祭りの夜がきた。 隆宏の言葉もあり、幾らかは警戒していたがあれから特に奇妙なことも起きなかったなと、坊野は港に立ちながら今日までのことを振り返っていた。 祭りの当日は山代家の人間以外は御山に立ち入ってはいけないということで、護摩焚きの様子を見ることはできない。 船には同乗できると言われたのでこうして港で待っていると、暗闇の中から一つの明かりがこちらに近付いてくるのが見えた。 それは徐々に炎の形だと分かるまでになり、明かりの大元である松明を片手に隆宏がこちらに歩いてくるのが確認できた。 「寒かったでしょう」 隆宏の言葉に、坊野は「それほどでも」と笑って応えた。 昼間はまだ夏の気配が濃いものの、夜にもなると身体を撫ぜる風に秋の冷たさが混じってヒヤリと感じる。それでも、広島よりも幾分冬の訪れの早い岩手から来たので寒さには強い。 とはいえ海のそばで夜風に晒されていたので、隆宏の持つ松明の炎を暖かく感じたのは確かだった。 隆宏は慣れた様子で、船首に取り付けられている篝火に松明の火を移し、海水に松明を沈めて消化する。 彼に導かれるままに木製の小さな船に乗り込むと、それはゆっくりと沖へ進み始めた。 目の前には暗闇の中で赤々と燃える篝火の炎がパチパチと音を立て、それを黙って見つめる坊野の後ろでは、隆宏が櫓で船を漕ぐギッ、ギッという音が規則的に響いている。 それにしても、光源がこの篝火だけだというのによく迷わず海路を進めるものだと、坊野は内心で感心していた。 もうずっと続いている祭りだというから、山代の人にとっては馴染んだルートなのかもしれない。 祭りの間に喋ってはいけないという決まりはないものの、前夜の島を挙げての賑わいと打って変わり、静寂に包まれたなかでのひっそりとした祭事に、なんとなくお互いが沈黙を保ったまま、船は黒い海の上を進み、やがて本土へと辿り着いた。 本土といっても停泊地の港はひっそりと静まり返っており、隆宏は簡単に停泊地の説明をするとまた船首の方向を変えて沖へと船を漕ぎ出す。 本土からの人工的な明かりが見えなくなり、また暗い海の只中に戻った頃、ふと坊野はあまりにも周囲が静かすぎることに違和感を覚えた。 そうだ、船を漕ぐ音がしない。 だが、船は緩やかな速度で先程と同じように進んでいる。 困惑したように振り返って視線を向けられた隆宏は、坊野の言わんとすることを察したのか苦笑を漏らす。 「不思議でしょう」 「これ、勝手に進んでますよね」 坊野の問いに隆宏は小さく頷く。 「なぜかね、本土から島へと戻るとき…こうやって勝手に船が進むんですよ」 「それは、………毎年、ですか?」 なぜですかとか、海路を外れることはないんですかとか、疑問がたくさん浮かび、結局坊野が口にしたのは「毎年のことか」ということだけだった。 「毎年ですねぇ…」 隆宏は当たり前のように返し、休憩するように船尾に腰を下ろした。 櫓は右手に握ったままだが、それを動かしている様子はない。 「私も初めて船に乗った時は驚きましたが、まあ、慣れました。こういうものかと」 「はぁ…」 慣れる慣れないの話ではないと思うが、坊野はとりあえず返事をした。 「父も、祖父も、そのまた前の代も、ずっとこうだったそうですよ」 篝火の明かりに照らされた表情は、何を考えているのか分からない静かに凪いだものだった。 「祭りは特別な日なので、昔から色々あるんだそうです」 隆宏がぽつぽつと語る言葉には、以前にも聞き覚えがあった。 なんと言っていいのか坊野が迷っていると、先に隆宏が口を開く。 「坊野さん、ショウさんに会ったでしょう」 初日に山代家まで案内してくれた正蔵だ。前夜の祭りのときも、よく話し掛けてくれた。酒に強い豪胆な人柄の男性だった。 「彼はね僕の従兄弟なんですが…、この話をした時に一度真似してみたんだそうです」 「真似、とは…」 「夜に海に出て、沖合で櫓を漕ぐのを止めてみた」 「それで、どうだったんです?」 前のめりに尋ねる坊野に隆宏は眉尻を下げて笑い「船は動かなかったそうです」と答えた。 「秋分の日ではなかったからか…彼が本家の人間ではないからか…それは分からないのですが、ただ分かったのは『祭りの日は特別』ということです」 少しの間、沈黙が二人を包んだ。 「あの、ひとつ聞いてもいいですか」 「はい」 「この辺りの伝説で、火の玉に導かれて港に戻れたという遭難者の話がありますよね。