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本編補足-「夕刻、最後のひとり」(作戦後の天内の行動について)

「教官殿!お世話になりました!我々はここまでです!教官殿だけでも脱出してください!」

「天内!返事をしてくれ!天内!」

「教官殿!爆破します!急いでください!」

 

天内と呼ばれた青年は、かつての師に背を向け、燃え盛る屋敷を後にした。

ここから彼の本当の戦いが始まった。

 

『夕刻、最後の一人』

 

どれくらい走っただろうか。夜明けも近づき、あたりが少し明るくなってきている。天内は奥深い山中でたった一人、泥と汗と血と、グチャグチャになりながら大の字に寝転んでいた。木々の隙間からまだ雲のかかった灰色の空が見える。こうしてはいられない。

手頃な大木を見つけると、慎重に足を枝にかけながら登っていく。そして天辺付近まで登ると、枝の間から頭を出し東の方向を見た。まだ街の方では煙が立ち、時折閃光がパパッと点滅して見える。まだどこかで銃撃戦が行なわれているらしい。予定通りことが進んでいることを祈るしかない。木から降りると、その幹に上半身を預けてぐったりと座り込んだ。

 体が濡れているせいか、体力を相当失ったらしい。疲れた。今は休みたい。一分でも一秒でも良い。ただ眠りたい。いっそ、目が覚めなくとも良い…。そう思いながら、天内はハルゼー邸を脱出した時のことを思い出していた。つい昨日まで、この日の為にと身命を捧げ切磋琢磨した戦友達、この命を預けても良いと信じた師…桐島教官のことを。

 

数時間前、ハルゼー邸。

「津田の任務は俺が引き継ぐ! 裏口の側溝に入るまででいい! 援護してくれ!」

天内は生き残った仲間達に叫ぶ。桐島率いる蹶起部隊は、予定ではハルゼー提督を拉致、地下通路から脱出しなければならない。そして敵の追手を撹乱するため、脱出時にハルゼー邸を爆破、更に隊員の一人である津田が敵を引きつけるために厚木方面へ脱出、大山山中に逃げ込むという計画だった。その為に津田は桐島の伝手で知り合った元陸軍中野学校出身の将校、土門の元で徹底的に遊撃戦のイロハを叩き込まれたのだ。

しかし、当日ハルゼー邸には提督はいなかった。いたのは提督の愛娘、アメリア・ハルゼーだった。ハルゼー邸の出入りの様子は天内、遠藤の二人で監視しており、当日もハルゼー提督が屋敷から出た様子はなかった。雨による視界不良のせいなのか、どこかで見落としたものか、腹を切るに値する失敗だった。ハルゼー邸に突入した後の死体の数からしても、常駐以外の軍人はアメリアだけだ。今になって考えれば最後に来たジープ。あれに飛び乗った下士官の中に紛れてか、あるいは部下のレインコートを頭から被って足速に…。とにかく天内は最も重要であるハルゼー提督が屋敷を出る瞬間を確認できなかった。これが第一の誤算である。

そして第二の誤算は敵の攻撃の速さだった。本来であれば大きな数の兵力が動くにはもう少し時間がかかるはずだが、敵は少数にも関わらずアメリア救出のために果敢に攻撃をしかけてきたのである。これに応戦している間に数名の仲間が命を落とし、今や敵の増援に囲まれ屋敷は火に包まれていた。

「津田はどうした!」

國枝が天内に向かって叫ぶ。天内は悔しそうに答えた。

「やられた…」

津田は敵の弾を受け倒れ、任務を天内に託した。

「湊川だぜ…」

それが彼の最期の言葉だった。思い返せば、津田はこの蹶起にはあまり乗り気ではなかったように思われる。しかし恩師である桐島、親身になってくれた土門、そして苦楽を共にしてきた同期生達に、忠誠と義理と友情を貫いてくれたのだった。

天内は津田からいくつかのメモと筆記具を受け取った。この後の撹乱に関連する必要な道具なのだろう。土門と津田の遺志を受け継いだ気がした。

國枝は父の形見の拳銃、アストラ二十連発を滝に渡すと、同じく形見の愛刀蘇州虎鉄をすらりと抜いた。

敵が再び突入してくる。滝が二丁拳銃でそれを迎え撃つ。

國枝が敵の中に飛び込んで斬りまくる。

天内も外へ飛び出して津田が用意していた脱出路、側溝へ飛び込んだ。

真っ暗でじっとりした狭い側溝を、虫のように、ネズミのように這いながら前進した。後ろでは銃声と爆発音が聞こえる。

「無念!」

誰かが叫んだ。國枝だろうか。顔を上げることができないまま、敵に見つからぬよう、ハルゼー邸から離れた。できれば事前に用意されていた逃走用車両のところまで行きたかったが、近くに乗り捨てられていた米軍のジープを発見すると、これに飛び乗ってその場を後にした。そのまま厚木方向へ向かい、大山付近でジープを乗り捨てると、ひたすら山を登っていった。敵の追手の手が届かないところまで、誰にも見つからないところまで、真の孤独になれるまで、真っ暗な森の奥深くに進んでいった。

