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SF関連(心について)

 日記というか、考えたことをちょっと書いてみようかなと思います。

表紙は只今製作中の漫画の一コマです。

本来は作品(漫画、小説等)で吐き出すのが良いのでしょうが、

能力と時間と技術とやる気が全く足りておりませんので、

ここでぼやかせてもらおうと(汗)。語りたくてすいません。

以下、クソ長いので適当に読んでもらえれば。


 私はSFに妙にこだわりがあるんですが、大分変なものでして、

SF作品自体は好きですが映画、小説等有名なものもほとんどみていないです。

興味自体はありますが、それは他ジャンルとそれほど変わりない程度です。

実際にSFに関して関心があるのは創作手法としてのSFです。

(そういって作らないので尚更おかしいのですが…)


 では創作手法としてのSFとは何か?

それは論理の組み立てによる現実のifです。その思考実験。

SFにおける論理とは科学の場合とワールドトリガーのトリオンのような

創作された論理の場合とがありますが、これらは…


う~ん…長くなりそうなのでまた別個の記事?にします。


 まあ、あくまで自説ですので既存の作品に対する評価に必ずしも

適用するものでもないし、これをSFの絶対的な定義とするつもりでもないですので

そこは私のこだわりポイント程度に思っていただければ幸いです。


 さて、前置きが長くなってしまいましたが

とりあえず今回はSF定番ネタの心について自説を語りたいと思います。


 大概の作品において心については特別なものという扱いはあまり変わらないと思います。 キャラクターを中心とするアニメ、漫画であるなら

手法論としてむしろ、積極的にそういう立場にならざるを得ないところがあると

私は考えています。 攻殻機動隊でもゴーストという概念を出して

個人の根拠としてキャラクターを機械に堕とすことの無いようにしています。

(原作漫画の方。ただし作者はあくまで登場人物たちの認識として描いていて

創作手法としてもゴーストが必要だったと自覚していると感じます)


 これに対して押井守は記憶が個人の根拠となるとし、

イノセンスにてその魂の無における人形、無意識の夢の中にいる動物を

記憶や意識の牢獄の内の人間の上位としてあげています。


 私としては押井守の方に近く、心に特別性を持たせることには懐疑的です。

理由としては、科学を根拠とした場合、観測によって確かめられるものによって判断されるべきで私自身がどう思うか感じるかは基準、定義に干渉しない。

ということです。


 動物と人間を分けるものとしての心という定義は

あくまで動物の意思表示を人間基準で判断した場合に人間とは違うという

理由で心がないと割と判断されているように思います。(思い過ごしかも知れない)

 これには基準に問題があると考えます。

動物から人間へ進化したとして心を考えるのもどうでしょうか?

 単細胞生物から人間まで一直線に進化しているわけではないというのは

ご存じの方も多いかと思います。 進化も環境への適用の結果と見做すと

現状ゴキブリが進化の頂点という言い方も出来ますし、心がゴキにないとするなら

無用の長物であるという結論もアリだと思います。

どの動物も生存に必要な十全な心を持っているとも解釈できますね。

 またそれぞれの進化の果てにそれぞれ別の基準による別の心が発生していて

それを確認していないだけというSF的想像も可ですね。

進化の系統が違えば心は全く別に発生するもの、SF的にいえばケイ素生物と炭素生物の違いみたいに捉えることも出来るかと思います。

 宇宙人とか想定するとなおさらですし、

恐竜人間でも爬虫類と哺乳類は最初から別系統で派生しており

(最近知った…マジか。恐竜の血は私に一滴も流れてないのか…)よって人間と心を通わせて、科学談議が出来たとしても(恐竜惑星は名作)定義を人間に合わせる限り

心は存在しないと言えたりもします。


 機械の心ですが、これはよく見かけますが機械に心が発生するかと問われれば

発生するというのが私の意見ですね。

単純な話で観測によって心が定義される(自論だけど)のであるならば

表象において人間と変わらない機械は人間の心を持つとしか「言えない」。

現在においてもAIの文章と人間の文章が区別がつかない(ものもある)訳ですし、

 例えばモニター等の機器を介しての制限されたコミュニケーションなら

観測される心は人間と機械の区別は難しいものになっている。

(現実にはフェイクニュース等がより深刻化すると思います。あまり嬉しくない)

