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「いつまで手ェ洗ってるんだ、皮が剥けちまうぞ」
後ろから知り合いの冒険者に声をかけられて、我に返る。肌をさすような冷たさを感じる指先を見れば、それはすでにふやけきっていた。
「剥くならあっちの皮にしておけよ」
「……余計な世話だ」
卑猥なからかいを投げるそいつに視線を向けず、言葉だけを返す。
手を拭き、手洗い場から離れる。ずいぶんと長い時間ぼんやりしていたようだが、仕事の後にはよくあることだ。
特に……
「今日も凶悪犯をしとめたんだってな、相手は頭を吹き飛ばされて即死だって聞いたぜ。魔獣退治は別の奴に任せて賞金首相手専門にしたほうがいいんじゃねえか?」
「……」
顎をかすかに引いたが、言葉は返さなかった。そいつは「相変わらずだな」と吐き捨てて、どこかへ消えた。
爪の間に入り込んでいた血は取れたようだ。それは、俺に向かって命乞いをしていた賞金首の男の血。
凶悪な賊で、そいつの手にかかり何人もの人間が殺されていた。犠牲者には女や子供も含まれている。人を散々殺しておいて、自らの番が来るとまるで自分のしたことを覚えていないかのように慈悲を乞う男だった。
死んで当然の奴だ。
だが、俺は奴の罪を裁くために殺したのだろうか。
奴に殺された人間やその家族の恨みをはらすために殺したのだろうか。
それが冒険者としての俺の仕事の一つだから殺したのだろうか。
それとも、俺は……。
歩きながら、眉が険しくなっているのを感じた。
『神が見捨てた地』と呼ばれるこの世界でも、未だに秩序は保たれている。
そんな秩序の中にある『自分』という存在に、違和感を覚えながら生きているのなんて俺だけなんだろう。
余計なことを考えるなと自分に言い聞かせるようにして、俺はギルドのカウンターへと向かった。
仕留めた男の賞金で充分過ぎるほどに懐は温まった。だが、多少なりとも浮き立ってもいいはずの心は鉛のように重く、妙な苛立ちがあった。
酒場で豪遊することもなく、ましてや娼婦や娼夫を買うこともない。あえて自宅ではない『こういった仕事』を終えた時の定宿へと戻る。
ひとりきりの部屋の中は静かだった。
『まだ小さい弟がいるんだ、殺さないでくれ』
あの賞金首の男を殺す時、遠距離から一撃で仕留めるべきだった。近づいてとどめを刺そうとしたばかりに、余計な言葉を聞いてしまった。何も聞かず、ただ心臓か頭を潰せば良かった。
『弟を食わせないといけなくて、やめてくれ、やめーー』
男の言葉が最後まで紡がれる前に、何かに追い立てられるように魔力を込めて銃を撃った。胸から血を噴き出させながら、男の口がわずかに動き、音が漏れた。それが人の名前のように聞こえて、咄嗟に俺は短剣を翻して相手の首を切りつけ、とどめを刺していた。
俺にも弟がいる。
血は繋がっていない。
だが、血の繋がりがなくとも、俺にとっては何よりも大事な弟だ。俺とは似ても似つかない、心優しく誰からも好かれる人間だ。
弟のことを考えようとしたが、すぐに再び賞金首の死に際の顔が目に浮かんだ。苛立ちがこみ上げてきたが、何に対して苛立っているのかは分からない。ただ、その原因があの賞金首が弟という言葉を出したせいだということだけは分かっていた。
生きるために人を殺してきた。これまでどれだけの人間を殺してきたか覚えてすらいない。
俺の手は、既に血で濡れきってどうしようもないことなんてわかっている。
一つ道を違えれば、今日の賞金首は俺だったかもしれない。
今だって、立場が違うだけで人殺しに変わりはないのだ。自分が芯から上等な人間ではないことなど、とっくの昔に分かっている。
だが、そんな俺の手をあいつは躊躇なく握り、変わらぬ笑顔で俺を兄と呼ぶ。
それがうれしかった。その温もりが俺にとっては救いだった。
ずっとあいつの『良い兄』になれると思い込んでいた。
そう、あの時までは……。
深く重いため息が自然とこぼれる。
このままでは、どんどんと深みへと落ちていってしまいそうだ。
水でも浴びようと、狭いシャワー室の扉を開けた。服を脱ぎ、あえて冷たい水を頭から被る。
水音が響く。流れてゆく水は赤かった。いや、一瞬そう見えただけですぐに水は透明に変わる。その錯覚にすら自嘲が零れそうになる。
無言で体を洗う。洗っているうちに、自分の股間に手が触れた。ペニスを握り込むと、半分ほど硬くなっていた。血を見たせいで自分でも気づかないうちに昂っていたのだろう。
義務のように、擦り始める。さっさと抜いてしまおう。そして、寝てしまおう。何も余計な事を考えないように。
冷たい水が、頭から背中を流れてゆく。片手を壁につき、もう片方の手でペニスを慰めながら、俺は目を閉じて刺激に集中した。
「……っ」
扱いている内に、少しずつ息が速くなってゆく。喉が反り、上げた顔を冷たい水が打つ。水の冷たさと反比例するように、俺のペニスは熱くなり、脈打っているのが手のひらから伝わった。
早く終われ。そう心の中で念じる。余計な事を考えるな。
「……は、……っ」
噛みしめた歯から呻きが洩れた。雁首を擦ると水で濡れたペニスに、ぬるぬるとしたものが滲んだ。絡めながら竿を扱く手を速く、強くすると、もう少しで達せそうな予感があった。
己の中が昂って行くのを自覚するにつれて、思い出す。
血が飛び散った時、俺は何を考えていた?