 そしていつの間にか限界を越え、地面に倒れていたのだ。長い眠りについたような気がしたが、実際は十五分ほどだった。体は疲れ切っていても、心はまだ戦場にあった。

 しかしここへきて、大木にもたれかかって座り込みながら意識が遠のいていくようだった。胸を刺すような痛みが、心の内に湧き上がってくる。

最初にハルゼー提督の外出を見落とさなければ!

教官殿は無事に脱出できただろうか?

最後までお供すればよかったのではないか!

津田は僕に託したのだ! 僕がやらないでどうする!

滝と國枝は僕の脱出を助けるために死んだのだ!

僕のせいだ!

今、思い切り泣き叫んでしまいたい。

脳裏に遠藤の死に様が浮かぶ。この一ヶ月最も長く共に過ごしたのは遠藤だった。二人でハルゼー邸を監視し、遠藤の無線機を通じて状況を桐島へ伝えていた。ハルゼー邸の近くにあった荒れ果てた空き家に山賊のように住み着いて、お互いで励まし合いながら過ごしたのだ。

その遠藤の最期の姿は壮絶だった。屋内に突入してきたアメリカ兵のサブマシンガンで滅多うちにされた遠藤は、全身から血を噴き出して倒れた。津田のように何かを言い残すことさえ出来なかった。出来なかったではないか!

彼の奮闘ぶりを知っているのはもはや自分だけなのだ。いや、ひょっとしたならば、もう蹶起部隊で生き残っているのは自分だけかもしれない。それならこれから山中でいくら逃げ回ろうと全て無駄ではないか。

 ふと、思い出したかのように津田から渡されたメモを広げてみた。そこには大山付近の大まかな地図、伝言を残すべき場所、特殊な筆記具の使い方など、これから必要になるであろうことが記されていた。津田は最初から自分が死んでしまった時のことを想定していたようだ。そしてメモの終わりに小さく二文字が書かれていた。

 

「完遂」

 

雷に打たれたような衝撃が天内の心に走った。これからすることに意味があるかどうか、それは今考えることではない。桐島が生きていることを信じて、津田の遺志を信じて、仲間達を信じて、今出来ることをするのだ。

「遠藤、僕は本物の山賊になるぞ」

そう呟くと、さっきまで立つこともままならなかった体に、不思議と力が湧いてきた。心臓から全身に熱い血が送られているかのようだ。たった一人の戦争を始めようじゃないか。敵は戦時中に教えられていた軟弱な精神のアメリカ兵ではない。小娘一人助けようと決死の攻撃をかけてくる戦士の精神と、近代化された装備で武装した、間違いなく世界最強の軍隊だ。最大限の敬意を払って戦おう。

天内は覚悟を決めると立ち上がって歩き出した。まずは敵の捜索隊から逃げ切ることだ。適当なねぐらを作って衣服を乾かし体力を温存、食料も調達しなくてはならない。やることは沢山ある。

津田の残してくれたメモによれば、地図上の何箇所かに印がある。きっと何かあるはずだ。

すっかり夜も明けた頃、天内は地図上の印の位置までやってきた。予想通りそこには小さな穴蔵があり、その中には密封された容器が隠してあった。中にはわずかながら保存食と九四式拳銃、拳銃弾が入っていた。津田があらかじめ用意していたのだろう。津田に感謝しながら乾パンを一つ頬張っていると、山の下の方から、「おーい!」という人の声が微かに聞こえた。草木を服に刺して偽装し慎重に近づいてみると、200メートルほど離れたところにアメリカ兵と、日本人警察官らしき姿が見えた。敵の車両を奪って移動したし、タイヤの跡もはっきり残っていたはずだ。ここまで追ってくるのは不思議ではないし、もう山狩りが始まるのかもしれない。