 誤認の可能性は今後高まっていくでしょうし、SFにおいては先の時代をいくらでも描けるのだからもはや区別できるものとして描くのが難しいものともいえるでしょう。(だから創作にゴーストのような概念が必要とされてくる)

 また、創作では人間を描きますが、その2万回読んでも同じセリフを吐く

キャラクターとは人間と言えるでしょうか?感情をこめて描かれ、

私たちは感情を抱き泣き、喜ぶけれどそれは存在しないし、

人間の定義には当てはまらない。モニターに映された俳優なら?

単なる記録?モニターの明滅?0か1かの情報?ライブかどうかの確認が取れない

映像の現実とは?存在自体があやふやでしょうか?

俳優自体は息をし、考え、悩み苦しむ心を持つのに? 

まあ、私の観測によって定義されるというと

こういう問題が出まくるわけですが(汗)


 何故、観測によって定義されるかと言えば、これまた単純に考えており

他人の心が自分と同じように観測していない以上、客観的根拠として扱えるのは

誰にも同様に観測されるものについてである、という考えだからです。

同じ人間だから心があるという無条件性は個人的には採用したくない。

思想としてなら別ですが、無条件性はよほどでないと

科学的議論に向かないと思います。

 思考実験として天使や悪魔等の心を持つ別存在を出したならば

同じ人間という前提が崩れますから、心の存在が突然不確定になってしまいます。

そういうのは定義としてはどうなの?と思いますので観測による定義を

私は支持してるわけです。他に誰が言ってるのか知らないんですが(汗)

多分、言ってる人は他にもいる気がする…。


 機械の心に戻りますと、観測からの心の定義に拠るならば

AIに心を認めるのは表象が確認されるだけで良くなるので

私は機械に心があると認めるのは簡単であるという風に考えます。

機械の中で心をどう構成しているかは、根幹の差異とはみなさない。

 いくつか小説でちょろっとAIに人権があるというSF書いてますが

そういう理由ですね。 人権を認めるか否かは人間の側の問題であるので

科学的問題ではないというのもあります。

 ポンコツ機械でも愛着があるのが人間ですし、

魂や心とかなくても人間の姿してるものへの破壊は躊躇するものですし、

遺体に人権は無いと言い切れる人は少ないでしょうし、

猫は可愛い。というのが人間ですので

本当に機械や動物に魂や心を認められないかというと

割と簡単に認められると思うのです。 宇佐美栞や小南桐絵が現実に出てきたら

それがどんな存在であろうと私なら惚れます(笑)。人間じゃないとか

心があるとかないとか、無視します(断言)。

 心の定義は観測によってとは言いましたが、自分が相手をどうとらえるかは

科学的問題ですらなくただの自分の気持ちであることは変わりないんです。


 それに別の思考、心を持つことが対立につながるかと言えば

そんなことはないのは猫で証明されてると言えましょう。

 ぶっちゃけ、利害関係さえ押さえれば感情があろうと何だろうと

対立はそれなりに解消できます。 畑と毎日戦争して花瓶の花と

バトルしているわけではないのも証明と言えます。

(勿論バトルしてるという考えの人もいるでしょうが…農業は戦)


 上記で言ってることは本当に定義の問題であるので

当然別の解釈しただけで別の結論が出ます。

 定義というものがどれだけ影響し、変えることでどれだけ別の思考を生むのか?