短剣の切っ先が肉を裂く感覚をどう思っていた?
相手の命が消える瞬間、俺はどんな表情をしていた?
血飛沫を、
死に顔を、
目に焼き付けたのは誰だ?
必死に違うと打ち消そうとするが、俺のペニスはどんどん張り詰めて熱くなり、息は早くなっていた。
自らの意思を裏切る身体の反応を自覚しながらも、必死で自分を戒めた。
違う。俺は、そうじゃない。
俺は……違うんだ。
「……ぁ、く……っ」
力を込めて、ペニスを扱いた。
何も考えるな。何も。
張り詰めたペニスは手の中でビクビクと震えていた。
水音に混じり、竿を扱く音と、押し殺した息が狭い空間に響く。
頭が白くなってゆくのが分かる。ああ、このまま、もっと白くなってしまいたい。
何も迷うことなどない、ただの獣になってしまいたい。
「……っ……!」
自ら与えた刺激で、俺は達した。そういえばいつから抜いていなかっただろうか。思っていた以上の精液が飛び散り、吐き出しきると、脱力する。
そのまま手をついていた壁に体を預ける。冷たい水が、熱くなった体を急速に冷やしてゆく。
目を開ければ、ペニスを伝って排水溝に精液が流れてゆくのが見えた。
ポタポタと髪から水滴が落ちてゆく。
押し殺していた息が自然と荒くなり、小さく開いた口からこぼれだす。
飛び散った多量の精液を見ながらぼんやりとまた考えてしまう。
冒険者仲間は、仕事の後に娼館に行くことが多い。だが、俺はそういったことを好まなかった。もし行けば、昂りのまま相手を壊してしまいそうな気がしたからだ。
だがそれ以上に、どんなに肉欲だけは発散できたとしても、心を傾けていない相手とでは満たされない事を俺は知っている。
だったら、こうして一人で処理する方がいい。
濡れた体のまま、シャワー室を出て殺風景な部屋に置かれたベッドへと向かう。体がひどくだるく、自分が疲れていることをようやく自覚した。ベッドが濡れるのも構わず、そのまま倒れ伏す。
せめて下着を着なければと思ったが、それも億劫だった。風邪を引くようなやわな体ではないだろうと思い、そのまま目を閉じる。
そうだ、明日は弟の店に久しぶりに行くとしよう。
そして、あいつが作った料理を……。
距離をとろうと、店に顔を出さないとわざわざあちらからやってきて、困った顔で自分の心を偽ることなくぶつけてくる弟。俺のような人間が近くにいるべきではないと分かっているのに、そのために家を出たというのに……。
気づけばあいつの優しさに縋ってしまう。仕事とはいえ、人の命を奪えば奪うほどますます渇きながらも何かが満たされてしまう自分という歪な存在。それに向き合うことが恐ろしく、弟の声とその眩しすぎるほどに真っ直ぐな心根をまるで本能のように求めてしまう。
俺は深く息をついた。
あいつを取り巻く世界は美しく平穏で、陽だまりのような安らぎに満ちていてほしい。
そう願う気持ちは紛うことなき真実だ。
だが、その美しい世界をこの手で壊し全てを奪いさりたいと思う気持ちもまた、同じくらいに真実だった。
いつまで、俺はあいつの前で『良い兄』の顔をしていられるのだろうか。
感じたのは、不安よりも切なさだった。
強くシーツを握りしめ、体を丸めた。
「……アサヒ」
小さく弟の名前を呼ぶ。独り言でも名前を呼ぶと、少しだけ気分が落ち着く。
大切な……大事な弟の事を考えながら、いつの間にか俺は浅い眠りへと落ちて行った。
end.