しかし山狩りといっても、どれほどの人数を動員しても限界がある。それほどにこの山林の面積は広いのだ。

天内は情報収集のために、そっとその二人に接近し聞き耳を立てることにした。

警察官が大きな声で話している。

「ノーノー! 違いますよ! 村はあっちです!」

アメリカ兵は通訳の日系兵らしいが、少し歯切れの悪い日本語で答える。

「オーケー! オーケー! 聞こえています! それで、ムラヤマさん、警防団はどれくらい動員出来ますか?」

「警防団? 動員? あんでだよ?」

「あん…なんですか?」

「おーよ。あんで一人つらめーるのにきょうこつなー!」

「きょうこつ?」

「だーからそうじゃん、米軍さんだけでまぐれっ子になるってんなら考えるけどよー!」

「マグ…れ…」

「このへちゃむくれ!」

「へちゃ…」

警察官の方言に翻弄されているようだが、どうやら山狩りの準備段階といったところか。これから周辺住民を動員してやろうというのだろう。しかし警察官の様子から見てもわかるが、アメリカ兵に協力的な日本人などそうはいまい。ならばこちらは撹乱するまでだ。

その前に現在の状況を外部の仲間に伝えなくてはならない。津田から渡されたペンで適当な布…自分の持っているボロボロの手拭いに文字を書く。ペンに使うのは陸軍登戸研究所で作られたアスピリン水溶液で作られた秘密インキのため、ほぼ透明だ。読むためにはヨード液に浸す必要がある。

できるだけ詳細に、特に遠藤の無線通信が終わった後の状況を書くと、それを津田の残してくれた地図を頼りに山を降り記された地点にあった木製の電柱の足掛けに結んだ。予定ではこの伝言を桐島家の使用人である賀東が回収してくれるはずだ。

 

賀東には一度会ったことがある。あれは陸軍士官学校での校外演習の直後だったか、休日に桐島の自宅に招かれた時だった。

初めて招かれたこともあり緊張して正座していると、奥から和服に着替えた桐島が現れた。

「そう硬くなるな。膝を崩せ」

「はい!」

この日招かれたのは、自分以外は確か滝、遠藤、國枝、あとは青山だったか。全員で声を揃えて返事をした。桐島は頭をかきながらやれやれといった表情をした。普段の凛々しい軍服姿とはまた違った、親しみやすい兄のような姿だった。

「天内、今回の校外演習では達成困難な状況でも決して折れず、素晴らしい活躍ぶりだったが、我が屋敷内の無礼講演習は落第するつもりか?」

褒められながら冗談を言われたので、咄嗟に答えられずあたふたとしていると、桐島を遮るように、奥から使用人の賀東が茶菓子を乗せた盆を持って現れた。

「まあまあ、紘一様、そう言われますな。生徒の皆様、お初に御座います。当桐島家の使用人をしております賀東と申します。以後お見知り置きを。ささ、まあお一つどうぞ」

賀東はそう言いながら人数分のお茶とたっぷりと蜜のかかった大きなみたらし団子を差し出した。こんな立派な団子は見たことがない。流石は教官殿の御宅だ。皆ゴクリと唾を飲んだ。

「いつまでも見てないで食べなさい」

桐島は座布団にどかっとあぐらをかいて、豪快に団子に食らいついた。その豪快さを見てか、滝も膝を崩す。

「いただきます!」

大きな声に全員が続いた。

「実にうまい!」

國枝が嬉しそうに頬張る。

「とろけるようだ」

遠藤も目を輝かせた。

「さぞや名のある和菓子屋さんと見ましたね」

青山もうっとりしている。

桐島はニコニコと笑っている。

「名店も名店だ。我が桐島家でしか味わえぬ賀東菓子店の名品よ」

桐島の言葉に驚いていると賀東もくすくすと笑い出した。

「こんなに喜んで貰えると作りがいがありますなあ」

「昔から賀東はよくこれを作ってくれたな」

「紘一坊っちゃまの好物でしたから」

ん? 坊っちゃま? 桐島は少しムッとして

「賀東、その呼び方はよさないか」

「失礼しました。皆さんを見ていると紘一様の少年時代を思い出しまして。しかしながら、この場は無礼講とのことですので」

「賀東!」

その場の全員で吹き出すように笑った。その日の夜は笑いが堪えることがなかった。厳正な理想的軍人、生徒達の憧れ、絶対の教官であり、時として父のような、兄のようなカリスマ性を持った人、それが桐島だった。だからこそ、運命を共にする覚悟ができた。

今となっては全てが遠い日の思い出の中である。

 

再び山中に潜伏すると、予想通り翌日から山狩りが始まった。

町田に進駐していた米軍のアメリカル師団が動員されたようだ。

近隣住民、特に警防団が動員されているようだった。年配のものが多く、皆やせ細り、士気は低いようであった。その翌日、さらにその翌日、続いてその日の夜と、何度も山狩りが行われたが、ねぐらも何箇所かにあるため、移動しながらの生活で十分回避できた。

