」と散々迫られたが、「あいつは辞めておいたほうがいいよ」と丁重にお断りし続けてると皆諦めていった。後になって聞いたが、何人かの子が俺がいない間に栫井に迫ってこっ酷く公衆の面前で振られたというエピソードもあったらしい、そのお陰もあるかもしれない。 季節は春から夏へと変わる。相変わらず栫井は半袖どころか七歩袖も着ようとしない。それでも俺は何も言わなかった。 栫井がなんの仕事してるのかもわからない。 けれどたまに酷く酔って帰ってくるときもあれば、キツイ香水の匂いをさせて帰ってくるときもある。不機嫌なときもあるが、俺は栫井に深く聞くことはなかった。 普通の仕事じゃないことは明らかだし、栫井が言いたがらないことを無理に聞き出す気にもなれなかったのだ。 それから、外食の頻度は大分減ったかもしれない。 栫井が自炊できる人間だとわかってから、休みのときに栫井が気まぐれに食材買ってきて物置だった冷蔵庫にどんどん野菜が入れられるようになったのだ。 それから気が向いたらご飯を作ってくれたりなんかして、これじゃ本当に同棲してるカップルみたいだなと思ったけど恥ずかしかったので何も言わずにそれを食す日々だ。 ……栫井の料理はシンプルだけど美味しい。多分、俺の好きな味と栫井の好きな味がかぶってるというのもあるだろう。サッパリしてて野菜が多めで消化がよさそうなもの。そんな料理を食べてるお陰でなんだか健康人間になった気分にもなる。 それから変わったことと言えば……一番大きな変化とも言えるが、栫井と再会してから毎晩栫井と肌を重ねてることだろうか。 流石に仕事帰りの栫井が抱いてくることはないだろうと思った日でも寝起きざまに押し倒されることもあるし、俺の了承を得ることなく栫井は好き勝手人の体を弄ぶのだ。 最初のうちは体力も限界でよく意識飛ばしていたが、最近は栫井と二人きりになるだけで意識してしまい、勝手に体が反応してしまいそうになる。そんな俺を見て、栫井は「俺より猿じゃねえの」と笑うのだ。 「か、こい……、も、これ、抜いて……っ」 「なんで?好きだろ、これ」 「ッ、ぁ、ぃ、や、いやだ、おれ……こんなので、イキたくない……っ」 エロ動画でしか見たことなかったような玩具を使われるのももう慣れた。ケツに埋まるバイブに腹の中を縦横無尽に抉られるのは死ぬほど気持ちいいけど、正直俺はシリコン製のこれが好きではない。気持ちいいが、イク度に虚しくなるのだ。 限界まで勃起した性器の根本は縛られたせいで充血しまくってて、それを指で弾いた栫井はそのままびくりと震えるそこを捉える。 「く、ひ……ッ」 「……今のはわりとキた」 「っ、は、ぁ……っ栫井、っ、裏、だめ……ッ!そこ……っ!擦っちゃ……――」 その先は、声にならなかった。 裏筋を這う親指がゆっくりと先端へと撫でられただけで腰まで迫り上がっていた熱が暴発し、俺は背中を丸め、栫井にしがみついた。射精はしていない。ピクピクと限界まで勃起した性器からは透明の液だけが汗のように流れ、それなのに体は確かに絶頂を迎えたのだ。 「……お前も大概だよな、本当」 引き抜かれるバイブ。それを床に投げ捨てた栫井は呆然とする俺の体を抱きしめ、ぽっかりと空いたその下腹部に手を這わせる。捩じ込まれる二本の指はそこを押し開いたまま、今度は身に覚えのある肉質感を覚えた。 「っ、ぁ、待っ、今は……駄目……ッ」 「アンタの駄目は『イイ』の間違えだろ……っ」 「ぅ、あ゛っ、い、れな……ァああッ!!」 わざと腰を押し付けられ、一気に奥まで挿入された瞬間吐き出しかけた言葉は甘いものに変わる。