それは、この行事と何か関係があるのでしょうか」 坊野は、船に乗ったら聞こうと思っていたことを尋ねた。 染みで汚されずに残った文章、最初にこの島の祭りを調査した先達が書き残した仮説だった。 隆宏は「そういった話は、島以外にもこの辺でいくつか似たような話がありますね」と言ったきり、記憶を辿るように黙り込む。 「この行事が関係あるかは正直分からないですが…」 「そうですか」 「ただ」と続けた。 「昔…私の先祖が、本土に移住しようとしたそうなんです」 昔と言っても本当に前の江戸時代らしいですけど、と付け足した。 「引っ越しの荷物を船に乗せてね、一人で島を出たらしいですよ。なんでも本土に好きな女の人ができたそうで、その人とそっちで住みたかったんでしょうね」 隆宏は小さく笑いながら話していたが、ふっと表情を消すと暗い水面に視線を向けた。 「でも、行けなかったんですって」 「えっと…遭難したということですか?」 「迷ったという感じじゃないなぁ…いや、私も見たわけじゃなく祖父から聞いただけなんですが……こう、漕いでも漕いでも、辿り着けなかったそうですよ」 島から本土までそう長い距離ではない。 しかも、決まった海路を使うので島の人間にとっては慣れた道行きのはずだった。 だというのに、一向に本土に辿り着けない。 気付くと島の港に戻っている、というのだ。 「私達もね、買い物やなんかで島の外に出ることはよくあるんですよ」 「つまり、移住しようとすると、なぜか島に戻ってしまう、ということですか」 祭り以外にも不思議はあるじゃないかと、坊野は訝しんだ。 「誰も試したことはないですけどねぇ…。私も、その話を聞いたからじゃないですけど、引っ越そうとしたことはないですし」 語る隆宏の口調は淡々としている。 気付くと船はいつの間にか止まっており、ゆらゆらと海面に浮かんでいた。 隆宏もそれに気付くと「よっこらせ」と声を上げて、再び船尾に立つと櫓を漕ぎ始めた。 島の明かりが水面に揺れているのが見え、港が近いことが分かる。 それから港に着くと、隆宏の手を借りて船から降りた。 隆宏は太い竿のような物で器用に篝火を下ろすと、それを海水に浸して火を消した。 火が消えると同時に、夜の闇の濃さが深くなった。 「一年のお渡りをお許しください」 暗がりの中で隆宏の祈るような声が聞こえた。 隆宏が立ち上がったところで「さっきのは、ウミワコ様への言葉ですか?」と坊野は尋ねる。 これも、先達のノートに書かれていた疑問だった。 隆宏は「そうです」と頷く。 「『一年のウミワコ様がお渡りなさるをお許しください』という意味らしいです」 「ウミワコ様がお渡りなさる…」 坊野は意味を咀嚼するように隆宏の言葉を復唱する。 現代の言葉遣いに言い換えるなら、”ウミワコ様が一年来ませんように”という意味にもとれる言葉だ。 だが、祭っている神に対してそのようなことを言うのだろうか。 滞在している僅かな期間だけでの印象だが、祟り神というような存在でもなかったように感じられる。 暗がりでも坊野の戸惑う様子が感じ取れたのか、隆宏は「家に戻りましょう」と促しながら、その問いに答えを出すように小さく呟いた。 「私達島の者は、この海と、海の神様と共にあるんですよ。この先もずっと」 ● 「灯船島の調査、お疲れさまでした」 坊野が提出した報告書を確認しながら、彼の上司の佐々木長官は「お茶でも飲みますか」と坊野を応対用のソファに座るように促した。 カップにティーバッグを入れてウォーターサーバーからお湯を注ぎながら、「あちらはこっちより暖かかったでしょう」と世間話をする。 「はい、持って行った上着もほとんど使いませんでした」 佐々木はカップを目の前に置くと「それで、どうでした。腑に落ちないという顔をしていますけど」と坊野の心情を言い当てる。 「山代家…いえ、元々あの島の住人は平家の落人の末裔だったそうです」 坊野は、それを語ってくれた隆宏の妻・志津子との会話を思い出す。 ● 隆宏が風呂に入っている間、居間で酒を振る舞われていた坊野は志津子からも何か聞けないかと思い、祭りで疑問に思ったことを話した。 「私は島の外からこの家に嫁入りしたんですが…義父から聞いたのは、山代の家は平家の魂を弔うためにこの島に留まる宿命だという、そういう言い伝えでした」 なんでも先祖を辿れば平家の落人らしいです、と志津子は言った。 