そうしているうちに一週間が経った。もはや山狩りは特に恐れるものではない。アメリカ兵は武装しているため発砲されるのは厄介だが、今のところ遭遇も発見されもしていない。しかし困ったのは食料だ。山中で獣や鳥を狩ったり、木の実を獲ったり、隙あればふもとの村の畑に侵入して野菜を盗るなどしたが、そろそろ限界である。

「遠藤、僕は山賊をやるぞ…」

日が暮れた頃、天内は山を降り小さな集落に近づいた。集落付近は時折アメリカ兵や竹槍を持った警防団などが見回りをしているが、ここにはいないようだ。明かりの漏れる民家へ近づいた。戸の隙間から覗くと、ちょうど晩飯時なのか炊き上がった飯の甘い匂いにうっとりとした。中には年老いた老婆と、その夫らしき男が慎ましやかに食事の準備をしていた。またグサリと、心が痛んだが意を決して中に入った。

「動くな!」

拳銃を老婆に突きつけた。老婆は年老いた目をゆっくり見開いて驚いたような表情になった。奥の爺も後に続いた。

「二人とも声を出すな。騒げば撃つ。我こそは國体護持のために立ち上がった憂国烈士の一人である。畏れ多くも!」

天内は直立不動の姿勢をとった。老人二人もゆっくり姿勢を正した。

「天皇陛下のお命を狙った連合軍の謀略と戦った我々同士一同は、山中に潜伏中である。御老体には悪いが晩飯を頂戴する!」

天内は炊き立てであろう米の入った櫃を老婆の手から奪い取ると、今度は魚の干物を爺の手から奪い取った。

「このことは誰にも言うなよ。さもなければ」

言いかけたところで、爺が立ち上がって勝手に歩き出した。

「おい! 貴様…」

呼び止めても気にもせず、爺は土間に降りて何かを取り出した。

「わしらはいいからよ」

そう言いながら沢庵を一本差し出してきた。

老婆も老婆で勝手に歩き出し、仏壇の前に座って拝み出した。

その仏壇には海軍の予科連か、若い軍人の遺影があった。

「…ありがとう御座います」

込み上げる涙を拭くこともなく、天内は走り出した。

今日は運が良かった。誰もが優しいわけではない。

 どこかでこの時の話が漏れたか、翌日から山狩りが更に大規模になった。

天内からしてみれば老人から食料を奪ってなんとか生きている程度の自分一人に、アメリカ軍が数百人も翻弄されていると思うと笑えてくる。

その日の夜、悲劇が起きた。見つからぬように岩の隙間に身を隠していると近くで物音がした。

油断した。どこからか近づかれたか?

拳銃に手を伸ばし、じっと身を潜めた。

とうとう最後の時がきたかもしれないな、そう思っていると、物音の主はゆっくり遠ざかっていった。こちらに気づいたのか、そうではないのかわからない。しかし何か違和感がある。

それから数分してアメリカ兵の悲鳴が山中に響いた。そして激しい銃声が何発か聞こえた。誰かが自分と間違えられて撃たれたのだろうか。

後日知ったことだが、運悪く若いアメリカ兵が熊に遭遇して死亡したとのことだった。

 その後も周辺の集落や村へ降りて衣類、食料を盗み、時には情報収集を行った。ここのところ見回りが減ったのはどうやら他の地域に捜査の手が回っているらしかった。天内が「憂国烈士」を名乗って食料を奪った話が尾ひれはひれをつけて伝播した結果、米軍に反抗的な住民の嘘の目撃情報、通報があちこちであったようだ。こうなってしまうと、米軍も捜査網を広げるしかない。

賀東への伝言を書いた手ぬぐいはいつの間にか姿を消し不安に思っていたが、翌日同じ場所に布が縛り付けられており、賀東からの短い返事を受け取ることができた。それによれば桐島は無事に脱出に成功し、作戦は進行中だとのことだった。それを知って天内は心の底から安堵した。

敵の操作網が広がったことで賀東との伝言のやりとりは難しくなってしまった。人目に付く場所に近づき辛くなった一方で、賀東も頻繁にこちらへきては怪しまれてしまうからだ。

 老夫婦の家に押し入ったように、何度か別の家に押し入ることがあった。無言で食料を差し出すものもあれば、庇ってくれるものさえいた。先日の熊の一件で米軍の士気は下がり、また米軍の高圧的な態度や度重なる住民の動員で反米感情に火がつき、米軍と住民との間でちょっとした衝突さえ起きているという。