自分のものとは思えない恥ずかしい声が出るが、恥ずかしくなる余裕もなかった。肉がぶつかる音がして、体を揺すられる。抉られる。熱い、腹の中いっぱいに満たされる熱にもう何も考えられなかった。 足りなかったパーツが当てはまったかのような充足感にただ心が満たされる。 栫井の匂いがする。栫井。栫井がいる。栫井、栫井。 わけわからなくなった頭の中、ただ振り落とされないように覆いかぶさってくる栫井にしがみついた。 「……っ、齋藤……」 目があって、唇を重ねる。動物じみてると思う。理性なんてありゃしない。毎晩交尾したって何も孕まないとわかってても、お互いの隙間をこうして埋めることで満たされるのだ。 傷の舐め合いだと言われればその通りだろう。俺は少しでも栫井が癒やされるのならそれでいいと思うのだ。 栫井に抱くこの気持ちがなんなのかわからないが、少なくとも恋愛感情ではないな、と自嘲する。 首周りの噛み跡の痛みを感じながら、俺は目を閉じた。 【 迷妄 完 】 『おい、いるんなら早く出てよ』 「……なんだよ、いきなり」 『ああ、そうだよ、栫井さぁ、ねえ、俺、最近……齋藤っぽいやつ見かけたんだけど』 「へえ、妄想じゃなくてか」 『そんなわけないだろ!……俺が齋藤見間違えるわけ無いじゃん。けど、あいつすぐいなくなってわかんなくなった……けど、もし、もし本当に齋藤だったら俺どうすればいいのかな、どうしよう、無理だよ、今更あいつに会うなんて、そのこと考えてたら俺もう何も考えられなくなってさ……シラフで会えるわけ無いじゃん、てか、栫井の言うとおりかもしれない、俺の妄想かも……』 「……お前飲んでんだろ」 『そうだけど?何?文句ある?……とにかく、栫井も齋藤見つけたら教えてよ』 「会いに行くつもりかよ、会えんのか?お前に」 『わからない……けど多分、俺……齋藤見つけちゃったら何するかわかんない……だってちらっと後ろ姿っぽいの見ただけで動悸やばくなっちゃったし……はは、ごめんね、俺本当今大分酔ってるかも』 「……お前が見かけたのってどの辺?」 『▲▲駅だよ、運転してたときだったから後終えなかったけど、丁度通勤ラッシュのとき駅の中入ってくの見たんだ』 「ふうん…………ならわかんねえな、なんとも」 『違う、違うって言ってるだろ、あいつは本当にいたんだ。あれは齋藤だよ、クソ、乗り捨ててでも追いかけてやればよかったんだ……!』 「……とにかく、俺も調べて見るから妙な真似はすんなよ。……なんかわかったら一応教えてやるから」 『栫井……妙に乗り気だね、まさか栫井も齋藤に妙な真似……』 「お前と一緒にするなよ。……お前がいつまで経っても齋藤齋藤うるせえからいい加減目え覚まさせたいだけだ、俺は」 『ふうん…………まあいいけど、嘘ついたら針千本飲ますからね。それじゃ、頼んだよ』 「……」 『ああそうだ、ところで栫井、最近付き合い悪いって聞いたんだけど新しい恋人でもできたわけ?』 「……お前に関係ないだろ」 『そう?この前見かけない子と歩いていたけどあの子随分と齋藤と似てるね、もしかして齋藤のことが忘れられなくて似てる子でも探してきたの?本当色男さんは男漁りが上手くて羨ましいなあ。……俺にも紹介してよ』 「…………他人の空似だ、なんでそんなことしなきゃいけねえんだよ」 『へえ、栫井にも独占欲って概念あったんだ。……ってかさ、さっきの俺の言葉忘れてないよね』 「……」 『嘘ついたら針千本飲ます。――ああ言っておくけどこれ、本気だから』 「……」 『それじゃ、栫井、近い内にお前に会いに行くから待ってろよ』