という思考実験でもあるのでまあ、いいんです。

 定義自体が存在を不明確にするなら関係という社会的実体は

自分の気持ちによるもの、という考えでもあります。

別に非科学的行動をとるのは超簡単ですし。とらないようにする方が困難。


 内的な心の定義としては私はPCと同じでいいと雑に考えており、

神経のネットワークと信号の「総合的な状態」でありそれ以上特に

考える必要ないなと。だからプログラムが心であると言われても

問題ないと思える。また、脳も身体の一部であり、さらに身体全体が

心を構成する要素であるとも考えています。

PCが熱かったり寒かったりで好不調があるのと同じ感じ。

 どこが心の最重要部、核心かと言えば結局脳と言えるでしょうが、

身体を別物にして心の同一性が保たれるかといえば疑問がわくところでしょう。

 年中お腹痛い私は割とストレスで性格がアレですが、

無敵の健康を手に入れた場合もうちょい明るい人格になるでしょう。

それは通常の身体の変化としては同一人格に収まるでしょうが、

SF的にアンドロイドの体といった場合

果たしてどれほどの変化があるのでしょうか?

そしてその変化を同一人格として受け入れられるでしょうか?


 なんてことを言いたい毎日を送っていますのでいい加減吐き出したくて

書いちゃいました。 何が言いたいか分からない感じになっていますが

創作手法としてのSFと前置きしたように、SFのネタとして考えてるので

技術的な面には触れず(ぶっちゃけ分からんし)思考実験として

こういう風にも考えられるし、ああいう風にも考えられる。

 途中の部分を切り離して膨らませて異世界転生に使えるな…と思ってみたり、

色々可能性を考えるものですので、立場や結論自体が重要ではないんです。

 自分以外の作品でも非科学的でも科学的でも好きな作品はありますし、

心について別の立場を取る作品も(攻殻機動隊の映画も漫画も両方好き)

好きですし。 あと、もしこれを読んでる人で誰かこれらのネタで何か作ってもらえればむしろ嬉しい。 ネタのフリー素材ですね。私自身はこれ一つ一つで

作品出来るぐらいのネタに膨らませられるようなものだとは思ってます。

思ってるだけですが…。 


ちなみに~でしょう系の文体を使ってるのは

未だにイノセンスの冒頭の引用文に影響されてるからです。



心についてこういう意見は反人権的に思われる人もおられると思いますが、

以下、気になる方に少し(少しか?)立場を説明しておきますと

 

この論理は単純に現実に適用すると(政治等の社会)

実際に人権侵害につながる恐れはあります。私もそれは望んでいない。

ですが、その問題が出てくるの場合そういう意図でそういう適用をしようと

する動きがある場合です。

科学が人間は滅ぶべきという結論をだそうとも

それでも私たちは生きる権利があるのは全く変わらないというそういう話で、

思弁とその解釈とその実行は分けて考えてほしい。それは一直線でもないです。


 これは定義を巡る思弁として語っているのです。

思弁が政治利用されやすいのは承知ですが、それによって思弁が硬直し、

考えるという行為が失われるのは結構な問題があります。

 また、それ自体が思弁の問題では無く、そもそもが政治における問題であるので

その問題は政治によって解決されるものであるはずです。

 政治問題も科学は根拠として使われていますが、全部科学で行い解決している場所ではないのも注意してほしいです。(選挙で選ばれる、支持されている=科学的に正しい意見、人物ではないと思っていますので)

 様々な思弁が社会で議論されその結論が政治として

社会に「選ばれて」適用されると思うので、

途中経過の個々の思弁が罪に問われてしまうと結論自体が貧弱なものになります。

恣意的な思弁のみの社会の危険性は多くのSFが描いた通りではないでしょうか?


 また、心の存在の有無によって人権を私は語るものではないです。

人権に適用する基準を設けるべきではない、というのが私の人権における立場で、

思弁や科学が私や他の誰かを人間ではないと定義しようとも

私たちには人権があるということです。


 要は政治と科学、混ぜるな危険です。





SF関連(心について)

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