「じゃあ、山の上にあったお墓は…」 「恐らくは」と答えて、志津子は言葉を続ける。先程より少しばかり声を潜めて。 「この島に旅館が無いのも、本来はよそ者を歓迎しないからなんだそうです」 「島の方達が、ですか?」 「いえ、ウミワコ様が」 志津子は空いた杯に酒を注ぎ足す。 「外から来た人間を警戒するそうです。 だから、山代家に泊める。 山代の者が歓迎すれば、ウミワコ様は警戒を緩めるからだとか…。 これも、養父から聞いただけなので詳しい事は存じませんがね」 志津子の言葉に坊野は初日の夜のことを思い出した。 では、あれはウミワコ様だったのか。 「ウミワコ様とは、一体…」 「その名の通りです。 海の吾子様――海の中の都の帝の子、という意味です」 「それは、海の神様ということですか」 坊野の質問に、志津子は考えるように小さく首を傾けた。 「神様……そうですね、主人はそう呼んでおります。 竜王様の娘、という言い伝えもありますが。 確かなのは、ウミワコ様は幼い子供の姿をされている…という事だそうですよ」 ● 「なるほど、竜王の娘ですか」 「僕はてっきり、ウミワコ様は安徳天皇への御霊信仰かと思ったんですよ。 祠にも平家と天皇家の紋がありましたし。でも娘というなら、違うのかな」 「いえ、安徳天皇は竜王の娘だという伝承はありますよ。平家が残した記述ですがね」 「男の子、ですよね?」 「その辺りが不明なんですよね…実は皇女だったという説もありますし。それもまあ、『竜王の娘』だなんて伝説が残っているから生まれた説なのでしょうが」 当時の事は当時の人々しか知り得ませんよ、と佐々木は言う。 こういった古くから続く神事や祭事を調べていくと、時折こういった歴史の謎を紐解きそうになる。 自分の中で「そうなのだ」と当たり前に思っていた歴史が覆られそうになるこの感覚に、坊野はまだ慣れないでいた。 「『灯船火入れ行事』」 佐々木の落ち着いた声音に、坊野はいつの間にか俯いていた視線を上げて彼女の顔を見る。 「もしかすると、この行事は平家の末裔がかつての主であり、海の底に沈んだ帝の魂を供養する祭りなのかもしれませんよ」 「供養……でも、ですが…だとすれば、あの言葉は妙じゃありませんか?」 「あの言葉、とは」 「ウミワコ様が一年来ませんように、だなんて」 坊野の言葉に佐々木は否定するように首を横に振る。 「『一年のウミワコ様がお渡りなさるをお許しください』でしょう。言葉は正しく読み解かなければいけませんよ」 佐々木は手元の報告書をめくる。 「その、隆宏さんの言葉は、ちょうど文字が汚れて読めなくなった部分と合うと思いますね」 「ああ、確かに。でもそれで終わっているんですよね、前に調査した人の記録は」 「これが書かれたのは明治の頃ですね。だからでしょう、これ以上書く必要がない、書かなくてもこれで分かると思ったのやも」 もっと詳しく書いて欲しいものですが、と佐々木は苦笑を零す。 「ええっと、明治の人にとっては当たり前のことだったってことですか。一体、何が…」 「ですから、この行事が安徳天皇の皇霊祭だったという可能性ですよ」 「すみません、よく分からないです」 佐々木は「私も言葉が足りていませんでしたね」と優雅に笑う。 「明治時代は、春と秋に分けて歴代の天皇や皇族の忌日を奉祀していたのですよ。 そう、今でいう春分と秋分の日です。 秋分の日は当時、秋季皇霊祭という行事が国の大祭として行われてきました。 昭和に入ってこの行事は宮中だけのものになりましたが、私達もお彼岸といって秋分の日辺りに先祖の供養をしたりするでしょう」 「あっ……そうか、だからこれを書いた人にとっては、秋分の日に皇族の御霊を祀るのは普通のことで、灯船島の火入れ行事は祀る対象が安徳天皇に限定されている祭りだというのも当然行き付く答えだろうと敢えて書かなかったんですね」 佐々木の言わんとすることが分かり、坊野は「それにしてももう少し書いておいてほしかったな」と項垂れて愚痴を零した。 もしかしたら、汁で汚れた箇所に安徳天皇に関する記述があったのかもしれないが。 「いや、待ってください」と坊野は下げていた顔を上げて、再度上司に残っていた疑問を投げかける。 