住民たちの励ましに勇気づけられもしたが、捜査の規模がどんどん大きくなるにつれ、民家へ近づくのも難しくなっていった。

ハルゼー邸を脱出してから気がつけば二週間が過ぎ、賀東との連絡が不能になり一週間は過ぎている。桐島や他の仲間達はどうなったか、東京は今どうなっているのか、情報が無さすぎる。やはり人に接触しなくてはならない。

夕刻、山に日の光を遮られ山中は薄暗くなる。天内は姿を隠しやすいこの逢魔時を狙って聞き込みをするべく近くの集落へ降りた。その時、大きな桜の木の影から黒い影が飛び出してきた。

「誰か!」

見張りについていたであろう警察官が誰何してきた。

「わしは…」

誤魔化そうとしたが、言葉が出ない。警察官はサーベルを抜いてゆっくりと近づいてくる。

「う、動くなよ、もう観念して逮捕されろよ…」

こちらも腰の拳銃にゆっくり手を伸ばす。すると警察官は動揺して

「よ、よせ、この後に及んで抵抗しても無駄じゃぞ。近くにアメリカ兵もいるんじゃ! おーい!」

警察官が大声を出した。まずいと思って天内は踵をかえして走り出した。警察官が叫ぶ。

「ま、待てよ...」

さらにその後ろからアメリカ兵の声がした。

「ファッキンジャップ!」

アメリカ兵はためらわずM3短機関銃を闇雲に撃った。

「へ、へちゃむくれ!」

警察官が後ろから撃たれ倒れた。貫通した弾が天内の右肩に命中した。

しまった! 拳銃を左手に持ち直して撃ち返すと、アメリカ兵は慌てて逃げ出した。すぐに仲間を呼ぶだろう。警察官はぐったりして動かない。とにかく走って逃げた。以前から目をつけていた谷まで走った。そこは岩の切れ目、降りればもう自力では登れない狭い谷だった。

天内はいよいよこの時が来たと思った。この逃亡劇で大切なのは逃げ切ることではない。敵に生きた犯人がまだ山中にいると思わせる事なのだ。そして、決してこの山中から出られない今、最後の結末はあらかじめ決まっていた。

 

誰にも見つからないところで、自ら命を絶つことだった。

 

敵に捕まってはならない。拷問で情報を敵に渡すことは許されない。そして死体は決して見つかってはならない。身元が特定されてしまえばせっかく逃げ延びた桐島に捜査の手が及ぶかもしれない。野生動物も降りてこないこの地獄谷の底で、落ち葉や枯れ枝で身を隠しながら、静かに絶命する。骨も拾われることも無ければ、その名が知られることもない。

無に帰する死こそが、今に至っては最大限敵の目を引きつけ時間を稼ぐ術に他ならない。天内は静かに谷を降りた。途中何度も落ちそうになりながら、肩の痛みに耐えながら降りた。

体力的にも、精神的にも、もう限界はとっくに超えていた。あとは安らかな眠りだけが待っている。体に落ち葉や枯れ枝をかけ、自分を隠した。あとは拳銃で頭を撃ち抜いて死ねばいい。

「嫌だ」

ぽつりと天内は呟いた。状況も分からず、誰にも知られることもなく、名前も残らない、誰の記憶にも残らない死だ。これは名誉の死と言えるか。とてつもない孤独感と虚無感、恐怖が襲ってくる。

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

子供のように心の中で叫んだ。出血で力が入らなくなってくる。このままでは拳銃で頭を撃ち抜くこともできなくなる。そうなればゆっくりと死の恐怖に沈みながら死んでいくことに。それはもっと嫌だ。拳銃を握る左手に力を込めた。

その時、先に散った同期たちの姿が見えた。そうだ、皆が待っている。

 

「教官殿…」

 

鈍い銃声が1発谷に響いた。その音は誰にも聞こえなかった。

二週間後、日本国内情勢の逼迫もあり、遂に捜索は打ち切られた。

                            終


(今回は協力してくださっている方に執筆していただいたものです。↓に関連があります)

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『融国』-「本編」制作⑦ -蹶起〈上〉‐

「天内、貴様らは全てを大義に捧げた。私は貴様達を育てたことを誇りに思う。貴様達こそ真の日本軍人だ。日本人のあるべき姿なのだ。必ずや神風は吹く。必ずや陛下の神通力が日本を救ってくださる」 天皇は宇宙唯一の最高神、宇宙統治の最高神である。 *** 昭和二十年八月十五日正午 「朕深ク世界ノ大勢ト帝國...


本編補足-「夕刻、最後のひとり」(作戦後の天内の行動について)

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