「じゃあ、隆宏さんが言っていた祭りの最後の締めくくりの言葉の意味って…。僕が思っていたのが違うとしたら…」 「今ではあまりこういう意味では使いませんが、『許す』というのは昔の言葉では、『捕らえたものを逃がす』という意味があります」 だから、と続けた佐々木は「あくまで私自身の見解ですが」と前置きをする。 「『今年一年も、海の底に捕らわれたウミワコ様の魂が自由に渡って来られますように』という、祈りではないでしょうか」 そう言いながら坊野が提出した報告書を読み終わったのか、最後のページまでめくると「再提出です」と笑顔でそれを坊野の前に戻した。 ● やれやれという思いで長官室を出て、デスクのある事務室に戻った坊野に「どう、答えは分かった?」と同僚の一人が声を掛けてきた。 坊野が先程までの佐々木との遣り取りをかいつまんで語ると、その同僚――柴咲は「うう~ん?」と納得がいっていないように器用に片方の眉だけを下げた。 「長官の推測でいくならさ、いるはずじゃん」 「なにが?」 「ウミワコ様を海に捕えている存在だよ」 柴咲の指摘に「確かに」と坊野は顔を顰める。 「それに、その祭りをやってた人がさぁ…その言葉はウミワコ様へのものかって聞かれて、『はい』って答えたんでしょう。じゃあ、違うじゃん」 「長官、ロマンチストなところあるからなぁ」と、作業をしながら耳だけ傾けて聞いていた先輩の一人も相槌を打つ。 その隣で同じように入力作業をしていた後輩の男は「俺達だと禍事の意味で推測することが多いから、敢えて好事の意味合いも提示しただけかもですよ」と別の側面から推論を述べ「ただし、答えはお前が出せというスタンスには変わりないッスけど」と締めくくる。 「え、じゃあ結局あの言葉の意味ってなんだったんだ?あれは何の祭りだったんだ!?」 報告書を机に投げるように置き、頭を抱えた坊野の肩をもう一人の同期の男が労わるようにポンと叩いた。 このごたごたの元凶である拉麺男だった。 「もしかして、前任者も結局そこが分からなくなって、言葉だけとりあえず書き残して終わりにしたのかもな」 「瀬田~~」と唸るような声を出しながら、坊野は机に肘をついて両手で目を覆った。 「本当、迷惑かけてごめんな…」 「いやもうそれはいいけど、俺も前任者と同じ手法取っていいかなぁ!?」 悲痛なその叫びを聞いたその場に居る者達は、穏やかな笑顔で容赦のない自身の上司の顔を思い浮かべた。 「駄目でしょ」 「妥協は許されないもんなぁ」 「先輩、お疲れ様です!」 「俺も一緒に考察するから…な?頑張ろう」 満場一致で答えが返ってきた坊野は、報告書の上に左頬を押し付けて突っ伏した。 ● ―――明治某年 「それでは、私はこれにて。大変お世話になりました」 「いやぁ、大したお構いもせんで。道中気ぃつけてな」 玄関口で丁寧に頭を下げる青年に、奥から老婆が慌てたように駆け寄ってくる。 「間に合ってよかったぁ。アンタ、ここに居るあいだこれよう食べとったじゃろう。はい、お土産」 そう言って、作りたての醤油餅が包まれた竹の皮包みを青年の手に渡す。 「ありがとうございます。いやぁ…嬉しいなぁ!」 それから港で島中の人に見送られ、青年は大きく手を振りながら本土に渡る船に乗り込んだ。 船の中に一人の少女の姿を見留め、「あれ、京子ちゃん?」と名を呼ぶ。 「どこかへお出かけかい?」 彼女と向き合うように椅子に腰を下ろすと、 京子と呼ばれた少女は「うち、来年から本土の学校通うけぇ、下見じゃ」と、はにかみながら答える。 「へぇ、それは楽しみだね。じゃあ寄宿舎に入るのかな」 青年の言葉に少女は小さく笑った。 「いんや、"難しいだろう"って婆さまが言いよってん、船で通うつもりじゃ」 その言葉に青年は納得したように「ああ」と頷く。 「本家の子はうちだけじゃけぇ、いずれお婿さんもろて、家継がなあかん」 少女の言葉は当たり前のことを語るようにも、諦めのようにも聞こえた。 椅子から立ちあがり甲板へと歩いて行くのに、青年もその後ろに着いて歩く。 「お祭りは、この先もずっと続いていくのかなぁ」 甲板から島のある方を見ながら、青年は数日間の出来事を頭の中で振り返る。 「そうじゃろうな…」と少女はその言葉に応えた。 「海は神秘で、魔境じゃけぇ」 小さく呟いた言葉は、本土への到着を予告する笛の音にかき消され、青年の耳には届かなかった。